12 ,2008
翠滴 2 シーラカンス 1 (22)
←(21) (23)→
微量であっても、新しい水は湧き出し、古い水は流れて消えていく。
時間をかけて古い水が流れきるのを待つ覚悟は出来ている。
この美味なる水に溺れるなら本望だ。
そう思って覚悟を決めていた。その筈なのに、傍らに享一の体温を感じ躯を重ねる日々に、悦びを感じるとともに、形を成さない薄い雲母のような苛立ちや不安が積もってゆく。
いま、享一は葉山の潮風をうけながら、デッキチェアーで静かにまどろんでいる。
春先でも外は冷えるから中に入るよう何度も言うのに、この冷たさが良いからと頑としてきかない。少し、子供っぽいと思いつつも結局、わがままも可愛く思え 許してしまう。
「高所恐怖症の癖に・・・」
このセカンドハウスは結構な高台にある。高い所が苦手な享一とって、どういう訳かここだけは例外らしく、ここを訪れた際にはガラスの嵌った手摺にしがみついて海を見ていることが多かった。海のない町で育ったせいか、憧れにも似た目つきで海を眺める享一の横顔を見るのも、この場所が享一の中で特別になったことも、河村にとっては嬉しい。
享一の職種上、この高所恐怖症もそのうち克服させてやらなければと思っている。
自分を冷淡な人間だと思ったことはないが、ここまで一人の人間に入れ込むのは初めてだ。自分でも呆れるほど享一に惚れまくっている。
ひざの上には読みかけの本が風に弄ばれページを捲る。享一を起こさないようにそっと本を取り上げ、かわりに厚めのブランケットを掛けた。マグカップの中のコーヒーは、とっくに冷め切っている。前髪が潮風に微かに揺れ睫を擽ると目蓋が震え僅かに身動ぎした。
そんな僅かな些細な事にでも、享一への愛しさが込み上げて溢れ出す。
このままでは、苦しすぎる。
河村はこの時、初めて想い人を捕らえ籠の中に閉じ込めてしまいたいと願う、神前 雅巳の気持ちを少し理解した気がしたが、同じ轍を踏んではいけないのだと自からに言い聞かせた。
夕刻、海沿いのバー・シーラカンスで河村と待ち合わせていた。
春先の天候は変わりやすく昼間の陽気が嘘のようで、天上には厚い雲が垂れ込め気温が急降下でさがる。海の色は重く、潮を含んだ冷たく重い風が海岸を吹き抜けた。波間にちらほらとサーファーの姿を確認するものの、砂浜には人影ひとつない。連休を利用して、河村と2人で葉山にある河村のセカンドハウスに来ていた。半年前、河村と初めて会った葉山のバーに、まさか河村の恋人として再び訪れる事になろうとは思ってもいなかった。
オープニングパーティーの夜以来、アトリエでは河村と師弟関係を通し、夜と週末は恋人として過ごしている。
手の中に捩じ込まれたマンションの鍵を河村の部屋の鍵穴に差しみ、ステンレスの重さを持ったシリンダーを回すのと同時に、自分の中の何かもが軋みながら回り、ガチャンと無機質な金属音を立てて変ってしまった。
感の鋭い河村の事だ、享一の変化に何かあると感付いているだろう。
泣き顔も見られている。だが河村は何も言ってこないし尋ねもしない。
享一は、日々アトリエで河村の描き出すラインに感嘆し、経営者としても長けた河村の外交手腕にも舌を巻いた。河村の作り出す建築物やランドスケープは享一に発見を伴った感動を与えてくれる。壁ひとつカーテンウォールひとつとってみても斬新なバランスで享一を魅了する。
天才と称されるのも当然な気がした。
建築家としての河村を、人間としての河村も心の底からリスペクトしている。
このまま、100%愛する事が出来たなら、どんなに幸せだろうかと思う。
いや、河村は無理をせず、ゆっくり落ちればいいと言ってくれた。
躰はもうすっかり河村に馴染んでしまった。はしたないくらいに行為を求め、自分を河村で満していく。
そして、河村で一杯になった自分から周が消えていくのを時間を掛けて待つのだ。
あの蠱惑の翠の瞳を、不埒で高潔、孤独で大胆不敵なスピード狂の男を
自分は忘れる・・・・ そう思っただけで、冷え切った頬に涙が零れ落ちた。
周に初めて会った時、稲妻に打たれたような衝撃を受けた。やがて華やかで色彩豊かな色ガラスの破片のように煌く花火が胸の中で次々と爆ぜていく。感嘆と眩暈で、瞳はいつも周を見つめたままだった。鮮やかな花火は終りを迎えるその瞬間まで胸の中で爆ぜ続けた。
今や、その胸は目の前に迫る鈍色の海に圧せられ冷えきり、押し潰されそうだ。身を切るような冷たい風が勢いよく吹いて、咄嗟に河村のクローゼットから借りたロングジャケットを掻き合わせた。布地を握った感触に、背中に手を回して抱き合った河村の体温が甦り、指から力が抜ける。強い潮風がジャケットの裾を奪って舞い上げ、音を立てて弄んだ。
風の冷たさに、掌に蘇ったはずの河村の体温は消えてどこかへいってしまった。
「俺は・・・・狡い。それでもいいのか? 圭太さん」
呟きは風の中へと連れ去られ、掻き消えていく。
約束の時間にはまだ早いが、シーラカンスの控え目な白い扉を潜った。
いつも扉と同じくらいに控え目な微笑みで歓迎してくれるバーテンは、今日一番乗りしたらしい客と話している。バーテンが享一に気づき、つられたようにその客も振り向いた。
「あ・・・・」 思わぬ人物に享一は堂目して言葉を失う。先に相手が素頓狂な声を出した。
「サクラちゃん?」
バーテンが客に何かを耳打ちすると、こちら見つめる客の目が大きくなる。
「花隈さん・・・」
それはかつて享一を花嫁姿に仕立て上げた花隈だった。
微量であっても、新しい水は湧き出し、古い水は流れて消えていく。
時間をかけて古い水が流れきるのを待つ覚悟は出来ている。
この美味なる水に溺れるなら本望だ。
そう思って覚悟を決めていた。その筈なのに、傍らに享一の体温を感じ躯を重ねる日々に、悦びを感じるとともに、形を成さない薄い雲母のような苛立ちや不安が積もってゆく。
いま、享一は葉山の潮風をうけながら、デッキチェアーで静かにまどろんでいる。
春先でも外は冷えるから中に入るよう何度も言うのに、この冷たさが良いからと頑としてきかない。少し、子供っぽいと思いつつも結局、わがままも可愛く思え 許してしまう。
「高所恐怖症の癖に・・・」
このセカンドハウスは結構な高台にある。高い所が苦手な享一とって、どういう訳かここだけは例外らしく、ここを訪れた際にはガラスの嵌った手摺にしがみついて海を見ていることが多かった。海のない町で育ったせいか、憧れにも似た目つきで海を眺める享一の横顔を見るのも、この場所が享一の中で特別になったことも、河村にとっては嬉しい。
享一の職種上、この高所恐怖症もそのうち克服させてやらなければと思っている。
自分を冷淡な人間だと思ったことはないが、ここまで一人の人間に入れ込むのは初めてだ。自分でも呆れるほど享一に惚れまくっている。
ひざの上には読みかけの本が風に弄ばれページを捲る。享一を起こさないようにそっと本を取り上げ、かわりに厚めのブランケットを掛けた。マグカップの中のコーヒーは、とっくに冷め切っている。前髪が潮風に微かに揺れ睫を擽ると目蓋が震え僅かに身動ぎした。
そんな僅かな些細な事にでも、享一への愛しさが込み上げて溢れ出す。
このままでは、苦しすぎる。
河村はこの時、初めて想い人を捕らえ籠の中に閉じ込めてしまいたいと願う、神前 雅巳の気持ちを少し理解した気がしたが、同じ轍を踏んではいけないのだと自からに言い聞かせた。
夕刻、海沿いのバー・シーラカンスで河村と待ち合わせていた。
春先の天候は変わりやすく昼間の陽気が嘘のようで、天上には厚い雲が垂れ込め気温が急降下でさがる。海の色は重く、潮を含んだ冷たく重い風が海岸を吹き抜けた。波間にちらほらとサーファーの姿を確認するものの、砂浜には人影ひとつない。連休を利用して、河村と2人で葉山にある河村のセカンドハウスに来ていた。半年前、河村と初めて会った葉山のバーに、まさか河村の恋人として再び訪れる事になろうとは思ってもいなかった。
オープニングパーティーの夜以来、アトリエでは河村と師弟関係を通し、夜と週末は恋人として過ごしている。
手の中に捩じ込まれたマンションの鍵を河村の部屋の鍵穴に差しみ、ステンレスの重さを持ったシリンダーを回すのと同時に、自分の中の何かもが軋みながら回り、ガチャンと無機質な金属音を立てて変ってしまった。
感の鋭い河村の事だ、享一の変化に何かあると感付いているだろう。
泣き顔も見られている。だが河村は何も言ってこないし尋ねもしない。
享一は、日々アトリエで河村の描き出すラインに感嘆し、経営者としても長けた河村の外交手腕にも舌を巻いた。河村の作り出す建築物やランドスケープは享一に発見を伴った感動を与えてくれる。壁ひとつカーテンウォールひとつとってみても斬新なバランスで享一を魅了する。
天才と称されるのも当然な気がした。
建築家としての河村を、人間としての河村も心の底からリスペクトしている。
このまま、100%愛する事が出来たなら、どんなに幸せだろうかと思う。
いや、河村は無理をせず、ゆっくり落ちればいいと言ってくれた。
躰はもうすっかり河村に馴染んでしまった。はしたないくらいに行為を求め、自分を河村で満していく。
そして、河村で一杯になった自分から周が消えていくのを時間を掛けて待つのだ。
あの蠱惑の翠の瞳を、不埒で高潔、孤独で大胆不敵なスピード狂の男を
自分は忘れる・・・・ そう思っただけで、冷え切った頬に涙が零れ落ちた。
周に初めて会った時、稲妻に打たれたような衝撃を受けた。やがて華やかで色彩豊かな色ガラスの破片のように煌く花火が胸の中で次々と爆ぜていく。感嘆と眩暈で、瞳はいつも周を見つめたままだった。鮮やかな花火は終りを迎えるその瞬間まで胸の中で爆ぜ続けた。
今や、その胸は目の前に迫る鈍色の海に圧せられ冷えきり、押し潰されそうだ。身を切るような冷たい風が勢いよく吹いて、咄嗟に河村のクローゼットから借りたロングジャケットを掻き合わせた。布地を握った感触に、背中に手を回して抱き合った河村の体温が甦り、指から力が抜ける。強い潮風がジャケットの裾を奪って舞い上げ、音を立てて弄んだ。
風の冷たさに、掌に蘇ったはずの河村の体温は消えてどこかへいってしまった。
「俺は・・・・狡い。それでもいいのか? 圭太さん」
呟きは風の中へと連れ去られ、掻き消えていく。
約束の時間にはまだ早いが、シーラカンスの控え目な白い扉を潜った。
いつも扉と同じくらいに控え目な微笑みで歓迎してくれるバーテンは、今日一番乗りしたらしい客と話している。バーテンが享一に気づき、つられたようにその客も振り向いた。
「あ・・・・」 思わぬ人物に享一は堂目して言葉を失う。先に相手が素頓狂な声を出した。
「サクラちゃん?」
バーテンが客に何かを耳打ちすると、こちら見つめる客の目が大きくなる。
「花隈さん・・・」
それはかつて享一を花嫁姿に仕立て上げた花隈だった。
享一の気持ちも河村の気持ちも分かります・・・。
切ないなぁ~。
これを読むと、いっそこのまま・・・と思っちゃったり・・・。
だけど、享一の気持ちは・・・揺れているのかなぁ・・・?
ここで花隈、登場ですか・・・。
どんな展開になるのだろう・・。
楽しみです!!