08 ,2010
翠滴 3 緑青 6 (129)
高波のアトリエは、池の水面に白い影を落としていた土蔵を改造したものだった。
「ここには、家の者もほとんど入れてません。僕以外で自由に出入りできるのは孫の喬純くらいなもんです」
高波は土蔵の扉を開けると、享一に入るよう促した。
アトリエ内は天井が高く、北面に明り取りの大きな窓もあり思っていたより明るい。
板張りの床には描きかけの大きな風景画が置いてあり、高波が載って描くよう板が渡してある。
電話では「絵は趣味」だと話していたが、このアトリエから高波の日本画に向き合う姿勢が半端なものではない事がわかる。
「享一君、こっちです」高波は隅の黒い鉄の扉の前に享一を呼び寄せた。
厳重に掛けられた2つの錠前を外し扉を開く。真っ暗な室内からひんやりとした空気が流れ出る。
享一は手に持っていた上着を確かめるように持ち直すと高波に続いて鴨居をくぐった。
「ちょっと、明りを入れますので、そこで立っといてください」
厳重に閉ざされていた闇に禁忌の匂いがする。
この暗がりに眠る高波の日本画が白昼に曝されたなら、社会的な面での周の息は完全に止まる。
上着の下ポケットをまさぐり、指に触れたプラスチックの塊を握り締めた。
ざわざわと乱れ始めた気持ちを落ち着かせるため、深呼吸をする。
周がこれから享一のしようとしていることを知ったら、間違いなく激怒するだろう。
だが、全て覚悟のうえでここにいる。
「さて、君が人生を共にすると誓った男の正体を知る覚悟はできましたか」
享一の緊張が気配で伝わるのか、嗤いを含んだ声がする。
雨戸を引く音がした次の瞬間、目前に溢れる鮮やかな色彩に享一は息を呑んだ。
8畳ほどの部屋の半分を埋める勢いで日本画や習作の水彩画、クロッキーが重ねて立てかけあり、壁にもデッサンや完成した絵が所狭しと掛けられている。顔だけのものがあったり後姿や裸体であったりと、年代も大きさもまちまちだ。
視界の全てが「周」で埋め尽くされる。その量に圧倒された。
「僕はこの男に魅せられました。容姿だけの話やありませんで。この男は確かに美しい。他と比較するのも空しなる程です。そんなことは、君もようわかっている事やと思いますけど、この男の本当の魅力はその内面の強さです」
「周君が騰真さんに連れられて初めてここへ来た時、周君は十六、七のまだ青二才とも呼べんほどの年齢でした。本来なら、それこそアホらしゅうて歯牙にもかけんガキです。
ところが僕は、ぎらつくような生命力をその眼に滾らせたガキに、自分にも抗えん引力で惹きつけられてしまいました。どうしても忘れられんで数年後、とうとう騰真さんにあの子を絵のモデルにさせてくれるよう頼みました」
高波は棚からスケッチブックを取り出し、享一に手渡した。
墨で描かれた素描画は簡単な輪郭線だけであるのに、そのラインは周となってあの独特の優雅な所作で今にも動き出しそうだった。
「久し振りに会った周君は蛹から脱皮した蝶のように、それは艶やかな青年に育っておりましたけど、僕が惹かれた眼は見事に荒んでしもてて、僕は酷く落胆したものです。
その頃はもう神前の手がつき、レンタルが始まってました。
騰真さんはそういう意味で周君を寄越さはったんです。僕にも若い頃に衆道の経験は無い訳やありませんけど、興味はとうに失せてます。
けど、騰真さんは抜け目の無い人ですよって、呼びつけた時点で高い代価も発生しています。何もせんというのもどういうもんかと、戯れで一度手を出したら後は麻薬とおんなじでしたわ」
そう言うと高波は自嘲気味に嗤い言葉を切った。
「その辺の話は君にとって面白ありませんやろ。あんじょう端折らせてもらいます」
「僕は時々、周君をモデルにスケッチを起しました。描き手というのは被写体に向かう時、先入観を捨て、その本質を見極めようと心の眼を開くもんです。
周君を紙に書き写す内、僕は苦境の中で息絶えたと思っていた周君の感情の焔が、実は自由への凄まじいまでの執着になり、前にも増して激しく燃え盛っていることを知りました。僕がそのことを指摘すると周君は、レンタルは自分の未来に対する投資やと言ってのけ、鮮やかに表情を反転させて笑いました。あの頃、彼はまだ大学生やったと思います。ほんまに、たいした男です。
5年前の祝言で欺かれたと知っても、かつてのクライアントが周君に報復せえへんのはその辺も利いてのことです」
「そこからはもう、周君とどうこうというのではなく、ひたすら永邨 周という男の内面を引き出して表現する方が面白うなりました」
時が過ぎ、室内の明るさが失われても、享一は高波の描いた絵を見続けた。
高波は、享一の納得がいくまでこの場に留まる事を許し、ひとりアトリエに下がった。
春画と見紛うエロティックな要素の強い作品も少なくはない。
瑞々しい緑青と情念の朱。色彩はその時々でモデルの表情を変える。
少年の面影が残る顔が屈辱に曇る絵を見ると、頭を殴られたような気持ちになるのに目が離せなくなる。
周を裏切る行為だという背徳感は、全てを見たいと思う強い欲求を前に、次第に崩れていく。
エルミタージュのヴィラで垣間見た滴るような色香や、色欲に陶酔する貌、誘惑を仕掛ける翠の眼にゾクゾクと粟肌が立つ。平面であるはずの絵が奥行きを持ち、浮き立つ周の姿態から官能を誘発するあの密やかな白い花の甘い匂いまでが漂ってきそうだ。
一枚一枚を食入るように見つめ、網膜に焼き付ける。
高波が一枚の日本画に閉じ込めたのは、色香だけではない。周の燃え盛る野心と強い個性、叡智、並外れた忍耐力、情熱までもが凝縮されていた。
甘い蜜の香に潜むひとりの男の壮絶な生き様に、描き手の執念が加味され、高波の日本画をただ美しいだけの絵画とは遠く隔てている。
『緑青』は、その混沌がもっとも表現されきった作品だ。
高波は周を知り尽くしている。
少なくとも自分より多くの表情を知っている。「妬ける」というより、ここまで周の精神に肉薄できるまでになるには、自分がどうあるべなのかを考える。
重ねておいてあった一枚の絵で享一の手が止まった。
濡れたような緑を背景に、着物姿で小雨に打たれながらこちらをみている。裏を見ると「緑青」と書いてある。年号は、あの『緑青』より更に前だ。
他の絵に見られるような怒りや妖艶さ、世の中を達観したような老成した表情はまだない。サイズも他のものに比べて小さく、この一枚だけが異質に見える。
雨に濡れる顔はどことなく心細げで、濃い夜の底で卵色の電灯の下に佇みこちらに手を伸ばす男を彷彿とさせた。
無意識のうちにその頬を何度も撫でる。
愛しさと同時に、痛みが胸を突き上げた。
享一は、隣室で風景画の続きを描いていた高波の前に座ると、上着の内ポケットから着火剤のチューブとプラスチック製のライターを取り出し、床に置いた。
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翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
「ここには、家の者もほとんど入れてません。僕以外で自由に出入りできるのは孫の喬純くらいなもんです」
高波は土蔵の扉を開けると、享一に入るよう促した。
アトリエ内は天井が高く、北面に明り取りの大きな窓もあり思っていたより明るい。
板張りの床には描きかけの大きな風景画が置いてあり、高波が載って描くよう板が渡してある。
電話では「絵は趣味」だと話していたが、このアトリエから高波の日本画に向き合う姿勢が半端なものではない事がわかる。
「享一君、こっちです」高波は隅の黒い鉄の扉の前に享一を呼び寄せた。
厳重に掛けられた2つの錠前を外し扉を開く。真っ暗な室内からひんやりとした空気が流れ出る。
享一は手に持っていた上着を確かめるように持ち直すと高波に続いて鴨居をくぐった。
「ちょっと、明りを入れますので、そこで立っといてください」
厳重に閉ざされていた闇に禁忌の匂いがする。
この暗がりに眠る高波の日本画が白昼に曝されたなら、社会的な面での周の息は完全に止まる。
上着の下ポケットをまさぐり、指に触れたプラスチックの塊を握り締めた。
ざわざわと乱れ始めた気持ちを落ち着かせるため、深呼吸をする。
周がこれから享一のしようとしていることを知ったら、間違いなく激怒するだろう。
だが、全て覚悟のうえでここにいる。
「さて、君が人生を共にすると誓った男の正体を知る覚悟はできましたか」
享一の緊張が気配で伝わるのか、嗤いを含んだ声がする。
雨戸を引く音がした次の瞬間、目前に溢れる鮮やかな色彩に享一は息を呑んだ。
8畳ほどの部屋の半分を埋める勢いで日本画や習作の水彩画、クロッキーが重ねて立てかけあり、壁にもデッサンや完成した絵が所狭しと掛けられている。顔だけのものがあったり後姿や裸体であったりと、年代も大きさもまちまちだ。
視界の全てが「周」で埋め尽くされる。その量に圧倒された。
「僕はこの男に魅せられました。容姿だけの話やありませんで。この男は確かに美しい。他と比較するのも空しなる程です。そんなことは、君もようわかっている事やと思いますけど、この男の本当の魅力はその内面の強さです」
「周君が騰真さんに連れられて初めてここへ来た時、周君は十六、七のまだ青二才とも呼べんほどの年齢でした。本来なら、それこそアホらしゅうて歯牙にもかけんガキです。
ところが僕は、ぎらつくような生命力をその眼に滾らせたガキに、自分にも抗えん引力で惹きつけられてしまいました。どうしても忘れられんで数年後、とうとう騰真さんにあの子を絵のモデルにさせてくれるよう頼みました」
高波は棚からスケッチブックを取り出し、享一に手渡した。
墨で描かれた素描画は簡単な輪郭線だけであるのに、そのラインは周となってあの独特の優雅な所作で今にも動き出しそうだった。
「久し振りに会った周君は蛹から脱皮した蝶のように、それは艶やかな青年に育っておりましたけど、僕が惹かれた眼は見事に荒んでしもてて、僕は酷く落胆したものです。
その頃はもう神前の手がつき、レンタルが始まってました。
騰真さんはそういう意味で周君を寄越さはったんです。僕にも若い頃に衆道の経験は無い訳やありませんけど、興味はとうに失せてます。
けど、騰真さんは抜け目の無い人ですよって、呼びつけた時点で高い代価も発生しています。何もせんというのもどういうもんかと、戯れで一度手を出したら後は麻薬とおんなじでしたわ」
そう言うと高波は自嘲気味に嗤い言葉を切った。
「その辺の話は君にとって面白ありませんやろ。あんじょう端折らせてもらいます」
「僕は時々、周君をモデルにスケッチを起しました。描き手というのは被写体に向かう時、先入観を捨て、その本質を見極めようと心の眼を開くもんです。
周君を紙に書き写す内、僕は苦境の中で息絶えたと思っていた周君の感情の焔が、実は自由への凄まじいまでの執着になり、前にも増して激しく燃え盛っていることを知りました。僕がそのことを指摘すると周君は、レンタルは自分の未来に対する投資やと言ってのけ、鮮やかに表情を反転させて笑いました。あの頃、彼はまだ大学生やったと思います。ほんまに、たいした男です。
5年前の祝言で欺かれたと知っても、かつてのクライアントが周君に報復せえへんのはその辺も利いてのことです」
「そこからはもう、周君とどうこうというのではなく、ひたすら永邨 周という男の内面を引き出して表現する方が面白うなりました」
時が過ぎ、室内の明るさが失われても、享一は高波の描いた絵を見続けた。
高波は、享一の納得がいくまでこの場に留まる事を許し、ひとりアトリエに下がった。
春画と見紛うエロティックな要素の強い作品も少なくはない。
瑞々しい緑青と情念の朱。色彩はその時々でモデルの表情を変える。
少年の面影が残る顔が屈辱に曇る絵を見ると、頭を殴られたような気持ちになるのに目が離せなくなる。
周を裏切る行為だという背徳感は、全てを見たいと思う強い欲求を前に、次第に崩れていく。
エルミタージュのヴィラで垣間見た滴るような色香や、色欲に陶酔する貌、誘惑を仕掛ける翠の眼にゾクゾクと粟肌が立つ。平面であるはずの絵が奥行きを持ち、浮き立つ周の姿態から官能を誘発するあの密やかな白い花の甘い匂いまでが漂ってきそうだ。
一枚一枚を食入るように見つめ、網膜に焼き付ける。
高波が一枚の日本画に閉じ込めたのは、色香だけではない。周の燃え盛る野心と強い個性、叡智、並外れた忍耐力、情熱までもが凝縮されていた。
甘い蜜の香に潜むひとりの男の壮絶な生き様に、描き手の執念が加味され、高波の日本画をただ美しいだけの絵画とは遠く隔てている。
『緑青』は、その混沌がもっとも表現されきった作品だ。
高波は周を知り尽くしている。
少なくとも自分より多くの表情を知っている。「妬ける」というより、ここまで周の精神に肉薄できるまでになるには、自分がどうあるべなのかを考える。
重ねておいてあった一枚の絵で享一の手が止まった。
濡れたような緑を背景に、着物姿で小雨に打たれながらこちらをみている。裏を見ると「緑青」と書いてある。年号は、あの『緑青』より更に前だ。
他の絵に見られるような怒りや妖艶さ、世の中を達観したような老成した表情はまだない。サイズも他のものに比べて小さく、この一枚だけが異質に見える。
雨に濡れる顔はどことなく心細げで、濃い夜の底で卵色の電灯の下に佇みこちらに手を伸ばす男を彷彿とさせた。
無意識のうちにその頬を何度も撫でる。
愛しさと同時に、痛みが胸を突き上げた。
享一は、隣室で風景画の続きを描いていた高波の前に座ると、上着の内ポケットから着火剤のチューブとプラスチック製のライターを取り出し、床に置いた。
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翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
残暑といってもまだまだ猛暑日が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
長々と更新が空いてしまい、本当にすみませんでした。
しかも、終わっていません。図らずも、また嘘をついてしまう事になった私。。。
も・・・もう、ラスト宣言はしません。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けませんが、書いていく励みになります。。
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地味な話ですが、踏んでやってくださいませ。
↓↓↓


残暑といってもまだまだ猛暑日が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
長々と更新が空いてしまい、本当にすみませんでした。
しかも、終わっていません。図らずも、また嘘をついてしまう事になった私。。。
も・・・もう、ラスト宣言はしません。
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ほんの拙文しか書けませんが、書いていく励みになります。。
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あれ、ラストのはずだと思ったら、嬉しい、まだ続く宣言でした。
着火剤の扱いには気をつけましょう。火をつけてから注ぎ足してはいけません。
あれ、享一さんバーベキューでもするんですか?
盛大なバーベキュー、花火つきでかな?
続き楽しみにお待ちしています。