08 ,2010
翠滴 3 緑青 8 (131) -最終話-
父も初対面の男の口から長年、会っていなかった息子の名を聞き、おまけに結納などと言われてはなんと答えてよいのか困っただろうに。
そもそも、結納って何だ。
享一は楽しげに笑い続ける高波の前で額を押さえた。
「享一君、周君もあれだけの男です。加納氏も周君が数年前、NKホールディングスに買収を仕掛けた男やということに気がついて驚いてはりました。永邨周という人間に感心しながらも、自分の息子の選んだ相手に心中はなかなか複雑なんとちがいますやろか」
「父とはもう、長い間会っていません」
高波は黙って岩絵具が並んだ棚の抽斗から和紙製の封筒を出し、享一の前に置いた。
「緑青が返却された時に一緒に預かったものです。加納氏はあの絵を大層気に入ってくれていました。骨の髄まで商売人の僕には、『緑青』に倍額を払うとまで言った周君にではなく、君にと考えた気持ちはわかりませんが、親としてはしごく自然な心の動きのような気もします」
長形の白い封筒の表には見覚えのある字で、時見 享一様と書かれてある。
享一は万年筆で書かれた自分の名前を不思議な気持ちで眺めた。高波にも言った通り、父とはもう随分と会っていない。
自分たち家族を捨て、恋人の許に走った父親を恨んでいなかったと言えば嘘になる。
だが自分も変った。
周に出会い、同性同士の道ならぬ恋を選ぶと決めた今、父を完全に許すことは出来なくとも向き合うことくらいは出来る気がした。
封筒を開けた享一の顔が、狐につままれたような表情になる。
中には『緑青』を譲るという旨の短い文章と、加納太一の署名の入った便箋が一枚入っているだけだった。
想像していた長年の不実と不在を侘びる言葉や、言い訳も何もない。
たった2行、そして空白。
由利が言った言葉だ。
自分が子を宿しまでした享一を裏切った事に対して、言い訳も悔いる気持ちもないと。
瀬尾という男を真剣に愛しきった自分を否定する謝罪の言葉は口にしないのだと言った。
享一はそんな由利を潔いと思い、それで良いと思った。
誰かを愛するのに理由も道理もない。自分を突き動かす激しい衝動と情熱を知ってしまったら、時に人はその奔流に身を任せるしか術は無くなる。
一緒に暮らしていた頃の父は破天荒な事はやらかしたが、優しい性格だった。
滾るような情熱を知ってしまった父の心は、長年自分の気持ちを偽りながら共に暮らす家族と自分への自責の念で耐えられなくなっていたのだろうか。
ひとりの女を愛した。
嘘偽りのない感情は、人を裏切らせ奔らせるのに充分な動力になる。
便箋の空白は、言葉では言い表せない父の情熱そのものであるような気がした。
外に出ると、菫の空に蜩の声が吸い込まれていく。
自分に纏わりつく夕方の風が、目の前に立つ男の髪も揺らす。濡羽色の黒髪がさらりと揺れ、その奥の享一を映す虹彩の中で光と影が華やかなハレーションを起している。
緑青。鮮やかな魅惑の翡翠。
いつかこれと似た情景を見たことがある。
黄金の稲穂の海で「逃がさない」と享一に言った男。あれから膨大な時間が流れたように思えるのに、斜に差す夕刻の陽射しに射抜かれた周の瞳を、今でもはっきり覚えている。
高波は、緑青が長い間人々から毒であると勘違いされていたのだと言った。
だが、眼前で涼やかな風に吹かれる翠の瞳は、今も甘い甘い毒で自分を虜にする。
鼻の奥が痛くなるのを抑えて笑いかけると、ふわりと抱き締められた。
「4時間待った」
「・・ああ」
周はあの絵を、他でもない自分に一番見られたくは無かったはずだ。どんな気持ちで自分を待っていてくれたのか。周の背中に回した腕に力をこめた。
一番安心できる腕と匂いに包まれ、肺いっぱい息を吸い込む。
放火が何年の刑に値するのかは知らないが、高波の気持ちひとつでこの腕の中に戻れずに警察に突き出される可能性は多分にあった。
自分が放った火は、高波の絵を呑み込むように広がった。
土蔵に残っている高波は、心血を注いだ自分の絵の成れの果てを前に何を思うのだろうか。じわりと押し寄せる胸の痛みに顔を上げると、複雑な色の瞳に捕らわれて視線を離せなくなる。
「俺、高波さんの描いた周の絵を燃やしちまったんだ」
周の目が驚きで大きくなる。
「享一、あの絵を燃やしたのか」
「周が絵を買い取っていたなんて、全然知らなくて。本当にごめん」
一呼吸おいて突然、周が笑い出した。
笑いながら戸惑いを見せる享一を強く抱き締める。そんな周の躰を押し返した。
2人の間に出来た隙間に入り込む空気が寒々しい。
「享一」
頬に触れようとする指先を横を向いて避ける。
「周、俺はこれから出頭する」
周の翠の瞳が大きくなり、次の瞬間怒ったように硬い表情になる。
「過失でも事故でもない、俺は自分の意志で火を放った」 放火にどれだけの刑罰が科せられるのかはわからないがこのままにしておくわけにはいかない。
「俺はそんなことは望んでいない」
表情と同じく、硬い声だ。周がこう言うのはわかっていた。
享一は黙って頭を振った。イライラと怒気を強める周の気配に、享一も頑なに立ち尽くす。2人の間に長い沈黙が流れた。
やがて、諦めとも呆れともつかない周の溜息が享一の前髪を揺らす。
「確かに、このままでは俺の気もすまないかもな。あの絵を買い取るのに、俺がいくら払う約束をしたか爺さんから聞いたか?」
もう一度、首を振る。
「百億だ」
「ひゃく・・・億?」
「高波は根っからの商売人だ。現金が無理なら、日本トリニティとしての俺の手腕で高波グループにそれだけの利益を上げさせろと言ってきた」
弾かれたように顔を上げた享一の顔に濃い狼狽が浮かぶ。
100億を自分は灰にしてしまったのだと、冷たい汗が背中から噴出した。
「お前が焼き払った絵の所有者は俺で、被害者は俺だ。償いたいと思うなら、直接俺に弁償してもらおうか」
「100億なんて大金、一生かかっても無理だ。一体、どうやって・・・」
蒼白で俯く享一の顎を長い指が持ち上げる。ゆるやかな風が唇や前髪をさらりと撫でた。
「お前が焼いたんだ。弁償するのは当たり前だろう。享一は俺に気の遠くなるような莫大な損失を負わせたんだ。死ぬまで傍にいて負債を払い続けてもらうから、そのつもりでいろよ」
自分を貫いてしまいそうな鋭い目が享一を捕らえて細まる。
ゆっくり近づいた唇が重なり、肋骨がきしむほど強く抱き締められた。
「俺か享一、どちらかが死ぬまで絶対に離さないから覚悟しろ」
脅すような言葉とは裏腹な優しいキスが繰り返される。
重なった胸の鼓動のどちらかが止まるまで。
自分はこの愛しい男の翠の瞳に溺れ、轟のような心臓の音を聞き続けるのだ。
目を閉じ、甘い毒の痺れに細胞のひとつひとつが侵されていくのを万感の思いで待つ。幸福感で胸が張り裂けそうだ。躰中の細胞が周の毒に侵されてしまえばいい。
唇と背中を解放した周が手を差し出した。
「商談成立だな。忘れるな享一、100億の負債だ。お前の人生の全てを俺がもらう」
歩き始めれば、池の水面に映った雲も二人について来る。
見上げるとどこまでも澄んだ高い菫色の空に黄金色の雲がたなびいている。
祝言から逃げ出した日も、和輝や瀬尾と別れた日もこんな空だった。
周と出会ってから、自分を取り巻く世界が華やかに色付いた。世界に溢れる色彩の美しさを自分に教え、自らも光り輝く豊かな色彩を放ちながら生きる男。
手を繋いだ男を見ると、眩しそうに同じ雲を見上げている。
ふたつの鼓動のどちらかが止まるまで
悠然と輝く雲の神々しさに泣きたくなった。
― 完 ―
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□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
みなさま、長らくのご愛読、本当にありがとうございました。
後ほど、「あとがき」をUP致します。
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私、けいったんは ただ今 違う世界に 旅立ちました~
紙魚さま、ほんとにほんとにほんとにほんとに X ∞ 、素敵な作品を 有難う御座いました。
「あとがき」も しっかり 読むからねー!今は 「byebye」は 言わないからねー!!