12 ,2008
翠滴 2 潮騒 1 (26)
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花隈は事の成り行きを黙って見守っていて、口を挟む気配は無い。
不図、本当に深海にいるような圧迫感に、息苦しさを覚えて軽い呼吸困難に落ちた。享一は喘ぐように息を一つ吐いた。そっと圭太の掌の温もりから自分の手を引き抜こうとすると、逆にぐっと強く握られ、全身が強張った。自分にはこの温さを甘受する資格はない。
河村は手を握ったまま、享一の気持ちを問うような、そして言い含めるような眼差しを向けてくる。
花隈が優しい口調の癖に、難詰するような厳しさが篭った声音で断言した。
「サクラちゃん、君は周の事がまだ好きなんだろう?」
あまりにもストレートな物言いに享一は驚き、圭太は冷めた表情で目を眇め花隈を睨めつけた。
周が好き…… 享一は、諦め 葬ると覚悟を決めた想いを、根底から覆す言葉にたじろいだ。
花隈の問い掛けに痛んだ胸が揺さぶられて動揺した。視界が潤んで、勝手に涙が零れ落ちた。周が好き…いまも愛している、それが真実。プールサイドでその姿を見た時、心は再確認し確信していた。
器の中に新しい水が注がれ、古い想いは零れて流れて行く。そして、新しい自分が新た形成されるはずだった。あの琥珀色のシャンパンをのみ込んだプールのように。だが、実際は自分の中で揺蕩う想いは、何ものにも交わらず流れ去りもしない。周を想う恋情だけが鋭く研ぎ澄まされ、鋭利な棘となって水底に深く突き刺さっている。
享一は、よろめきながら立ち上がった。背後で立ち上がった河村を、花隈が制する。店を出た所で、腕を掴まれた。背後から河村のジャケットを肩から掛けられ、びくっとして怖いものでも見るように振返り安堵した。
自分より少し高い位置にある花隈の顔を見上げる。
「花隈さん・・・」
「僕のサロンにおいで。代官山の”AZUL” という店だから
圭太はちょっと借りるよ。一人で大丈夫だよね」
そう言うと、名刺サイズのカードをジャケットの胸ポケットに滑り込ませた。
「花隈さん、俺は・・・」 言葉に詰まる。
「いいよ、今は何も言わなくていいから。サクラちゃんがそこまで知ってたのなら、
最初からちゃんと話すべきだった。キツイ事言ってごめんね。 ・・・周と神前との関係はちょっと複雑なんだ。
愛人の一言で片付くような話じゃないんだよ。それは次に会う時に、すべて話すから」
「僕は今でもね、君に惚れたと言った、あの時の周の気持ちを信じたいんだ」
「・・・・・・・」
事実、享一を 「惚れて結婚したい相手」 と花隈に告げたという話は、享一の中に確かに変化を起した。目の前の花隈を見ていると、あの祝言の日の艶やかに装い、享一を綺麗だと言った一人の男が心を占める。例え一時のものであったとしても、周に真剣に想ってもらえたのなら、もうそれでいい。
「あのね、サクラちゃん、こんな話しされると嫌かも知れないけど、あの時の2人は、壮絶と言っていいくらい綺麗だったよ。
折角のメイクを崩されて文句言っちゃったけど、恋に溺れて
愛し合う恋人達の情交がこれだけ人を満たし輝かせるものなのかと僕が嫉妬するくらい、
周もサクラちゃんも綺麗だった」
僕は、それが真実なんだと思うと花隈は括った。
それだけが。
闇の中から、波の音が聞こえる。波打ち際まではまだ距離があるのに、ぐずぐずしていると暗い波間に引きずり込まれるような恐さがあった。罪悪感と自責の念で、河村のジャケットを羽織れず手に持ち 歩を早める。闇の中、潮騒と一緒になって享一にまとわり付く身を切るような冷たく重い潮風が、項やシャツの隙間にまで入り込みどんどん体温を奪い、締め付ける。
カシミヤのジャケットが鉛のように重い。
溢れた瞬時に頬の上で冷たく冷え切ってしまう涙は誰のためのものなのか。自分には涙を流す資格さえないというのに。
鋭利な刃物となって享一に切りつける海からの突風に、いっそ自分の身体など、この鋭利な風に散り散りに切られて吹き飛んでしまえば良いと思った。
ひとり圭太の別荘に戻った享一は、自分の少ない荷物を鞄に詰込んだ。
潮騒が耳の奥にこびりついて離れない。
それが耳鳴りなのか空耳なのか・・・自分の中から聞こえ来るような気もした。
今からなら東京方面行きの終電に間に合う。
圭太と顔を合わす前に、ここを出なければ。
許されてしまえば、きっと流されてしまう。そんな危うさは自分が一番良く分かっていた。
今は、居心地の良い圭太の優しさや抱擁力が、どうしようも無く怖い。
荷物をまとめ終わると、自分の残骸がないかと部屋を見渡した。
なぜ、気付かなかったのだろう。初めてこの部屋で目覚めた時、なんとも言えない既視感に捕われた。その理由が漸く判った。この部屋は周の部屋と良く似ている。
共通するのは白い天井と壁だけで、素材や広さ、インテリアのコンセプトも全く違う。
だが、河村の独特のバランス感が部屋全体を支配していた。今までは居心地のよかったこの部屋にいると、罪悪感と自己嫌悪で自分が押し潰されてしまいそうだ。
広いリビングを仕切るスライド式のパーテションが開け放たれ、クイーンサイズのベッドが見える。享一は、艶かしい記憶を切り捨てるようにベッドから目を背けた。
あの朝も部屋を仕切るパーテションは開いていて、ベッドから転げ落ちた享一の目に穏やかに凪いだ青い海が見えていた。
圭太とはこの部屋から始まった。
これから、一体どういう態度を取れば良いのか。
一旦、ひとりになって考えたい。
部屋を出ようと振り返った享一は、自分を射竦める強い眼差しに捕えられ動けなくなった。
花隈は事の成り行きを黙って見守っていて、口を挟む気配は無い。
不図、本当に深海にいるような圧迫感に、息苦しさを覚えて軽い呼吸困難に落ちた。享一は喘ぐように息を一つ吐いた。そっと圭太の掌の温もりから自分の手を引き抜こうとすると、逆にぐっと強く握られ、全身が強張った。自分にはこの温さを甘受する資格はない。
河村は手を握ったまま、享一の気持ちを問うような、そして言い含めるような眼差しを向けてくる。
花隈が優しい口調の癖に、難詰するような厳しさが篭った声音で断言した。
「サクラちゃん、君は周の事がまだ好きなんだろう?」
あまりにもストレートな物言いに享一は驚き、圭太は冷めた表情で目を眇め花隈を睨めつけた。
周が好き…… 享一は、諦め 葬ると覚悟を決めた想いを、根底から覆す言葉にたじろいだ。
花隈の問い掛けに痛んだ胸が揺さぶられて動揺した。視界が潤んで、勝手に涙が零れ落ちた。周が好き…いまも愛している、それが真実。プールサイドでその姿を見た時、心は再確認し確信していた。
器の中に新しい水が注がれ、古い想いは零れて流れて行く。そして、新しい自分が新た形成されるはずだった。あの琥珀色のシャンパンをのみ込んだプールのように。だが、実際は自分の中で揺蕩う想いは、何ものにも交わらず流れ去りもしない。周を想う恋情だけが鋭く研ぎ澄まされ、鋭利な棘となって水底に深く突き刺さっている。
享一は、よろめきながら立ち上がった。背後で立ち上がった河村を、花隈が制する。店を出た所で、腕を掴まれた。背後から河村のジャケットを肩から掛けられ、びくっとして怖いものでも見るように振返り安堵した。
自分より少し高い位置にある花隈の顔を見上げる。
「花隈さん・・・」
「僕のサロンにおいで。代官山の”AZUL” という店だから
圭太はちょっと借りるよ。一人で大丈夫だよね」
そう言うと、名刺サイズのカードをジャケットの胸ポケットに滑り込ませた。
「花隈さん、俺は・・・」 言葉に詰まる。
「いいよ、今は何も言わなくていいから。サクラちゃんがそこまで知ってたのなら、
最初からちゃんと話すべきだった。キツイ事言ってごめんね。 ・・・周と神前との関係はちょっと複雑なんだ。
愛人の一言で片付くような話じゃないんだよ。それは次に会う時に、すべて話すから」
「僕は今でもね、君に惚れたと言った、あの時の周の気持ちを信じたいんだ」
「・・・・・・・」
事実、享一を 「惚れて結婚したい相手」 と花隈に告げたという話は、享一の中に確かに変化を起した。目の前の花隈を見ていると、あの祝言の日の艶やかに装い、享一を綺麗だと言った一人の男が心を占める。例え一時のものであったとしても、周に真剣に想ってもらえたのなら、もうそれでいい。
「あのね、サクラちゃん、こんな話しされると嫌かも知れないけど、あの時の2人は、壮絶と言っていいくらい綺麗だったよ。
折角のメイクを崩されて文句言っちゃったけど、恋に溺れて
愛し合う恋人達の情交がこれだけ人を満たし輝かせるものなのかと僕が嫉妬するくらい、
周もサクラちゃんも綺麗だった」
僕は、それが真実なんだと思うと花隈は括った。
それだけが。
闇の中から、波の音が聞こえる。波打ち際まではまだ距離があるのに、ぐずぐずしていると暗い波間に引きずり込まれるような恐さがあった。罪悪感と自責の念で、河村のジャケットを羽織れず手に持ち 歩を早める。闇の中、潮騒と一緒になって享一にまとわり付く身を切るような冷たく重い潮風が、項やシャツの隙間にまで入り込みどんどん体温を奪い、締め付ける。
カシミヤのジャケットが鉛のように重い。
溢れた瞬時に頬の上で冷たく冷え切ってしまう涙は誰のためのものなのか。自分には涙を流す資格さえないというのに。
鋭利な刃物となって享一に切りつける海からの突風に、いっそ自分の身体など、この鋭利な風に散り散りに切られて吹き飛んでしまえば良いと思った。
ひとり圭太の別荘に戻った享一は、自分の少ない荷物を鞄に詰込んだ。
潮騒が耳の奥にこびりついて離れない。
それが耳鳴りなのか空耳なのか・・・自分の中から聞こえ来るような気もした。
今からなら東京方面行きの終電に間に合う。
圭太と顔を合わす前に、ここを出なければ。
許されてしまえば、きっと流されてしまう。そんな危うさは自分が一番良く分かっていた。
今は、居心地の良い圭太の優しさや抱擁力が、どうしようも無く怖い。
荷物をまとめ終わると、自分の残骸がないかと部屋を見渡した。
なぜ、気付かなかったのだろう。初めてこの部屋で目覚めた時、なんとも言えない既視感に捕われた。その理由が漸く判った。この部屋は周の部屋と良く似ている。
共通するのは白い天井と壁だけで、素材や広さ、インテリアのコンセプトも全く違う。
だが、河村の独特のバランス感が部屋全体を支配していた。今までは居心地のよかったこの部屋にいると、罪悪感と自己嫌悪で自分が押し潰されてしまいそうだ。
広いリビングを仕切るスライド式のパーテションが開け放たれ、クイーンサイズのベッドが見える。享一は、艶かしい記憶を切り捨てるようにベッドから目を背けた。
あの朝も部屋を仕切るパーテションは開いていて、ベッドから転げ落ちた享一の目に穏やかに凪いだ青い海が見えていた。
圭太とはこの部屋から始まった。
これから、一体どういう態度を取れば良いのか。
一旦、ひとりになって考えたい。
部屋を出ようと振り返った享一は、自分を射竦める強い眼差しに捕えられ動けなくなった。
クマさんは良い仕事してくださいましたな~d(>_< )Good!!
しかし..大人な河村氏がいよいよ優しいだけではいられなくなりそう??ドキドキ..そしてワクワク←ひどい