02 ,2016
広くて長い 9
<9>
能勢に教えてもらったパスワードを使って、HPのオークションサイトを開いてみた。能勢が言った通り、エラーのロゴと短い謝罪文だけで、再開についての案内などはない。
喜々としながらオークションを開催した割に、サーバーが復旧するまで待てと、佐野は悠長なことを言った。
もし今、オークションを中止にしたいと言えば、聞き入れてもらえるだろうか。
ふとそんなこと考え、即座に頭の中で取り下げる。自分に選択の余地は無い。
刀や、鋤を模した不思議な形の古銭のレプリカはつくりも雑で、型押しのバリが縁に残っている。緑色の樹脂に虫が入った琥珀(のレプリカ)もよく見れば小さな気泡が入っている。
いかにもバラマキ用の品々だが、土産物屋で買えばそれなりにボラれるのだろう。紅雷なら、中国人同士でその心配もなさそうだが。
縁起物の蝙蝠が貼りついた緑の玉を電灯に翳す。
紅雷に、「これだけは本物だから」 と太鼓判を押された透かし彫りの球体は3層構造になっているようで、一番小さな球体の中に透明なガラスの破片のようなものが入っている。
本物だと言った時の熱のこもった目。もっと別の意味で本物と言っていたように思えるのは自分の思い過ごしか。対して、冷ややかな笑みひとつで象牙を偽物に変えた紅雷を思い出すと、いまも背中をぞくりと何かが駆け上がって来る。
玉を箱に戻した。
きっと紅雷は職場の同僚にも同じようなものを配っているのだろう。
「全員、微妙な顔だな」 乾いた笑い声は部屋の中に吸い込まれて消えた。
紅雷の言う中国人の義理堅さなど、欲しくない。ではなにを自分は望んでいるというのか。
幸田に 「裕紀」 と名前を呼ばれながら抱締められた時に感じた、頭の芯の痺れるような感覚。官能に呑まれ、東夷と幸田の名前を呼ぶつもりで無意識に口にした名前は幸田のものではなかった。
紅雷と一緒に暮らした1年間を、自分がどう過ごしていたのか思い出せない。どうすれば、あの頃の、ただの友人だった時代に戻れるのだろうか。
大切な友人を友情を、風俗で身についた経験が穢してゆく。
たった一度、感じた熱が清廉な想いを破壊し、狂った欲望をどんどん増長させてゆく。違う、そうじゃないと、何度自分に言い聞かせても、汚れた恋情は夢の中に何度も紅雷を呼び寄せた。
何があっても力になると言ってくれた、大切な親友。もしこの汚れた感情を知られたら…。
侮蔑の眼を自分に投げる紅雷を想像し、ぞっと背中が恐怖で慄えた。
もう会わない方がいい。そんなことはわかっている。この感情を封印すれば、きっといつかは元の友人関係に戻れる日が来る。
目の奥が熱くなった。駄目だ、駄目だ、本心は今も会いたい。
消えてなくなるどころか、想いは濃度を増して、紅雷の事を考える時間は増える一方だ。切なくて、苦しくて、満たされない。
「男を好きになるとか、想定外…だろうよ」
しかも相手は旧友ときた。細く長い息を吐いて、夜の間に沈んでゆく。
こんな夜に限って、指名が入ってこない。
床の上に置きっぱなしになっていた紙袋を引き寄せ、中から箱を取り出しリボンを解いた。
黒い革のベルトに黒の文字盤。Paneraiと刻印された腕時計には能勢の携帯番号が記した小さなカードが添えてあった。
―― 耳障りのええ返事だけを待ってる
時計を箱から取り出し、代わりに紅雷の土産を中に詰めた。そして佐野に借りたゲイビの入ったミニキッチンの吊り戸棚に突っ込んだ。
その夜はもう、食品衛生責任者のテキストを開かなかった。
「束原さん、前に会社の前に来てた人、下に来てますよ」
「え、誰?……あ、下に?」
同僚の女の子の耳打ちに、得意先との電話を切ったばかりの裕紀の目が大きくなる。
「待ち合わせですか?」
シマちゃんは入社2年目の経理の子だ。私服姿なのは、帰りがけに紅雷を見つけて戻ってきてくれたからなのだろう。シマちゃんがわざわざ戻ってきた理由は、好奇心にキラキラ輝く瞳を一目見ればわかった。
「ああ、もうそんな時間か」
それらしく時間を確認するふりをして立ち上がった。
紅雷と会う約束なんかした覚えはない。会おう、飲みに行こうという紅雷の誘いは、年末は忙しいからというのを理由に尽く断っている。
「その腕時計、カッコいいですね。前から思ってたんですけれど、束原さんって持ち物のセンスいいですよね」
「そうでもないよ。これだって景品だし」
お世辞を偽りで受け流し、外回りの上っぱりを羽織ってさり気なく隠す。
「ああそうだ、この伝票だけど経理処理行きのやつなんだ。着替ちゃってるとこを悪いけど、出しといてもらっていいかな?」
間を置いて、いいですよと答えたシマちゃんが、エレベーターに向かう裕紀を追いかけてきて並んだ。伝票ファイルを抱えてはいるが、歩調を合わせたパンプスは、紅雷のいる1階までついてきそう気配だ。
「あの人、束原さんの大学時代の友達なんですか? いい感じの人ですよね。この前は束原さんのこと睨んでて、凄く怖かったけど、今日は目が合ったらちょこって挨拶してくれたんですよ。格好いいんだけど可愛いっていうか」
どうやらシマちゃんも、仁王立ちで待ち伏せする紅雷を目撃したひとりらしい。
「伝えとくよ、既婚者だけどね」
「そうなんですか? ちぇっ!」
あまりに正直な反応に、思わず吹き出してしまった。眉をハの字にして唇を尖らせるシマちゃんを残し、笑いながら一人でエレベーターに乗り込んだ。
「裕紀!」
歩道を行き交うOLがチラチラと視線を送る中、裕紀の姿を見つけた紅雷が人待ち顔をぱっと綻ばせ、ガードレールから身を起した。
「ちょっと来い」
近寄ってきた紅雷を斜向かいのカフェまで引っ張っていき、最奥の席に落ち着いた。
ランチが売りで昼は激混みの店内も、この時間は閑散としている。狙い通り、ウエイターがブレンド2つを運んでくると、店の奥は個室状態になった。
「目立つんだよ、お前は。…ったく、昔は地味な奴だと思ってたのに」
「オレは昔と何も変わってないけど。別に金髪になったわけでもなし、着るものは多少マシになったけど、デカいだけでいまも地味な方だと思うけどな」
両腕を軽く広げ、自分自身を見下ろして 「ごく普通だ」 と付け加える。
「お前が言うと嫌味になるから言うな」
同じタイミングでブレンドに口をつけ、同時にソーサーに戻すと、もうカップを持ち上げることはない。これがランチタイム以外で、この店が閑古鳥が鳴く理由だ。紅雷が 「不味い。驚くほど不味い」 と小声で呟く。「こんなに不味いのに店が潰れないなんて、さすが東京だな」 と笑った目許に心臓がチリチリと焦げ付いた。
「……で、今日は何時まで仕事やるんだ?」
どうやら、裕紀の仕事が終わるまで待つ気らしい。
「年末は忙しいから飲みは無理だって、俺は言ったしメールにも書いたよな?」
裕紀は露骨に顔を顰めてみせた。
「じゃあ、週末は? この前言ってた映画、上映期間が延長してまだやってんだ」
「土曜日は仕事、日曜日はアッチの仕事で埋まってるから無理」
「夜も週末もじゃ、働き過ぎだろ」
「貧乏暇無しなんだよ。年始はどうしてもクラブの仕事が減るし、稼げる時にしっかり稼いどかねえと……」
苛々と前髪を掻き上げた手首に紅雷の目が留まる。隠すより早く、紅雷が口を開いた。
「時計変えたんだ?」
「ああ、これな。この前のボーナスで買ったんだ」
またしても偽りをすらすらと口に乗せる。自分が真っ正直な人間だとは思わなかったが、ここまで衒いなく嘘がつける自分を薄気味悪く感じた。
「見せてもらっても?」
取り立てて目立つデザインではない。どちらかと言うと地味で素っ気ないくらいなのに、人の目を惹き自分に嘘をつかせる。こんなことなら付けてくるんじゃなかったと、後悔ししつつ手首から外して紅雷に渡した。
「これいくらするか知ってる?」
俯き時計のケースをひっくり返した紅雷が、探るような上目使いで訊いてきた。
あまり聞いたことのないブランドだ。紅雷の腕に嵌まる物々しいブライトリングに比べれば随分と簡素に見える。そう安物っぽくもないと思うし、せいぜい5~6万くらいか。いや能勢の選ぶ時計なら、もう少し値が張るかもしれない。
「240万円。20代の社員に、こんな高価な時計が買えるほどのボーナスをくれるなんて、食肉を扱う会社ってよっぽど儲かるんだな」
飛び出しそうになった目玉で、紅雷から無言で返された腕時計をガン見した。
カーブした四角いケースにスモールセコンド。至ってシンプルで、裏がシースルーになっているところはちょっと珍しいかもしれない。
「そんなけ稼ぎがあるんなら、副業なんかしなくても奨学金は簡単に返せるんじゃないのか」
「ニ…セモノかも」
「パネライのラジオミール 1940シリーズ 間違いなく本物だ。こんな本気の貢物、誰に貰った?」
「お前には関係ないだろう」
紅雷に貢物と責める口調で決めつけられ、それが的を得ていることで余計に腹が立った。
「仕事に戻る」
膠着する空気に耐えられず、席を立つと紅雷も立ち上がった。
「俺は忙しいんだ、どけ」
口を固く結んで押し黙り、岩のように行く手に立ち塞がった紅雷を睨みつける。退けよと繰り返すと、切れ長の眼がすうっと細まった。静かに沈む漆黒の虹彩に捕えられ、進退が取れなくなる。
「再会したあの夜みたいに、また俺から逃げるのか?」
ぱんと横面を張られたような衝撃に、思わずよろめいた。
河内に襲われ助けてもらったあの再会の夜、自分を呼び止めた紅雷から逃げようとした。紅雷は気付いていたのだ、落ちぶれた自分を見られたくなくて逃げようとした、卑屈で姑息な自分に。
全身が屈辱で熱くなる。脈拍が乱れてまともに息もできなくなり、目の前が滲んでぶれた。
「年が明けたら、俺は京都に行く」
もう紅雷の顔も正視することが出来なかった。俯いた視線は、板張りの床に立つ紅雷のオックスフォードシューズを凝視めた。
「京都?」
一瞬、僅かに怯んだ紅雷の声が、すぐに確信したかのように鋭くなった。
「旅行…とかじゃなさそうだな。仕事はどうするんだ。食品衛生責任者の資格は? 取るんじゃなかったのか」
「仕事は、新しい仕事先を見つけた。収入も増えるし、借金も返せる」
固まった首を無理矢理上げると、揺らぐこと無く自分を見据えた紅雷の眼とぶつかった。逃げるような、そんなみっともない真似はもうしない。突き刺すような視線と刺し違える覚悟で見返すと、受け止めた言葉を噛み砕くように紅雷の頬に力が籠もる。
不意に紅雷の目が見開かれた。
「売ったのか? ……自分を」
言葉の衝撃に薙ぎ倒されそうになる。
眇まる紅雷の目、怒りに戦慄く広い肩。それらが侮蔑を滲ませる瞬間が、すぐそこに来ていた。
「それが仕事だからな。なんで今更、そんな目で俺を見る? 知ってて旧交を深めようとしたのは紅雷、お前の方だ」
ぎらついた怒りが紅雷からふいに消えた。眇めた目蓋を慄えさせ、いつもは大人然とした顔が泣くのを堪える子共のような表情に変わる。
「もう一度、親友に戻りたい。いやあの頃よりもっと……と、そう願ったのは、オレだけだったっということか」
紅雷の双眸から、熱っぽさのようなものが潮のように引いて行く。代わりに悲しげな色で満たし目が力なく笑った。眼の奥が熱くなって、鼻がツンとする。落ちた紅雷の肩に手を伸ばしそうになるのを拳を握って。
すぐ謝れば、きっとまだ間に合う。優しい紅雷のことだから、怒りはしても許してくれる。消え去ろうとする友情に追い縋って、引き止めて。だがその後は、どうなる?
紅雷が好きだ。
過去に友達だったというそれだけで、堕ちてしまった友人の力になろうと必死で手を伸ばすこの男に、恋してしまった。友情という流れを変えてしまった自分に、流れゆくその先はない。
だから深く呼吸をひとつ吐いて、流れにとどめを刺した。
「金さえ出せば、誰にでも…そう、お前にだって俺は自分を売る。俺はそういう男だ。お前も、もうわかってんだろ」
壊れてゆく。紅雷も自分も友情も。
「友達ごっこはもう終わりだ。わかったら金輪際、電話もメールもしてくるな」
腕を押すと、あっけないほどに紅雷は道をあけた。
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紅雷が既婚者と聞かされて 「ちぇっ」! ってなったシマちゃん、お気に入りです(笑)
紙魚
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