08 ,2012
筐ヶ淵に佇む鬼は 14
わたしは、愕然と目の前の男を凝視めた。男も静かな眼で、わたしをまっすぐに見返す。
神社の本殿も森も、澤村までもが急激にリアリテイを失い始め、皮膚に触れる空気は密度を上げてわたしを包み、動けなくする。
「あ…きとし、さん?」
男は物憂げに首を傾けた。
些細な動きにさえ優美さを損なわない。仕草ひとつ、流される視線が起こす波動さえ、深淵に眠るはずの彼岸の男を彷彿とさせる。
わたしを凝視める楚々とした瞳に閃く人らしからぬ妖しい光に、心臓が怯え大きく脈打った。
無いはずの左腕が、わたしに翳された。細長い指に似合う華奢な印象の手首から、腕時計が外され、手首の内側に斜めの線が3本。筐ヶ明神の徴が露わになる。
故意か偶然か、腕の角度の加減で徴が縦に3本並ぶ。
「筐ヶ明神の徴は、編んだ竹をかたどったものやない。これ自体が封印の呪なんや」
筐ヶ明神の徴である3本の線はいたるところにある。本殿はもちろん、鳥居や灯籠にも。全ては”何か”を封じるための呪い(まじない)だったというのか。
何か……何を、昔の人々は封じ込めようとしたのだろうか。
封印の徴を手首にもつ男。
同じ呪で封じられた男が他にもいなかったか……。記憶に漂う靄が朧な像を結んでゆく。
荒削りされた粗末な面の中心を怒りを叩きつけたような朱が縦に走る。
頭の中に奇妙な面を被った男が蘇った瞬間、全身が怖気立って冷たい汗が吹き出した。
「う、嘘だ。章俊さんは片腕は失っているし。それに、生きていればわたしよりも年上のはずだ。君はどう見ても、わたしの半分くらいの年齢にしか見えないじゃないか」
章俊に似た男は 「ああ」 と自分の腕を一瞥して笑う。
「自分のは切り落としてしもうたから。この腕は借り物」
「切り落とした? 誰が一体、そんな事を……」
あまりにもあっさりと言ってのけられ、素直に狼狽するわたしに、黒子の口許がおかしそうに綻ぶ。
薄く開いた唇の色香に、またひとつ心臓が脈を打った。
「有一」
有一、特別な名前を箱から取り出すように口にする。
愛する幼馴染に、自分の腕を切り落とさせる。しかもその時、有一は既に死んでいたのだ。
想像を絶する所業は、特別な絆と信頼の証だというのか。
「そう、有一や」
澤村、いや章俊は、自分の腕を切り落としたことが、あたかも有一との契の証だったと言わんばかりに、恍惚に表情を酔わせた。刹那、わたしの中で畏怖と隣合わせで眠っていた高熱を孕む感情が、すごい勢いで起き上がった。
「痛いわ。けん坊、放して」
わたしは章俊の両手首を掴んで持ち上げていた。息のかかる距離に章俊の顔がある。
浅く折りたたまれる目蓋、特に長い訳ではないのに瞳に柔らかな翳りを落とす睫毛、端正な顔に艶を注す黒子は困ったように戸惑いを見せる。黒目がちな瞳の中を覗きこむと、視線を逸らされた。
「けん坊」
もう一度、章俊が懐かしい呼び名でわたしを呼ぶ。
わたしの眼の中に渦巻いているであろう欲望を抑制するためなのだろうが、覚醒した想いは自分でも抑えられないほどに膨れ上がっていた。手首を更に高く持ち上げると、章俊は観念したかのように項垂れた。
かつて憧憬の対象として見上げた美しい人は、わたしより頭半個分低い位置から縋るような眼でわたしを見上げ、緩慢な瞬きをすると 「頼まれてほしいねん」 と、ひっそりと乞うた。
予感はあった。
何の目的もなく、それも30年もの時を経たのちに、章俊がわたしの前に現れるはずがない。
「頼めんのは、けん坊しかおらへん」
わたしに判断を任せながらも黒い虹彩を過った躊躇いが、封印の蓋を叩き割る。30年前、曖昧なまま抹殺した想いが、烈火の勢いで章俊に向かうのを感じた。
両手に掴まれた腕が抗いを見せないのをいいことに、わたしは導かれるように章俊と唇を重ねた。
子供の頃、その陰鬱さに気味悪さを感じた森の静寂が、木樹に囲まれた空から降り注いでくる。
草の上に無造作に放り出された上着を手繰り寄せ、片手で煙草を取り出して咥えた。マッチを擦ろうとして止め、煙草の代わりにシャツが肌蹴た胸の上に置かれた章俊の指を唇に挟んだ。
指を吸い、手首の徴に歯を立てる。
眠っていると思っていた章俊の頭が肩の上でぴくりと揺れた。
「こんな神聖な場所でこんなことして、罰が当たるかな」
温かい吐息がわたしの肩で砕けた。夢ならこのまま覚めないでほしいと切実に願う。
「構へん。どうせもう、そんな力はあらへん」
虚ろに呟いた後、事実から逃れるようにわたしの肩に乗せた頭をずらし目蓋を閉じた。
密生する草の上に押し倒し、欲望のままに責め続け、淫らな声を上げさせた。
「けん坊、俺と筐ヶ明神の伝承を話したの覚えてる?」
わたしは黒い樹々に囲まれた空を見上げながら頷いた。草の褥に横たわる章俊とわたしの躯の下で、薄く乾いた葉がふたりの重みで時々壊れる微かな音が鳴った。
「よく覚えてる。あの夜は便所に行くのも恐くて、我慢してたら寝小便したんだ。未だに小百合ネエに会うと、あの時のこと持ちだされて揶揄われてるよ」
堪忍やでと、章俊が笑った。
腕の中に章俊がいる。
あの頃、自分を見失い苦しむ章俊を抱きしめられる大きな腕を持たない自分が悔しくて悲しかった。
「俺が初めて本殿まで上がって来たんは、けん坊に伝承の話をした、あの帰りやった」
やはり。あの日抱いた怖ろしい直感が現実になっていた事を知り気持が重く沈んだ。
あの日、章俊は筐ヶ淵を気味悪がるわたしを平井口まで送ってくれた。筐ヶ淵で立ち止まり能舞台を凝視る章俊の姿は、切な色に染まり心の底に焼き付いている。
平井口で別れて引き返した章俊がどこに向かったのか。子供のわたしは、たぶん知っていたのだ。
封印が解けたように蘇った記憶。昔のままの姿で現れた章俊。
章俊はわたしに何をさせようというのだろうか。
ずっとこのままでいることはできない。わかっていても、この時間を手放すのは嫌だ。
「鳥居には通れないように七五三縄が張ってあっただろう、どうやって?」
会話で、余韻が覚めていくのが嫌で、手首と同じく肉付きの薄い肩を強く抱き直した。
「けん坊、鳥居を通りたいんは、願掛けや詣でたいもんだけやで。ただ登るだけやったら、なんも鳥居なんか潜らんかて、脇通ればええやん」
「あ、そうか」 鳥居の脇を通る。鳥居は潜るものと、30年抱えた先入観がべろんとめくれる。
章俊が笑うと、一緒に揺れる髪がわたしの項や頬を擽る。愛しさが増して、額に接吻けを落とすと章俊は笑みを消した。
「そやけど、あいつは本殿の前に立って俺が来るのを待っとった」
あいつ? 思わずわたしは本殿に視線を走らせた。
木を裂いただけの奇妙な面をつけた男がすぐそこに立っている気がして、寒気がした。
「…カタミ。朱の面を被って鬼の仕事をする。本当の自分の名前も、はるか昔に忘れてしもた憐れな鬼」
祈願が成就したのに約束を守らなかった者から、大事なものを奪ってゆくという鬼。
神主が殺された時と有一が帰ったきた時、そして東郷の屋敷で、やはり章俊には見えていたのだ。
「カタミは迦陵頻を舞った俺を、迦陵頻迦が来るのをずっと待っとったて、俺にそう云うた」
章俊は上体を起こし、わたしに剥ぎ取られた自分の服を気怠そうに身につけ始めた。わたしも起きて草の上に座り、情交の名残が残る章俊の素肌が、衣服に隠されてゆくのを不本意な思いで眺めた。
「俺がもういちど舞を見せれば、自分も俺が望むものを見せてやる。カタミは怯える俺にそう云うた」
罪深い章俊の瞳が淡く翳る。
「誘惑に勝てんかった。俺は、有一に会いたかった」
シャツのボタンを掛ける手を止め、思いに耽ける章俊の肩をわたしは掴んだ。指が喰い込むくらい力を込めても表情ひとつ変えないその眼に、嫉妬心を剥きだしにしたわたしの顔を映す。
「希望通り、有一さんは章俊さんの元に還ってきた。それで、章俊さんは満足した?」
手の中で章俊の肩がぴくりと慄えた。
「章俊さんはカタミに舞いを見せただけではなく、自分の左腕を引換に願を掛けた。そうなんでしょう」
「けん坊……」
見開かれた眼に叱責の色を溜め、眉根を吊り上げる。
「章俊さん、わたしはもうあなたの知っている子供じゃない。あなたよりずっと大人だ」
真っ直ぐに見上げる瞳の中に、わたしと寝た事への後悔がはっきりと見て取れ、臓腑の奥で熱いものが弾けるのを感じた。
「け……!」
わたしはつい今しがた、誰の熱に官能を炙られたのかを思い出させるように、唇を重ねた。もがく肩をきつく抱きしめ深く貪れば、涙を零す章俊の躰から力が抜けていく。
「章俊さん、あなたは心中なんてしなかった」
「あかん、あかん。けん坊、堪忍して。言わんといて」
耳朶を愛撫しながらの囁きに、章俊はわたしに縋りながら嗚咽まじりに懇願する。章俊が狼狽えれば狼狽えるほど、わたしの心は冷徹になってゆく。
「本当は、有一さんは戦死してたんでしょう? 村に帰ってきたのは…」
「違うっ、違う!」
絶叫を迸らせながら、わたしを突き飛ばした章俊は全身を戦慄かせていた。涙が大きな粒になって章俊の頬を濡らす。
「あれは、有一やった。有一やったんや!」
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■最後までお読み頂き、ありがとうございます♪(*^▽^*)
みなさま、連日の猛暑日をいかがお過ごしでしょう。
更新が飛び飛びどころか、ブツリと途絶えてしまい、すみません。
なんとか続きを書きだしてみましたら、暑さでヤラれたのか、けん坊が大暴走してしまいました(笑)
みなさまも、どうぞ体調にお気をつけられてこの酷暑を乗り切って下さい。
■拍手ポチ、コメント、村ポチといつもありがとうございます。
たまに読み返しては自分に喝を入れる今日この頃。感謝です!
■ブログ拍手コメントのお返事は、*こちら*にさせていただいております♪
みなさま、連日の猛暑日をいかがお過ごしでしょう。
更新が飛び飛びどころか、ブツリと途絶えてしまい、すみません。
なんとか続きを書きだしてみましたら、暑さでヤラれたのか、けん坊が大暴走してしまいました(笑)
みなさまも、どうぞ体調にお気をつけられてこの酷暑を乗り切って下さい。
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お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
色っぽいを、ありがとうございます(*^▽^*)
時間をおいて書き始めましたら、必要以上にエロに傾倒してしまい
手書きで下書きしたのと全然違う展開に…下書き、要らなかったです(≡∀≡;)
> ここのところは、流れから声が聴こえて来て鳥肌がたちました。
・ありがとうございます。気に入って頂ける箇所があって、私もうれしいです。
鍵コメントさまに納得して頂けるラストに仕上げられるか……後少しですが
オリンピックを横目で眺めつつ、気合を入れていきたいと思います。
コメント&ご訪問、ありがとうございました。