02 ,2016
広くて長い 8
<8>
肌触りのよいリネンに伏せた頬を撫でられ、薄目を開けた。
和紙越しの柔らかな朝陽が、丹精に造りこまれた旅館の和室に満ちている。錆赤の効いた上品な聚楽壁、畳の先の広縁は障子の桟が映りこむほどに磨き込まれ、障子には部屋付きの露天風呂の水面に反射した光の模様がゆらりと揺れる。
「起こしてしもたな。よう眠とったから、大丈夫や思たんやけど」
口調は詫びているが、声には目覚めを愉しんでいる響きがある。すっかり身支度を終えている能勢に髪を梳かれて、目を細めた。
「すみません、寝坊してしまったみたいで」
前日の正午、約束の場所で落ち合った時の能勢は綴織の粋な着物を着ていた。今朝はシンプルな白シャツに黒の革ズボンを合わせている。
京都の老舗の若旦那というよりは、若き起業家といった風貌だ。
いつもはきっちり整えられている髪も今朝はラフに下ろし、育ちの良さが窺える品のある顔に伝統の京織物を世界展開しようと奮闘する野心家の貌が垣間見える。
前日、早めに仕事を切り上げた能勢は、いつものレジデンスではなく神奈川の温泉旅館に裕紀を連れてチェックインした。
能勢が起きているのに自分だけ寝ている訳にはいかない。背中を起こそうとすると、能勢に布団に押し返された。
「かまへん。今日は急ぎの用も入れてへんし、司は好きなだけ眠たらええ」
能勢の手が頬に戻ってくる。唇を弄び、顎から顔の輪郭を滑りおりて、肩先でくるりと円を描いて背中に流れる。
「この半年は、ほんま怒涛の忙しさやった」
ぽつりと能勢が独りごちる。朝の静寂の中、障子で水面がまた揺れた。
「アメリカ、アジアと回っていらしたんですよね」
そういえば、能勢に指名されるのは、河内に襲われたあの初夏の夜以来だ。確かにこれだけ期間が空いたのは、初めてかも知れない。
「どうやら…ぎょうさん間を空け過ぎてしもたんかもしれんな」
舌打ちでも聞こえてきそうな能勢の苦い呟きに、自分に何か落ち度があったのかと慌てて考えた。
能勢の指が素肌を晒す背中に伸びやかな線を引く。花に鳥。その線は川になって水が流れ、風になって背中を吹き抜けてゆく。
裕紀の肢体は創作意欲を掻き立てる。初めて相手をした時、能勢はそう言った。
それから織物作家でもある能勢の構図はこうして時々、裕紀の肌の上で生まれ、次のシーズンの新作となって実を結ぶ。
「いつもと違いましたか?」 いくら考えても思い至らず、とうとう口に出して尋ねた。
「なにも怒っとん違うで。司はゲイやないし、この仕事は金のためと割りきっているものとばかり思とったから、なんや意外やったというか…」
歯切れの悪さが、どうにも能勢らしくない。布団に臥せた肩越しに能勢を見上げると、こういう言い方したら身も蓋も無いかもしれんが、と前置きして
「昨夜の司のサービスには愛情があった」 と能勢は言った。
金を取っている以上は、プロ意識を持たなくてはいけないと肝に銘じているつもりだった。自分でも意識していなかった同性愛者に対する差別的な心根が、知らないうち態度に出ていたのかもしれない。そう思うと、胸の中が申し訳なさで一杯になる。
「勘違いしたらあかんで」 強い口調が思考を断った。
「なにも割り切ってんのが、悪いと言うてるわけやあらへん。司がノンケで本番も出来へんのに人気あるんは、いやらしい媚びたりせんと、自分を買うた客に満足してもらいたいて努力も精一杯してくれるからや。ノンケに惚れて諦めた経験を持った男にとって、司は憧れを慰めてくれる存在や。それが…」
言葉を切った能勢が複雑な表情をする。憧れを慰める、抽象的な表現だが、言われた自分のほうが慰められた気がした。
「能勢様、それが…なんですか?」
「オークションはどういう心境の変化か…て、思てな」
どこか夢心地で過ぎていた時間が、何を置いても金を稼がなければいけないという現実に速やかに戻っていった。
オークションの終了は土曜日。つまり昨日だ。
「もしかして、能勢さんもオークションに参加してくださったんですか?」
落札者はもう決まっているはずだが、デート中の裕紀には佐野からの連絡はない。36時間のコースで裕紀を抑えている能勢とのデートは今日の深夜0時までだ。
最速であれば、明日の夜には落札した相手と会うことになる。
起き上がって浴衣に手を伸ばすと、能勢が取って手渡してくれた。朝食までは、まだ時間がある。能勢が許してくれるならもう一度、温泉に浸かっておきたい。
肩に浴衣を羽織り、立ち上がろうとしたところを能勢に引っ張られ、胡座の上に崩れ落ちた。
「勝てると確信できるだけの額を入れたつもりや。司を落札せんかったら後々、後悔してもしきれんからな」
「リップサービスでも光栄です」
そう笑った裕紀の頤を能勢が掬った。
「口先のサービスに価値はないで、司も俺に口先の言葉は言わんでええ。よう覚えとき」
心得ておきますと頷き、能勢の接吻けに応える。
「こんなサービス精神旺盛になってしもたら、もうこれまでみたいにほっとけんな」
「これまで以上に、どうぞご贔屓に。オークションも、俺は能勢さんに落札してもらいたいと本気で思ってるんです」
落札されるなら能勢がいい。能勢なら無体な要求はせず、大事に扱ってくれると確信できる。
愛情とは別物だが、デートの時間をベッド以外の仕事のアシスタント的に裕紀を使う能勢とは、”客と男娼”よりもう少しまともな関係が築けているという気がしている。
「煽らんほうがええで。ほんな可愛いことをいわれたら、いますぐ奪いたなる」
「え?」
問返す間もなく、天井が回った。
言葉に嘘はなかったが、喉を鳴らして笑う能勢に上から四肢を伸され、本気で焦った。
「いつも澄ましてる司がそんな顔するの、初めてやな」
にやりと破顔した能勢に揶揄われたこと悟り、慌てて平常心を取り繕う。
「残念やけど、店からフライングはご法度やて散々、釘刺されてる」
店に守られていると知って、心底ホッとした。
「オークションは昨日までです。能勢様の落札が決定したら、ご連絡が入ると思いますので、それまでは…」
能勢が不意に真顔になる。
「もしかして、司は知らんのか?」
参道を埋める茶色や黄色は、紅葉狩りを兼ねて訪れた参拝客の足の下で、カサカサと乾いた音を立てる。紅葉の名所として名高い古寺は、燃えるような赤や黄色に色付いた錦の森に飲み込まれていた。
奉納する帯を携え、本殿に入った能勢が出て来る気配はまだない。参拝客も来ない本殿裏で裕紀は佐野との通話を切った。
オークションは木曜の夜、アルデバランのHPから忽然と消えたのだと能勢は言った。
佐野に確かめると、サーバーに問題があってオークションのコーナーだけ復旧が遅れているのだと教えられた。
どこかで助かったと思う気持ちは否めない。
能勢ならと思っていたのに、いざとなると心が烈しく拒絶をした。こんなことで、本番を迎える事ができるのだろうか。
降り積もった黄色い葉っぱを秋の日差しが黄金色に変えている。
石段に座り、黄色い銀杏の葉が空からはらはらと落ちてくるのを、なんとはなしに眺めた。
この週末、紅葉狩りをしたいと言ってきかなかった男も、紅や黄に色づいた葉をどこかで目にしているだろうか。
「こんなとこにおったんか。待たせて、わるかったな」
「いえ、思わぬところで紅葉が楽しめてラッキーでした」
黄金の絨毯の上に立った能勢が、晩秋の澄み切った空に黄片を散らす銀杏の大木を見上げる。
「今年は色付きが、また」 ……と途中で言葉を切った能勢が、暫しの間を置いて徐ろに振り返った。
そして能勢が言ったのは紅葉とは、全く関係のない内容の話だった。
帰りは能勢の運転で東京に戻った。
駅のロータリーで車を降りる際、能勢から小さな紙袋を渡された。
「条件に不服があるなら言うてくれ。要望に応えられるよう、出来る限り用意させる」
能勢は、裕紀が大学生ではないことをとっくに見抜いていた。借金があることにも薄々感づいていて、京都に来るなら代わりに返済してやると言われた。
「耳障りのええ返事だけを待ってる」
走り去る能勢のマセラティを見送り、駅に向かって歩き出す。
東京での仕事を全部辞めて、京都に来へんか。
能勢には、今も本名や本当の年齢、住所も教えていない。そんな素性の知れない裕紀を、能勢は自分のスケジュールの管理や、身の周りの世話をする秘書として京都に連れて帰りたいという。
アシスタントの真似事をさせたのは、能勢なりの採用試験で、その上での結論だと能勢は言った。
もちろん、京都に行けば社長と秘書という関係だけで済むはずがない。能勢はその関係にも、別途で手当てを出すと言う。
改札に入りかけて、振り返る。
夜更のコンコースは人影もまばらで、めっきり冷たくなった空気の中を電車から降りてきた人が急ぎ足で横切ってゆく。その向こうに見慣れた居酒屋の提灯の灯りを見つけ、胸がぎゅっと締め付けられた。
能勢にどこで降ろして欲しいかと聞かれて、咄嗟にこの駅の名前が出た。
紅雷が住む街。この街のどこかに紅雷がいる。出張は明日からだと言っていたから、きっと今夜は家にいるはずだ。
ポケットからスマホを取り出し、ロックを解除する。通話履歴の紅雷の名前に指を滑らせて、押さえる前に思い留まった。
呼び出して、紅雷に何を言わせようというのか。
スマホをしまった手でICカードを取り出す。
そして人の流れに逆らうように、裕紀は改札に身を滑り込ませた。
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紙魚
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拙文しか書けない私ですが、創作の励みになっております!
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