05 ,2010
翠滴 3 和輝 2 (103)
「部屋を解約?」
「ええ」 と覚えのある50半ばの黒縁メガネをかけた男が肯く。
駅前にある不動産屋の椅子に、カウンターを挟んで向かい合わせに座っていた。
4年前享一のアパートを世話してくれたのも、一ヶ月前に深夜に来てくれる鍵屋を捜してくれたのもこの黒田という不動産業を営む男だった。
「俺は解約した覚えはありません・・・大体、部屋の中には俺の荷物がまだ残っているはずでしょう?」
「時見さんがピッキング被害に遭われた一週間後くらいに、代理という方が解約に見えられましたよ」
黒田は立ち上がると棚から青いファイルを取ってその中から一枚の書類を引き抜いた。バイトの女の子の淹れてくれたお茶を横に退け、目の前に差し出す。
「これがその時の書類です。時見さん、えらい人とご縁があったんですねえ。この人、NHホールディングスの買収の時テレビに出ていた人でしょう? 時見さんの荷物もこの人が業者を手配されて引き取って行かれましたよ」
驚いて書類に視線を落とす。
ごつごつと骨ばった指がさした代理人欄には、見覚えのある筆跡で周の名前が書いてあった。
「カッコいい~とか何とか。もう・・・娘が色めき立っちゃってねえ」
気の抜けた声に顔を上げると、苦々しげに眉を寄せる黒田が親指で後ろを指す。
事務机に座っていた女の子が恥ずかしそうに笑って会釈をしてきた。色白の今にもぱちんと弾けそうな頬が、享一と目が合って更に朱に染まる。二十歳そこそこか、初々しさが微笑ましい。黒田の咳払いに慌てて緩んだ視線を戻した。
「時見さん、体調を崩されて入院されていたんですって?ピッキングのあった夜に久しぶりにお会いしたら随分痩せしていらしたし、顔色も凄く悪かったんで私も心配していたんですよ」
日付はヴィラで倒れた4日後になっている。ということは、周は最初から自分をペントハウスに住まわせるつもりだったのだろうか。やる事の大胆さに、感心するやら、呆れるやらだ。
『お前の帰る場所はもうここしかないから』というのは、こういうことだったのかと、
なにか一本取られたような感じで、河村の前で黒田の娘のように赤面しながら周の手を取った自分が悔しい気がした。
書類を返すと、黒縁メガネの奥の目が含みのある笑みを向けてきた。
「時見さん、もしかしてご結婚が決まったんじゃないですか?」
「は?」
「ここに初めて見えられた頃に比べてずいぶん印象が変られたというか、ぐっと垢抜けられた気がしますよ。立派になられたと思います。体調もすっかりよくなられたみたいですし、目の輝きが違う。こういう商売ですからね新居を探すカップルにもよくお目にかかりますけど、今の時見さんはその方々と雰囲気がよく似ているんです。いや、もっと幸せそうに見えます。時見さんのお相手なら、しっかりとした料理上手なお嬢さんなんでしょうねえ」
黒田はそういうと、背後の娘の反応をチラリと見る。
「・・・・・・・はぁ」
食事は階下のイタリアンレストランのシェフが、享一のために消化がよく栄養価が高いメニューを考え作ってくれる。驚くのは届けられた料理がイタリアンのみならず和食から中華、フレンチと幅が広く、どれも感嘆せずにはいられないほどに美味い。仕事も趣味も料理というシェフの厚意は偏に周の人望によるものなのだろう。
今着ている服も享一に似合いそうだからと、周が”GLAMOROUS”で見繕ってきてくれたものだ。首に残る指の痕を隠せるトップスが、このスタイリッシュな半袖の黒のタートルしかなかった。
「決まったんでしょ、ご結婚が」
まさか、このタートルの下に“お嬢さん”が頚を絞めた痕が残っているとは黒田は思わないだろう。苦い笑いが込み上げる。ふと享一は黒田の視線の先にあるものに気付き、一連の発言に合点がいった。
黒田は享一の薬指に填る指輪を見ていたのだ。
「ええ、実は・・・ありがとうございます」
周と生きると腹を括ったからには、これもひとつの門出なのだと背筋を正した。
「やっぱりそうでしたか。最近は男性でもそういう大振りの指輪を嵌めるんですね。いやさ実はねえ、この上にももう一人妙齢の娘がいましてね・・・と。ま、そんなことはもう、どうだっていいんですけどね」
完全に父親の顔になった黒田が照れ笑いを浮かべ、顔の前で掌を左右に振る。
「郷里のお母さんもさぞ安心された事でしょう。時見さん、本当におめでとうございます」
黒田は笑顔のまま頭を下げた。
4年前に地方から出てきた青年を気に掛けていてくれたことに、感謝の気持ちが込み上げる。
これまでの親切にも丁寧に礼を言い、享一は店を後にした。
4年間、毎日歩いた道を駅に向かって歩く。歩道も町並みにも、人の生活の匂いがする。4年間の間に馴染んだこの街の空気が、アパートのドアと同じく急によそよそしい顔になった気がした。
自分の帰る場所はもうこの街のどこにもなく、過去の場所へと変わっていこうとしている。
足を止め、駅とは逆のアパートに向かう道を振り返る。黒田が仕事の顔に垣間見せた我が子を思う父親の顔は、享一の胸に羨望と切なさを同時に呼び起こした。
寒い冬の日、手を繋いでこの道を和輝と歩いた。
周との人生を選んだ自分は、もうあの小さな姿を見ることも叶わないかもしれない。最後まで名乗る事も出来ないまま、結局父親らしい事は何もしてやれなかった。
身勝手な大人の事情と思惑の上に産み落とされた子供。不憫だと思う気持ちはやはり自分の驕りなのだろうかと思う。
どのような器の中に生まれてこようと、子供は明るい空に向かって育ってゆく。素直さも優しさも今のままで、和輝が真っ直ぐ育ってくれることを願う事しかできない。
穏やかな春の日差しの中、思いを断ち切るように踵を返し歩き始めた。夕刻が近付き、ほんの少し冷たくなった風が剥き出しの腕や下ろした前髪に纏わりつき、するりと抜けていった。
血とか因縁とかではなく、本当に和輝と自分が繋がっているのなら、人生のどこかできっとまた会える日が来る。
顔を上げて駅に向かって歩き始めた享一の目に、エロティックな女の唇を連想させる真紅の車体が飛び込んできた。
平凡で雑多な駅前の風景に殴り込みをかけたような真っ赤なフェアレディと、そこに凭れる長躯の男は、道行く人の注目を一身に集めている。気付かない振りで通り過ぎようかとも思ったが、ネクタイを外したシャツに、仕立てのよいスーツと色香を纏う男の視線は、とっくに享一を絡め捕えている。
サングラスをかけているという事は、カラーコンタクトを外しているのかもしれない。
男は、躊躇った末にようやく自分に向かって歩き出した享一を認めると、薄い唇の角を上げ享一にだけわかるようにニヤリと笑った。
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「ええ」 と覚えのある50半ばの黒縁メガネをかけた男が肯く。
駅前にある不動産屋の椅子に、カウンターを挟んで向かい合わせに座っていた。
4年前享一のアパートを世話してくれたのも、一ヶ月前に深夜に来てくれる鍵屋を捜してくれたのもこの黒田という不動産業を営む男だった。
「俺は解約した覚えはありません・・・大体、部屋の中には俺の荷物がまだ残っているはずでしょう?」
「時見さんがピッキング被害に遭われた一週間後くらいに、代理という方が解約に見えられましたよ」
黒田は立ち上がると棚から青いファイルを取ってその中から一枚の書類を引き抜いた。バイトの女の子の淹れてくれたお茶を横に退け、目の前に差し出す。
「これがその時の書類です。時見さん、えらい人とご縁があったんですねえ。この人、NHホールディングスの買収の時テレビに出ていた人でしょう? 時見さんの荷物もこの人が業者を手配されて引き取って行かれましたよ」
驚いて書類に視線を落とす。
ごつごつと骨ばった指がさした代理人欄には、見覚えのある筆跡で周の名前が書いてあった。
「カッコいい~とか何とか。もう・・・娘が色めき立っちゃってねえ」
気の抜けた声に顔を上げると、苦々しげに眉を寄せる黒田が親指で後ろを指す。
事務机に座っていた女の子が恥ずかしそうに笑って会釈をしてきた。色白の今にもぱちんと弾けそうな頬が、享一と目が合って更に朱に染まる。二十歳そこそこか、初々しさが微笑ましい。黒田の咳払いに慌てて緩んだ視線を戻した。
「時見さん、体調を崩されて入院されていたんですって?ピッキングのあった夜に久しぶりにお会いしたら随分痩せしていらしたし、顔色も凄く悪かったんで私も心配していたんですよ」
日付はヴィラで倒れた4日後になっている。ということは、周は最初から自分をペントハウスに住まわせるつもりだったのだろうか。やる事の大胆さに、感心するやら、呆れるやらだ。
『お前の帰る場所はもうここしかないから』というのは、こういうことだったのかと、
なにか一本取られたような感じで、河村の前で黒田の娘のように赤面しながら周の手を取った自分が悔しい気がした。
書類を返すと、黒縁メガネの奥の目が含みのある笑みを向けてきた。
「時見さん、もしかしてご結婚が決まったんじゃないですか?」
「は?」
「ここに初めて見えられた頃に比べてずいぶん印象が変られたというか、ぐっと垢抜けられた気がしますよ。立派になられたと思います。体調もすっかりよくなられたみたいですし、目の輝きが違う。こういう商売ですからね新居を探すカップルにもよくお目にかかりますけど、今の時見さんはその方々と雰囲気がよく似ているんです。いや、もっと幸せそうに見えます。時見さんのお相手なら、しっかりとした料理上手なお嬢さんなんでしょうねえ」
黒田はそういうと、背後の娘の反応をチラリと見る。
「・・・・・・・はぁ」
食事は階下のイタリアンレストランのシェフが、享一のために消化がよく栄養価が高いメニューを考え作ってくれる。驚くのは届けられた料理がイタリアンのみならず和食から中華、フレンチと幅が広く、どれも感嘆せずにはいられないほどに美味い。仕事も趣味も料理というシェフの厚意は偏に周の人望によるものなのだろう。
今着ている服も享一に似合いそうだからと、周が”GLAMOROUS”で見繕ってきてくれたものだ。首に残る指の痕を隠せるトップスが、このスタイリッシュな半袖の黒のタートルしかなかった。
「決まったんでしょ、ご結婚が」
まさか、このタートルの下に“お嬢さん”が頚を絞めた痕が残っているとは黒田は思わないだろう。苦い笑いが込み上げる。ふと享一は黒田の視線の先にあるものに気付き、一連の発言に合点がいった。
黒田は享一の薬指に填る指輪を見ていたのだ。
「ええ、実は・・・ありがとうございます」
周と生きると腹を括ったからには、これもひとつの門出なのだと背筋を正した。
「やっぱりそうでしたか。最近は男性でもそういう大振りの指輪を嵌めるんですね。いやさ実はねえ、この上にももう一人妙齢の娘がいましてね・・・と。ま、そんなことはもう、どうだっていいんですけどね」
完全に父親の顔になった黒田が照れ笑いを浮かべ、顔の前で掌を左右に振る。
「郷里のお母さんもさぞ安心された事でしょう。時見さん、本当におめでとうございます」
黒田は笑顔のまま頭を下げた。
4年前に地方から出てきた青年を気に掛けていてくれたことに、感謝の気持ちが込み上げる。
これまでの親切にも丁寧に礼を言い、享一は店を後にした。
4年間、毎日歩いた道を駅に向かって歩く。歩道も町並みにも、人の生活の匂いがする。4年間の間に馴染んだこの街の空気が、アパートのドアと同じく急によそよそしい顔になった気がした。
自分の帰る場所はもうこの街のどこにもなく、過去の場所へと変わっていこうとしている。
足を止め、駅とは逆のアパートに向かう道を振り返る。黒田が仕事の顔に垣間見せた我が子を思う父親の顔は、享一の胸に羨望と切なさを同時に呼び起こした。
寒い冬の日、手を繋いでこの道を和輝と歩いた。
周との人生を選んだ自分は、もうあの小さな姿を見ることも叶わないかもしれない。最後まで名乗る事も出来ないまま、結局父親らしい事は何もしてやれなかった。
身勝手な大人の事情と思惑の上に産み落とされた子供。不憫だと思う気持ちはやはり自分の驕りなのだろうかと思う。
どのような器の中に生まれてこようと、子供は明るい空に向かって育ってゆく。素直さも優しさも今のままで、和輝が真っ直ぐ育ってくれることを願う事しかできない。
穏やかな春の日差しの中、思いを断ち切るように踵を返し歩き始めた。夕刻が近付き、ほんの少し冷たくなった風が剥き出しの腕や下ろした前髪に纏わりつき、するりと抜けていった。
血とか因縁とかではなく、本当に和輝と自分が繋がっているのなら、人生のどこかできっとまた会える日が来る。
顔を上げて駅に向かって歩き始めた享一の目に、エロティックな女の唇を連想させる真紅の車体が飛び込んできた。
平凡で雑多な駅前の風景に殴り込みをかけたような真っ赤なフェアレディと、そこに凭れる長躯の男は、道行く人の注目を一身に集めている。気付かない振りで通り過ぎようかとも思ったが、ネクタイを外したシャツに、仕立てのよいスーツと色香を纏う男の視線は、とっくに享一を絡め捕えている。
サングラスをかけているという事は、カラーコンタクトを外しているのかもしれない。
男は、躊躇った末にようやく自分に向かって歩き出した享一を認めると、薄い唇の角を上げ享一にだけわかるようにニヤリと笑った。
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□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
ちょいちょいと付け足したら、またもや長い記事に。
短くして更新をマメにする方がいいのではないかしらん(;^_^A
記事に対してのご意見や、目次のエロマークのご要望等ありましたらご一報くださいませ。
お待ちしております。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
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アマネお嬢様、頸を絞めちゃあいけませんぜ。
>目の醒めるような真紅のフェアレディと、そこに凭れるモデルのような長躯の男は道行く人の注目を一身に集めている
アマネさま、お迎えに!!
シャコタンのフェアレディで参上!
どう考えてもカッコいい(*´ο`*)=3 はふぅん
1話の長さですか? えんえんあってもいいんだけど…毎日更新もヽ(゚∀゚)ノ パッ☆うれしいし~~~。
今回、切ろうと思ってもどこで切っていいかわからないですよね~、うーん。
え? 目次のエロマーク?
*Mさんみたいな? どっちにしろ戻ると危険な目に合うから私にはあっても無くてもなんですが? みなさん欲しい?(聞いてみる)
最後に、前髪下ろした享一さんの半そでタートルネックに萌え~。