07 ,2012
筐ヶ淵に佇む鬼は 10
それはごく自然で、なんの変哲もないあっけらかんとした光景に見えた。
筐ヶ淵に集まった村人の目は有一に集中している。章俊やわたしのように、七五三縄の解けた、朱色の鳥居の奥を振り返って見る者などひとりもいない。
視線の流れに逆らったわたしの血潮だけが、冷たく内側から凍り付いていくようだった。
朱色の鳥居の背後、深緑の薄闇の中、神社の名前が書かれた額束から生えたようにそれは見えた。
神主が倒れていた場所だ。
薄く緑に染まる裸足の足に白い装束。足首より上は、張り出した木々に隠れている。
見えているのは階段に立つ足だけだった。
階段の途中に立つ足は、形だけで男の足だと分かる。
生い茂る木々に隠れた男の頭に何があるのか。察知したわたしの心は怯え、皮膚は全身の産毛を逆立てていた。
「ひぃっ! さ……っ、触るなっ」
絶叫に近い引き攣れた叫び声が、硬直したわたしの耳を貫いた。
呪縛が解け、声の方を見ると章俊の前に駆けつけた有一が腕を伸ばして章俊に触れようとしていた。
「アキ?」
更に伸ばした有一の指先から章俊が遠ざかる。有一は困惑に眉を顰めた。
「アキ、どないしたんや? 俺や、有一やで。分からんのか」
有一が詰め寄れば、章俊逃げる。
そこにいた誰もが、章俊が無事生還した親友を労い喜ぶものだと信じていた。
村人の見守る中、恥をかかされる形になった有一は、追い詰めるのをやめ傷ついた表情で立ち尽くした。
「アキ……」
廃人のように生命力を失い、やせ細った章俊の顔を、慈しむように有一が凝視る。
「アキ、なんでこんな痩せてるんや? 病気でもしとったんか?」
わたしは、東郷に西瓜を運ぶと言った時の有一顔を思い出した。優しく、愛おしいものを凝視る時のあの表情だ。四郎にすら、そんな表情をしているのを見たことがない。
「は……ハハ、アハハ」
章俊は後ずさりながら、引き攣ったように笑い出した。痙攣したように震える章俊の身体が、足を取られぐらりと傾く。咄嗟に腕を伸ばし、章俊を受け止めた有一を章俊は突き飛ばした。
だが蹌踉めいたのは章俊の方で、有一は微動だにしなかった。
「触るなゆうたでっ。それと、俺にはもう話しかけんといてや」
そう怒鳴るなり、章俊は身を翻し走り去ってしまった。
命からがら生還し、親友に置き去りにされた有一を、みな気の毒がった。
「気にすんなや。ここのとこ、本郷の坊ちゃんすっとあんな感じなんや」
「どういうことなんですか?」
振り返った鳥居の奥にはもう誰もいなかった。
鳥居の七五三縄はやはり神力を借りなければ駄目だということになり、夏で祝詞を上げてくれる隣村の神主に頼んで掛けてもらうことになった。
もともと、寄ればどんちゃん騒ぐのが大好きなお土地柄だ。
筐ヶ淵での気不味い一件は流され、その夜は村中の人間が有一の家に押しかけた。
祝いムードが昂まり、多賀家の狭い客間は有一を囲んで宴会状態になる。敵国の捕虜になり、輸送中に脱走した苦労話に、戦地から戻った男たちは時折目頭を赤くしながら無言で頷いた。。
わたしは、有一達の母親がこしらえたちらし寿司を馳走になり、四郎と少し喋った後多賀の家を出た。
有一の家からわたしの家までは、街路灯のある一本道でそう遠くない。
「けん坊!待ってくれんか」
呼び止めたのは有一だった。
振り向いたわたしの前で有一が止まる。白熱灯の光の下に立つ有一に、わたしは口では言い表せない違和感を感じた。
「アキの事や。なんであない嫌われたんか、俺にはさっぱり見当がつかん。それにアイツはいつ頃からあんな痩せだしたんや。村のもんに聞いても、みんな口を濁して詳しく教えてくれよらん。けん坊、アキからなんか聞いてないか?」
わたしに解る訳がなかった。
本郷の広間で話を盗み聞きした日、わたしを送ってくれた章俊は、ぼんやりすることはあっても、まだいつもの章俊だった。その後、神主が死んだ日に会うまで、一度も会ってなかったことに気がつく。
「アキが大学出たら東京の親戚の家に世話になるって聞いたんやけど、それはほんまなんか?」
あの朔之介との接吻を見た時には、章俊はもう前の章俊とは違っていた気がする。
「くちづけ」
自分で口走っておきながら、わたしは自分がなぜそんなことを言ったのかわからなかった。
「え? けん坊、今なんてゆうたんや」
「章俊さん、車の中で男の人と接吻けしてた」
いきなり乱暴に両肩を掴まれた。骨が砕けそうな手の力に、わたしは短い悲鳴を上げた。家の中では有一不在の宴会が続いている。誰もわたしの悲鳴には気が付かない。
陽に焼け締まった男らしい顔に、街灯の黄色味の強い明かりが落ちる。死の淵を彷徨い生還した者の恬淡だろうか。落ちた眼孔の影の中からわたしを睨みつける有一の黒い瞳は、果てを感じないほどに澄み切っていた。
有一もまた章俊と同じく、有一であって何か別の何かに変わってしまったかのようだった。
冷酷にも残酷にもなれる。その眼がそう告げていた
「つまらん冗談やったら、俺はけん坊でも容赦せんぞ」
両肩を締めあげられて呻き声が漏れた。
「嘘じゃない。本当に見たんだ」
章俊の目が柔らかい筆でひと刷きした優しい弧線ならば、有一の目は竹の撓りを思わせる鋭敏さがあった。その有一の眼が硬いものを抱えて眇められる。
なぜそんなことをわたしは。いや、わたしにはわかっていた。子供ならではの、浅はかな算段がその時確かにわたしの中にあったのだ。
奉納舞の演目に迦陵頻は入っていなかった。
戦争で童舞の指導どころではなかったのと、ちょうどその年代の男たちが召集され、上手く舞手が育たなかったのだ。
章俊以外の少年が舞う迦陵頻には興味はなかったし、舞いを見るより四郎や近所の友達と夜店で遊ぶほうが数段面白かった。
筐ヶ淵の一件以来、四郎は章俊に悪意を見せるようになった。みなの前で兄の有一に恥をかかせた章俊が、四郎は許せなかった。わたしが、章俊の話をしようものなら目を吊り上げ、「あんな情の薄い奴のことなんか、口にするな」 と、怒りだした。四郎だけではない、あの一件で村中の人間が章俊に幻滅したようだった。
どこから集まってきたのか、参拝路にびっしり並んだ夜店を片っ端から冷やかして歩く。
カーバイトの眩しい光に、ひととき辛い時間を忘れて子供も大人も無邪気に顔を輝かせ、目を細める。気がつくとわたしは四郎達から逸れ、夜店が立ち並ぶ参道にひとり立っていた。
竹細工屋の前で子供が鳥の形をした竹の笛を鳴らす。
ピーーと、長く引いた高い音が暗い空で途切れたのを合図にしたように、わたしは東郷の屋敷に向かって走り出していた。
◀◀◀ 前話 次話 ▷▷▷
筐ヶ淵に集まった村人の目は有一に集中している。章俊やわたしのように、七五三縄の解けた、朱色の鳥居の奥を振り返って見る者などひとりもいない。
視線の流れに逆らったわたしの血潮だけが、冷たく内側から凍り付いていくようだった。
朱色の鳥居の背後、深緑の薄闇の中、神社の名前が書かれた額束から生えたようにそれは見えた。
神主が倒れていた場所だ。
薄く緑に染まる裸足の足に白い装束。足首より上は、張り出した木々に隠れている。
見えているのは階段に立つ足だけだった。
階段の途中に立つ足は、形だけで男の足だと分かる。
生い茂る木々に隠れた男の頭に何があるのか。察知したわたしの心は怯え、皮膚は全身の産毛を逆立てていた。
「ひぃっ! さ……っ、触るなっ」
絶叫に近い引き攣れた叫び声が、硬直したわたしの耳を貫いた。
呪縛が解け、声の方を見ると章俊の前に駆けつけた有一が腕を伸ばして章俊に触れようとしていた。
「アキ?」
更に伸ばした有一の指先から章俊が遠ざかる。有一は困惑に眉を顰めた。
「アキ、どないしたんや? 俺や、有一やで。分からんのか」
有一が詰め寄れば、章俊逃げる。
そこにいた誰もが、章俊が無事生還した親友を労い喜ぶものだと信じていた。
村人の見守る中、恥をかかされる形になった有一は、追い詰めるのをやめ傷ついた表情で立ち尽くした。
「アキ……」
廃人のように生命力を失い、やせ細った章俊の顔を、慈しむように有一が凝視る。
「アキ、なんでこんな痩せてるんや? 病気でもしとったんか?」
わたしは、東郷に西瓜を運ぶと言った時の有一顔を思い出した。優しく、愛おしいものを凝視る時のあの表情だ。四郎にすら、そんな表情をしているのを見たことがない。
「は……ハハ、アハハ」
章俊は後ずさりながら、引き攣ったように笑い出した。痙攣したように震える章俊の身体が、足を取られぐらりと傾く。咄嗟に腕を伸ばし、章俊を受け止めた有一を章俊は突き飛ばした。
だが蹌踉めいたのは章俊の方で、有一は微動だにしなかった。
「触るなゆうたでっ。それと、俺にはもう話しかけんといてや」
そう怒鳴るなり、章俊は身を翻し走り去ってしまった。
命からがら生還し、親友に置き去りにされた有一を、みな気の毒がった。
「気にすんなや。ここのとこ、本郷の坊ちゃんすっとあんな感じなんや」
「どういうことなんですか?」
振り返った鳥居の奥にはもう誰もいなかった。
鳥居の七五三縄はやはり神力を借りなければ駄目だということになり、夏で祝詞を上げてくれる隣村の神主に頼んで掛けてもらうことになった。
もともと、寄ればどんちゃん騒ぐのが大好きなお土地柄だ。
筐ヶ淵での気不味い一件は流され、その夜は村中の人間が有一の家に押しかけた。
祝いムードが昂まり、多賀家の狭い客間は有一を囲んで宴会状態になる。敵国の捕虜になり、輸送中に脱走した苦労話に、戦地から戻った男たちは時折目頭を赤くしながら無言で頷いた。。
わたしは、有一達の母親がこしらえたちらし寿司を馳走になり、四郎と少し喋った後多賀の家を出た。
有一の家からわたしの家までは、街路灯のある一本道でそう遠くない。
「けん坊!待ってくれんか」
呼び止めたのは有一だった。
振り向いたわたしの前で有一が止まる。白熱灯の光の下に立つ有一に、わたしは口では言い表せない違和感を感じた。
「アキの事や。なんであない嫌われたんか、俺にはさっぱり見当がつかん。それにアイツはいつ頃からあんな痩せだしたんや。村のもんに聞いても、みんな口を濁して詳しく教えてくれよらん。けん坊、アキからなんか聞いてないか?」
わたしに解る訳がなかった。
本郷の広間で話を盗み聞きした日、わたしを送ってくれた章俊は、ぼんやりすることはあっても、まだいつもの章俊だった。その後、神主が死んだ日に会うまで、一度も会ってなかったことに気がつく。
「アキが大学出たら東京の親戚の家に世話になるって聞いたんやけど、それはほんまなんか?」
あの朔之介との接吻を見た時には、章俊はもう前の章俊とは違っていた気がする。
「くちづけ」
自分で口走っておきながら、わたしは自分がなぜそんなことを言ったのかわからなかった。
「え? けん坊、今なんてゆうたんや」
「章俊さん、車の中で男の人と接吻けしてた」
いきなり乱暴に両肩を掴まれた。骨が砕けそうな手の力に、わたしは短い悲鳴を上げた。家の中では有一不在の宴会が続いている。誰もわたしの悲鳴には気が付かない。
陽に焼け締まった男らしい顔に、街灯の黄色味の強い明かりが落ちる。死の淵を彷徨い生還した者の恬淡だろうか。落ちた眼孔の影の中からわたしを睨みつける有一の黒い瞳は、果てを感じないほどに澄み切っていた。
有一もまた章俊と同じく、有一であって何か別の何かに変わってしまったかのようだった。
冷酷にも残酷にもなれる。その眼がそう告げていた
「つまらん冗談やったら、俺はけん坊でも容赦せんぞ」
両肩を締めあげられて呻き声が漏れた。
「嘘じゃない。本当に見たんだ」
章俊の目が柔らかい筆でひと刷きした優しい弧線ならば、有一の目は竹の撓りを思わせる鋭敏さがあった。その有一の眼が硬いものを抱えて眇められる。
なぜそんなことをわたしは。いや、わたしにはわかっていた。子供ならではの、浅はかな算段がその時確かにわたしの中にあったのだ。
奉納舞の演目に迦陵頻は入っていなかった。
戦争で童舞の指導どころではなかったのと、ちょうどその年代の男たちが召集され、上手く舞手が育たなかったのだ。
章俊以外の少年が舞う迦陵頻には興味はなかったし、舞いを見るより四郎や近所の友達と夜店で遊ぶほうが数段面白かった。
筐ヶ淵の一件以来、四郎は章俊に悪意を見せるようになった。みなの前で兄の有一に恥をかかせた章俊が、四郎は許せなかった。わたしが、章俊の話をしようものなら目を吊り上げ、「あんな情の薄い奴のことなんか、口にするな」 と、怒りだした。四郎だけではない、あの一件で村中の人間が章俊に幻滅したようだった。
どこから集まってきたのか、参拝路にびっしり並んだ夜店を片っ端から冷やかして歩く。
カーバイトの眩しい光に、ひととき辛い時間を忘れて子供も大人も無邪気に顔を輝かせ、目を細める。気がつくとわたしは四郎達から逸れ、夜店が立ち並ぶ参道にひとり立っていた。
竹細工屋の前で子供が鳥の形をした竹の笛を鳴らす。
ピーーと、長く引いた高い音が暗い空で途切れたのを合図にしたように、わたしは東郷の屋敷に向かって走り出していた。
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■最後までお読み頂き、ありがとうございます♪(*^▽^*)
怖さが足りないですねえ。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当にいつもありがとうございます。
拙文しか書けない私、書いていく励みになります。
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が、まだまだ濃い霧の中ですね。
でも、なんとなく、少しずつ歯車が合って、空恐ろしい形が見えてきたような気がします。
(いやでも全く違うのかも…)
有一の辛さと、章俊の恐怖と、健吉の不安と。
それらがどこに繋がるのが、ワクワクします。
(いや、本当は怖いです><)
でも、ちゃんと見届けなければ・・・。
次を待っています!