08 ,2010
翠滴 3 緑青 5 (128)
大きな長細い石を2つ並べた沓脱ぎ石の上には自分以外の履物はなく、長い石の端に享一の脱いだ黒の革靴が行儀よく並ぶ。
長閑な油蝉の鳴き声が荒削りな石の表面に降り注いだ。
自分の名を名乗り、声をかけてから入った室内には誰もおらず、開いた障子から蝉の声が流れ込んだ。静寂の中、蝉の声より自分の内側から発せられる音の方がうるさく思えた。
どくどくと激しく胸を打つ鼓動に、自分が自覚以上に緊張していることを知る。
たたみ6畳の居室は茶屋の形式に則って造られたのなら一の間ということになる。
一見、簡素な室内は何も主張していないように見えて、その内にいる者の背筋を正させる規律を持つ。数奇屋の精神性を重視した空間に、姦計を謀る自分の心を見透かされ律される気がした。だが今更引き返すことは出来ず、その気もない。
足早に隣接する室内も抜け、奥の茶室を目指す。
歩き進める間に神経が昂ってゆき、耳鳴りを起こし始める。
貴人口と呼ばれる茶室の入口に立ち、藍一色に染められた襖の引き手を声もかけずに勢いよく襖を引く。
突然耳鳴りがやんだ。
視界に飛び込んできたものに享一は面食らい、その場に棒のように突っ立った。
目の前で朱色の火焔と黒を背景に、半裸の少年がしどけない姿で横たわる。
まさか、売却されたはずのこの絵がここにあるとは思っていなかった。
享一がこれを見たのは単行本の表紙でだ。小さな印刷物となってもい十分な迫力を持ち、書店で平積みになった父・加納太一の『タンジェリン・ライズ』の表紙は他の表紙を圧して目立っていた。
いま自分の目の前にあるのは幅が一抱えはあろうかという大作で、印刷で相殺された揺らめくような火炎がリアルな感覚となって押し寄せ、享一を圧倒する。
初めて見た時は印刷のせいか炎が描かれているにも拘らず、冷たい印象の絵だと思った。
だが目の前のオリジナルは、背景の闇に塗り篭められた朱い焔がゆらゆらと立ち上り、押し寄せる熱が皮膚の表面をジリジリと焦がしてくる。
その炎の源に横たわる裸体の少年には薄萌葱の着物が掛けられ、絹地から出た白い大腿や脹脛、少年自身の瑞々しさが強調されている。
小さな印刷物では翠の瞳はただ切なげに潤み、見るものを誘うような妖艶さと、滲み出る被写体の諦観がより多くの人の関心を惹く。実際『タンジェリン・ライズ』を表紙で買ったという話を会社でも耳にした事がある。
いまオリジナルを前に、享一は艶やかな黒髪の間から覗く翠眼が発する冷たく澄んだ怒りに胸を衝かれていた。
「緑青です。享一君」
茶室には約束した人物がいる。そう予期していたはずの心臓が飛び上がった。
享一が入室した貴人口のある壁の前に作務衣を着た老人が座り、享一と並ぶ形で同じ絵と対峙している。
「周君の眼に塗った色も、この絵の題名も『緑青』といいます」
老人の言葉にもう一度、『緑青』に見入る。
よく見れば画面のそこかしこに瞳と同じ翠色が混ざる。どうやら画面のベースそのものに緑青色は使われているようだ。赤味を抑える緑青の色が、陽炎さえ上りそうなこの絵のトーンをなお引き立て、より不可思議により魅力的にしているのだと気がついた。
享一は一歩中に入り、正座をすると畳に手をついて頭を下げた。
「時見享一です。本日はこちらの勝手なお願いを聞き入れて頂き、誠に恐れ入ります」
下を向いたとき胡坐の作務衣の膝に置かれた老人の指が少し内側に曲がっているのが見えた。身体に似合わず、大きくまるで労働者のようなゴツゴツとした手だ。
目の前の隠居老人が、今も日本の政界や財界に影響力を持つ。普通なら自分のような一介の会社員が、簡単に会ってもらえるような相手ではない。
「堅苦しい挨拶はせんでもよろしいで。何も初めてや、ありゃしませんのやから」
享一が顔を上げると高波 清輝は満足げに肯いた。
「ああそうや、君ですわ。ほんま久しぶりですね」
「その節は高波さんや、祝言に来てくださった来賓の皆さんを騙すような真似をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
高波と会うのは祝言以来だ。しかも祝言では、自分は黒引き振袖を着た花嫁姿だった。
そう思った途端、男である本来の姿をさらしている自分が急にいたたまれない気持ちになる。高波の顔を正視できず、羞恥に紅潮した顔を逸らして隠した。
「そんな恥ずかしがることありません。よう似合うとりました。こんな別嬪な奥方をもらうんか思うて、僕は周君が羨ましゅうなりましたんやから」
高波の声に揶揄う色はない。享一は、なお恥じ入った。
「享一君、君がおらんかったら、周君は今も自分を刻んで生きとったかも知れません。君はひとりの男を地獄の畔から引き上げましたんや。もっと、胸を張っても構しませんのやで」
享一は、周を思う高波の情のある言葉にはっと顔を上げた。ところが途端に狡猾そうな男の目に出くわし、掴みかけた高波という人物がわからなくなる。
魑魅魍魎。
周は高波に自分もその一人だと言われたことがあるといっていた。そして周は、高波こそが魑魅魍魎どもの首領(ドン)だとも言い、会うときは注意するようにと享一に忠告した。
なるほど、一筋縄ではいかなさそうな人物だ。
まさか、享一ひとりで高波と会う日が来るなどとは、周も想定してはいなかっただろう。
「さて、僕が今迄に描いた周君の絵を見たい、ということでしたかな」
「はい、拝見させて頂いても構いませんでしょうか?」
承諾を期待し高波を伺い見ると、高波の顔は小さなにじり口の外に向き、なかなか返事を返さない。高波の位置から外のどのあたりが見えるのかを察して、血の気が引いた。
もし高波がここでずっと座って自分が来るのを待っていたのだとしたら、竹林の出口で周とキスしているところを見られた可能性が高い。
そんな享一の狼狽を知ってか知らずか、高波はひょいと振り向いた。
なぜか愉快そうに笑っている。
「なんでまた・・・みたいな無粋なことは聞かん方がよろしいな。ほな、行きましょか」
そう言うと高波はにじり口から腕を出して自分の草履を取り上げた。
「間もなく煩いのがやって来ますよって、急ぎましょ」
煩いの・・・とは、周のことだろうか?楽しげな様子の高波につられて笑い出しそうになる。
裏の細い濡れ縁を通り、あっという間に自分の靴がポツンと並ぶ長い沓脱ぎ石に降り立った。急いで自分の靴を履き、先に歩き始めた高波の小さな背中を追いかけた。
一足違いで飛び込んだ周は、壁に立てかけた『緑青』だけが残る茶室の真ん中で仁王立ちになった。早く着きたい一心で表の縁側から直接上がったのが仇となったのだ。
眉間に険しい縦皺を刻み、眇まった瞳が悔しげに『緑青』を睨む。
「あの狸ジジイ・・・」
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
ほんの少し暑さも和らいだみたいに思えますが、みなさま夏バテは大丈夫ですか?
長々と引きずって参りました『翠滴』ですが、とうとう次話が最終話になりそう・・・・かな?
自分の性格を考えると、断言できない・・・・あう。。。でもきっとラストです(まだ言うか
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けませんが、書いていく励みになります。。
■拍手のリコメの閲覧は、サイト左上の”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事か、もしくは*こちら*からお越しくださいませ。
ランキングに参加しています
地味な話ですが、踏んでやってくださいませ。
↓↓↓


ほんの少し暑さも和らいだみたいに思えますが、みなさま夏バテは大丈夫ですか?
長々と引きずって参りました『翠滴』ですが、とうとう次話が最終話になりそう・・・・かな?
自分の性格を考えると、断言できない・・・・あう。。。でもきっとラストです(まだ言うか
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けませんが、書いていく励みになります。。
■拍手のリコメの閲覧は、サイト左上の”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事か、もしくは*こちら*からお越しくださいませ。
ランキングに参加しています
地味な話ですが、踏んでやってくださいませ。
↓↓↓


どうしよう(´;ω;`)ブワッ もう泣けてきたー!
ずっと楽しみに読んできた「翠滴」が終わってしまうー!!
タンジェリンライズの絵のタイトルが「青緑」だったんですね。
享一さんのお父さんの本と、美しい絵。
そして、更にあるという絵の数々。
私も見たい~~。
紙魚さん次回が最終出なくてもいいですから~~。
が、頑張って…。