11 ,2008
翠滴 1-8 オーディナリィ・ラヴ 5 (28)
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少しずつ変化していって、気付いたらもう心は変っている、そしてまた変わってゆく。
人が誰かを裏切る瞬間というのは、何時でどんな時なのだろう。
でも、それを知ったところで、誰も信じないでいる事なんて本当にできるのだろうか?
恋をして誰かに心を奪われそうになる時、誰かを信じようとする時、決まって享一の脳裏に立ち塞がる影がある。
父親だ。
享一の父親は子煩悩な男で、3人いる子供の中でも長男である享一を特に可愛がった。享一が7歳の時、もともと作家志望であった父は突然、エリートコースである国家公務員の職をあっさり捨て、享一たちを驚かせた。母はそんな父の破天荒な行動には慣れていたのか溜息ひとつで許し、さっさと仕事を見つけてきて働き出した。
まだ若く、大した蓄えもなかった父親達は、官舎を出て6畳2間の2DKのアパートに引っ越し、新しい生活を始めた。勿論、一家の収入は父の得ていた給与とは比べものにならず激減した。
生活は一変したが、まだ小さかった弟や妹は何も理解できておらず、享一は家に居ることの多くなった父の散歩や図書館への調べものに付き合い、なけなしの原稿料で公務員時代の父の馴染みの料理屋へ連れて行ってもらったりもした。
母は、呆れつつも「物書きには、心のゆとりが必要だもんね」と笑って許した。享一が通っていた小学校も、私立から公立に変わったが、学校でもアパートの近所にも友達はすぐに出来、遊ぶ時間が急激に増えた。リトルリーグにボーイスカウトと毎日、文字通り日が暮れるまで遊んだ。
何もかも幸せだった。
父が失踪するまでは。
享一が中学にあがった年の暮れに、父親が駆け落ちをした。
相手は、離婚暦のある女性で享一と同じ年の息子がいた。父の作品がやっと世間に認められ、少しずつ生活も楽になりつつあった矢先の事だった。
それまで、何事にも動じず、ひたすら父を支えてきた気丈な母の顔から笑顔が消えた。笑い声で満ちていた狭いアパートを寒々しく感じた。母と兄弟3人、互いの傷を手で隠すように暮らした。
享一は、父親が自分ではなく、その女の享一と同じ年の息子の父親になることを、決断したということに、酷く傷ついた。裏切られ捨てられのだと思った。今や人気作家となった父親の新刊本が書店に平積みにされているのを見ると、得体の知れない汗が浮かび、気分が悪くなった。
それから、人を信じるのが苦手になった。
それと同時に、父親不在のその傷を埋めるべく"家庭"の再生を心に誓った。
自分もいつかは家族を持つ。そして、幸せな家庭をやり直すのだ・・・
自分は、決して大切な人を裏切らないでいよう。そして、由利という裏切らない相手を選んだつもりだった。
自分を裏切らない誰か、そんな人間が本当にいるのだろうか。
恋人も友達も、誰かを信じることに好きになることにどんどん臆病になる。
心を疑い出せば、限がない。
しかし、最初から信じていなければ、裏切られても諦めがつく、そう思っていた。
深夜、上質のリネンで設えられたベットの上で、享一は自分にまわされた腕をそっと離しベッドの端に腰掛け周を振り返る。
「眠れませんか?」
間接照明の柔らかな光の中、眠っていると思った周は、半分クッションにうつぶせ顔を埋めたまま、享一を見上げた。享一は無言で周に背を向け、ベットに腰掛けたまま項垂れた。衣擦れの音がして周が身を起こす気配がする。ベットから降りた周が椅子を持ってきて、背凭れを前にして享一に向き合う形で座った。
「何を、迷っているんですか?」
「なにも迷ってなんて・・・なっ!」
周が、座ったばかりの椅子から乗り出してきて、ベッドに腰掛ける享一の胸を突いた。ドンという音と共に上半身がベットの上に倒れ、周がその上に乗りあがる。享一の上腕を押えつけてそのままシーツに貼り付けた。
周の座っていた椅子が大理石の床に倒れて乾いた音を立てた。
「嘘付け」
切れ味のよいナイフのような冷たい鋭さで享一を探るように見詰める翠の瞳を、感情を押し殺したガラスの目で見上げる。唇が重なり噛み付くようなキスをされて、身体はすぐに反応しはじめた。周がわざと下肢を擦り付けてくると、お互いの高ぶりを薄い布を通して感じ、自分の唇から甘やかな声が漏れる。
自分が手に入れたいのは普通の幸せだ。同性との、しかもこんな期限付きの不毛な関係では無い。その筈なのに。目の前にいる美しい獣のような男は、いとも簡単に享一のを心をその鋭い爪と瞳でで切り裂いて、剥き出しの心臓にキスをする。
『どんどん好きになる気持ちが加速していって、戻れなくなった・・・』
俺を振った時の、瀬尾に対する気持ちを由利が表現した言葉だ。
今はその心の揺らぎや、加速する恋慕を胸が痛くなるほど理解できた。
ここにいる間だけ。
ここを出たら、元の生活に戻って自分の夢と理想を手に入れる。エンドの見えるこの想いにピリオドを打って、総てを忘れる。出来るだろうか?
『ワスレルナ』と心に打ちつけた楔を再度、打ち直す。
「享一、俺を見て。そして、お前の全てを俺に見せて」
唇を合わせ、衣の下に滑り込ませた掌は官能を引き起こし、享一から思考を奪い去ろうとする。
「それが出来ないなら何も考えるな。何も見るな、俺の熱だけを感じていろ」
周の声が、熱が、自分を穿つ楔が視界を歪め、奥深くに浸透していくのを感じる。
加速しながら疾走し続ける自分の気持ちに戸惑いながらも、本当は止めることが可能な速度など疾うに振り切っている事に気付いていた。
それを黙殺し目を逸らし続ける事に、限界が来ていることも。
これ以上、追い詰めないで欲しい・・・・・。
享一のこめかみを零れ落ちる涙を、周の唇が掬い取った。
少しずつ変化していって、気付いたらもう心は変っている、そしてまた変わってゆく。
人が誰かを裏切る瞬間というのは、何時でどんな時なのだろう。
でも、それを知ったところで、誰も信じないでいる事なんて本当にできるのだろうか?
恋をして誰かに心を奪われそうになる時、誰かを信じようとする時、決まって享一の脳裏に立ち塞がる影がある。
父親だ。
享一の父親は子煩悩な男で、3人いる子供の中でも長男である享一を特に可愛がった。享一が7歳の時、もともと作家志望であった父は突然、エリートコースである国家公務員の職をあっさり捨て、享一たちを驚かせた。母はそんな父の破天荒な行動には慣れていたのか溜息ひとつで許し、さっさと仕事を見つけてきて働き出した。
まだ若く、大した蓄えもなかった父親達は、官舎を出て6畳2間の2DKのアパートに引っ越し、新しい生活を始めた。勿論、一家の収入は父の得ていた給与とは比べものにならず激減した。
生活は一変したが、まだ小さかった弟や妹は何も理解できておらず、享一は家に居ることの多くなった父の散歩や図書館への調べものに付き合い、なけなしの原稿料で公務員時代の父の馴染みの料理屋へ連れて行ってもらったりもした。
母は、呆れつつも「物書きには、心のゆとりが必要だもんね」と笑って許した。享一が通っていた小学校も、私立から公立に変わったが、学校でもアパートの近所にも友達はすぐに出来、遊ぶ時間が急激に増えた。リトルリーグにボーイスカウトと毎日、文字通り日が暮れるまで遊んだ。
何もかも幸せだった。
父が失踪するまでは。
享一が中学にあがった年の暮れに、父親が駆け落ちをした。
相手は、離婚暦のある女性で享一と同じ年の息子がいた。父の作品がやっと世間に認められ、少しずつ生活も楽になりつつあった矢先の事だった。
それまで、何事にも動じず、ひたすら父を支えてきた気丈な母の顔から笑顔が消えた。笑い声で満ちていた狭いアパートを寒々しく感じた。母と兄弟3人、互いの傷を手で隠すように暮らした。
享一は、父親が自分ではなく、その女の享一と同じ年の息子の父親になることを、決断したということに、酷く傷ついた。裏切られ捨てられのだと思った。今や人気作家となった父親の新刊本が書店に平積みにされているのを見ると、得体の知れない汗が浮かび、気分が悪くなった。
それから、人を信じるのが苦手になった。
それと同時に、父親不在のその傷を埋めるべく"家庭"の再生を心に誓った。
自分もいつかは家族を持つ。そして、幸せな家庭をやり直すのだ・・・
自分は、決して大切な人を裏切らないでいよう。そして、由利という裏切らない相手を選んだつもりだった。
自分を裏切らない誰か、そんな人間が本当にいるのだろうか。
恋人も友達も、誰かを信じることに好きになることにどんどん臆病になる。
心を疑い出せば、限がない。
しかし、最初から信じていなければ、裏切られても諦めがつく、そう思っていた。
深夜、上質のリネンで設えられたベットの上で、享一は自分にまわされた腕をそっと離しベッドの端に腰掛け周を振り返る。
「眠れませんか?」
間接照明の柔らかな光の中、眠っていると思った周は、半分クッションにうつぶせ顔を埋めたまま、享一を見上げた。享一は無言で周に背を向け、ベットに腰掛けたまま項垂れた。衣擦れの音がして周が身を起こす気配がする。ベットから降りた周が椅子を持ってきて、背凭れを前にして享一に向き合う形で座った。
「何を、迷っているんですか?」
「なにも迷ってなんて・・・なっ!」
周が、座ったばかりの椅子から乗り出してきて、ベッドに腰掛ける享一の胸を突いた。ドンという音と共に上半身がベットの上に倒れ、周がその上に乗りあがる。享一の上腕を押えつけてそのままシーツに貼り付けた。
周の座っていた椅子が大理石の床に倒れて乾いた音を立てた。
「嘘付け」
切れ味のよいナイフのような冷たい鋭さで享一を探るように見詰める翠の瞳を、感情を押し殺したガラスの目で見上げる。唇が重なり噛み付くようなキスをされて、身体はすぐに反応しはじめた。周がわざと下肢を擦り付けてくると、お互いの高ぶりを薄い布を通して感じ、自分の唇から甘やかな声が漏れる。
自分が手に入れたいのは普通の幸せだ。同性との、しかもこんな期限付きの不毛な関係では無い。その筈なのに。目の前にいる美しい獣のような男は、いとも簡単に享一のを心をその鋭い爪と瞳でで切り裂いて、剥き出しの心臓にキスをする。
『どんどん好きになる気持ちが加速していって、戻れなくなった・・・』
俺を振った時の、瀬尾に対する気持ちを由利が表現した言葉だ。
今はその心の揺らぎや、加速する恋慕を胸が痛くなるほど理解できた。
ここにいる間だけ。
ここを出たら、元の生活に戻って自分の夢と理想を手に入れる。エンドの見えるこの想いにピリオドを打って、総てを忘れる。出来るだろうか?
『ワスレルナ』と心に打ちつけた楔を再度、打ち直す。
「享一、俺を見て。そして、お前の全てを俺に見せて」
唇を合わせ、衣の下に滑り込ませた掌は官能を引き起こし、享一から思考を奪い去ろうとする。
「それが出来ないなら何も考えるな。何も見るな、俺の熱だけを感じていろ」
周の声が、熱が、自分を穿つ楔が視界を歪め、奥深くに浸透していくのを感じる。
加速しながら疾走し続ける自分の気持ちに戸惑いながらも、本当は止めることが可能な速度など疾うに振り切っている事に気付いていた。
それを黙殺し目を逸らし続ける事に、限界が来ていることも。
これ以上、追い詰めないで欲しい・・・・・。
享一のこめかみを零れ落ちる涙を、周の唇が掬い取った。
まさか、これから出てきたり。
もしくは、もう登場していたり……