06 ,2010
翠滴 3 和輝 13 (114)
「キョウちゃん、パパたちのお話まだ終わらないのかな」
漆黒のつぶらな瞳が停車した車から離れた場所で話す瀬尾と由利の姿に引き寄せられる。
しりとりもやたらと長くなった影を踏む遊びも、早々に幼い和輝の関心を留めておくには至らなかった。
それはそうだ。離婚した両親が久しぶりに顔を合わせ自分の目に見える場所にいるのだから飛んで行きたいのは当然だ。30秒と開けずに駐車場の端で海に向けて立つ2人の後ろ姿に顔が向く。
柔らかい由利のサーモンピンク色のスカートが風に遊ばれフワリとなびく。そんな些細な動きにも5歳の子供の目は釘付けになる。
不安なのだ。目を放したらどちらかがいなくなってしまうのではないかと。
大事なものが喪失してしまう不安。大好きな人がいなくなってしまう悲しさ。
自分にはわかる。
自分の父親がよその女と駆け落ちし、家に帰らなくなったあの夜を境に妹や弟たちは日増しに、父親不在の不安定な心の動揺と孤独をその幼い顔に濃くしていった。
父の失踪から2ヶ月ほどが経った頃、弟たちはまだ幼いからと母は中学に入った自分だけを居間に呼び出した。母は、話を始める前に「あなたは年齢以上にしっかりしたところがあるから大丈夫よね」と前置きをして享一に出奔の真相を打ち明けた。
実際は大丈夫どころではなかった。
父親が自分達を捨てたという事実と、自分と同じ年の子供の父親になることを選んだ現実に享一は酷く傷ついた。母はそれなりに気を遣って刺激の強い話の内容をところどころぼやかし、時に薄い言葉の膜に包んで話してくれたが、残念な事にそれが何を意味するか完全に飲み込めないほど自分は子供ではなかった。
どれだけ言葉を変えても、事実は変らない。自分たちは捨てられたのだと思った。
この間まで小学生だった息子にどうして父親が女と逃げたことなど告げるのかと、当時は自分にこんな話を聞かせた母親を恨んだこともあった。新しい仕事に就いたとか、取材旅行に出たとか、他にいくらでも言いようがあったはずだと思った。思いながら、自分がそんな嘘はすぐに見破ってしまう事もわかっていた。大人ではない、だが子供の過程を抜けようとしている微妙な年頃だったのだ。
母はひとりで抱え切れなかったのだと、今になってみればわかる事もたくさんある。
自分の独断で公務員の職を辞し、作家を目指すと宣言した父親を母親が支えたのは、やはり愛していたからだ。
母親一人の収入で家族5人が生活するのは実際苦しかった。それでも母が文句も言わずがんばれたのは、父を何とか作家にしてやりたいと思う母の意地でもあったと思う。生活の中心を占めていた父がいなくなり、心に一番大きな穴を開けたのは、父のことをこよなく愛していた母親だ。気丈に振舞っていても、小学校を出たばかりの息子と悲しみを共有しなければ耐えられなかったほどに、寂しくて不安だったのだ。
風に吹かれて瀬尾と並ぶ由利の背中を見た。
瀬尾と和輝の両方を失った由利はNYでひとり、どんな思いをして過ごしてきたのだろう。由利の疲れきった瞳や荒れた肌が、瀬尾の声を聞いた途端、ぱっと華やぐのを見た。由利はまだ瀬尾を愛している。
瀬尾の享一への想いを由利は知らない。
腫れた瀬尾の顔を叩き、大声で糾弾せずにはいられないほどに、自分に心を置いてくれることのなかった瀬尾のことを愛している。
由利の気持ちを考えると、胸の奥が痛くてどうしようもなかった。
「ねえ、キョウちゃん。早く行かないとお日様が沈んじゃう」
まるで日没と同時に夢から覚めてしまうかのように、落ち着かない声が耳元に訴えてきた。うずうずと今にも走り出したそうな和輝を、おんぶで引き止めておくのもそろそろ限界だ。
その時、振り返った瀬尾が和輝に向けて手を振った。
背中からするりと降りた和輝が両親に向けて一目散に走っていく。小さいくせに、やたらと長い影を従え和輝は広大な駐車場のアスファルトを渡ってゆく。
二人の許に着くと和輝は瀬尾に高く抱え上げられた。
くるくると瀬尾に回され嬉しそうにはしゃぐ和輝の声が、潮風に乗って届く。背中に残っていた愛らしい体温は、波が引くように冷えていった。
視線を感じて振り返ると、赤く焼け焦げる夕焼け空を映した真紅のZにもたれ、和輝と遊ぶ享一を見ていた静かな瞳とぶつかった。ほんの一瞬、目を合わせすぐに周に背を向ける。
情けないような、恥ずかしいような。それよりもっと、打ちのめされたような表情をしているだろう自分の顔を見られたくなかった。
瀬尾に抱っこされた和輝が遠くから手を振る。「キョウちゃーん」と語尾を延ばす子供の声が風に乗ってきた。夜の気配に色彩を失い始めた空と海を背景に、ひとつの家族が金色に輝いている。
何の前触れもなく涙が零れた。
下に降ろした和輝を間に挟み、手を繋いで瀬尾たちが戻ってくる。
夕陽がまぶしいといった風を装いながら、手の甲で涙を素早く拭い笑顔を作った。
きっと、後で見ている周には自分の表情や動作の全てがわかっているのだろう。
背を向けていても周の視線が自分に注がれているのが、わかった。
柔らかい夕陽の光とともに周の視線に背中から抱き締められるのをリアルに感じた。長い腕の幻が自分を強く抱き締めながら「享一」、と耳元で囁き慰めてくれる。
再び滲みそうになる涙を、何度も瞬きをして潮風で乾かした。
「キョウちゃん、僕ね、パパのお仕事が落ち着くまでママのところに行くんだって」
とりあえずは、安心した。
監視の付いた瀬尾と和輝が一緒に暮らす事には大きな懸念と不安が残る。正直、大反対だった。だが、心身ともに傷を受け弱っている今の瀬尾から、和輝を取り上げるような進言をするには、心を鬼にする覚悟が必要だと思っていた。
駐車場の入り口付近に停まったままのプリウスを見る。車内は蔭になって暗く、運転席の男を伺い見る事は出来ない。あの暗い影の中からあの冷たい瞳で自分達を見ているのかと思うと、温度の無い手で心臓を撫でられたようななんとも言えない不快感と、胸騒ぎを覚えた。
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翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
漆黒のつぶらな瞳が停車した車から離れた場所で話す瀬尾と由利の姿に引き寄せられる。
しりとりもやたらと長くなった影を踏む遊びも、早々に幼い和輝の関心を留めておくには至らなかった。
それはそうだ。離婚した両親が久しぶりに顔を合わせ自分の目に見える場所にいるのだから飛んで行きたいのは当然だ。30秒と開けずに駐車場の端で海に向けて立つ2人の後ろ姿に顔が向く。
柔らかい由利のサーモンピンク色のスカートが風に遊ばれフワリとなびく。そんな些細な動きにも5歳の子供の目は釘付けになる。
不安なのだ。目を放したらどちらかがいなくなってしまうのではないかと。
大事なものが喪失してしまう不安。大好きな人がいなくなってしまう悲しさ。
自分にはわかる。
自分の父親がよその女と駆け落ちし、家に帰らなくなったあの夜を境に妹や弟たちは日増しに、父親不在の不安定な心の動揺と孤独をその幼い顔に濃くしていった。
父の失踪から2ヶ月ほどが経った頃、弟たちはまだ幼いからと母は中学に入った自分だけを居間に呼び出した。母は、話を始める前に「あなたは年齢以上にしっかりしたところがあるから大丈夫よね」と前置きをして享一に出奔の真相を打ち明けた。
実際は大丈夫どころではなかった。
父親が自分達を捨てたという事実と、自分と同じ年の子供の父親になることを選んだ現実に享一は酷く傷ついた。母はそれなりに気を遣って刺激の強い話の内容をところどころぼやかし、時に薄い言葉の膜に包んで話してくれたが、残念な事にそれが何を意味するか完全に飲み込めないほど自分は子供ではなかった。
どれだけ言葉を変えても、事実は変らない。自分たちは捨てられたのだと思った。
この間まで小学生だった息子にどうして父親が女と逃げたことなど告げるのかと、当時は自分にこんな話を聞かせた母親を恨んだこともあった。新しい仕事に就いたとか、取材旅行に出たとか、他にいくらでも言いようがあったはずだと思った。思いながら、自分がそんな嘘はすぐに見破ってしまう事もわかっていた。大人ではない、だが子供の過程を抜けようとしている微妙な年頃だったのだ。
母はひとりで抱え切れなかったのだと、今になってみればわかる事もたくさんある。
自分の独断で公務員の職を辞し、作家を目指すと宣言した父親を母親が支えたのは、やはり愛していたからだ。
母親一人の収入で家族5人が生活するのは実際苦しかった。それでも母が文句も言わずがんばれたのは、父を何とか作家にしてやりたいと思う母の意地でもあったと思う。生活の中心を占めていた父がいなくなり、心に一番大きな穴を開けたのは、父のことをこよなく愛していた母親だ。気丈に振舞っていても、小学校を出たばかりの息子と悲しみを共有しなければ耐えられなかったほどに、寂しくて不安だったのだ。
風に吹かれて瀬尾と並ぶ由利の背中を見た。
瀬尾と和輝の両方を失った由利はNYでひとり、どんな思いをして過ごしてきたのだろう。由利の疲れきった瞳や荒れた肌が、瀬尾の声を聞いた途端、ぱっと華やぐのを見た。由利はまだ瀬尾を愛している。
瀬尾の享一への想いを由利は知らない。
腫れた瀬尾の顔を叩き、大声で糾弾せずにはいられないほどに、自分に心を置いてくれることのなかった瀬尾のことを愛している。
由利の気持ちを考えると、胸の奥が痛くてどうしようもなかった。
「ねえ、キョウちゃん。早く行かないとお日様が沈んじゃう」
まるで日没と同時に夢から覚めてしまうかのように、落ち着かない声が耳元に訴えてきた。うずうずと今にも走り出したそうな和輝を、おんぶで引き止めておくのもそろそろ限界だ。
その時、振り返った瀬尾が和輝に向けて手を振った。
背中からするりと降りた和輝が両親に向けて一目散に走っていく。小さいくせに、やたらと長い影を従え和輝は広大な駐車場のアスファルトを渡ってゆく。
二人の許に着くと和輝は瀬尾に高く抱え上げられた。
くるくると瀬尾に回され嬉しそうにはしゃぐ和輝の声が、潮風に乗って届く。背中に残っていた愛らしい体温は、波が引くように冷えていった。
視線を感じて振り返ると、赤く焼け焦げる夕焼け空を映した真紅のZにもたれ、和輝と遊ぶ享一を見ていた静かな瞳とぶつかった。ほんの一瞬、目を合わせすぐに周に背を向ける。
情けないような、恥ずかしいような。それよりもっと、打ちのめされたような表情をしているだろう自分の顔を見られたくなかった。
瀬尾に抱っこされた和輝が遠くから手を振る。「キョウちゃーん」と語尾を延ばす子供の声が風に乗ってきた。夜の気配に色彩を失い始めた空と海を背景に、ひとつの家族が金色に輝いている。
何の前触れもなく涙が零れた。
下に降ろした和輝を間に挟み、手を繋いで瀬尾たちが戻ってくる。
夕陽がまぶしいといった風を装いながら、手の甲で涙を素早く拭い笑顔を作った。
きっと、後で見ている周には自分の表情や動作の全てがわかっているのだろう。
背を向けていても周の視線が自分に注がれているのが、わかった。
柔らかい夕陽の光とともに周の視線に背中から抱き締められるのをリアルに感じた。長い腕の幻が自分を強く抱き締めながら「享一」、と耳元で囁き慰めてくれる。
再び滲みそうになる涙を、何度も瞬きをして潮風で乾かした。
「キョウちゃん、僕ね、パパのお仕事が落ち着くまでママのところに行くんだって」
とりあえずは、安心した。
監視の付いた瀬尾と和輝が一緒に暮らす事には大きな懸念と不安が残る。正直、大反対だった。だが、心身ともに傷を受け弱っている今の瀬尾から、和輝を取り上げるような進言をするには、心を鬼にする覚悟が必要だと思っていた。
駐車場の入り口付近に停まったままのプリウスを見る。車内は蔭になって暗く、運転席の男を伺い見る事は出来ない。あの暗い影の中からあの冷たい瞳で自分達を見ているのかと思うと、温度の無い手で心臓を撫でられたようななんとも言えない不快感と、胸騒ぎを覚えた。
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□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
昨日の今日更新です!(こんな事が嬉しい自分が悲しい。。
種を明かせば、昨日の記事は一昨日推敲が間に合わなかった・・・
つまり、一昨日出すはずだった記事なんですね(ダメダメデス
そして今日もBLから離れてます。さすがに色っぽいものが書きたくなってきました。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けませんが、書いていく励みになります。。
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種を明かせば、昨日の記事は一昨日推敲が間に合わなかった・・・
つまり、一昨日出すはずだった記事なんですね(ダメダメデス
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でも、毎日読めて嬉しいです。
享タン、泣いちゃった。 アマネさんすべてを見ながら薄笑い?
「ふふふ…享一には、俺だけだ。 ふふふ・・・」
金髪も何か考えているんでしょうけどコワくてセリフになんて出来ない。
和輝くんはママのもとへ…。
享タンの過去が悲しいです、夕日の中のかりそめの瀬尾一家が美しい~。