11 ,2011
Love or world 12
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疾うに感覚というものを忘れた真珠の肌に、艶かしいさざ波が立つ。
薄く開けられた瞳はスターサファイアの輝きをもって潤み、薔薇色に艶めく唇には悪魔でさえ虜にしてしまいそうな微笑が浮かぶ。
―――桐羽、君を感じる。
指の間でさらりと流れる濡れ羽の黒い髪、欲情に綻びる唇、少し低めの体温は中の熱さを包み隠している。
ガラスの褥に散らばる金の髪に残るのは、君がくれた花の匂いだ。
君は僕と同じ香がするこの花が好きだと言っていた。
全部、君にあげる。花も世界も。
だから君を、僕に―――
----------------
初夏の眩しい日差しが薔薇の庭に降り注いでいた。
庭に面した長い回廊を涼やかな風が渡り、壁に凭れて庭を眺めるノアの前髪や薄く汗ばんだ項を撫でて吹き抜ける。
夜とは表情を違えて見せる庭園には、薔薇をメインに様々な中高木が趣きよく配置されている。整列する円錐形の糸杉やエレガントなアーチ、オリーブの葉の向こうには温室のガラスが陽光を反射しきらきらと煌いていた。
その優雅な庭園の外側を、無粋な黒色の壁がぐるりと囲む。
最上階の屋敷にも、階下の施設にも外側に面した壁には窓がひとつもない。
巨大な檻。須弥山と呼ばれる製薬会社の第4研究所は、その持ち主を閉じ込める檻の役割も果たしている。
どうすれば、囚人(めしうど)は解放されるのか。
ルドガーは祖父と暮らした研究所の位置はわからないと言った。
コールドスリープは、医療目的で実用化されてからまだ歴史が浅い。身体や言語への後遺症のリスクも高く、費用もかかることから未だに敬遠される傾向にある。
ルドガーの性格に変化をもたらしたのも、コールドスリープの影響だと思えば納得できないことはない。
過ぎるほどに繊細で、薄い刃物のような鋭利な感性を持った昔のままのルドガーであったなら、兄と慕うことは出来ても、深く情を交す関係にはならなかったとノアは思う。
庭に注ぐ夏の陽光のように朗らかで、真っ直ぐで、懐が深い。
そんな男が誠実な眼差しの奥に隠す秘密。気にならないわけがない。
階段を3つも降りれば、足は石レンガのプロムナードを踏む。柔らかい芝生を横切り、オリーブの木陰に入った。野薔薇の爽やかな香りと、木漏れ日と風の音がノアに降り注ぐ。
芝生の上に身を横たえ、ゆったりと肢体を伸ばしノアは目を閉じた。
草原にコールドスリープのカプセルを設置して眠りについたことを、ルドガーは全く覚えていなかった。場所を決めたのはルドガーなのだと教えても、申し訳なさそうに首を振るだけだった。
ノアもまた、エアフライ墜落のショックで記憶を失くし、未だに時系列やシーンが錯誤して完全には戻っていない。
だが、この記憶だけはずっと心の奥に残り、ノアの孤独を支えてきた。
ルドガーの好きな薔薇の花を摘み、泣きながらカプセルの冷たいガラスの上に敷き詰めた。いつまでも繋いだ手を離せず泣き続けるノアを、16歳になっていたルドガー根気よく慰めてくれた。
共有したかった記憶は、ノアひとりだけのものになってしまった。
ルドガーは覚えていない事を謝り、覚えてもいない薔薇の礼を何度も言ってくれたが、気落ちする心は否めない。
強い一陣の風がオリーブの木を鳴らし、過去から戻った瞳が夢見るように開く。
ノアの養父だった真乃はロボット工学を研究する科学者であり、人体を知り尽くす優秀な医者でもあった。
緑豊かなオリーブの木を見上げながら、ホログラムで現れた真乃の優しい眼差を思い出す。
真乃は、いまも世界中を飛び回っている。人類が長い年月をかけて排出し続けた化学物質によって汚染されたフリーエリアに残る人々の診察と回診に、残りの人生を捧げたのだという。
連絡は取れないのかとルドガーに訊ねると、厭世的な性格ゆえに本人からの連絡を待つ以外はコンタクトを取るのは難しいと答えが返ってきた。
「会いたいのなら、何か手を考えるよ?」 そう言ってくれたルドガーにノアは首を振った。
ノアの顔に自嘲気味な笑いが浮かぶ。
これまでの習い性か。この期に及んでまだラボの位置を探ろうとしている自分に、誰に義理立てするのかと問いかけてみる。
すると、無機質な灰色の瞳を静かに向ける男が瞼の裏に出てきて、木陰を吹きぬけるそよ風にはそぐわない重い溜息が出た。
うっすらとかいた汗をバスルームで流し、マルメロのライティングテーブルに用意された銀の盆から、ティーポットとカップだけを取ってルドガーの部屋を出た。
「桐羽様」
振り返ったノアが持つポットとカップに気づいた銀髪の眉がピクリと上がる。
「あ、自分の部屋で飲もうと思って・・・」
直立不動で背中を伸ばし、何も訊かれていないのに言い訳めいた事を言ってしまう。
幼い日に刷り込まれたエリオットへの畏怖は、未だおおいに有効だ。
ルドガー付きのこの厳格な執事こそ、コールドスリープに入るべきだったのではないかとノアは思う。そうすればもっと楽しくて、優しくて、うんと素敵な好々爺になっていたに違いない。
「そういったことは、この私か召使にでもお申し付けくださればよろしいのでございます」
「いや、この程度の事でわざわざ誰かを呼ぶなんて」
エリオットは首を振り、これだから粗忽ものはと言わんばかりに鼻息をついた。
「では、せめてトレイをお持ちします」
たぶん、未来永劫、自分はエリオットの前で萎縮し続けるのだろう。
いや、人には寿命というものがある。順当に年功序列でいけば、自分より先にエリオットはいなくなる。ダークなことを考えながら、ふと妙な既視感に囚われた。
「どうぞ、こちらに」
銀の盆の上にはシュガーとミルクのポット他に、白い原種の薔薇で飾られた焼き菓子の皿が載っていた。
「申し訳ございません。ルドガー様がお話になられないことを、私から申し上げるわけにはいきません。それに先代よりの申し付けにより、研究施設に関することは一切口にすることを禁じられております」
ノアの予想通り、エリオットには箝口令が敷かれていた。だが、ラボに関する詮索はノアの中で打ち切りの方向に向いている。
「桐羽様、」
いきなり投げた質問を詫び、背を向けたノアを呼び止めた。
怪訝な顔で振り向いたノアに、磨きぬかれた床にシルエットを落としながら、両手を前で組んだエリオットが恭しく頭を下げる。
「この度は、おめでとうございます」
「何の・・・」
数秒固まって、かっと目許を染めて瞠目する。手が震えて、盆ごとティーセットを落としそうになった。
「ルドガーさまのお悦びは、私めの喜びでもございます。ですが、例え深夜であろうとお召し物をお付けにならずに邸内を闊歩されるのは、使用人の手前もありますゆえ。どうぞ今後はお慎み頂きますよう、このエリオットからもお願い申し上げます」
エリオットは一気に言い切って、何かを思い出したように2・3回瞬きし、再度頭を下げた。
「これは失礼いたしました、桐羽様はご自分でお歩きにはなっておられなかった。ルドガー様に・・」
エリオットにみなまで言わせまいと、半ば叫んでいた。
「き、気をつけますから」
「ご理解をくださり、ありがとうございます。ルドガー様にも、私からも苦言を申し上げさせていただくとして、それともうひとつ」
まだ何かあるのか! 警戒に顔を引き攣らせるノアに、エリオットがうっすらと皺の寄った口角を引き上げる。無意識に足が後ずさった。やはりこの老人は苦手すぎる。
「例の小瓶ですが、今週の出荷分を全て抑えてございます。ご遠慮なさらず、どうぞ存分にご使用くださいませ」
派手な音を立てティーセットは床に落下し、エリオットは抑え目な溜息をついた。
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疾うに感覚というものを忘れた真珠の肌に、艶かしいさざ波が立つ。
薄く開けられた瞳はスターサファイアの輝きをもって潤み、薔薇色に艶めく唇には悪魔でさえ虜にしてしまいそうな微笑が浮かぶ。
―――桐羽、君を感じる。
指の間でさらりと流れる濡れ羽の黒い髪、欲情に綻びる唇、少し低めの体温は中の熱さを包み隠している。
ガラスの褥に散らばる金の髪に残るのは、君がくれた花の匂いだ。
君は僕と同じ香がするこの花が好きだと言っていた。
全部、君にあげる。花も世界も。
だから君を、僕に―――
----------------
初夏の眩しい日差しが薔薇の庭に降り注いでいた。
庭に面した長い回廊を涼やかな風が渡り、壁に凭れて庭を眺めるノアの前髪や薄く汗ばんだ項を撫でて吹き抜ける。
夜とは表情を違えて見せる庭園には、薔薇をメインに様々な中高木が趣きよく配置されている。整列する円錐形の糸杉やエレガントなアーチ、オリーブの葉の向こうには温室のガラスが陽光を反射しきらきらと煌いていた。
その優雅な庭園の外側を、無粋な黒色の壁がぐるりと囲む。
最上階の屋敷にも、階下の施設にも外側に面した壁には窓がひとつもない。
巨大な檻。須弥山と呼ばれる製薬会社の第4研究所は、その持ち主を閉じ込める檻の役割も果たしている。
どうすれば、囚人(めしうど)は解放されるのか。
ルドガーは祖父と暮らした研究所の位置はわからないと言った。
コールドスリープは、医療目的で実用化されてからまだ歴史が浅い。身体や言語への後遺症のリスクも高く、費用もかかることから未だに敬遠される傾向にある。
ルドガーの性格に変化をもたらしたのも、コールドスリープの影響だと思えば納得できないことはない。
過ぎるほどに繊細で、薄い刃物のような鋭利な感性を持った昔のままのルドガーであったなら、兄と慕うことは出来ても、深く情を交す関係にはならなかったとノアは思う。
庭に注ぐ夏の陽光のように朗らかで、真っ直ぐで、懐が深い。
そんな男が誠実な眼差しの奥に隠す秘密。気にならないわけがない。
階段を3つも降りれば、足は石レンガのプロムナードを踏む。柔らかい芝生を横切り、オリーブの木陰に入った。野薔薇の爽やかな香りと、木漏れ日と風の音がノアに降り注ぐ。
芝生の上に身を横たえ、ゆったりと肢体を伸ばしノアは目を閉じた。
草原にコールドスリープのカプセルを設置して眠りについたことを、ルドガーは全く覚えていなかった。場所を決めたのはルドガーなのだと教えても、申し訳なさそうに首を振るだけだった。
ノアもまた、エアフライ墜落のショックで記憶を失くし、未だに時系列やシーンが錯誤して完全には戻っていない。
だが、この記憶だけはずっと心の奥に残り、ノアの孤独を支えてきた。
ルドガーの好きな薔薇の花を摘み、泣きながらカプセルの冷たいガラスの上に敷き詰めた。いつまでも繋いだ手を離せず泣き続けるノアを、16歳になっていたルドガー根気よく慰めてくれた。
共有したかった記憶は、ノアひとりだけのものになってしまった。
ルドガーは覚えていない事を謝り、覚えてもいない薔薇の礼を何度も言ってくれたが、気落ちする心は否めない。
強い一陣の風がオリーブの木を鳴らし、過去から戻った瞳が夢見るように開く。
ノアの養父だった真乃はロボット工学を研究する科学者であり、人体を知り尽くす優秀な医者でもあった。
緑豊かなオリーブの木を見上げながら、ホログラムで現れた真乃の優しい眼差を思い出す。
真乃は、いまも世界中を飛び回っている。人類が長い年月をかけて排出し続けた化学物質によって汚染されたフリーエリアに残る人々の診察と回診に、残りの人生を捧げたのだという。
連絡は取れないのかとルドガーに訊ねると、厭世的な性格ゆえに本人からの連絡を待つ以外はコンタクトを取るのは難しいと答えが返ってきた。
「会いたいのなら、何か手を考えるよ?」 そう言ってくれたルドガーにノアは首を振った。
ノアの顔に自嘲気味な笑いが浮かぶ。
これまでの習い性か。この期に及んでまだラボの位置を探ろうとしている自分に、誰に義理立てするのかと問いかけてみる。
すると、無機質な灰色の瞳を静かに向ける男が瞼の裏に出てきて、木陰を吹きぬけるそよ風にはそぐわない重い溜息が出た。
うっすらとかいた汗をバスルームで流し、マルメロのライティングテーブルに用意された銀の盆から、ティーポットとカップだけを取ってルドガーの部屋を出た。
「桐羽様」
振り返ったノアが持つポットとカップに気づいた銀髪の眉がピクリと上がる。
「あ、自分の部屋で飲もうと思って・・・」
直立不動で背中を伸ばし、何も訊かれていないのに言い訳めいた事を言ってしまう。
幼い日に刷り込まれたエリオットへの畏怖は、未だおおいに有効だ。
ルドガー付きのこの厳格な執事こそ、コールドスリープに入るべきだったのではないかとノアは思う。そうすればもっと楽しくて、優しくて、うんと素敵な好々爺になっていたに違いない。
「そういったことは、この私か召使にでもお申し付けくださればよろしいのでございます」
「いや、この程度の事でわざわざ誰かを呼ぶなんて」
エリオットは首を振り、これだから粗忽ものはと言わんばかりに鼻息をついた。
「では、せめてトレイをお持ちします」
たぶん、未来永劫、自分はエリオットの前で萎縮し続けるのだろう。
いや、人には寿命というものがある。順当に年功序列でいけば、自分より先にエリオットはいなくなる。ダークなことを考えながら、ふと妙な既視感に囚われた。
「どうぞ、こちらに」
銀の盆の上にはシュガーとミルクのポット他に、白い原種の薔薇で飾られた焼き菓子の皿が載っていた。
「申し訳ございません。ルドガー様がお話になられないことを、私から申し上げるわけにはいきません。それに先代よりの申し付けにより、研究施設に関することは一切口にすることを禁じられております」
ノアの予想通り、エリオットには箝口令が敷かれていた。だが、ラボに関する詮索はノアの中で打ち切りの方向に向いている。
「桐羽様、」
いきなり投げた質問を詫び、背を向けたノアを呼び止めた。
怪訝な顔で振り向いたノアに、磨きぬかれた床にシルエットを落としながら、両手を前で組んだエリオットが恭しく頭を下げる。
「この度は、おめでとうございます」
「何の・・・」
数秒固まって、かっと目許を染めて瞠目する。手が震えて、盆ごとティーセットを落としそうになった。
「ルドガーさまのお悦びは、私めの喜びでもございます。ですが、例え深夜であろうとお召し物をお付けにならずに邸内を闊歩されるのは、使用人の手前もありますゆえ。どうぞ今後はお慎み頂きますよう、このエリオットからもお願い申し上げます」
エリオットは一気に言い切って、何かを思い出したように2・3回瞬きし、再度頭を下げた。
「これは失礼いたしました、桐羽様はご自分でお歩きにはなっておられなかった。ルドガー様に・・」
エリオットにみなまで言わせまいと、半ば叫んでいた。
「き、気をつけますから」
「ご理解をくださり、ありがとうございます。ルドガー様にも、私からも苦言を申し上げさせていただくとして、それともうひとつ」
まだ何かあるのか! 警戒に顔を引き攣らせるノアに、エリオットがうっすらと皺の寄った口角を引き上げる。無意識に足が後ずさった。やはりこの老人は苦手すぎる。
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■最後までお読み頂き、ありがとうございます♪(*^▽^*)
寒いですね、お風邪など召されておられませんでしょうか?
外出が続きまして、次の更新が飛びそうです。ちょっとがんばってみます。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当にいつもありがとうございます。
拙文しか書けない私、書いていく励みになります。
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ノア君、タジタジ。全裸でお姫様だっこされて運ばれたことはきっと消し去りたい記憶でしょうに(笑)、それを「おめでとうございます」付きで思い出さされるなんて。
まるで初夜明けのお姫様扱いですね。
まだまだ謎が多く、バイオレンスな部分もあって、不可思議な世界が展開されている中で、ちょっとした笑いを誘うシーンってすごく生きます。
前回のN様のイラスト、ステキでした。
花の中に埋もれている、何とも言えない微笑の少年、それから着想を得ての今作なんですね。
物語を妄想させてくれる絵の力って本当にすごいです。