02 ,2016
広くて長い 12
<12>
古い敷石がゆるやかにカーブして上がってゆくスロープがコーン型に刈り込まれた針葉樹の奥に消えてゆく。一見、西洋風の庭を彷彿させるが、樹齢を感じさせる張り出しの見事な枝ぶりや、木々の陰にひっそりと佇む石灯籠に、ここが元華族の邸宅であった場所だということ思い出した。
クラブが指定した部屋に先に到着していたらしい紅雷は、口数も少なく慣れた足取りで砂岩色のスロープ上がってゆく。
「そこ補修したばかりだから、セメント踏まないように気をつけて」
不意に紅雷に注意され、足元を見た。踏み石の一部が色を合わせたセメントで丁寧に補修されている。跨いで休日のラフな格好をした紅雷の背中を追ってスロープを上りながら、裕紀はパネライの消えた手首に触れた。
能勢は京都に帰ってしまった。
当然、自分を京都へという話はご破算だ。これで借金返済も、賠償金も入院費のことも振り出しに戻ってしまった。
金のことで思い悩む日々が続くのかと思うとうんざりするが、どこか荷が下りた気がするのは、こんな自分のことを想ってくれた能勢を裏切り続けなくて済んだからかもしれない。
凡庸な自分には勿体無い、器の大きな人間だったと思う。
―― 愛情の原因は、この人なんやな
能勢は、紅雷に抱く気持ちを見抜いていた。そしてそれを 『愛情』 と表した。
前を行く背中を凝視めながら、愛情という言葉を口の中で転がしてみる。面映ゆいような、切ないような感情にきゅっと胸を締め付けられ、そっと息を吐いた。
紅雷への気持ちを、欲望とか恋情ではなく愛情と、そう呼んでもいいのだろうか。能勢の最後の言葉に慰められるような気がした。
紅雷がちらっと目の端で振り返った。
まるで裕紀がちゃんと着いてきているのを確かめるような紅雷の瞳に、とくんとひとつ胸が高鳴った。この男を、ちゃんと友人として護らなくては。
まずはクラブに払ったという一千万だ。一体どこからそんな大金を調達したのか。
能勢の入札希望額が百万。この金額も大いに問題だが、なんといってもその10倍だ。
せいぜい数万円の小競り合い手で終わる、お遊びのはずだった。
―― なんで一千万もつけたんだ? 問に、紅雷は裕紀の顔をじっと見たあと 「勝ちたいからに決まってるだろ」 と素っ気なく答えた。
自分の取り分はそのまま紅雷に返すとして、店の取り分は折半で五百万くらいかと予測する。、
五百……まったく馬鹿げている。
いくらかでも返してもらえるよう、オーナーに掛け合ってくれと佐野に頼むしか無い。そこまで考えて、言いようのない疲労感が押し寄せてきた。
「なあ、紅雷」
紅雷もまた考えごとをしているのか、呼びかけに返事はない。
自分のために馬鹿げたオークションに、一千万円という大金を積んで参加してくれた紅雷。
友達なら誰にでも、紅雷は同じことをしたろうか。
友人だという、それだけで?
ラフなコートの上からでも、綺麗に締まった筋肉の動きが想像できる。我の強いところがあって、能勢のような老成した寛容さや達観はまだないが、紅雷は最高にカッコいい男になるとわかる。
自分をゾクゾクとさせる大人の色香に、真直ぐ目を合わせる時の瞳の深さに、心は奪われっぱなしだった。
愛情は友情とリンクする部分もあるが、やはり異なる感情だ。
紅雷を想う自分のこの心は、友情ではない。
紅雷を追う足が止まった。
秘する恋心や、不埒な欲望を知らないから紅雷は手を差し伸べてくれたのだ。その友情に応えるどころか、自分の苦境に巻き込んでしまった。もう紅雷を自分に関わらせるのをやめなくては。
「紅雷…」
「部屋は、ここの二階だから」
俺は帰るぞ、と続けようとした裕紀より前に、紅雷が振り返った。
木樹の間から、ちらちら見えていた建物の全貌が目に飛び込んできた。白い枠で囲まれたガラスの箱のような2階建ての建物は、張り出した薄い庇の下にリビングのようなテラスがある。
「凄い……こんな部屋があったのか」
もちろんアルデバランの客室にという意味だ。VIPより更にスペシャルな客専用ということかと呟いた裕紀に、紅雷が皮肉めいた眉を寄せついで諦めたような息を吐く。
「あのなあ、裕紀……」
「おう来たな、司!」
いきなり源氏名で呼ばれてギョッとした。呼んだ相手を見てつけて、二重で驚いた。
一度だけ相手をしたことのある幸田という客だった。確か、チェロ弾きののパートナーがいると言っていた客だ。
目を白黒させる裕紀に、幸田が笑いながら近づいてくる。
客同士がバッティングするというのは不味い。VIP客なら特にだ。今まで一度もこんな失敗はなかったのに、スタッフが段取りを間違えたのだろうか。
鋭い舌打ちが、焦った裕紀の耳を打った。
「出てくるなって、オレは言ったよな?」
「俺は今から晴人を迎えに成田だから。ああ、晩飯はいらねえからお前らは好きにしろよ」
”お前ら” の ”ら” を強調し、ニヤリと目配せして笑った幸田に、紅雷は舌打ちで答えた。
「行くぞ、裕紀」
「紅雷……まさか幸田さんと知り合いなのか?」
混乱した腕を紅雷に引っ張られ、階段を上がる裕紀を朗らかな声が追ってくる。
「よかったな、司。思いっきり可愛がって貰え」
一瞬で全身から血の気が失せた。幸田の相手をした時、間違えて紅雷の名前を呼んだことを言っているのだとすぐにわかった。
「あ……いえ…お、俺たちはそんなんじゃないですから!」
足が縺れだした裕紀を引っ張りあげるように階段を上っていた紅雷がつと振り返る。そして
『黙ってろ、中年っ! もし上がってきたら、秘密をバラしてやるからなっ』
続けて紅雷が中国語で何か怒鳴ると、下から面白がるような笑い声が返ってきた。
「そこに座わって」
紅雷が低い声で短く言う。
突っ立ったまま動かないでいると、裕紀に座れと言ったソファに脱いだコートを投げ空調を調節する。何か飲むかと訊かれて、首を振る。
紅雷はローテーブルに裕紀と向かい合う形で腰を下ろし、組んだ指に顎を乗せた。そして黙りこんだ。
幸田に会った途端、あからさまに紅雷の機嫌は急降下した。紅雷が苛つくのを抑える努力をしているのが伝わってくる。もしかしたら幸田から、司というボーイが抱かれている最中に紅雷の名前を呼んでたぞと聞かされたのかもしれない。
最悪もここまで来ると、感情を動かす事すら放棄したくなる。
連れてこられたリビングは。外から見た印象そのものの部屋だった。大きなガラス窓に挟まれ開放的な空間。外国人向けのレジデンスというだけあって、天井が高い。インテリアも映画のセットのように完璧。ここまではいつも使う部屋も似たりよったり。
床に積まれた新聞や雑誌、テーブルの上の宅配ピザの空箱にマグカップ。これは今までに無かった現象だ。他人の留守に勝手に上がり込んだようだ。
「紅雷、ここって…」
「オレの家だけど」
黙っていた紅雷が、驚いた裕紀を目だけで見上げた。その上目遣いの仄暗い視線に、背筋が僅かに緊張する。
「で、どんなことをしてくれんの?」
質問の意味がかわからず、目を瞬かせた裕紀に紅雷が放った言葉に呼吸が止まった。
「裕紀がお客にしてるサービスだよ。オレはお前を買ったんだから、当然だよな。」
「な…に言ってるんだ? そんなことするわけないだろう」
ゆらりと立ち上がった紅雷は自分より頭半分背が高く、体躯もいい。反射的に後退った裕紀を一歩、また一歩と追い詰めてゆく。
「会社は今のままでいいけど、アルデバランの仕事はやめてもらうから。それと今の家はすぐに引き払って、ここに住んでくれ」
これはなんだ? 紅雷は能勢に、諦めろと言った。裕紀は京都には行かせないと。友情からでた言葉だったとしても、本当は嬉しかった。
だが、「お前を買ったのはオレだ」 とも。友情でも救済でもなく、紅雷は本気で自分を金で買ったというのだろうか。
「すぐにでも金が必要なんだろ」
紅雷を蔑むように歪めた裕紀の顎を、紅雷の手が掴んだ。
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古い敷石がゆるやかにカーブして上がってゆくスロープがコーン型に刈り込まれた針葉樹の奥に消えてゆく。一見、西洋風の庭を彷彿させるが、樹齢を感じさせる張り出しの見事な枝ぶりや、木々の陰にひっそりと佇む石灯籠に、ここが元華族の邸宅であった場所だということ思い出した。
クラブが指定した部屋に先に到着していたらしい紅雷は、口数も少なく慣れた足取りで砂岩色のスロープ上がってゆく。
「そこ補修したばかりだから、セメント踏まないように気をつけて」
不意に紅雷に注意され、足元を見た。踏み石の一部が色を合わせたセメントで丁寧に補修されている。跨いで休日のラフな格好をした紅雷の背中を追ってスロープを上りながら、裕紀はパネライの消えた手首に触れた。
能勢は京都に帰ってしまった。
当然、自分を京都へという話はご破算だ。これで借金返済も、賠償金も入院費のことも振り出しに戻ってしまった。
金のことで思い悩む日々が続くのかと思うとうんざりするが、どこか荷が下りた気がするのは、こんな自分のことを想ってくれた能勢を裏切り続けなくて済んだからかもしれない。
凡庸な自分には勿体無い、器の大きな人間だったと思う。
―― 愛情の原因は、この人なんやな
能勢は、紅雷に抱く気持ちを見抜いていた。そしてそれを 『愛情』 と表した。
前を行く背中を凝視めながら、愛情という言葉を口の中で転がしてみる。面映ゆいような、切ないような感情にきゅっと胸を締め付けられ、そっと息を吐いた。
紅雷への気持ちを、欲望とか恋情ではなく愛情と、そう呼んでもいいのだろうか。能勢の最後の言葉に慰められるような気がした。
紅雷がちらっと目の端で振り返った。
まるで裕紀がちゃんと着いてきているのを確かめるような紅雷の瞳に、とくんとひとつ胸が高鳴った。この男を、ちゃんと友人として護らなくては。
まずはクラブに払ったという一千万だ。一体どこからそんな大金を調達したのか。
能勢の入札希望額が百万。この金額も大いに問題だが、なんといってもその10倍だ。
せいぜい数万円の小競り合い手で終わる、お遊びのはずだった。
―― なんで一千万もつけたんだ? 問に、紅雷は裕紀の顔をじっと見たあと 「勝ちたいからに決まってるだろ」 と素っ気なく答えた。
自分の取り分はそのまま紅雷に返すとして、店の取り分は折半で五百万くらいかと予測する。、
五百……まったく馬鹿げている。
いくらかでも返してもらえるよう、オーナーに掛け合ってくれと佐野に頼むしか無い。そこまで考えて、言いようのない疲労感が押し寄せてきた。
「なあ、紅雷」
紅雷もまた考えごとをしているのか、呼びかけに返事はない。
自分のために馬鹿げたオークションに、一千万円という大金を積んで参加してくれた紅雷。
友達なら誰にでも、紅雷は同じことをしたろうか。
友人だという、それだけで?
ラフなコートの上からでも、綺麗に締まった筋肉の動きが想像できる。我の強いところがあって、能勢のような老成した寛容さや達観はまだないが、紅雷は最高にカッコいい男になるとわかる。
自分をゾクゾクとさせる大人の色香に、真直ぐ目を合わせる時の瞳の深さに、心は奪われっぱなしだった。
愛情は友情とリンクする部分もあるが、やはり異なる感情だ。
紅雷を想う自分のこの心は、友情ではない。
紅雷を追う足が止まった。
秘する恋心や、不埒な欲望を知らないから紅雷は手を差し伸べてくれたのだ。その友情に応えるどころか、自分の苦境に巻き込んでしまった。もう紅雷を自分に関わらせるのをやめなくては。
「紅雷…」
「部屋は、ここの二階だから」
俺は帰るぞ、と続けようとした裕紀より前に、紅雷が振り返った。
木樹の間から、ちらちら見えていた建物の全貌が目に飛び込んできた。白い枠で囲まれたガラスの箱のような2階建ての建物は、張り出した薄い庇の下にリビングのようなテラスがある。
「凄い……こんな部屋があったのか」
もちろんアルデバランの客室にという意味だ。VIPより更にスペシャルな客専用ということかと呟いた裕紀に、紅雷が皮肉めいた眉を寄せついで諦めたような息を吐く。
「あのなあ、裕紀……」
「おう来たな、司!」
いきなり源氏名で呼ばれてギョッとした。呼んだ相手を見てつけて、二重で驚いた。
一度だけ相手をしたことのある幸田という客だった。確か、チェロ弾きののパートナーがいると言っていた客だ。
目を白黒させる裕紀に、幸田が笑いながら近づいてくる。
客同士がバッティングするというのは不味い。VIP客なら特にだ。今まで一度もこんな失敗はなかったのに、スタッフが段取りを間違えたのだろうか。
鋭い舌打ちが、焦った裕紀の耳を打った。
「出てくるなって、オレは言ったよな?」
「俺は今から晴人を迎えに成田だから。ああ、晩飯はいらねえからお前らは好きにしろよ」
”お前ら” の ”ら” を強調し、ニヤリと目配せして笑った幸田に、紅雷は舌打ちで答えた。
「行くぞ、裕紀」
「紅雷……まさか幸田さんと知り合いなのか?」
混乱した腕を紅雷に引っ張られ、階段を上がる裕紀を朗らかな声が追ってくる。
「よかったな、司。思いっきり可愛がって貰え」
一瞬で全身から血の気が失せた。幸田の相手をした時、間違えて紅雷の名前を呼んだことを言っているのだとすぐにわかった。
「あ……いえ…お、俺たちはそんなんじゃないですから!」
足が縺れだした裕紀を引っ張りあげるように階段を上っていた紅雷がつと振り返る。そして
『黙ってろ、中年っ! もし上がってきたら、秘密をバラしてやるからなっ』
続けて紅雷が中国語で何か怒鳴ると、下から面白がるような笑い声が返ってきた。
「そこに座わって」
紅雷が低い声で短く言う。
突っ立ったまま動かないでいると、裕紀に座れと言ったソファに脱いだコートを投げ空調を調節する。何か飲むかと訊かれて、首を振る。
紅雷はローテーブルに裕紀と向かい合う形で腰を下ろし、組んだ指に顎を乗せた。そして黙りこんだ。
幸田に会った途端、あからさまに紅雷の機嫌は急降下した。紅雷が苛つくのを抑える努力をしているのが伝わってくる。もしかしたら幸田から、司というボーイが抱かれている最中に紅雷の名前を呼んでたぞと聞かされたのかもしれない。
最悪もここまで来ると、感情を動かす事すら放棄したくなる。
連れてこられたリビングは。外から見た印象そのものの部屋だった。大きなガラス窓に挟まれ開放的な空間。外国人向けのレジデンスというだけあって、天井が高い。インテリアも映画のセットのように完璧。ここまではいつも使う部屋も似たりよったり。
床に積まれた新聞や雑誌、テーブルの上の宅配ピザの空箱にマグカップ。これは今までに無かった現象だ。他人の留守に勝手に上がり込んだようだ。
「紅雷、ここって…」
「オレの家だけど」
黙っていた紅雷が、驚いた裕紀を目だけで見上げた。その上目遣いの仄暗い視線に、背筋が僅かに緊張する。
「で、どんなことをしてくれんの?」
質問の意味がかわからず、目を瞬かせた裕紀に紅雷が放った言葉に呼吸が止まった。
「裕紀がお客にしてるサービスだよ。オレはお前を買ったんだから、当然だよな。」
「な…に言ってるんだ? そんなことするわけないだろう」
ゆらりと立ち上がった紅雷は自分より頭半分背が高く、体躯もいい。反射的に後退った裕紀を一歩、また一歩と追い詰めてゆく。
「会社は今のままでいいけど、アルデバランの仕事はやめてもらうから。それと今の家はすぐに引き払って、ここに住んでくれ」
これはなんだ? 紅雷は能勢に、諦めろと言った。裕紀は京都には行かせないと。友情からでた言葉だったとしても、本当は嬉しかった。
だが、「お前を買ったのはオレだ」 とも。友情でも救済でもなく、紅雷は本気で自分を金で買ったというのだろうか。
「すぐにでも金が必要なんだろ」
紅雷を蔑むように歪めた裕紀の顎を、紅雷の手が掴んだ。
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■最後までお読み頂き、ありがとうございます♪(*^▽^*)
紅雷、黒っ 能勢さん、カムバーク!! 更新できたああ。よかった(泣)
「広くて長い」 以外の小説にもたくさんの拍手を頂き、感謝です。ありがとうございます♡
紙魚
■拍手ポチ、コメント、村ポチと応援いただき、ありがとうございます。
拙文しか書けない私ですが、創作の励みになっております。
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紅雷、黒っ 能勢さん、カムバーク!! 更新できたああ。よかった(泣)
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