02 ,2016
広くて長い 10
<10>
オークションが再開した。
能勢から送られた時計の値を知った裕紀も、いまや能勢の落札を確信している。
来るべき日に着けていこうと心に決め、腕時計は箱に戻した。腕時計を嵌めた裕紀を能勢が見れば、それが申し出への返事だと能勢は気付くはずだ。
―― 「また俺から逃げるのか?」
そう逃げ出すのだ、自分は。
会社までやってきた紅雷とファミレスで決裂したあの夜以降、1日と開けず届いていたメールや電話はぴたりと来なくなった。
友人に裏切られ付き纏うなとまで言われて、プライドが傷つかない人間はいない。
紅雷の最後の表情を思い出す度、大きく心が揺さぶられて苦しくなる。明け透けに心の動揺を映す子共みたいな目は今にも泣きそうだった。
「泣きたいのは俺だ」
散々、懐いて構い倒してきても、ひとこと好きだと告白すれば友情は終わる。同性に好きだと言われて気味悪がりはしても、はいそうですかと笑って受け入れるヘテロはいない。
自分がそうだったからわかる。
いや、紅雷なら自分を傷つけないように上手く振ってくれて、その後も友達でいようとしてくれるのかもしれない。
水道の蛇口を捻ってコップを満たし、シンクにもたれたまま喉に流し込む。
ワンルームの床にカーテンの隙間から射し込む月の光が短い線を引く。眠れない夜が、ここのところずっと続いている。
水の入ったコップを手に持ったままベッドに戻り、抜け殻の自分のベッドを見下ろした。
「友情って、なんだ?」
紅雷はきっと友人がゲイだと知っても態度を変えたりはしない。自分には受け入れられないとしても、相手に態度を変えないように気遣い、友人関係を続けていく努力をする。
友達だから。
自分が紅雷に望んでいる関係は、もはやそんなハリボテの関係ではない。
キスをしたい、手を繋ぎたい。いや、もっとだ …… もっと欲望は深い。
手のひらで、舌で紅雷の体温を確かめ、鳩尾に接吻けたい。輪郭のくっきりした男らしい唇を舐め、躯の中で最も熱い場所を絡め、涼やかな瞳が劣情に煽られ苦しげに眇められた貌を見たい。
同居時代に見た記憶の中の紅雷の裸体を、客にするのと同じ淫らな行為で犯してゆく。
自分の精液で汚れたシーツを冷然と見下す。
「狂ってる」
日本中が師走に突入していた。
街を歩けば至る所でツリーを目にし、テレビを付ければ番組は年末特番に切り替わっている。巷にあふれるクリスマスと正月が渾然一体になって、ただでさえ気忙しい人々を、なお急き立てる。
スーパーやデパート、レストランからの加工肉の注文が増えるこの時期、裕紀の会社も目の回る忙しさだ。外回りの時間が増えた分、事務仕事は残業に回る。
さすがに体力の限界を感じ、クラブの仕事はストップしていた。
そんな折、佐野から連絡が入った。
「落札者が決定したぞ」
1日中、納品先を駆けずり回って残業をこなし、コンビニ弁当片手に部屋に戻ったばかりだった。飯にするか、それとも冷えた躯を風呂で温めるか、洗濯機も回しておかないと。スマホを耳にあてながら、狭い部屋を歩きまわる。
「あっちの都合で、エッチデーは年明けにして欲しいそうだ。用心深いのか潔癖なんだか、当日まで司には客を取らせるなって言われてるんだよな」
履行日をエッチデーと呼ぶ身も蓋も無い佐野の表現に苦笑しつつ、バスタブの栓を捻り、弁当を電子レンジに放り込み、洗濯機に洗剤をセットした。
「まあその間のデート料は払ってくれるらしいからいいけど。よかったな、司。ちょっと癖は有りそうだが、太客になるのは間違いない相手だからしっかり下準備しとけよ」
佐野が下卑た声で笑う。なりそうじゃなくて、能勢は既に立派な太客だ。佐野は仕事は出来る、性格もまあまあ。こういう下品なところさえなければ、もう少し好感が持てるのだが。会話する度、残念な気持ちにさせてくれる男だ。
「もっと稼ぎたいなら、司のロストバージンってタイトルで、ネットで有料配信……」
付き合いきれず、話の途中で通話を切った。
弁当のフタを取って箸を割って、あ……短く声を上げる。
「落札価格を聞くの忘れた」
大晦日から元旦にかけた一泊で帰省した。
そこそこ大柄だった父親は、見る影もなくやせ細り、別人のようだった。事故で脊髄に損傷を負い、うつ病の症状も出ている。もう仕事は無理だろうと医者からいわれた。
リストラに事故。親のくせに息子を借金地獄に突き落として、この上まだ負担を強いてくるのか。家族の足を引っ張るくらいならいっそ死んでくれと、心の中で悪態を吐きながら医者に頭を下げた。
それでも、病室のベッドに眠る父親の、痩けた顎や額に、苦労の滲む深い皺が刻まれているのを見つけた時は、不覚にも涙が出そうになった。
母親に仕事の内容は伏せ、京都に移ることを話した。帰省は難しくなるが送金の額を増やせることを伝えると、力が抜けたのか長い長い息を吐いた。そして、ありがとうと泣いた。苦労させてごめんねとも。
佐野から履行日を知らせるメールが入ったのは東京に戻った翌日、1月2日のことだった。
「明日って、まだ正月だよな?」
少なくとも正月の三ヶ日は無いだろうと思っていた。
場所は例のVIP用の客室がある外国人向けのレジデンスだ。決心し覚悟も決まっていたが、いざ明日といわれるとさすがに緊張した。
サービスは売るが、躯は売らない。
塵みたいなプライドで高尚ぶっていた自分が青臭いガキだった。
「これまで数えきれない数の男の欲望を満たしてきた。自分の中にこびりついて離れない抵抗感を、何を今更と自分を叱咤し、土気色の父親の顔を思い起こす。金の心配がなくなるのだからよかったじゃないかと鼓舞する心がきりりと痛む。
自分を売ったのか? 責めるような紅雷の言葉は、今も胸に突き刺さったままだ。
この痛みを愛しく思うくらいは許してどうか欲しい。
寒々しい薄曇りの空の下、冬枯の欅の並木を歩いた。
レジデンスへの最短コースではなく、遠回りする自分の往生際の悪さに自分でも呆れつつ、つと立ち止まって肺いっぱい冷えきった真冬の空気を吸い込んだ。
「なにをやってるんだ、俺は」
夏に河内に襲われた公園に、紅雷は現れた。ならば、住んでいるのも公園に近い場所かもしれない。気がつけば公園の周辺をぐるりと周るコースを取って歩いていた。
偶然会えたとしても、どうにもならないことはわかっている。お互い、後味の悪さが残るだけだ。
なにをやっているんだと、もう一度繰り返し腕に巻いたパネライを見た。
約束の時間まであと5分もない。
能勢は時間に几帳面で、どちらかと言うと早めに来るタイプだ。少し歩調を早めなければ、能勢を待たせてしまうことになる。
少し戻り、レジデンスに一番近い道に折れる。すると街の雰囲気は少し変わり、大きな家ばかりが目につき出す。住宅地としては都内でも地価の高い場所なのだと、佐野が自慢気に話してくれたことがある。。
一歩、また一歩と、レジデンスが近づくにつれ、手首に巻いたパネライの重みが増すような気がして、外したくなる。それで京都に行くメリットだけを考えようと務めた。
能勢は洒脱で頭が切れ、自分にはない包容力がある。シーズン毎に美しい作品を生み出す、伝統工芸の作家の貌も持つ。能勢のような男を他に見たことがない。
京都に行けば、公私で能勢のサポートをすることになり、もう不特定多数の男を相手にすることもない。何より自分の借金がなくなるのは大きい。
父親の治療費と、事故の賠償金は働きながら返していけばいい。
「いい事だらけだ」
いつもの格式張った正面の門ではなく、レジデンスへと公園と挟まれた脇道に入った。私道らしく、車一台分ほどしかない古い石畳の片側を、公園の枯木立が迫る。公園の何処かで鳴く高い鳥の声も、もの寂しい雰囲気に追い打ちをかけ引き返したくなってくる。
スマホを取り出し、佐野が描いてくれた大雑把な地図を呼び出した。
「東西逆だし。下手な地図だな」
やがて長く続く塀の奥に、青銅色の柵と、跳ね上げ式のカーポートの黒い扉を確認して安堵したところを、背後から声を掛けられた。
「能勢様もいま着かれたところだったんですね。お待たせしたのではなくてよかったです」
軽く会釈して笑った裕紀の手首に能勢の目が釘付けになる。そして 「司…」 と、徐ろに顔を上げた能勢は切羽詰まった眼をして言った。
「すまん、俺は君を落札できんかった」
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オークションが再開した。
能勢から送られた時計の値を知った裕紀も、いまや能勢の落札を確信している。
来るべき日に着けていこうと心に決め、腕時計は箱に戻した。腕時計を嵌めた裕紀を能勢が見れば、それが申し出への返事だと能勢は気付くはずだ。
―― 「また俺から逃げるのか?」
そう逃げ出すのだ、自分は。
会社までやってきた紅雷とファミレスで決裂したあの夜以降、1日と開けず届いていたメールや電話はぴたりと来なくなった。
友人に裏切られ付き纏うなとまで言われて、プライドが傷つかない人間はいない。
紅雷の最後の表情を思い出す度、大きく心が揺さぶられて苦しくなる。明け透けに心の動揺を映す子共みたいな目は今にも泣きそうだった。
「泣きたいのは俺だ」
散々、懐いて構い倒してきても、ひとこと好きだと告白すれば友情は終わる。同性に好きだと言われて気味悪がりはしても、はいそうですかと笑って受け入れるヘテロはいない。
自分がそうだったからわかる。
いや、紅雷なら自分を傷つけないように上手く振ってくれて、その後も友達でいようとしてくれるのかもしれない。
水道の蛇口を捻ってコップを満たし、シンクにもたれたまま喉に流し込む。
ワンルームの床にカーテンの隙間から射し込む月の光が短い線を引く。眠れない夜が、ここのところずっと続いている。
水の入ったコップを手に持ったままベッドに戻り、抜け殻の自分のベッドを見下ろした。
「友情って、なんだ?」
紅雷はきっと友人がゲイだと知っても態度を変えたりはしない。自分には受け入れられないとしても、相手に態度を変えないように気遣い、友人関係を続けていく努力をする。
友達だから。
自分が紅雷に望んでいる関係は、もはやそんなハリボテの関係ではない。
キスをしたい、手を繋ぎたい。いや、もっとだ …… もっと欲望は深い。
手のひらで、舌で紅雷の体温を確かめ、鳩尾に接吻けたい。輪郭のくっきりした男らしい唇を舐め、躯の中で最も熱い場所を絡め、涼やかな瞳が劣情に煽られ苦しげに眇められた貌を見たい。
同居時代に見た記憶の中の紅雷の裸体を、客にするのと同じ淫らな行為で犯してゆく。
自分の精液で汚れたシーツを冷然と見下す。
「狂ってる」
日本中が師走に突入していた。
街を歩けば至る所でツリーを目にし、テレビを付ければ番組は年末特番に切り替わっている。巷にあふれるクリスマスと正月が渾然一体になって、ただでさえ気忙しい人々を、なお急き立てる。
スーパーやデパート、レストランからの加工肉の注文が増えるこの時期、裕紀の会社も目の回る忙しさだ。外回りの時間が増えた分、事務仕事は残業に回る。
さすがに体力の限界を感じ、クラブの仕事はストップしていた。
そんな折、佐野から連絡が入った。
「落札者が決定したぞ」
1日中、納品先を駆けずり回って残業をこなし、コンビニ弁当片手に部屋に戻ったばかりだった。飯にするか、それとも冷えた躯を風呂で温めるか、洗濯機も回しておかないと。スマホを耳にあてながら、狭い部屋を歩きまわる。
「あっちの都合で、エッチデーは年明けにして欲しいそうだ。用心深いのか潔癖なんだか、当日まで司には客を取らせるなって言われてるんだよな」
履行日をエッチデーと呼ぶ身も蓋も無い佐野の表現に苦笑しつつ、バスタブの栓を捻り、弁当を電子レンジに放り込み、洗濯機に洗剤をセットした。
「まあその間のデート料は払ってくれるらしいからいいけど。よかったな、司。ちょっと癖は有りそうだが、太客になるのは間違いない相手だからしっかり下準備しとけよ」
佐野が下卑た声で笑う。なりそうじゃなくて、能勢は既に立派な太客だ。佐野は仕事は出来る、性格もまあまあ。こういう下品なところさえなければ、もう少し好感が持てるのだが。会話する度、残念な気持ちにさせてくれる男だ。
「もっと稼ぎたいなら、司のロストバージンってタイトルで、ネットで有料配信……」
付き合いきれず、話の途中で通話を切った。
弁当のフタを取って箸を割って、あ……短く声を上げる。
「落札価格を聞くの忘れた」
大晦日から元旦にかけた一泊で帰省した。
そこそこ大柄だった父親は、見る影もなくやせ細り、別人のようだった。事故で脊髄に損傷を負い、うつ病の症状も出ている。もう仕事は無理だろうと医者からいわれた。
リストラに事故。親のくせに息子を借金地獄に突き落として、この上まだ負担を強いてくるのか。家族の足を引っ張るくらいならいっそ死んでくれと、心の中で悪態を吐きながら医者に頭を下げた。
それでも、病室のベッドに眠る父親の、痩けた顎や額に、苦労の滲む深い皺が刻まれているのを見つけた時は、不覚にも涙が出そうになった。
母親に仕事の内容は伏せ、京都に移ることを話した。帰省は難しくなるが送金の額を増やせることを伝えると、力が抜けたのか長い長い息を吐いた。そして、ありがとうと泣いた。苦労させてごめんねとも。
佐野から履行日を知らせるメールが入ったのは東京に戻った翌日、1月2日のことだった。
「明日って、まだ正月だよな?」
少なくとも正月の三ヶ日は無いだろうと思っていた。
場所は例のVIP用の客室がある外国人向けのレジデンスだ。決心し覚悟も決まっていたが、いざ明日といわれるとさすがに緊張した。
サービスは売るが、躯は売らない。
塵みたいなプライドで高尚ぶっていた自分が青臭いガキだった。
「これまで数えきれない数の男の欲望を満たしてきた。自分の中にこびりついて離れない抵抗感を、何を今更と自分を叱咤し、土気色の父親の顔を思い起こす。金の心配がなくなるのだからよかったじゃないかと鼓舞する心がきりりと痛む。
自分を売ったのか? 責めるような紅雷の言葉は、今も胸に突き刺さったままだ。
この痛みを愛しく思うくらいは許してどうか欲しい。
寒々しい薄曇りの空の下、冬枯の欅の並木を歩いた。
レジデンスへの最短コースではなく、遠回りする自分の往生際の悪さに自分でも呆れつつ、つと立ち止まって肺いっぱい冷えきった真冬の空気を吸い込んだ。
「なにをやってるんだ、俺は」
夏に河内に襲われた公園に、紅雷は現れた。ならば、住んでいるのも公園に近い場所かもしれない。気がつけば公園の周辺をぐるりと周るコースを取って歩いていた。
偶然会えたとしても、どうにもならないことはわかっている。お互い、後味の悪さが残るだけだ。
なにをやっているんだと、もう一度繰り返し腕に巻いたパネライを見た。
約束の時間まであと5分もない。
能勢は時間に几帳面で、どちらかと言うと早めに来るタイプだ。少し歩調を早めなければ、能勢を待たせてしまうことになる。
少し戻り、レジデンスに一番近い道に折れる。すると街の雰囲気は少し変わり、大きな家ばかりが目につき出す。住宅地としては都内でも地価の高い場所なのだと、佐野が自慢気に話してくれたことがある。。
一歩、また一歩と、レジデンスが近づくにつれ、手首に巻いたパネライの重みが増すような気がして、外したくなる。それで京都に行くメリットだけを考えようと務めた。
能勢は洒脱で頭が切れ、自分にはない包容力がある。シーズン毎に美しい作品を生み出す、伝統工芸の作家の貌も持つ。能勢のような男を他に見たことがない。
京都に行けば、公私で能勢のサポートをすることになり、もう不特定多数の男を相手にすることもない。何より自分の借金がなくなるのは大きい。
父親の治療費と、事故の賠償金は働きながら返していけばいい。
「いい事だらけだ」
いつもの格式張った正面の門ではなく、レジデンスへと公園と挟まれた脇道に入った。私道らしく、車一台分ほどしかない古い石畳の片側を、公園の枯木立が迫る。公園の何処かで鳴く高い鳥の声も、もの寂しい雰囲気に追い打ちをかけ引き返したくなってくる。
スマホを取り出し、佐野が描いてくれた大雑把な地図を呼び出した。
「東西逆だし。下手な地図だな」
やがて長く続く塀の奥に、青銅色の柵と、跳ね上げ式のカーポートの黒い扉を確認して安堵したところを、背後から声を掛けられた。
「能勢様もいま着かれたところだったんですね。お待たせしたのではなくてよかったです」
軽く会釈して笑った裕紀の手首に能勢の目が釘付けになる。そして 「司…」 と、徐ろに顔を上げた能勢は切羽詰まった眼をして言った。
「すまん、俺は君を落札できんかった」
◀◀ 9 / 11 ▷▷

■最後までお読み頂き、ありがとうございます♪(*^▽^*)
いつもより、ちょっぴり短めですかね。その割に内容が…
紙魚
■拍手ポチ、コメント、村ポチと応援いただき、ありがとうございます。
拙文しか書けない私ですが、創作の励みになっております。
いつもより、ちょっぴり短めですかね。その割に内容が…
紙魚
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