10 ,2011
怪物 18
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言葉もなく絡まる宵闇の黒と真昼の空を思わせる青の視線。
青い瞳が先に逸らした。何かを断念するように視線を解き、また一瞬だけ視線を戻す。そしてノアに背中を向けると、そのまま薔薇庭に出られる大きなエッチングガラスの嵌った扉から部屋を出て行った。
一瞬向けられた眼差しに篭る、熱と切望と懇願。
言葉にならない願いは、気付かないふりで流してしまうには強すぎた。
「ノア様」
振り返ると、エリオットがまだベッドの脇に立っていた。
なぜいつまでのノアのことを様付けで呼ぶのかと、常々疑問に思っていた。トキや他の護衛、屋敷の使用人はみな呼び捨てだった。自分だけに敬称がつくのは分不相応というものだ。
いつか改めてもらおう。そう思っていたが、それももう終わりだ。
エリオットはノアが半身不随の恐怖に怯えている事に気づいていた。
その上で迅に連絡を取るよう頼んだ時、ノアの掛布に覆われた下肢を思わせぶりな目で見た。
あの視線に、少なからずも篭絡された自分を思い出すと、腹の辺りがムカついてくる。食えない老人に、これまで世話になった礼を言うべきか、ひとこと嫌味を言ってやるべきか、悩んでいるところにエリオットが先に口を開いた。
「ノア様、このわたくしめとひとつ取引をしてくださいませんか」
「取引?」
ノアの顔に俄かに警戒の色が過ぎる。
取引という策士めいた言葉は、これまでヴィンセント家に仕え、百戦錬磨を潜り抜けてきたであろう鋭い瞳を持つ老人が吐くと何かものものしい雰囲気になる。
「あなた様を治療中のそのジェルですが、まだアスクレピオスにも公表はされておりません。どうかクロスト氏にも、お話にはならないで戴きたいのです」
「まさか、この開発を他社に売り渡すつもりですか?」
「とんでもございません。この製品の開発に研究者たちは多大な時間と、それこそ血と心を注いできました。できる事ならば、彼ら自身に報告させてやりたいのです」
何を言い出すかと思えば、だ。だが、エリオットの言いたい事もわかる。
ただ、そうなればこのジェルの詰った装置が取れない限り、迅の元に帰れない事になる。
なるほど、ルドガーのためにノアを引き止めておきたいエリオットの本当の目的は、こちらの方なのかもしれない。
「で、?」
「前にお話したのを、覚えておられますかな?この須弥山に侵入し、まんまと逃走した男の事です」
表情が固まったノアに眼鏡の奥から、老人とは思えぬギラリと光る鋭い視線を寄越した。
その男の話はよく覚えている。
この須弥山に侵入し、逃走経路に選んだ薔薇の庭の迷路に捕まってしまった男達の話だ。
嘘か真か。エリオットは庭で迷って抜けられなくなった男達のことを、庭の一部になったと表現した。その中でたった一人、取り逃がした男がいると言った。
「エリオットから身体を壊したと聞いたが、顔色は悪くないな」
「ああ」
「下にエアフライを待たせてある」
ほんの少し前、この灰色の瞳の男に見捨てられる自分を想像し、絶望的な気分を味わっていた。
負傷したと連絡に迎えに来なかったら、とそればかりを気にしていた。
不鮮明で実体のない迅との絆を疑い、不安定な気持ちに溺れルドガーにぶつけ当り散らした。
結局、自分は五体満足で、迅は”身体を壊した”自分を迎えに来た。
迅との絆の有無は確かめられず、その手段もなくなった。
「迅、すまない。あれからまだ何も掴めてないんだ」
「構わない。実は、Dt.ヴィンセントのラボの場所が割り出せるのは、時間の問題になってきている」
「え?」
「2ヶ月ほど間から、不振な電波がキャッチされている。これまで途切れ途切れだったのが、ここの所極微弱だが繋がりだした」
「その電波が、どうしてラボと関係があるってわかるんだ。場所の見当は?もうついているのか?」
迅は口の角で薄く笑うだけで答えない。
また機密だ。ひとに間諜などさせておきながら、漏洩防止を理由にすべては明かされない。
図らずも命を懸ける結果となったノアとしては、どうにも納得がいかない。だがこのことを言えば、負傷したことを下肢を見せろと事になり、エリオットとの取引が反故になる。
「電波はいつから確認されていたんだ」
「アスクレピオスにエアフライが衝突しかかったことがあっただろう。何の符号か、あの夜からだ」
重要な事はも教えてもらえず憮然とするノアに、迅がにやりと笑う。
「エリオットが直接、俺に連絡してきたと言う事は、どうせお前の出所もバレているんだろう?潮時だ。撤収するぞ」
何の符合だと思いながら、ノアの掛布を剥ごうとした迅の手を慌てて止めた。
「なんだ?」
「迅、俺はもう少しここに残る。ジタンの消息がつかめそうなんだ」
須弥山に侵入する産業スパイは後を絶たないという。その中で唯一須弥山脱出に成功した男。
砂の上の足跡を波に洗い流されたかのように姿を消したジタン。
その足跡がまた現れ、波際をどこかへと繋がっている。
「見捨てる事はできない」
気持ちに嘘はない。なのに自分の声がどことなく空々しく聞こえるのは、ここに残りたいと思う別な理由ができたからだろうか。
相手から求められるような、恋愛の感情とは違う。
ただ、切望に焦がれた顔を隠すように、部屋を出て行った男をいつもの能天気な顔で笑わせてやりたい。
どこから来たのか、それとも無意識下に潜んでいたのか、自分でも意外な思いが湧きあがっていた。
それにまだ、ルドガーに「ありがとう」を言っていなかった。
「ノア」
顔を上げた唇に迅が接吻ける。
優しく思い遣るようなキスに、ノアは微かな違和感を覚えた。
問いかけの視線を投げるノアに、「なるべく早く戻って来い」と言い残し、迅は帰っていった。
部屋に残っているノアを見つけたルドガーは、何も言わずにノアを抱きしめた。
いい大人の青い瞳が潤んでいるのを見て、吹き出しそうになるのと同時に残ってよかったと思った。そして、自分がほんの少しだけ清々しい空色に染まった気がした。
その夜、下肢に繋げられていた麻酔の管が外された。
人格も理性も破壊する激痛に苛まれる、悪夢のような夜の始まりだった。
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言葉もなく絡まる宵闇の黒と真昼の空を思わせる青の視線。
青い瞳が先に逸らした。何かを断念するように視線を解き、また一瞬だけ視線を戻す。そしてノアに背中を向けると、そのまま薔薇庭に出られる大きなエッチングガラスの嵌った扉から部屋を出て行った。
一瞬向けられた眼差しに篭る、熱と切望と懇願。
言葉にならない願いは、気付かないふりで流してしまうには強すぎた。
「ノア様」
振り返ると、エリオットがまだベッドの脇に立っていた。
なぜいつまでのノアのことを様付けで呼ぶのかと、常々疑問に思っていた。トキや他の護衛、屋敷の使用人はみな呼び捨てだった。自分だけに敬称がつくのは分不相応というものだ。
いつか改めてもらおう。そう思っていたが、それももう終わりだ。
エリオットはノアが半身不随の恐怖に怯えている事に気づいていた。
その上で迅に連絡を取るよう頼んだ時、ノアの掛布に覆われた下肢を思わせぶりな目で見た。
あの視線に、少なからずも篭絡された自分を思い出すと、腹の辺りがムカついてくる。食えない老人に、これまで世話になった礼を言うべきか、ひとこと嫌味を言ってやるべきか、悩んでいるところにエリオットが先に口を開いた。
「ノア様、このわたくしめとひとつ取引をしてくださいませんか」
「取引?」
ノアの顔に俄かに警戒の色が過ぎる。
取引という策士めいた言葉は、これまでヴィンセント家に仕え、百戦錬磨を潜り抜けてきたであろう鋭い瞳を持つ老人が吐くと何かものものしい雰囲気になる。
「あなた様を治療中のそのジェルですが、まだアスクレピオスにも公表はされておりません。どうかクロスト氏にも、お話にはならないで戴きたいのです」
「まさか、この開発を他社に売り渡すつもりですか?」
「とんでもございません。この製品の開発に研究者たちは多大な時間と、それこそ血と心を注いできました。できる事ならば、彼ら自身に報告させてやりたいのです」
何を言い出すかと思えば、だ。だが、エリオットの言いたい事もわかる。
ただ、そうなればこのジェルの詰った装置が取れない限り、迅の元に帰れない事になる。
なるほど、ルドガーのためにノアを引き止めておきたいエリオットの本当の目的は、こちらの方なのかもしれない。
「で、?」
「前にお話したのを、覚えておられますかな?この須弥山に侵入し、まんまと逃走した男の事です」
表情が固まったノアに眼鏡の奥から、老人とは思えぬギラリと光る鋭い視線を寄越した。
その男の話はよく覚えている。
この須弥山に侵入し、逃走経路に選んだ薔薇の庭の迷路に捕まってしまった男達の話だ。
嘘か真か。エリオットは庭で迷って抜けられなくなった男達のことを、庭の一部になったと表現した。その中でたった一人、取り逃がした男がいると言った。
「エリオットから身体を壊したと聞いたが、顔色は悪くないな」
「ああ」
「下にエアフライを待たせてある」
ほんの少し前、この灰色の瞳の男に見捨てられる自分を想像し、絶望的な気分を味わっていた。
負傷したと連絡に迎えに来なかったら、とそればかりを気にしていた。
不鮮明で実体のない迅との絆を疑い、不安定な気持ちに溺れルドガーにぶつけ当り散らした。
結局、自分は五体満足で、迅は”身体を壊した”自分を迎えに来た。
迅との絆の有無は確かめられず、その手段もなくなった。
「迅、すまない。あれからまだ何も掴めてないんだ」
「構わない。実は、Dt.ヴィンセントのラボの場所が割り出せるのは、時間の問題になってきている」
「え?」
「2ヶ月ほど間から、不振な電波がキャッチされている。これまで途切れ途切れだったのが、ここの所極微弱だが繋がりだした」
「その電波が、どうしてラボと関係があるってわかるんだ。場所の見当は?もうついているのか?」
迅は口の角で薄く笑うだけで答えない。
また機密だ。ひとに間諜などさせておきながら、漏洩防止を理由にすべては明かされない。
図らずも命を懸ける結果となったノアとしては、どうにも納得がいかない。だがこのことを言えば、負傷したことを下肢を見せろと事になり、エリオットとの取引が反故になる。
「電波はいつから確認されていたんだ」
「アスクレピオスにエアフライが衝突しかかったことがあっただろう。何の符号か、あの夜からだ」
重要な事はも教えてもらえず憮然とするノアに、迅がにやりと笑う。
「エリオットが直接、俺に連絡してきたと言う事は、どうせお前の出所もバレているんだろう?潮時だ。撤収するぞ」
何の符合だと思いながら、ノアの掛布を剥ごうとした迅の手を慌てて止めた。
「なんだ?」
「迅、俺はもう少しここに残る。ジタンの消息がつかめそうなんだ」
須弥山に侵入する産業スパイは後を絶たないという。その中で唯一須弥山脱出に成功した男。
砂の上の足跡を波に洗い流されたかのように姿を消したジタン。
その足跡がまた現れ、波際をどこかへと繋がっている。
「見捨てる事はできない」
気持ちに嘘はない。なのに自分の声がどことなく空々しく聞こえるのは、ここに残りたいと思う別な理由ができたからだろうか。
相手から求められるような、恋愛の感情とは違う。
ただ、切望に焦がれた顔を隠すように、部屋を出て行った男をいつもの能天気な顔で笑わせてやりたい。
どこから来たのか、それとも無意識下に潜んでいたのか、自分でも意外な思いが湧きあがっていた。
それにまだ、ルドガーに「ありがとう」を言っていなかった。
「ノア」
顔を上げた唇に迅が接吻ける。
優しく思い遣るようなキスに、ノアは微かな違和感を覚えた。
問いかけの視線を投げるノアに、「なるべく早く戻って来い」と言い残し、迅は帰っていった。
部屋に残っているノアを見つけたルドガーは、何も言わずにノアを抱きしめた。
いい大人の青い瞳が潤んでいるのを見て、吹き出しそうになるのと同時に残ってよかったと思った。そして、自分がほんの少しだけ清々しい空色に染まった気がした。
その夜、下肢に繋げられていた麻酔の管が外された。
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拙文しか書けない私、書いていく励みになります。
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「何よ。今 手が離せないのよ!」
「だって、だってぇ~迅が、迅が、ノアに優しいんだってぇーー!」
「えぇーー嘘ーー!!」
と、何処かの家で叫び声が、聞こえてたりして~ヾ(*´∀`*)ノ キャッキャッ♪
”なるべく早く戻って来い”と、迅が優しいわ!Σ(・ω・;)ナヌッ
ルドガーは、残ったノアに 無駄口叩かず黙って抱きしめるわ!にゃんと!Σ(゚ω゚`ノ)ノ
普段の二人らしからぬ態度に ノアと同じく私も戸惑うわ~~
Σ(゜o゜;≡;゜o゜)乙...byebye☆