12 ,2008
翠滴 2 葉山 2 (2)
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「時見、おはよう。風邪は、もう大丈夫なのか?」
会社がテナントとして入る高層ビルの一階にあるエレベーターホールで、同期入社の片岡が声を掛けて来た。
この春、享一らは準大手のゼネコン〈大森建設〉の設計部に入社した。
「ああ、おはよう片岡。もう、大丈夫だ」
片岡は気さくな性格で、享一は意匠、片岡は構造と配置された場所は違っていたが、人付き合いに積極的でない享一に何かと構ってきた。背は殆ど変わらないというのにハンドボールで鍛えたという躯体は、享一より年上に見せ貫禄すら醸し出す。だが、中身は学生ノリの抜けない体育会系の男だ。いかにも健康そうで面倒見のよさそうな濃いめの顔が、屈託無く聞いてくる。
「お前さ土曜日、どうしていなくなったのよ?もしかして、あの日から体調悪かったとか?」
「いや・・・まあ・・」
結局、葉山から戻ると熱が出て、月曜日は会社を休んだ。入社して半年も経たないというのに欠勤するのは気が引けたが、身体よりメンタル面でのダメージが酷かった。
「あの後、一緒に飲みに行こうと思ったのに」 片岡が隣で残念そうに口を尖らせた。
土曜日、同期入社の設計部の4人は、この春に竣工したばかりの自社設計のリゾートホテルの見学を言い渡され、葉山に赴いた。
いつまでも学生然とした同期たちの賑やかなノリが、享一は少し苦手だ。見学の後、皆で飯でも食って帰ろうかと駅まで歩いている途中で享一1人がはぐれてしまい、これ幸いと享一はその場を離れた。
葉山の海岸を1人ぶらぶらと歩いて、なんとなく目に付いた海沿いのバーに入った。
”coelacanth”(シーラカンス)と小さな字で書かれたドアを潜ると、早い時間の為か客はおらず、髭面のバーテンが目だけで挨拶をしカウンター席を薦めた。
店内は至ってシンプルで、低いカウンターがあるだけの小さなバーだが、カウンターの背後の大きなガラス一面に夕方に凪いだ海が広がる。
カウンターの中は段が下がっているようで、バーテンの存在を客に過剰に感じさせないようになっている。誰の設計なのか気になった。
無駄なく美しく、しかも緻密に計算されたデザインの完成度の高さに享一は思わず感嘆の言葉をもらした。
「巧いな…」
白で統一された内装が程よい緊張感を生む居心地の良い空間は、かつての旧家の隠し部屋を思わせ享一の思考を奪う。
あの部屋の美しい主は、今どうしているのか?
あの魅惑色した翠の瞳は、自分の企てた祝言の直後に捨てた男の事を、少し位は覚えているだろうか?
『惚れた』などと言っておきながら、言葉なんてやっぱりあてにならない。心は変る。
いや、心など最初から何処にも無かった。そう思うと自分の中で、変色し乾きかけていた傷が再びパックリと口を開け、鮮血を流しだす。
あれから2年、心はこの作業をずっと繰り返してきた。
ジンを前にぼんやり夜に染められていく金色の空を見ていると、隣に人の座る気配がして「此所からの黄昏は最高でしょう?」と声を掛けてきた。
何故か、その辺から記憶が朧でところどころ途切れている。
その後、自分が一体どんな飲み方をしたのか? 想像すら恐ろしい。
しかも目覚めは最悪だった。
激しい頭痛と、トップライトから射し込む眩しい光。枕に埋もれる頭と目の奥がズキズキと痛んだ。自分の吐く酒臭い吐息に吐きそうになる。くぐもったような話し声に割れそうな頭をずらして視線を向けると、テラスで背の高い男が潮風に遊ばれる長めの癖髪を抑えながら携帯で話していた。
享一が目覚めたことに、まだ気付いていないようだ。
「……っ!!」
上体を起こそうと身体を動かしたその時、下半身に疼痛が走った。
この痛みとだるさには覚えがある。
しかも、シーツの下は全裸だ。断片的に甦る昨夜の記憶に頭を抱えた。
俺は、なんて事をしてしまったのか……。自己嫌悪にドップリ浸かっていると、頭の上から柔らかだがハリのある声が降ってきた。
「おはよう キョウイチ君」
「時見、おはよう。風邪は、もう大丈夫なのか?」
会社がテナントとして入る高層ビルの一階にあるエレベーターホールで、同期入社の片岡が声を掛けて来た。
この春、享一らは準大手のゼネコン〈大森建設〉の設計部に入社した。
「ああ、おはよう片岡。もう、大丈夫だ」
片岡は気さくな性格で、享一は意匠、片岡は構造と配置された場所は違っていたが、人付き合いに積極的でない享一に何かと構ってきた。背は殆ど変わらないというのにハンドボールで鍛えたという躯体は、享一より年上に見せ貫禄すら醸し出す。だが、中身は学生ノリの抜けない体育会系の男だ。いかにも健康そうで面倒見のよさそうな濃いめの顔が、屈託無く聞いてくる。
「お前さ土曜日、どうしていなくなったのよ?もしかして、あの日から体調悪かったとか?」
「いや・・・まあ・・」
結局、葉山から戻ると熱が出て、月曜日は会社を休んだ。入社して半年も経たないというのに欠勤するのは気が引けたが、身体よりメンタル面でのダメージが酷かった。
「あの後、一緒に飲みに行こうと思ったのに」 片岡が隣で残念そうに口を尖らせた。
土曜日、同期入社の設計部の4人は、この春に竣工したばかりの自社設計のリゾートホテルの見学を言い渡され、葉山に赴いた。
いつまでも学生然とした同期たちの賑やかなノリが、享一は少し苦手だ。見学の後、皆で飯でも食って帰ろうかと駅まで歩いている途中で享一1人がはぐれてしまい、これ幸いと享一はその場を離れた。
葉山の海岸を1人ぶらぶらと歩いて、なんとなく目に付いた海沿いのバーに入った。
”coelacanth”(シーラカンス)と小さな字で書かれたドアを潜ると、早い時間の為か客はおらず、髭面のバーテンが目だけで挨拶をしカウンター席を薦めた。
店内は至ってシンプルで、低いカウンターがあるだけの小さなバーだが、カウンターの背後の大きなガラス一面に夕方に凪いだ海が広がる。
カウンターの中は段が下がっているようで、バーテンの存在を客に過剰に感じさせないようになっている。誰の設計なのか気になった。
無駄なく美しく、しかも緻密に計算されたデザインの完成度の高さに享一は思わず感嘆の言葉をもらした。
「巧いな…」
白で統一された内装が程よい緊張感を生む居心地の良い空間は、かつての旧家の隠し部屋を思わせ享一の思考を奪う。
あの部屋の美しい主は、今どうしているのか?
あの魅惑色した翠の瞳は、自分の企てた祝言の直後に捨てた男の事を、少し位は覚えているだろうか?
『惚れた』などと言っておきながら、言葉なんてやっぱりあてにならない。心は変る。
いや、心など最初から何処にも無かった。そう思うと自分の中で、変色し乾きかけていた傷が再びパックリと口を開け、鮮血を流しだす。
あれから2年、心はこの作業をずっと繰り返してきた。
ジンを前にぼんやり夜に染められていく金色の空を見ていると、隣に人の座る気配がして「此所からの黄昏は最高でしょう?」と声を掛けてきた。
何故か、その辺から記憶が朧でところどころ途切れている。
その後、自分が一体どんな飲み方をしたのか? 想像すら恐ろしい。
しかも目覚めは最悪だった。
激しい頭痛と、トップライトから射し込む眩しい光。枕に埋もれる頭と目の奥がズキズキと痛んだ。自分の吐く酒臭い吐息に吐きそうになる。くぐもったような話し声に割れそうな頭をずらして視線を向けると、テラスで背の高い男が潮風に遊ばれる長めの癖髪を抑えながら携帯で話していた。
享一が目覚めたことに、まだ気付いていないようだ。
「……っ!!」
上体を起こそうと身体を動かしたその時、下半身に疼痛が走った。
この痛みとだるさには覚えがある。
しかも、シーツの下は全裸だ。断片的に甦る昨夜の記憶に頭を抱えた。
俺は、なんて事をしてしまったのか……。自己嫌悪にドップリ浸かっていると、頭の上から柔らかだがハリのある声が降ってきた。
「おはよう キョウイチ君」