10 ,2011
怪物 19
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叫び声と共に跳ね上がった躰を、シャープな筋の張った長い腕が捕まえる。
魚籠に捕まった瀕死の魚のように無自覚に暴れまわる躰は、その腕から逃れようと人とは思えないような断末魔の叫び声をあげる。
この声は分厚い扉を抜け、広く長い廊下にも響き渡っているだろう。
だが、駆けつける者などひとりもいない。
ローズ・フィーバー感染者を家族に持つ者が生きていける社会はこの世界にはない。一度手にした職を死守したい使用人たちは、総じて口が堅く従順だ。
腕の中のしなやかな躰が一瞬硬直し、獣のような咆哮を発する。
ひきつけを起こし見開いた漆黒の目は、天井に向けられているが何も映してはいない。
眼孔の縁を染め、真っ黒な瞳孔が開ききった瞳から苦痛の涙が絶え間なく流れ、咆哮する唇からは涎が滴る。
獣の声が途切れた喉がシュッと鳴る。すかさずルドガーはノアと唇を合わせた。
「‥っ!」
ノアの舌を押し込んだルドガーの舌に、ガリッと鋭い犬歯が食い込む。
普段のどこか内気な性格を思わせる、翳りを帯びた夜を纏う青年の姿は見る影もない。
着せられていた寝着は激痛で我を失った自身の手によって引き千切られ、仰け反る躰にその残骸が纏わりつく限りだ。
涙は顎の輪郭を伝って零れ、忙しない呼吸に喘ぐほっそりと均整の取れた半裸の胸を滑り落ちた。
喉元や胸に、無残な爪のあとが残っていた。
押し寄せる骨身を砕く痛みに自我を失い、狂人の馬鹿力で寝着を引き裂く。加減をなくした指は、自分の体を狂ったように掻き毟り傷つけた。
その姿はまるで下肢で膨れ上がっているであろう耐え難い痛みを、別の痛みで打ち消そうとしているかのようだった。
自傷行為を止めるべく、咄嗟にノアを抱き締めたルドガーの背中をも、ノアは容赦なく引き裂いた。
新しい傷はノアの肌ではなく、ルドガーの背中に生まれた。
ルドガーの纏う上質なシャツの薄い生地を裂いたノアの爪は、ぴしりと筋肉の張った滑らかな背中に鮮やかな赤い傷を次々と引く。深夜のベッドの上で、自分の背中に刻まれていく傷を、ルドガーは暴れ狂うノアを抱いたままじっと耐えた。
突然、ノアの躰から力が抜け、腕の中でぐったりと仰け反る。
浅く乱れた息を吐く唇も、頬も紅潮し、焦点の合わない瞳は透明な雫とともに艶やかな色香を零す。
一層強く抱締めたルドガーには応えず、ノアの薄い目蓋は全てを放棄するようにゆっくり閉じた。
気を失ったノアの躰を静かに横たえ、ルドガーは息をついた。
束の間の休息。あと5分もすれば、前よりも酷い痛みがノアを襲う。
表情を曇らせたルドガーは、残骸となった寝着をノアの躰からそっとはずした。しどけなく投げ出された手足に、少年の名残を残す肢体が露になる。
下肢に残っていた痣は一段と薄くなり、胸に出来た無数の鮮やかな爪痕がなお痛々しい。
手首にも赤紫の痕がある。
あらかじめ、このことを予測したエリオットはノアの手首をベッドに縛り付けていた。麻酔が切れ、津波のように襲いくる激痛に耐えられなくなったノアは、戒めを外そうと狂ったように腕を振り回した。
拘束を解いた途端、暴れ出したノアをルドガーは自分の身体をもって受け止めた。
「ノア、君の痛みを僕にも引き受けさせて。決してひとりにはしないから、苦しむのも一緒だから」
蝋燭の炎は、閉じられたノアの目蓋の窪みや、柔らかい唇に落ちる影を柔らかく揺らす。
その唇に、ルドガーは血の滲んだ自分の唇を重ねた。
フィルムの中のジェルがすべて抜かれた。
腰、膝、足裏と数箇所からつながれていたチューブやコードも外されていく。
「すべて取ってしまうんですか?」
長い時間、羊水のようなジェルに護られていた半身を空気に晒すことに不安を覚えた。
「君の下肢は完全に再生しているよ。そろそろ動かしてやらないと、今度は筋力が落ちてしまうからね。私が直接措置してあげられればいいんだが、あいにく手が離せなくて申し訳ないね。ここにいるエリオットはすべての手順をわかっているから、君は安心して任せるといい」
ホログラムの白衣の男は、初めて見る男だった。
年のころは60前ぐらいだろうか。真乃と名乗った男は、東洋系だが薄い色のブラウンの目と、綺麗にそろえられた口髭が上品で優しげだ。
たぶん、ヴィンセント家の主治医のようなものなのだろう。
短く的確な真乃の指示通りに動くエリオットは、熟練した医者のような手際のよさでノアの下肢から全てをとり省いた。最後に真新しい寝着を着せ、廊下で待っていたルドガーを部屋に招きいれた。
真乃は当然のようにノアに寄り添うルドガーの姿を見ると、面白そうに口髭の下の口角を引き上げた。
気遣わしげに見詰めるルドガーの視線を無視し、ノアは久しぶりに自分の脚に直に触れてみた。完全に再生した自分の脚の無事に安堵し、何も感じない皮膚感覚にがっかりする。
瑞々しい弾力を持つ肌は、抓っても押えても何の感覚もない。
感覚がなければ、当然歩く事も動かすことは出来ない。
「ノア、すべての感覚が戻るのは数時間先だ。だが、その感覚を取り戻す為に君には、相当の苦痛を覚悟してもらわなくてはならない。我慢できるかな」
ノアは無言で頷いた。
一度なくしたと思った半身を取り戻せるのだ。
痛みくらい耐えてみせる自信はある。
力強く肯くノアの横顔を、ルドガーは珍しく苦い顔で見詰めていた。
そんな二人に優しげな笑みを残して、真乃のホログラムは消えた。
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叫び声と共に跳ね上がった躰を、シャープな筋の張った長い腕が捕まえる。
魚籠に捕まった瀕死の魚のように無自覚に暴れまわる躰は、その腕から逃れようと人とは思えないような断末魔の叫び声をあげる。
この声は分厚い扉を抜け、広く長い廊下にも響き渡っているだろう。
だが、駆けつける者などひとりもいない。
ローズ・フィーバー感染者を家族に持つ者が生きていける社会はこの世界にはない。一度手にした職を死守したい使用人たちは、総じて口が堅く従順だ。
腕の中のしなやかな躰が一瞬硬直し、獣のような咆哮を発する。
ひきつけを起こし見開いた漆黒の目は、天井に向けられているが何も映してはいない。
眼孔の縁を染め、真っ黒な瞳孔が開ききった瞳から苦痛の涙が絶え間なく流れ、咆哮する唇からは涎が滴る。
獣の声が途切れた喉がシュッと鳴る。すかさずルドガーはノアと唇を合わせた。
「‥っ!」
ノアの舌を押し込んだルドガーの舌に、ガリッと鋭い犬歯が食い込む。
普段のどこか内気な性格を思わせる、翳りを帯びた夜を纏う青年の姿は見る影もない。
着せられていた寝着は激痛で我を失った自身の手によって引き千切られ、仰け反る躰にその残骸が纏わりつく限りだ。
涙は顎の輪郭を伝って零れ、忙しない呼吸に喘ぐほっそりと均整の取れた半裸の胸を滑り落ちた。
喉元や胸に、無残な爪のあとが残っていた。
押し寄せる骨身を砕く痛みに自我を失い、狂人の馬鹿力で寝着を引き裂く。加減をなくした指は、自分の体を狂ったように掻き毟り傷つけた。
その姿はまるで下肢で膨れ上がっているであろう耐え難い痛みを、別の痛みで打ち消そうとしているかのようだった。
自傷行為を止めるべく、咄嗟にノアを抱き締めたルドガーの背中をも、ノアは容赦なく引き裂いた。
新しい傷はノアの肌ではなく、ルドガーの背中に生まれた。
ルドガーの纏う上質なシャツの薄い生地を裂いたノアの爪は、ぴしりと筋肉の張った滑らかな背中に鮮やかな赤い傷を次々と引く。深夜のベッドの上で、自分の背中に刻まれていく傷を、ルドガーは暴れ狂うノアを抱いたままじっと耐えた。
突然、ノアの躰から力が抜け、腕の中でぐったりと仰け反る。
浅く乱れた息を吐く唇も、頬も紅潮し、焦点の合わない瞳は透明な雫とともに艶やかな色香を零す。
一層強く抱締めたルドガーには応えず、ノアの薄い目蓋は全てを放棄するようにゆっくり閉じた。
気を失ったノアの躰を静かに横たえ、ルドガーは息をついた。
束の間の休息。あと5分もすれば、前よりも酷い痛みがノアを襲う。
表情を曇らせたルドガーは、残骸となった寝着をノアの躰からそっとはずした。しどけなく投げ出された手足に、少年の名残を残す肢体が露になる。
下肢に残っていた痣は一段と薄くなり、胸に出来た無数の鮮やかな爪痕がなお痛々しい。
手首にも赤紫の痕がある。
あらかじめ、このことを予測したエリオットはノアの手首をベッドに縛り付けていた。麻酔が切れ、津波のように襲いくる激痛に耐えられなくなったノアは、戒めを外そうと狂ったように腕を振り回した。
拘束を解いた途端、暴れ出したノアをルドガーは自分の身体をもって受け止めた。
「ノア、君の痛みを僕にも引き受けさせて。決してひとりにはしないから、苦しむのも一緒だから」
蝋燭の炎は、閉じられたノアの目蓋の窪みや、柔らかい唇に落ちる影を柔らかく揺らす。
その唇に、ルドガーは血の滲んだ自分の唇を重ねた。
フィルムの中のジェルがすべて抜かれた。
腰、膝、足裏と数箇所からつながれていたチューブやコードも外されていく。
「すべて取ってしまうんですか?」
長い時間、羊水のようなジェルに護られていた半身を空気に晒すことに不安を覚えた。
「君の下肢は完全に再生しているよ。そろそろ動かしてやらないと、今度は筋力が落ちてしまうからね。私が直接措置してあげられればいいんだが、あいにく手が離せなくて申し訳ないね。ここにいるエリオットはすべての手順をわかっているから、君は安心して任せるといい」
ホログラムの白衣の男は、初めて見る男だった。
年のころは60前ぐらいだろうか。真乃と名乗った男は、東洋系だが薄い色のブラウンの目と、綺麗にそろえられた口髭が上品で優しげだ。
たぶん、ヴィンセント家の主治医のようなものなのだろう。
短く的確な真乃の指示通りに動くエリオットは、熟練した医者のような手際のよさでノアの下肢から全てをとり省いた。最後に真新しい寝着を着せ、廊下で待っていたルドガーを部屋に招きいれた。
真乃は当然のようにノアに寄り添うルドガーの姿を見ると、面白そうに口髭の下の口角を引き上げた。
気遣わしげに見詰めるルドガーの視線を無視し、ノアは久しぶりに自分の脚に直に触れてみた。完全に再生した自分の脚の無事に安堵し、何も感じない皮膚感覚にがっかりする。
瑞々しい弾力を持つ肌は、抓っても押えても何の感覚もない。
感覚がなければ、当然歩く事も動かすことは出来ない。
「ノア、すべての感覚が戻るのは数時間先だ。だが、その感覚を取り戻す為に君には、相当の苦痛を覚悟してもらわなくてはならない。我慢できるかな」
ノアは無言で頷いた。
一度なくしたと思った半身を取り戻せるのだ。
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■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当にいつもありがとうございます。
拙文しか書けない私、書いていく励みになります。
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下半身に感覚が無かったのは、この最新の治療法のせいだったのですね。
麻酔が切れて、苦痛に叫ぶノアの様子がリアルで、ルドガ―の献身が夢のようで現実とロマンの狭間の残酷な瞬間が印象深いです。
これからのノアとルドガ―の関係を変えていきそうな治療ですね(ワクワク)
苦痛で引き裂かれた夜着姿のノア、ドキドキします。