06 ,2010
翠滴 3 月櫻 4 (119)
頬を撫でられる感触に意識が浮上する。
夢の中で何度も、何度も和輝の頬を撫でた。
「享一。・・・・・享一」
名前を呼ぶ聞き覚えのある声に目蓋を開ける。
「享一、着いたぞ」
「アマネ・・・」
俄かに状況がつかめず、長い旅行から戻ってきたような気分だ。
深く長い息をつく。寒い。
革のシートから身を起こして、目を瞬かせた。自分の推測を信じるなら、そこはペントハウスのあるビルの地下駐車場で無ければならなかった。
今、目に映るのは白い壁と、澄み切った夜空に浮かぶ月だ。白い壁に囲まれたその場所は、蒼白い月光に満たされ、まるで白い水槽の底にいるようだ。壁に落ちる影ですら幻想的で浮世離れしたその空間に暫し見蕩れた。
「綺麗なところだな。ここは?」
「庄谷の屋敷だろう?冷えるから、中に入ろう」 半ば呆れ気味に言われ、ようやく自分が馴染みのある庄谷の屋敷の隠し部屋に隣接した車庫兼用のライトコートにいることに気がついた。
周が自分の部屋のガラス扉の鍵を開け、暗い室内に消える。縦にスリットを落とすバーチカルブラインドの隙間から周の灯した明りが零れ、蒼い水槽の底にストライプの模様をつけた。
月の支配する明るい夜空の下方に黒々とした山や木々の影が静かに横たわる。
湿気った潮風も潮騒も、磯の匂いもない。
享一を包む空気には確かに気持ちを弛ませる柔らかな春の匂いが混ざっている。
目覚めた時に感じた肌寒さも、未だ覚めきらない肌に心地よかった。
享一は月の光に誘われるように、真紅の車を離れ、ライトコート隅にある階段を上がった。低い木戸の閂を外し古い豪商の屋敷の庭へと足を踏み入れる。
しんと静まった月明かりの庭はただただ幻想的で、息をするのも憚られる。200年の時を経た屋敷は静かに息づき、月夜の侵入者などそ知らぬ顔で悠久の時間を刻む。
漆喰の長い塀に沿う植え込みの中の小径を、享一は音を立てぬよう足早に歩いていった。
能舞台が隔てたその向こうに目当てのものを見つけ、息を呑んで立ち止まる。
歩を緩め近付いてゆくと、立派な枝が横に張り出した、大きな桜の古木の全貌が明らかになってゆく。
最後に見た時、深まる秋にその葉を紅や朱に染めていた。あれから半年程しか経っていないというのに、もう何年もこの地を訪れてなかったような気がする。
いろいろな事があり、今年は年に一度きりのこの姿も見ることは叶わないだろうと諦めていた。
やや蒼ざめた薄紅の花弁の群れの下に潜り、苔むした古木に手指を這わせる。額をごつごつとした幹にこつんとあてると桜の樹に抱かれるような気持ちになる。
「ただいま」 と小さくつぶやいた身体を背後から伸びてきた手にそっと、
だが有無を言わさぬ強さをもって桜の古木から引き離された。
身体の向きを返され、自分達を囲む雲のような花陰の間で接吻けを交す。
「縋る相手が違うだろう?」
至極まじめな顔で指摘されて、何の事かと目を瞬かせると月の光を集積した翠の瞳が軽く睨み下ろしてくる。そんな表情にさえ見蕩れてしまう。享一は唇を綻ばせると周の背中に腕を回した。
二人の周りで微かに花弁の群れが揺れる。
「周、桜が・・・。」
「ああ」
東京の桜はこれから満開を迎えようとしている。
「不思議だ。いつも東京より遅れて咲くのに、まさかこんなに咲いているとは思わなかった」
月光を受け、笑うように咲き誇る花弁に目が奪われる。「どうして、ここへ?」この桜の下に立つといつも自分が幻惑されているような気になった。
「東京に戻るよりこっちの方が近かった。さすがに今日は疲れたからな・・・・」
いつまでも桜を見上げる享一の手を引き歩き始めた周が軽く息をつく。
ふと昼間空港で、鬼の形相で瀬尾を殴り飛ばす周の顔を思い出した。激しい感情を瞬時に爆発させ、たった一発の拳に全ての怒りを込めて殴る。それでも、周は手加減したのだと思った。
周が本気を出していたら、瀬尾の顎は砕けていた筈だ。
桜の雲海を抜ける優雅な横顔に、昼間の修羅のごとき猛々しさを重ねどくんと胸がひとつ鳴る。
強靭な精神力で瞬時に怒りを納めた周は、瀬尾の同行を許した。もし周がGPSを駆使し、カーチェイスばりの追跡で追ってくれなければ、和輝と二度と会えなかったかもしれない。接触ギリギリで車間を移動する運転はスピード狂の周とはいえ、さぞ神経を磨り減らしただろう。
「今日は、ありがとう」
横顔にそっと告げると、周が艶やかに笑った。
いつか、周が茶化して桜の精の話を持ち出したことがあったが、それはいま横にいるこの男の事なのではないかと思う。
部屋に戻るとテーブルの上に、隣の市で有名なデリの紙袋が並んでいる。
「メシの前にシャワーを浴びて来いよ」
「周は?」
「東京まで我慢できなかった俺にそんなこと言ったら、晩飯を逃す事になるぞ」
なぜ東京ではなく、庄谷だったのか?単に近かったからだ。周の冗談とも取れる言葉に、享一は微笑んでバスルームに向かった。
脱いだシャツから微かに潮の匂いがする。
パウダールームの大きな鏡の中から見かえす疲れた自分の顔に、今日一日の苦悶や葛藤を集約されているように見えた。
東京まで待てなかったのだと白状した周のために念入りに身体を洗った。こんな日は早く抱かれてしまいたいと思うのに、心のどこかでストッパーがかかるのは、去っていく瀬尾の背中や和輝の泣き顔が頭に残っているからか。
外に出ると周が入れ違いでバスルームのドアの向こうに消える。周のそっけのない態度が却って周が自分を抑えるのに苦戦している周の事情を物語っている。その姿に確かに自分も煽られるのに何かがいつもと違っていた。
2人で囲む食卓にシンプルな皿に盛られた料理が並ぶ。サラダやローストビーフ、クスクスもあまり減らず、極端に言葉数の少なくなった2人の間でシャンパンとワインだけが減っていった。
これまで自分に纏わってきた因縁めいたものが一挙に煮詰まり、凝縮されたような日であったのに、それらについて触れる会話はなく雑談もない。今日起こった出来事のひとつひとつを口にできるほど、頭の中の整理が出来ていないというのが正直なところだった。
それに、バスルームでほんの微かな潮の匂いを嗅いでから、周の顔が直視できなくなった。
無様に狼狽する姿や和輝の父親面をしたがる自分、見事に敗れた過去の恋愛。不貞の関係を持ってしまった瀬尾・・・と、救いようが無いほど情けなく恥ずかしい自分を、一挙に周に曝け出したことに気がついてしまった。
罪悪感の浸透した羞恥心を、目の前の男にさらしている自分がいたたまれず、とても食事をする気持ちになどなれない。頭が冷静になってゆくにつれて、周と目を合わせる事すら出来なくなった。
微熱を発する自分の羞恥心をアルコールで誤魔化すように杯を重ねる。なのに、爽やかな口当たりのワインに疲れた躰が酩酊していくのに反して、頭はすっきりと冷めていく。周がこんな自分をどう思ったのか、興ざめし愛想を尽かされたのではないかとか、そんな事ばかりが気になった。
グラスにワインを継ぎ足そうとボトルに伸ばした手を、プラチナの指輪の填る手に捕らえられた。
「享一、もうそれくらいに・・・・」
その言葉の意味するところを裏打ちする濃厚な色香の漂う周の顔を見た途端、全身を熱が覆った。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
夢の中で何度も、何度も和輝の頬を撫でた。
「享一。・・・・・享一」
名前を呼ぶ聞き覚えのある声に目蓋を開ける。
「享一、着いたぞ」
「アマネ・・・」
俄かに状況がつかめず、長い旅行から戻ってきたような気分だ。
深く長い息をつく。寒い。
革のシートから身を起こして、目を瞬かせた。自分の推測を信じるなら、そこはペントハウスのあるビルの地下駐車場で無ければならなかった。
今、目に映るのは白い壁と、澄み切った夜空に浮かぶ月だ。白い壁に囲まれたその場所は、蒼白い月光に満たされ、まるで白い水槽の底にいるようだ。壁に落ちる影ですら幻想的で浮世離れしたその空間に暫し見蕩れた。
「綺麗なところだな。ここは?」
「庄谷の屋敷だろう?冷えるから、中に入ろう」 半ば呆れ気味に言われ、ようやく自分が馴染みのある庄谷の屋敷の隠し部屋に隣接した車庫兼用のライトコートにいることに気がついた。
周が自分の部屋のガラス扉の鍵を開け、暗い室内に消える。縦にスリットを落とすバーチカルブラインドの隙間から周の灯した明りが零れ、蒼い水槽の底にストライプの模様をつけた。
月の支配する明るい夜空の下方に黒々とした山や木々の影が静かに横たわる。
湿気った潮風も潮騒も、磯の匂いもない。
享一を包む空気には確かに気持ちを弛ませる柔らかな春の匂いが混ざっている。
目覚めた時に感じた肌寒さも、未だ覚めきらない肌に心地よかった。
享一は月の光に誘われるように、真紅の車を離れ、ライトコート隅にある階段を上がった。低い木戸の閂を外し古い豪商の屋敷の庭へと足を踏み入れる。
しんと静まった月明かりの庭はただただ幻想的で、息をするのも憚られる。200年の時を経た屋敷は静かに息づき、月夜の侵入者などそ知らぬ顔で悠久の時間を刻む。
漆喰の長い塀に沿う植え込みの中の小径を、享一は音を立てぬよう足早に歩いていった。
能舞台が隔てたその向こうに目当てのものを見つけ、息を呑んで立ち止まる。
歩を緩め近付いてゆくと、立派な枝が横に張り出した、大きな桜の古木の全貌が明らかになってゆく。
最後に見た時、深まる秋にその葉を紅や朱に染めていた。あれから半年程しか経っていないというのに、もう何年もこの地を訪れてなかったような気がする。
いろいろな事があり、今年は年に一度きりのこの姿も見ることは叶わないだろうと諦めていた。
やや蒼ざめた薄紅の花弁の群れの下に潜り、苔むした古木に手指を這わせる。額をごつごつとした幹にこつんとあてると桜の樹に抱かれるような気持ちになる。
「ただいま」 と小さくつぶやいた身体を背後から伸びてきた手にそっと、
だが有無を言わさぬ強さをもって桜の古木から引き離された。
身体の向きを返され、自分達を囲む雲のような花陰の間で接吻けを交す。
「縋る相手が違うだろう?」
至極まじめな顔で指摘されて、何の事かと目を瞬かせると月の光を集積した翠の瞳が軽く睨み下ろしてくる。そんな表情にさえ見蕩れてしまう。享一は唇を綻ばせると周の背中に腕を回した。
二人の周りで微かに花弁の群れが揺れる。
「周、桜が・・・。」
「ああ」
東京の桜はこれから満開を迎えようとしている。
「不思議だ。いつも東京より遅れて咲くのに、まさかこんなに咲いているとは思わなかった」
月光を受け、笑うように咲き誇る花弁に目が奪われる。「どうして、ここへ?」この桜の下に立つといつも自分が幻惑されているような気になった。
「東京に戻るよりこっちの方が近かった。さすがに今日は疲れたからな・・・・」
いつまでも桜を見上げる享一の手を引き歩き始めた周が軽く息をつく。
ふと昼間空港で、鬼の形相で瀬尾を殴り飛ばす周の顔を思い出した。激しい感情を瞬時に爆発させ、たった一発の拳に全ての怒りを込めて殴る。それでも、周は手加減したのだと思った。
周が本気を出していたら、瀬尾の顎は砕けていた筈だ。
桜の雲海を抜ける優雅な横顔に、昼間の修羅のごとき猛々しさを重ねどくんと胸がひとつ鳴る。
強靭な精神力で瞬時に怒りを納めた周は、瀬尾の同行を許した。もし周がGPSを駆使し、カーチェイスばりの追跡で追ってくれなければ、和輝と二度と会えなかったかもしれない。接触ギリギリで車間を移動する運転はスピード狂の周とはいえ、さぞ神経を磨り減らしただろう。
「今日は、ありがとう」
横顔にそっと告げると、周が艶やかに笑った。
いつか、周が茶化して桜の精の話を持ち出したことがあったが、それはいま横にいるこの男の事なのではないかと思う。
部屋に戻るとテーブルの上に、隣の市で有名なデリの紙袋が並んでいる。
「メシの前にシャワーを浴びて来いよ」
「周は?」
「東京まで我慢できなかった俺にそんなこと言ったら、晩飯を逃す事になるぞ」
なぜ東京ではなく、庄谷だったのか?単に近かったからだ。周の冗談とも取れる言葉に、享一は微笑んでバスルームに向かった。
脱いだシャツから微かに潮の匂いがする。
パウダールームの大きな鏡の中から見かえす疲れた自分の顔に、今日一日の苦悶や葛藤を集約されているように見えた。
東京まで待てなかったのだと白状した周のために念入りに身体を洗った。こんな日は早く抱かれてしまいたいと思うのに、心のどこかでストッパーがかかるのは、去っていく瀬尾の背中や和輝の泣き顔が頭に残っているからか。
外に出ると周が入れ違いでバスルームのドアの向こうに消える。周のそっけのない態度が却って周が自分を抑えるのに苦戦している周の事情を物語っている。その姿に確かに自分も煽られるのに何かがいつもと違っていた。
2人で囲む食卓にシンプルな皿に盛られた料理が並ぶ。サラダやローストビーフ、クスクスもあまり減らず、極端に言葉数の少なくなった2人の間でシャンパンとワインだけが減っていった。
これまで自分に纏わってきた因縁めいたものが一挙に煮詰まり、凝縮されたような日であったのに、それらについて触れる会話はなく雑談もない。今日起こった出来事のひとつひとつを口にできるほど、頭の中の整理が出来ていないというのが正直なところだった。
それに、バスルームでほんの微かな潮の匂いを嗅いでから、周の顔が直視できなくなった。
無様に狼狽する姿や和輝の父親面をしたがる自分、見事に敗れた過去の恋愛。不貞の関係を持ってしまった瀬尾・・・と、救いようが無いほど情けなく恥ずかしい自分を、一挙に周に曝け出したことに気がついてしまった。
罪悪感の浸透した羞恥心を、目の前の男にさらしている自分がいたたまれず、とても食事をする気持ちになどなれない。頭が冷静になってゆくにつれて、周と目を合わせる事すら出来なくなった。
微熱を発する自分の羞恥心をアルコールで誤魔化すように杯を重ねる。なのに、爽やかな口当たりのワインに疲れた躰が酩酊していくのに反して、頭はすっきりと冷めていく。周がこんな自分をどう思ったのか、興ざめし愛想を尽かされたのではないかとか、そんな事ばかりが気になった。
グラスにワインを継ぎ足そうとボトルに伸ばした手を、プラチナの指輪の填る手に捕らえられた。
「享一、もうそれくらいに・・・・」
その言葉の意味するところを裏打ちする濃厚な色香の漂う周の顔を見た途端、全身を熱が覆った。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
うーん。文章がクドイですね。や、いつもクドイけどサ。
ここのところ眠気がどうしても取れなくて、もともとゆるいポンコツ頭がなお働きません(TωT)
謎のド田舎、庄谷は東京より西にあったんですね。東かと思ってた(笑)
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けませんが、書いていく励みになります。。
■拍手のリコメの閲覧は、サイト左上の”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事か、もしくは*こちら*からお越しくださいませ。
ランキングに参加しています
よろしければ、踏んでやってくださいませ。
↓↓↓


うーん。文章がクドイですね。や、いつもクドイけどサ。
ここのところ眠気がどうしても取れなくて、もともとゆるいポンコツ頭がなお働きません(TωT)
謎のド田舎、庄谷は東京より西にあったんですね。東かと思ってた(笑)
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けませんが、書いていく励みになります。。
■拍手のリコメの閲覧は、サイト左上の”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事か、もしくは*こちら*からお越しくださいませ。
ランキングに参加しています
よろしければ、踏んでやってくださいませ。
↓↓↓


桜の木と再会するとは?
アマネさま、我慢して瀬尾っちの顎を砕いていなかったとは~~?
噛みしめながら読みました。
今までいろんなことが、このお屋敷をきっかけに始まったケド… 「享一、もうそれくらいに・・・・」アマネさまが享一のお酒を止めた~~。
我慢できないアマネさま~~、どうするの~~。
朝チュン禁止令発令されました。
享一さん、もっと恥ずかしがって~~(*ノェノ)キャー