05 ,2010
翠滴 3 和輝 5 (106)
「今、あいつのところにいるのか」
答える気になれず黙っていると、前に比べて格段にやせた顔が自嘲気味に笑う。
「そんなこと、言わずもがな・・・だな」
瀬尾と再会してから後ろめたさにも似た心苦しさから、瀬尾の顔を見ては何度も目を逸らしていた。
太陽の光をギラリと反射させ鈍色の塊が滑走路を走行する。ガラスを隔てたラウンジにもそのジェットエンジンの音が聞こえ享一の視線を奪う。やがて浮き上がったボーイングは徐々に高度を上げ、轟音を上げながら上昇してゆく。
重力も引力も振り切って真っ直ぐ空を目指す軌跡はいっそ潔い。
飛行機が視界から消える前に享一は視線を瀬尾に戻した。
「和輝は・・・・・どうしてる」
享一の問いに今度は諦観の篭った笑いを浮かべ、力の抜けた息をつく。
「まだ従姉妹夫婦のところだ。この後、ここまで連れて来てもらう約束になっている。そしたら一緒に、今夜の便でバンクーバーに発つ」
「今夜?やっぱり移住するのか?」
「ああ、向こうでの生活の準備は全て整えてきた」
穏やかに答える瀬尾の顔には、自分をバンクーバーに誘った時の、自分の気持ちに焦げ付いたような逼迫感はない。掌にあの時の瀬尾の早鐘を打ったような心臓の鼓動が隠微に蘇ったが、それも古びた感覚となって褪せていく。
瀬尾がバンクーバーに行ってしまえば、もう会う事もないかもれない。
もしかしたら一生。
それは、和輝との別れをも意味する。幼い和輝の頭に自分はいつまで留まる事が出来るのか。和輝はやがて自分のことを忘れ、二人で過ごした時間の記憶はやがて自分だけのものになる。
人生のどこかで・・・・・・。本当のところ、そんな日はもう来ないのかもしれない。
それでも自分の気持ちはもう決まっていて、現状も変りはしない。
時は優しくも無いが無情でもない。この幼い息子に対する止め処のない愛しさも、いつかは穏やかに落ち着く日が来るのだろう。
「そうか・・・・。それで、いつ日本に帰って来れたんだ?その・・・足以外は、他には危害は加えられることはなかったのか?」
少し間が空いた。享一が問うように俯けていた目を上げると、打ち捨てられた子供のような心もとなげな瀬尾の表情と合い心に鈍い痛みが走る。瀬尾は速やかに余裕という仮面の下に感情を引っ込めると、今度は不遜な感じで笑った。
「やっと俺のことを聞いてくれるんだな。その前にコーヒーを淹れてきてくれないか」
瀬尾の前のカップを見ると、とっくに空になっている。
「気がつかなくて悪かった」
「いいよ。別にキョウは俺の奥さんってわけじゃないんだから」
「・・・・・・・」
瀬尾の顔から視線を逸らしたままカップを取って立ち上がり、セルフのコーヒーサーバーに向かう。フライトの便が少ない時間帯なのか航空会社の上顧客専用の広いラウンジは閑散としている。フライトまで時間があるのか椅子に座ったまま居眠りをするビジネスマンの姿もあった。
享一はサーバーにカップをセットすると、それとなく窓際の席に座る瀬尾を盗み見た。
こちらに背を向け、思いに耽るように椅子に沈み込む瀬尾のシルエットは、生気の抜けた亡者のように見えた。拉致の恐怖は瀬尾という自信の塊だった男の深い部分に浸透し大きな爪あとを残したに違いなかった。
その瀬尾の横にはチタン製の歩行補助用の杖が立てかけられている。
待ち合わせの場所に杖を突いて現れた姿を見て驚いた享一に、瀬尾は拉致された時に抵抗して膝の関節と靭帯を痛めたのだと説明した。医者には後遺症が残ると告げられたと言っていたが、半ば他人事みたいに事も無げに話す瀬尾に却って目が合わせられなくなった。
目の前に置いたコーヒーに礼を言い、旨そうに口をつける。カップから上げた顔には先刻の揺れるような不安定さは微塵もない。いつもの自信に満ちた瀬尾の顔があるのみだ。
あまりにもそっけのない切り替えに、また微かな痛みを胸に覚えた。
「1週間前にはこっちに戻っていたんだ。解放された時、サントドミンゴの下町で1時間以内に目隠しをとったらズドンだって脅されて放置されたんだぜ。こっちは全て取り上げられて無防備だろ、撃たれなくても強盗にやられたらおしまいじゃないか。これはもう端から殺すつもりだと一時は諦めたね」
瀬尾は結局目隠しをしたまま彷徨っているところを、現地の警察に保護されたという事だった。治安が決していいとは言えないサントドミンゴで無事救出されたのはラッキーだったのだと笑う。
軽い口調で話す瀬尾だが、時々我に返ったように口を閉ざす。それからも瀬尾が話すのは解放されてからの事ばかりで、拉致されている間の事は口にしようとはしない。口止めをされているのは間違いなかった。
瀬尾の膝で組まれた手が小さく震えているのに気がついた。今度は瀬尾が享一から視線を外し、渾身の力で平静を保とうとしている。瀬尾の意思に反し押さえようとしても止まらない震えは、口にはできない拉致時の凄惨さを雄弁に物語っているようだった。
もう、この話題に触れるべきではない。
「瀬尾、上原さんには会わないのか?彼女も和輝に会う権利はあるんだろう?」
「あ、ああ。バンクーバーに行って住むところを和輝に見せたらNYにも連れて行くつもりだ」
話題を変えると、瀬尾はあからさまにほっとした顔をした。
「うん。和輝を育てた事もない俺が言うのもなんだけど、和輝には時々由利に・・・母親に会わせてやって欲しい」
幼い和輝には、まだまだ母親という存在が側にいたほうがいい。
ずっと心にはあったが、瀬尾と自分の歪んでしまった関係のせいで、それを伝える事すら出来なかった。寝言で母親を呼ぶ和輝が不憫でたまらなかった。
涙腺に来そうになって誤魔化すように自分のカップに手を伸ばす。
その手を瀬尾の手に捕えられた。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
答える気になれず黙っていると、前に比べて格段にやせた顔が自嘲気味に笑う。
「そんなこと、言わずもがな・・・だな」
瀬尾と再会してから後ろめたさにも似た心苦しさから、瀬尾の顔を見ては何度も目を逸らしていた。
太陽の光をギラリと反射させ鈍色の塊が滑走路を走行する。ガラスを隔てたラウンジにもそのジェットエンジンの音が聞こえ享一の視線を奪う。やがて浮き上がったボーイングは徐々に高度を上げ、轟音を上げながら上昇してゆく。
重力も引力も振り切って真っ直ぐ空を目指す軌跡はいっそ潔い。
飛行機が視界から消える前に享一は視線を瀬尾に戻した。
「和輝は・・・・・どうしてる」
享一の問いに今度は諦観の篭った笑いを浮かべ、力の抜けた息をつく。
「まだ従姉妹夫婦のところだ。この後、ここまで連れて来てもらう約束になっている。そしたら一緒に、今夜の便でバンクーバーに発つ」
「今夜?やっぱり移住するのか?」
「ああ、向こうでの生活の準備は全て整えてきた」
穏やかに答える瀬尾の顔には、自分をバンクーバーに誘った時の、自分の気持ちに焦げ付いたような逼迫感はない。掌にあの時の瀬尾の早鐘を打ったような心臓の鼓動が隠微に蘇ったが、それも古びた感覚となって褪せていく。
瀬尾がバンクーバーに行ってしまえば、もう会う事もないかもれない。
もしかしたら一生。
それは、和輝との別れをも意味する。幼い和輝の頭に自分はいつまで留まる事が出来るのか。和輝はやがて自分のことを忘れ、二人で過ごした時間の記憶はやがて自分だけのものになる。
人生のどこかで・・・・・・。本当のところ、そんな日はもう来ないのかもしれない。
それでも自分の気持ちはもう決まっていて、現状も変りはしない。
時は優しくも無いが無情でもない。この幼い息子に対する止め処のない愛しさも、いつかは穏やかに落ち着く日が来るのだろう。
「そうか・・・・。それで、いつ日本に帰って来れたんだ?その・・・足以外は、他には危害は加えられることはなかったのか?」
少し間が空いた。享一が問うように俯けていた目を上げると、打ち捨てられた子供のような心もとなげな瀬尾の表情と合い心に鈍い痛みが走る。瀬尾は速やかに余裕という仮面の下に感情を引っ込めると、今度は不遜な感じで笑った。
「やっと俺のことを聞いてくれるんだな。その前にコーヒーを淹れてきてくれないか」
瀬尾の前のカップを見ると、とっくに空になっている。
「気がつかなくて悪かった」
「いいよ。別にキョウは俺の奥さんってわけじゃないんだから」
「・・・・・・・」
瀬尾の顔から視線を逸らしたままカップを取って立ち上がり、セルフのコーヒーサーバーに向かう。フライトの便が少ない時間帯なのか航空会社の上顧客専用の広いラウンジは閑散としている。フライトまで時間があるのか椅子に座ったまま居眠りをするビジネスマンの姿もあった。
享一はサーバーにカップをセットすると、それとなく窓際の席に座る瀬尾を盗み見た。
こちらに背を向け、思いに耽るように椅子に沈み込む瀬尾のシルエットは、生気の抜けた亡者のように見えた。拉致の恐怖は瀬尾という自信の塊だった男の深い部分に浸透し大きな爪あとを残したに違いなかった。
その瀬尾の横にはチタン製の歩行補助用の杖が立てかけられている。
待ち合わせの場所に杖を突いて現れた姿を見て驚いた享一に、瀬尾は拉致された時に抵抗して膝の関節と靭帯を痛めたのだと説明した。医者には後遺症が残ると告げられたと言っていたが、半ば他人事みたいに事も無げに話す瀬尾に却って目が合わせられなくなった。
目の前に置いたコーヒーに礼を言い、旨そうに口をつける。カップから上げた顔には先刻の揺れるような不安定さは微塵もない。いつもの自信に満ちた瀬尾の顔があるのみだ。
あまりにもそっけのない切り替えに、また微かな痛みを胸に覚えた。
「1週間前にはこっちに戻っていたんだ。解放された時、サントドミンゴの下町で1時間以内に目隠しをとったらズドンだって脅されて放置されたんだぜ。こっちは全て取り上げられて無防備だろ、撃たれなくても強盗にやられたらおしまいじゃないか。これはもう端から殺すつもりだと一時は諦めたね」
瀬尾は結局目隠しをしたまま彷徨っているところを、現地の警察に保護されたという事だった。治安が決していいとは言えないサントドミンゴで無事救出されたのはラッキーだったのだと笑う。
軽い口調で話す瀬尾だが、時々我に返ったように口を閉ざす。それからも瀬尾が話すのは解放されてからの事ばかりで、拉致されている間の事は口にしようとはしない。口止めをされているのは間違いなかった。
瀬尾の膝で組まれた手が小さく震えているのに気がついた。今度は瀬尾が享一から視線を外し、渾身の力で平静を保とうとしている。瀬尾の意思に反し押さえようとしても止まらない震えは、口にはできない拉致時の凄惨さを雄弁に物語っているようだった。
もう、この話題に触れるべきではない。
「瀬尾、上原さんには会わないのか?彼女も和輝に会う権利はあるんだろう?」
「あ、ああ。バンクーバーに行って住むところを和輝に見せたらNYにも連れて行くつもりだ」
話題を変えると、瀬尾はあからさまにほっとした顔をした。
「うん。和輝を育てた事もない俺が言うのもなんだけど、和輝には時々由利に・・・母親に会わせてやって欲しい」
幼い和輝には、まだまだ母親という存在が側にいたほうがいい。
ずっと心にはあったが、瀬尾と自分の歪んでしまった関係のせいで、それを伝える事すら出来なかった。寝言で母親を呼ぶ和輝が不憫でたまらなかった。
涙腺に来そうになって誤魔化すように自分のカップに手を伸ばす。
その手を瀬尾の手に捕えられた。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
激しい展開をご期待のみなさま、申し訳ありません(笑)
穏やかです。この後も比較的穏やかです(;^_^A
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
■拍手のリコメの閲覧は、サイト左上の”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事か、もしくは*こちら*からお越しくださいませ。
ランキングに参加しています
よろしければ、お踏みくださいませ。
↓↓↓

にほんブログ村

激しい展開をご期待のみなさま、申し訳ありません(笑)
穏やかです。この後も比較的穏やかです(;^_^A
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
■拍手のリコメの閲覧は、サイト左上の”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事か、もしくは*こちら*からお越しくださいませ。
ランキングに参加しています
よろしければ、お踏みくださいませ。
↓↓↓

にほんブログ村

空港のラウンジでの出発前の会話…穏やかなようでピンと空気が張り詰めています。
アマネさんは、どっかから見て無いのか~~?
あわわわ…瀬尾っちの手が享一さんに、瀬尾っちアブナイッ!!
和輝君を思う享一さんの心が切ないです。 再会シーン、ハンカチ用意しとこう!!