06 ,2010
翠滴 3 月櫻 1 (116)
「ありがとう」
自動販売機で買った温かいコーヒーを渡すと、由利はすっかり生気の抜けた声で礼を言った。
潮を含んだ春の風はまだまだ冷たく、じっとしていると指先や顔がつめたく冷えていく。由利は両手を温めるようにカップを持つと、ゆっくり口に運んで小さな溜息を吐いた。
駐車場から下る階段で公園に下り、途中に設置されたベンチに由利と並んで享一も腰を下ろす。
眼下の海へと続く遊歩道を、周が和輝を連れて歩いていく。
陽は海に突き出した半島のなだらかな稜線に消え、空に残る残光が砂浜の中の歩道を歩く2人の姿を淡い光で照らしている。
瀬尾から由利が話したがっていると聞いていたのに、由利は手の中の紙コップを見つめたままで一向に口を開く気配が無い。
「由利は、和輝が俺の子供だって最初から知ってたの?」
口を開きやすいようにと、親しかった頃の呼び名で話しかけた。
いきなり核心を突くストレートな享一の質問に、不意を衝かれたように由利の顔が上った。俄かに疲れて覇気の無くなっていた瞳に感情が宿り始めた。
「いいえ。けれど、心のどこかで『もしかしたら』っていう思いはずっと消えなかった。だから・・・・・産まれた赤ん坊を見た時、すぐにあなたの子だってわかったの」
「私、瀬尾とは別れたくなかった。だから、どうしても言い出せなくて。自分の胸の内に秘めて、親にも黙っておこうって決めたのよ。2人目ができたら、瀬尾との間に子供が出来ればこんな不安は解消されるって思った。なのに・・・和輝が生まれて1年くらい経った頃だったかな・・・・」
苦い過去を回想するように、暮れなずむ空が映る由利の目が細められる。その瞳が夕空など見ていない事は享一にもよくわかっていた。
「瀬尾は私が近くにいないと思ったのね。彼ね、まだ右も左もわからない和輝を抱き上げて、『早く、キョウみたいになれよ』って言ったわ。その時、瀬尾が和輝の父親は自分ではなく時見君だって知っている事に気がついた」
由利はいったん言葉を区切って、カップに口だけつけて飲まずに下ろした。
「衝撃だったけど、瀬尾は知っていても私と結婚したいと思ってくれたんだと思った。でも、その日から目に見えて瀬尾の態度が冷たくなった。私たちね、結婚してから数えるほどしか関係をもってなかったの」
一旦、言葉を切った由利が自嘲気味に笑う。諦観と煩悶が交じり合う横顔に、これまでの由利の苦悩が滲む。純粋に隣に座る小柄な女を可哀相だと思った。
「嫌よね、他人のこんな話」
なんと答えていいのかわからず、黙って目前に広がる海をみていた。
だた、由利が話したいと思うなら、自分はそれを聞くべきであり受け止めるべきなのだ。
「私、瀬尾に関係を修復するよう迫ったわ。幸い瀬尾も離婚の意思はないみたいだったし。それで生活を変えようということになって、渡米はその一環での事だったの。瀬尾との子供が欲しくて、自分から瀬尾に抱いてくれって頼んだの。でも、本当は予感してた・・・」
疲れて一気に老いた印象だった由利の目に、強い光が宿る。
「彼が絶頂の時に呼んだ名は、私のじゃなかった。あなたの名前だったのよ。瀬尾にはもう取り繕う気持ちすらもなかったのね。それで私は全てを悟ったの。瀬尾が本当に欲しかったのは私じゃなくて、あなただったって。問いつめた私に瀬尾はあっさり認めたわ。屈辱だった」
由利の独白には、由利のきりきりと締め上げられる魂の叫びがあった。
自分の信じていた愛が幻想だったと知った時の、足許から世界が崩れる喪失感。
同じ経験をした自分にはわかる。
愛する人の偽りの心に気がつき、更に利用されていたと知ったら。
「あなたが憎いと思った。瀬尾が離婚を口にして和輝を引き取りたいって言った時は、正直悩んだ。でも、あなたの血を引く和輝を見ているのが苦しかった。日を追うごとにあなたに似ていく和輝を見ていると、毎日が責められているような気分だった。私ひとりで、冷静に育てていく自信なんてなかった」
「私はまだ25よ、若いわ。自分の人生はこれからなんだって思った。NYに残って人生を立て直したいと思ったけど、大学も中途半端で捨てた自分には何もなかったわ。結局、コロンビアの学資と、自活できるまでの支援を交換条件に和輝の親権を瀬尾に渡したの」
「酷い母親だわね。自分の生んだ子供を、なんの繋がりもない男に渡してしまうなんて」
由利の言葉の中には小さな嘘があった。
繋がりを残したかったのは、由利の方だ。和輝を瀬尾に渡す事で、瀬尾と繋がっていたいと願う由利の恋心が言葉の表面に薄く、しかしはっきりと透いて見えた。
時々風に乗って「アマネ、船だ!」「大きい、見て」などと、言葉の切れ端が飛んでくる。
「苦しくて離れたのに、実際はダメだった。夜中に寝ていると和輝の声が聞こえた気がして何度も目が覚めるの」
半分も飲まないうちに2人の手の中のコーヒーは温度を失う。
「和輝の親権を私に戻してほしいと頼みにいったら、瀬尾に一蹴されたわ。ああ、時見君とは空港で会ったわね。あの時よ。瀬尾と交渉するために帰国していたの」
由利が瀬尾の頬を思いっきり叩いているのを目撃した事があった。
瀬尾と再会して間もない頃、空港の出発ロビーで瀬尾の頬を打つ由利を偶然見かけた。
あの時、サテライトに向かう由利が自分を憎しみの篭った目で睨みつけた理由が、今ようやくわかった。
「実は、あれからもう一度だけ和輝に会いにきたの」
「公園で和輝がいなくなった時?」
「知っていたの?ああ・・・和輝が話したのね」
「違うよ、その逆だ。あれから和輝に何度聞いても話したがらないから、もしかしたらって思ってた。和輝を取り返したかったのなら、どうしてあのまま連れて行かなかったんだ?」
由利の目が和輝を追う。
半分を夜で覆い尽くされた空は、茜とインディゴのグラデーションを刷き、最後の力を振り絞って一日を終えようとしているように見える。
もうあたりは色の判別も覚束無い。
和輝を肩車する周の姿が黒い影となって、鈍色の海を背景に浮かび上がる。
愛しい人。自分にとってこの地上でもっとも大切な2人。
その2人が今、ひとつのシルエットになって海を見ている。その姿は享一の心に深い感慨を呼ぶ。
この風景ごと、心の中にずっと留めておきたいと願う。
「動揺しちゃったから、かな・・・」
「動揺?」
「森の中を歩いている時、和輝はあなたことを父親みたいだって言ったの」
「・・・・・・和輝が?」 鼓動が俄かに跳ね上がり脈打った。
「あの子、時見君の中にある自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったのかな。あなたたち本当に似ているもの。単に和輝はあなたの優しさを言っただけだったのかもしれないけれど・・・・つい、感情が昂ぶって強い口調で否定したら、あの子それきり時見君のことは口にしなくなったわ」
享一は、急に濃さを増しはじめた夕闇に紛れてしまいそうな和輝の輪郭に、必死に目を凝らした。
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自動販売機で買った温かいコーヒーを渡すと、由利はすっかり生気の抜けた声で礼を言った。
潮を含んだ春の風はまだまだ冷たく、じっとしていると指先や顔がつめたく冷えていく。由利は両手を温めるようにカップを持つと、ゆっくり口に運んで小さな溜息を吐いた。
駐車場から下る階段で公園に下り、途中に設置されたベンチに由利と並んで享一も腰を下ろす。
眼下の海へと続く遊歩道を、周が和輝を連れて歩いていく。
陽は海に突き出した半島のなだらかな稜線に消え、空に残る残光が砂浜の中の歩道を歩く2人の姿を淡い光で照らしている。
瀬尾から由利が話したがっていると聞いていたのに、由利は手の中の紙コップを見つめたままで一向に口を開く気配が無い。
「由利は、和輝が俺の子供だって最初から知ってたの?」
口を開きやすいようにと、親しかった頃の呼び名で話しかけた。
いきなり核心を突くストレートな享一の質問に、不意を衝かれたように由利の顔が上った。俄かに疲れて覇気の無くなっていた瞳に感情が宿り始めた。
「いいえ。けれど、心のどこかで『もしかしたら』っていう思いはずっと消えなかった。だから・・・・・産まれた赤ん坊を見た時、すぐにあなたの子だってわかったの」
「私、瀬尾とは別れたくなかった。だから、どうしても言い出せなくて。自分の胸の内に秘めて、親にも黙っておこうって決めたのよ。2人目ができたら、瀬尾との間に子供が出来ればこんな不安は解消されるって思った。なのに・・・和輝が生まれて1年くらい経った頃だったかな・・・・」
苦い過去を回想するように、暮れなずむ空が映る由利の目が細められる。その瞳が夕空など見ていない事は享一にもよくわかっていた。
「瀬尾は私が近くにいないと思ったのね。彼ね、まだ右も左もわからない和輝を抱き上げて、『早く、キョウみたいになれよ』って言ったわ。その時、瀬尾が和輝の父親は自分ではなく時見君だって知っている事に気がついた」
由利はいったん言葉を区切って、カップに口だけつけて飲まずに下ろした。
「衝撃だったけど、瀬尾は知っていても私と結婚したいと思ってくれたんだと思った。でも、その日から目に見えて瀬尾の態度が冷たくなった。私たちね、結婚してから数えるほどしか関係をもってなかったの」
一旦、言葉を切った由利が自嘲気味に笑う。諦観と煩悶が交じり合う横顔に、これまでの由利の苦悩が滲む。純粋に隣に座る小柄な女を可哀相だと思った。
「嫌よね、他人のこんな話」
なんと答えていいのかわからず、黙って目前に広がる海をみていた。
だた、由利が話したいと思うなら、自分はそれを聞くべきであり受け止めるべきなのだ。
「私、瀬尾に関係を修復するよう迫ったわ。幸い瀬尾も離婚の意思はないみたいだったし。それで生活を変えようということになって、渡米はその一環での事だったの。瀬尾との子供が欲しくて、自分から瀬尾に抱いてくれって頼んだの。でも、本当は予感してた・・・」
疲れて一気に老いた印象だった由利の目に、強い光が宿る。
「彼が絶頂の時に呼んだ名は、私のじゃなかった。あなたの名前だったのよ。瀬尾にはもう取り繕う気持ちすらもなかったのね。それで私は全てを悟ったの。瀬尾が本当に欲しかったのは私じゃなくて、あなただったって。問いつめた私に瀬尾はあっさり認めたわ。屈辱だった」
由利の独白には、由利のきりきりと締め上げられる魂の叫びがあった。
自分の信じていた愛が幻想だったと知った時の、足許から世界が崩れる喪失感。
同じ経験をした自分にはわかる。
愛する人の偽りの心に気がつき、更に利用されていたと知ったら。
「あなたが憎いと思った。瀬尾が離婚を口にして和輝を引き取りたいって言った時は、正直悩んだ。でも、あなたの血を引く和輝を見ているのが苦しかった。日を追うごとにあなたに似ていく和輝を見ていると、毎日が責められているような気分だった。私ひとりで、冷静に育てていく自信なんてなかった」
「私はまだ25よ、若いわ。自分の人生はこれからなんだって思った。NYに残って人生を立て直したいと思ったけど、大学も中途半端で捨てた自分には何もなかったわ。結局、コロンビアの学資と、自活できるまでの支援を交換条件に和輝の親権を瀬尾に渡したの」
「酷い母親だわね。自分の生んだ子供を、なんの繋がりもない男に渡してしまうなんて」
由利の言葉の中には小さな嘘があった。
繋がりを残したかったのは、由利の方だ。和輝を瀬尾に渡す事で、瀬尾と繋がっていたいと願う由利の恋心が言葉の表面に薄く、しかしはっきりと透いて見えた。
時々風に乗って「アマネ、船だ!」「大きい、見て」などと、言葉の切れ端が飛んでくる。
「苦しくて離れたのに、実際はダメだった。夜中に寝ていると和輝の声が聞こえた気がして何度も目が覚めるの」
半分も飲まないうちに2人の手の中のコーヒーは温度を失う。
「和輝の親権を私に戻してほしいと頼みにいったら、瀬尾に一蹴されたわ。ああ、時見君とは空港で会ったわね。あの時よ。瀬尾と交渉するために帰国していたの」
由利が瀬尾の頬を思いっきり叩いているのを目撃した事があった。
瀬尾と再会して間もない頃、空港の出発ロビーで瀬尾の頬を打つ由利を偶然見かけた。
あの時、サテライトに向かう由利が自分を憎しみの篭った目で睨みつけた理由が、今ようやくわかった。
「実は、あれからもう一度だけ和輝に会いにきたの」
「公園で和輝がいなくなった時?」
「知っていたの?ああ・・・和輝が話したのね」
「違うよ、その逆だ。あれから和輝に何度聞いても話したがらないから、もしかしたらって思ってた。和輝を取り返したかったのなら、どうしてあのまま連れて行かなかったんだ?」
由利の目が和輝を追う。
半分を夜で覆い尽くされた空は、茜とインディゴのグラデーションを刷き、最後の力を振り絞って一日を終えようとしているように見える。
もうあたりは色の判別も覚束無い。
和輝を肩車する周の姿が黒い影となって、鈍色の海を背景に浮かび上がる。
愛しい人。自分にとってこの地上でもっとも大切な2人。
その2人が今、ひとつのシルエットになって海を見ている。その姿は享一の心に深い感慨を呼ぶ。
この風景ごと、心の中にずっと留めておきたいと願う。
「動揺しちゃったから、かな・・・」
「動揺?」
「森の中を歩いている時、和輝はあなたことを父親みたいだって言ったの」
「・・・・・・和輝が?」 鼓動が俄かに跳ね上がり脈打った。
「あの子、時見君の中にある自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったのかな。あなたたち本当に似ているもの。単に和輝はあなたの優しさを言っただけだったのかもしれないけれど・・・・つい、感情が昂ぶって強い口調で否定したら、あの子それきり時見君のことは口にしなくなったわ」
享一は、急に濃さを増しはじめた夕闇に紛れてしまいそうな和輝の輪郭に、必死に目を凝らした。
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□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
緑青・・・・・(ろくしょう)と読みます。
本当に最後なのにぱっとしないサブタイトルです(途中で変えたらごめんなさい~。
ありがちな展開でしたね~(笑)。次は多少BLっぽくなると思います。
*お知らせ*
ネタバレ回避のため、以前「もんもんもん」でUPしました翠滴スピンオフ『ファミリーバランス』を
今夜の零時過ぎにこちらでUPします。
軽くざっくりと書いたお気楽SS<全2話>ですので、単純に読み流していただければと思います。
少し手を加えたもののほとんどUP当時のままです。既読の方もよろしければご再読下さい。。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けませんが、書いていく励みになります。。
■拍手のリコメの閲覧は、サイト左上の”もんもんもん”の
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よろしければ、踏んでやってくださいませ。
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緑青・・・・・(ろくしょう)と読みます。
本当に最後なのにぱっとしないサブタイトルです(途中で変えたらごめんなさい~。
ありがちな展開でしたね~(笑)。次は多少BLっぽくなると思います。
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ネタバレ回避のため、以前「もんもんもん」でUPしました翠滴スピンオフ『ファミリーバランス』を
今夜の零時過ぎにこちらでUPします。
軽くざっくりと書いたお気楽SS<全2話>ですので、単純に読み流していただければと思います。
少し手を加えたもののほとんどUP当時のままです。既読の方もよろしければご再読下さい。。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けませんが、書いていく励みになります。。
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みどりはアマネ様のイメージカラー青は群青色のイメージを持つ享一さんでしょうか?
そう考えて行くと、スッゴク素敵なタイトルですよ(アドさん違いますって全否定されたりして、それもいい~~ヾ(´∀`〃)ノ~♪)
今回は、享一さんと由利さんの二人語り。
赤裸々に瀬尾さんの性癖が語られましたね(書き方ヤラシイ)絶頂で「キョウ…」と叫び、小さいカズキンに、『早く、キョウみたいになれよ』って言ってたんですね~~、かなり素敵です~~゜ヽ(亝∀亝。)ノ゜.:。+
瀬尾さん、一度は惚れた男(私が)さすがの偏執ップリ!いいぞ~~~♪
由利さんの話をドッキドキで聞いてて、戯れるカズキンとアマネ様に胸キュンです~~。
ファミリーバランス!!もう一回読んどこう!!
なんて、いいタイミング~~ヾ(´∀`〃)ノ~♪