05 ,2010
翠滴 3 和輝 1 (102)
何の変哲もないメタリックな灰色の玄関ドアの前に立って10分ほどが経っていた。
久しぶりに見るアパートの自室のドアは長期に部屋を空けたせいかよそよそしく素っ気無い。
大学卒業後、就職に伴い上京して何軒も不動産屋を回ってやっとこのアパートに出会えた。
立地や家賃に加え高い場所が苦手であることから「1階の部屋で」という条件をつけると、候補の物件はたちまち消える。特に東京の高い家賃は悩みの種だった。賃貸雑誌を片手に何軒も不動産屋の梯子をした。
この部屋は、実家に仕送りをするという享一の事情を知った不動産屋が、個人的なツテで見つけてきてくれた。アパート自体は理想の部屋からは程遠い築30年という代物だが、見ようによってはレトロといえなくもない。何より間取りと、内装のシンプルさが気に入った。家賃も、担当者に事情を聞いた家主が地方出の若者のために据え置きにしてくれ、給与の3分の一を仕送りすると決めた身には大いに助かった。
あれから4年が経つ。失恋の痛手を抱いたまま東京に移り住み、それまでの自分では考えられないような経緯を経てこの東京で失くした恋と再びめぐり合うことができた。
桜の頃、必ず迎えに行く。
日本中が話題一色に染まった買収劇が収束に向かう頃、周からの連絡をこの部屋で息を潜めて待った。あの時の記憶は、一斉に散る花弁とともに、自分の押し殺したような息遣いまでもが鮮明に蘇る。
息子である和輝と短いながらも2人だけで過ごした時間も蘇る。周と別れた夜、大人気なく涙を流す自分の首に縋りつき、一緒に泣いてくれながら眠ってしまった和輝を抱っこしてベッドに寝かしつけた。和輝の幼いながらに自分を慰めてくれようとする気遣いと、真っ直ぐな優しさが脆弱な自分の精神にこたえた。和輝の幼い寝顔を思い出すと、今でも言いようのない切なさが込み上げる。
目前のドアの向こうには、さまざまな感情と記憶が放置されたままになっている。
こうやって帰宅するのは、ピッキングに遭って以来だ。
被害に遭った夜、鍵を取り替えてもらった後、着替えや通帳など必要最低限のものだけを持って逃げ出すように部屋を出た。裂かれたソファやベッドもあの夜のままだ。
享一は黙って睨むようにしてドアを見つめた。唾を飲み込む黒いタートルネックの喉が上下した。
ポケットから鍵を取り出す。
周にはここに来ることを告げずに来た。
翌週から仕事に復帰するにあたり、周が仕事に出た後に思い立って、夕方までには戻るつもりでペントハウスを出た。早く始めないと、日は既に傾き始めている。
こことは対照的な都内の一等地にあるペントハウスでは周との生活がスタートしている。
今までも数日に亘って一緒にいることはよくあったが、人生初の同棲は毎日がふわふわと地に足が着かない感じで、真似事をしているような気分だった。
周の希望で、朝はペントハウス専用のエレベーターホールでキスで周を送り出し、帰宅時は腰が砕けてしまいそうな抱擁とキスに警戒しながら出迎える。
その都度、どっちが送り迎える側なのかわからなくなりそうな濃厚なキスに眩暈を覚えた。
周の帰宅を待ち食事をし、テレビを見るのも風呂に入るのも一緒で夜は抱き合って眠る。
どこかまだ甘い夢のようで現実感が伴わない。
だがタートルで隠された首筋にはまだ、周が首を絞めた時の指の痕が薄く残っていた。大きな唇が毎晩指の痕を吸うせいでなかなか消えてくれない。自分の掌を頸にあてると微かな感触にもズクリと躰の芯が疼き、慌てて手を離した。
熱い肌、唇、吐息、毎夜周に抱かれ意識を飛ばすまで互いを貪り、与え続ける。
この時だけは、周と2人でいるという実感を肌身に感じることが出来る。
絞首の痕を甘噛みしながら吸われる疼痛や、戯れのように同じ場所を絞めてくる指先を思い出すと、肌がゾワリとざわめき情交の最中のように身体の奥が熱を帯び興奮し始める。
ひとりで周の帰りを待つ時間、身体に残る微熱に浮かされ戸惑いを覚えた。自分は一体どうなってしまったのだろうかと思う。
早いところ生活を切り替えないと、社会復帰が危うくなりそうだ。
俄かに上がり始めた体温を冷ますように息を吐いた。
「なんで一ケ月も休暇をとるかな」
昨日、ワインとメキシコ料理を持って見舞いを口実に様子を見に来てくれた河村から、実は2週間ほどの入院でよかったことを聞かされた。
「せっかくVIP室を用意してやろうって言ったのに、蹴ったんだよ。こちらの御仁は」
「え、圭太さんのお父さんの病院は満床だったと・・・・」
河村が方眉を上げ、横目で周を見る。
「ふうん、そういうことね」
ニヤニヤと意地悪く笑う河村に、周は澄ました顔で激辛のサルサソ-スのきいたトルティーヤを齧り「それがなにか?」とさらリと躱す。そして、丸いテーブルの斜向かいで唖然とする享一を流し目で打ち抜くとニヤリと悪びれもせず、「享一の帰る場所はもうここしかないから」と河村の前で手を伸ばしてきた。
頬を紅潮させ目を泳がせる享一に河村はクールなひやかしの目を寄越し、周は早くしろと冴えた翠の瞳で急かす。どちらの顔も正視できず、俯いたまま伸ばされた周の手を取る。自然に搦まる指に鼻白み、空気を読んだ河村が、「俺も今日は葉山に帰るとするかな」と席を立つ。その言葉が意味するところに更に顔が熱くなった。
これからは享一のいる場所が自分の帰る場所になる。
前に同じようなことを周から言われ、照れて憎まれ口で濁したことがあった。周ならきっとストレートに言葉を受け取り、喜んでくれるに違いないと思う。
気を取り直し手の中の銀色に光る真新しい鍵の方向を確かめ、鍵穴に差し込みぴたりと止る。
室内で繰り広げられるの惨事の記憶に、鍵を握る指先が躊躇う。
無言の暴力、脅迫、侵害・・・室内を見たときの強打されるような衝撃が頭から消えることはなかった。
ここまで来て逃げ出したい衝動に駆られた。
命を狙われた上に同じように部屋を荒らされた瀬尾の、疑心暗鬼に陥った気持ちが今なら理解できる。
ただ、解約するにしろ、引き続き借りるにしろアパートをこのままで放っておくわけにはいかない。それに、アパートを整理することで、瀬尾や和輝のことも頭の中でしかるべき場所に収めることが出来るような気がした。
また、周と前に進むためにもそうしなければいけないとも思った。
覚悟を決めて小さな金属片を奥まで差し込み、時計と逆方向に回す。
「ん・・・・・?」
ドアから離れて確かめる。一階の左から2つ目・・・。
その時になって初めて自分の表札が無くなっている事に気がついた。
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翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
久しぶりに見るアパートの自室のドアは長期に部屋を空けたせいかよそよそしく素っ気無い。
大学卒業後、就職に伴い上京して何軒も不動産屋を回ってやっとこのアパートに出会えた。
立地や家賃に加え高い場所が苦手であることから「1階の部屋で」という条件をつけると、候補の物件はたちまち消える。特に東京の高い家賃は悩みの種だった。賃貸雑誌を片手に何軒も不動産屋の梯子をした。
この部屋は、実家に仕送りをするという享一の事情を知った不動産屋が、個人的なツテで見つけてきてくれた。アパート自体は理想の部屋からは程遠い築30年という代物だが、見ようによってはレトロといえなくもない。何より間取りと、内装のシンプルさが気に入った。家賃も、担当者に事情を聞いた家主が地方出の若者のために据え置きにしてくれ、給与の3分の一を仕送りすると決めた身には大いに助かった。
あれから4年が経つ。失恋の痛手を抱いたまま東京に移り住み、それまでの自分では考えられないような経緯を経てこの東京で失くした恋と再びめぐり合うことができた。
日本中が話題一色に染まった買収劇が収束に向かう頃、周からの連絡をこの部屋で息を潜めて待った。あの時の記憶は、一斉に散る花弁とともに、自分の押し殺したような息遣いまでもが鮮明に蘇る。
息子である和輝と短いながらも2人だけで過ごした時間も蘇る。周と別れた夜、大人気なく涙を流す自分の首に縋りつき、一緒に泣いてくれながら眠ってしまった和輝を抱っこしてベッドに寝かしつけた。和輝の幼いながらに自分を慰めてくれようとする気遣いと、真っ直ぐな優しさが脆弱な自分の精神にこたえた。和輝の幼い寝顔を思い出すと、今でも言いようのない切なさが込み上げる。
目前のドアの向こうには、さまざまな感情と記憶が放置されたままになっている。
こうやって帰宅するのは、ピッキングに遭って以来だ。
被害に遭った夜、鍵を取り替えてもらった後、着替えや通帳など必要最低限のものだけを持って逃げ出すように部屋を出た。裂かれたソファやベッドもあの夜のままだ。
享一は黙って睨むようにしてドアを見つめた。唾を飲み込む黒いタートルネックの喉が上下した。
ポケットから鍵を取り出す。
周にはここに来ることを告げずに来た。
翌週から仕事に復帰するにあたり、周が仕事に出た後に思い立って、夕方までには戻るつもりでペントハウスを出た。早く始めないと、日は既に傾き始めている。
こことは対照的な都内の一等地にあるペントハウスでは周との生活がスタートしている。
今までも数日に亘って一緒にいることはよくあったが、人生初の同棲は毎日がふわふわと地に足が着かない感じで、真似事をしているような気分だった。
周の希望で、朝はペントハウス専用のエレベーターホールでキスで周を送り出し、帰宅時は腰が砕けてしまいそうな抱擁とキスに警戒しながら出迎える。
その都度、どっちが送り迎える側なのかわからなくなりそうな濃厚なキスに眩暈を覚えた。
周の帰宅を待ち食事をし、テレビを見るのも風呂に入るのも一緒で夜は抱き合って眠る。
どこかまだ甘い夢のようで現実感が伴わない。
だがタートルで隠された首筋にはまだ、周が首を絞めた時の指の痕が薄く残っていた。大きな唇が毎晩指の痕を吸うせいでなかなか消えてくれない。自分の掌を頸にあてると微かな感触にもズクリと躰の芯が疼き、慌てて手を離した。
熱い肌、唇、吐息、毎夜周に抱かれ意識を飛ばすまで互いを貪り、与え続ける。
この時だけは、周と2人でいるという実感を肌身に感じることが出来る。
絞首の痕を甘噛みしながら吸われる疼痛や、戯れのように同じ場所を絞めてくる指先を思い出すと、肌がゾワリとざわめき情交の最中のように身体の奥が熱を帯び興奮し始める。
ひとりで周の帰りを待つ時間、身体に残る微熱に浮かされ戸惑いを覚えた。自分は一体どうなってしまったのだろうかと思う。
早いところ生活を切り替えないと、社会復帰が危うくなりそうだ。
俄かに上がり始めた体温を冷ますように息を吐いた。
「なんで一ケ月も休暇をとるかな」
昨日、ワインとメキシコ料理を持って見舞いを口実に様子を見に来てくれた河村から、実は2週間ほどの入院でよかったことを聞かされた。
「せっかくVIP室を用意してやろうって言ったのに、蹴ったんだよ。こちらの御仁は」
「え、圭太さんのお父さんの病院は満床だったと・・・・」
河村が方眉を上げ、横目で周を見る。
「ふうん、そういうことね」
ニヤニヤと意地悪く笑う河村に、周は澄ました顔で激辛のサルサソ-スのきいたトルティーヤを齧り「それがなにか?」とさらリと躱す。そして、丸いテーブルの斜向かいで唖然とする享一を流し目で打ち抜くとニヤリと悪びれもせず、「享一の帰る場所はもうここしかないから」と河村の前で手を伸ばしてきた。
頬を紅潮させ目を泳がせる享一に河村はクールなひやかしの目を寄越し、周は早くしろと冴えた翠の瞳で急かす。どちらの顔も正視できず、俯いたまま伸ばされた周の手を取る。自然に搦まる指に鼻白み、空気を読んだ河村が、「俺も今日は葉山に帰るとするかな」と席を立つ。その言葉が意味するところに更に顔が熱くなった。
これからは享一のいる場所が自分の帰る場所になる。
前に同じようなことを周から言われ、照れて憎まれ口で濁したことがあった。周ならきっとストレートに言葉を受け取り、喜んでくれるに違いないと思う。
気を取り直し手の中の銀色に光る真新しい鍵の方向を確かめ、鍵穴に差し込みぴたりと止る。
室内で繰り広げられるの惨事の記憶に、鍵を握る指先が躊躇う。
無言の暴力、脅迫、侵害・・・室内を見たときの強打されるような衝撃が頭から消えることはなかった。
ここまで来て逃げ出したい衝動に駆られた。
命を狙われた上に同じように部屋を荒らされた瀬尾の、疑心暗鬼に陥った気持ちが今なら理解できる。
ただ、解約するにしろ、引き続き借りるにしろアパートをこのままで放っておくわけにはいかない。それに、アパートを整理することで、瀬尾や和輝のことも頭の中でしかるべき場所に収めることが出来るような気がした。
また、周と前に進むためにもそうしなければいけないとも思った。
覚悟を決めて小さな金属片を奥まで差し込み、時計と逆方向に回す。
「ん・・・・・?」
ドアから離れて確かめる。一階の左から2つ目・・・。
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□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
今日から再開いたします。長い間お休みしてしまうことになりほんとにすみませんでした。
みなさまのGWはいかがでしたか?我が家は法事の帰りにキャンプに行きました。
喪服姿でテントを張る不気味な家族はまるで、怪しい宗教団体の人たちみたいでした。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
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今日から再開いたします。長い間お休みしてしまうことになりほんとにすみませんでした。
みなさまのGWはいかがでしたか?我が家は法事の帰りにキャンプに行きました。
喪服姿でテントを張る不気味な家族はまるで、怪しい宗教団体の人たちみたいでした。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
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再開されたサブタイトルが「和輝」今後、瀬尾さんから和輝君を引き取ることができるのか?
自分の部屋の前でエロい事、楽しいこと、おのろけまで回想する享一さん(河村さん葉山で楽しそう、良かった)一通り浸って部屋の表札が無い事に気づきました!!
コレってどういう展開?
紙魚さんどうするつもり~~~~?
GWに喪服でテントを張って、モノスゴイ展開を考えついたのでは?
ああ~~、はらはらする~~~。
更新をお待ちしております。(読んだばっかりなのに!!)