02 ,2010
翠滴 3 born 1 (84)
真っ暗だった。茫漠としたこの闇を知っている。
かつて自分は色々なものを握り締め、果てのない真っ暗な空(くう)に挑むように立っていた。
いま自分の手の中には何もない。
恋しい腕も、愛しい小さな温もりも何もかも失って、ただひとりここに立っている。
何もないはずの手のひらを見、虚を衝かれた。赤黒い液体にとっぷりと濡れている。
鉄臭い臭いが鼻を突き、これは血なのだと直感した。粘質の液体は指の間から糸を引いて滴り落ち、手首にも痛々しい軌跡を描きながら幾筋にもわかれ垂れ裸の肘から落ちてゆく。
よく見れば、腰の辺りまで暗赤褐色の水面が迫っている。
恐怖はなかったが、痛みがあった。躰の半分を抉られたような喪失感に、闇と血の海しかないこの世界全てが痛がり悲しんでいる気がした。
赤と黒の境界線をひらひらと舞うものがある。
蝶だ。拳ほどの大きさの黄色い羽に黒の文様。
ひらりと享一の前で舞い降りる。蝶は何にも属さない軽やかさで、この世界にたったひとつ咲く花に止った。
いつの間に咲いたのだろうか?
眼前の蓮の花は、圧倒的な赤と黒のこの世界で、悠然とその穢れのない白い花びらを広げている。
赤黒い水面を背景に凛と咲くその高潔な姿に、一人の男を思い起す。
優美な花に見蕩れた。
だが、花びらの先に止った蝶の黒地の文様が凡字であることに気付いた享一は、雷に打たれたように震え、瞠目した。
言いようのない恐怖が躰の奥から湧きあがる。
白い花びらの間で何か黒いものが見え隠れした。ぬらりと横たわる水面を掻き分け近づくと、大きな黒い百足が這い出す。
全身の血の気が引き怖気が立った。
この世界に生まれた悪意の象徴のような黒い蟲は、享一を嘲笑うかのように平たい胴を返し、白い花びらの奥へと潜り込む。
周に触れるな!
手を伸ばした瞬間、蝶が飛び立つ。
指先が蓮の花に届く寸でのところでバランスを崩した躰は赤い水面に呑まれた。
針が腕を刺す痛みに瞼が開いた。
眩しくて目を細めると無数の白いものが静かに舞っている。
寒い。ただそれだけを思った。誰かが話しかけてきたような気がしたが、すぐに意識がぐにゃりと熔けて流れ出し緩慢に意識が滑り落ちる。
再び、闇が訪れた。
その闇の中を無数の白いものが舞う。
自分の胸から噴出す、たくさんの花弁をもう止めようとは思わなかった。
この胸に穴を開けた男はもういない。
だが後悔はなかった。自分は確かにこの男のためなら死ねる、と。そう思ったのだ。
『アマネ、桜だ』
この男だけを想い、世界を震わせるこの男の心臓の音だけを聞きながら生きたいと思った。
何もかも失うことになってもそれでいい。エルミタージュの森を抜け、結界の入り口のような2本の石柱を抜けた瞬間、自分が既に何を選んでいるのかを理解し何もかもが吹っ切れた。
そして、自分の命より愛しいと思った存在を捨てた。
もしかしたら、父もこんな感情に翻弄され自分の家族を捨てたのだろうか。どうしようのない激しい恋情に身を囚われ、全てを擲ってもひとりの人間だけを想い生きたいと思う。
業の深さも父親譲りなのだと諦めた。
「アマネ、サクラダ。」
抱きしめられたような気がした。温かくて体中の力が抜けてゆく。
暗褐色の沼は消え、蓮も百足も蝶も手の中の温もりと一緒に消えてしまった。
だが、自分を抱く闇がここにある。
薄紅の花弁が降り積もる。その上に身体を横たえ、降りしきる花弁に埋もれて死ねるなら本望だ。
ああ、享一。そうだな。まるで花吹雪のようだ
愛しい声。
意識を手繰り寄せ目を開けると、眩しかった景色は一変して夜の帳が下りていた。
ぼうとひかる灯りの向こうで白い花弁は相変わらず降り続いている。
ガラスにふたつの顔が映っているが暗くて表情はわからない。目を凝らそうと思うのに目蓋の重さに抗えずに閉じると、やわらかいものが唇に触れる。
愛しい唇。
閉じた目蓋の内側が熱くなった。
温かい手のひらが頬を包む。とろとろと、睡魔の闇が訪れた。
ずっとこの闇に抱かれていたい。
「・・・・・それとこれは、3日分の点滴のパックだ。明日になっても目を覚まさないようなら、親父がまた往診に来るそうだ」
話し声で意識が覚めた。
言葉は最初くぐもった音にしか聞こえず、目を閉じたまま耳を傾けた。目を開けると優しい闇が消えてしまいそうで、縋りつくように閉じ続けた。もうどこにも行きたくない。
「世話をかけて悪いな」
「まったくだ。建物検査の日に、享一が急激に痩せたワケをとっ捕まえて聞き出そうと思っていたら、いきなり流血の修羅場に遭うんだからな。お前は相変わらず付き合いが派手で畏れ入るね」
「悪かったというのはのは、圭太にじゃなく親父さんにだ。だがあの時、圭太のポルシェがあって正直助かった。それには礼を言う」
「あっそう、それは殊勝なことで。ところで、お前のあの下品なZはどうした?」
「圭太」という名前が耳に飛び込んできて勝手に目が開いた。
暗闇に慣れた瞳を射る光の眩しさに目を細めた。
午後の柔らかな日差しが視界一杯に広がる。自分の横たわるベッドのシーツも白い壁も日差しを浴び、真っ直ぐなサッシュの影が濃い線を引く。見覚えのある室内と大きなガラス窓の向こうの薄っすらと雪の積もるルーフテラスに自分がどこにいるかを悟る。ここで何度も周と愛を交わし、熱く大きくうねる波のような情交に溺れた。
遠い場所から還ってきた感覚と、この場所へ連れ帰ってくれた人物の気持ちがわからず、狼狽した胸が締め付けられた。
開いているドアから聞こえる周と河村の話す声が、より明瞭になってきた。
「俺の車は、車検だ」
「車検?あの車が車検に通るのか。まあいいさ。それよりあの辰村って男だが・・・何者かは知らないが、あんなのと付き合ってると、そのうち痛い目に遭うぞ」
「あの男とはもう話がついた。この先、個人的な用件で会うことは、もうないだろう」
「お前には享一がいるんだ。あいつは“バカ”がつくほど真面目で考え込む性質(たち)なんだから自分の行動をもっと考えろ。ああそれと、今晩は寒の戻りで冷えるそうだから、風邪をひかせるなよ。これで肺炎でも併発したら、目も当てられないからな。じゃあな」
咄嗟に声を出そうとしたが、咽から喘いだような空気が漏れただけだった。
その癖、自分が何を言おうとしたのわからなかった。
周は辰村とはもう会わないと言った。一体どう話をつけたというのだろう?
百足と蝶の刺青が自分の吐いた血で染まった鮮烈な記憶が、鼻の奥の鉄臭さと共に蘇る。
怖い男だった。
粗野で荒削りな猛々しい怒りと、冷静な残酷さを持った男だった。
簡単に引き下がるタイプの人物ではない。
拘束された瀬尾はどうなったのだろう。和輝は?
周に別れを告げた夜、自分の首に和輝が小さな腕を回し、一緒に泣いてくれた。周恋しさに流す未練の涙を、小さな手で一生懸命止めようとしてくれた和輝。
あの小さな手をこの手に握る事は、きっともうないのだろう。
周も和輝も、そして瀬尾さえも。
結局、何もかも中途半端だった自分の腕の中には、何も残らなかった。
「享一、目が覚めたのか?」
自分を見下ろす鮮やかな翡翠と視線がぶつかり、自分の色褪せた世界が静止した。
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翠滴 3―1 →
かつて自分は色々なものを握り締め、果てのない真っ暗な空(くう)に挑むように立っていた。
いま自分の手の中には何もない。
恋しい腕も、愛しい小さな温もりも何もかも失って、ただひとりここに立っている。
何もないはずの手のひらを見、虚を衝かれた。赤黒い液体にとっぷりと濡れている。
鉄臭い臭いが鼻を突き、これは血なのだと直感した。粘質の液体は指の間から糸を引いて滴り落ち、手首にも痛々しい軌跡を描きながら幾筋にもわかれ垂れ裸の肘から落ちてゆく。
よく見れば、腰の辺りまで暗赤褐色の水面が迫っている。
恐怖はなかったが、痛みがあった。躰の半分を抉られたような喪失感に、闇と血の海しかないこの世界全てが痛がり悲しんでいる気がした。
赤と黒の境界線をひらひらと舞うものがある。
蝶だ。拳ほどの大きさの黄色い羽に黒の文様。
ひらりと享一の前で舞い降りる。蝶は何にも属さない軽やかさで、この世界にたったひとつ咲く花に止った。
いつの間に咲いたのだろうか?
眼前の蓮の花は、圧倒的な赤と黒のこの世界で、悠然とその穢れのない白い花びらを広げている。
赤黒い水面を背景に凛と咲くその高潔な姿に、一人の男を思い起す。
優美な花に見蕩れた。
だが、花びらの先に止った蝶の黒地の文様が凡字であることに気付いた享一は、雷に打たれたように震え、瞠目した。
言いようのない恐怖が躰の奥から湧きあがる。
白い花びらの間で何か黒いものが見え隠れした。ぬらりと横たわる水面を掻き分け近づくと、大きな黒い百足が這い出す。
全身の血の気が引き怖気が立った。
この世界に生まれた悪意の象徴のような黒い蟲は、享一を嘲笑うかのように平たい胴を返し、白い花びらの奥へと潜り込む。
周に触れるな!
手を伸ばした瞬間、蝶が飛び立つ。
指先が蓮の花に届く寸でのところでバランスを崩した躰は赤い水面に呑まれた。
針が腕を刺す痛みに瞼が開いた。
眩しくて目を細めると無数の白いものが静かに舞っている。
寒い。ただそれだけを思った。誰かが話しかけてきたような気がしたが、すぐに意識がぐにゃりと熔けて流れ出し緩慢に意識が滑り落ちる。
再び、闇が訪れた。
その闇の中を無数の白いものが舞う。
自分の胸から噴出す、たくさんの花弁をもう止めようとは思わなかった。
この胸に穴を開けた男はもういない。
だが後悔はなかった。自分は確かにこの男のためなら死ねる、と。そう思ったのだ。
『アマネ、桜だ』
この男だけを想い、世界を震わせるこの男の心臓の音だけを聞きながら生きたいと思った。
何もかも失うことになってもそれでいい。エルミタージュの森を抜け、結界の入り口のような2本の石柱を抜けた瞬間、自分が既に何を選んでいるのかを理解し何もかもが吹っ切れた。
そして、自分の命より愛しいと思った存在を捨てた。
もしかしたら、父もこんな感情に翻弄され自分の家族を捨てたのだろうか。どうしようのない激しい恋情に身を囚われ、全てを擲ってもひとりの人間だけを想い生きたいと思う。
業の深さも父親譲りなのだと諦めた。
「アマネ、サクラダ。」
抱きしめられたような気がした。温かくて体中の力が抜けてゆく。
暗褐色の沼は消え、蓮も百足も蝶も手の中の温もりと一緒に消えてしまった。
だが、自分を抱く闇がここにある。
薄紅の花弁が降り積もる。その上に身体を横たえ、降りしきる花弁に埋もれて死ねるなら本望だ。
愛しい声。
意識を手繰り寄せ目を開けると、眩しかった景色は一変して夜の帳が下りていた。
ぼうとひかる灯りの向こうで白い花弁は相変わらず降り続いている。
ガラスにふたつの顔が映っているが暗くて表情はわからない。目を凝らそうと思うのに目蓋の重さに抗えずに閉じると、やわらかいものが唇に触れる。
愛しい唇。
閉じた目蓋の内側が熱くなった。
温かい手のひらが頬を包む。とろとろと、睡魔の闇が訪れた。
ずっとこの闇に抱かれていたい。
「・・・・・それとこれは、3日分の点滴のパックだ。明日になっても目を覚まさないようなら、親父がまた往診に来るそうだ」
話し声で意識が覚めた。
言葉は最初くぐもった音にしか聞こえず、目を閉じたまま耳を傾けた。目を開けると優しい闇が消えてしまいそうで、縋りつくように閉じ続けた。もうどこにも行きたくない。
「世話をかけて悪いな」
「まったくだ。建物検査の日に、享一が急激に痩せたワケをとっ捕まえて聞き出そうと思っていたら、いきなり流血の修羅場に遭うんだからな。お前は相変わらず付き合いが派手で畏れ入るね」
「悪かったというのはのは、圭太にじゃなく親父さんにだ。だがあの時、圭太のポルシェがあって正直助かった。それには礼を言う」
「あっそう、それは殊勝なことで。ところで、お前のあの下品なZはどうした?」
「圭太」という名前が耳に飛び込んできて勝手に目が開いた。
暗闇に慣れた瞳を射る光の眩しさに目を細めた。
午後の柔らかな日差しが視界一杯に広がる。自分の横たわるベッドのシーツも白い壁も日差しを浴び、真っ直ぐなサッシュの影が濃い線を引く。見覚えのある室内と大きなガラス窓の向こうの薄っすらと雪の積もるルーフテラスに自分がどこにいるかを悟る。ここで何度も周と愛を交わし、熱く大きくうねる波のような情交に溺れた。
遠い場所から還ってきた感覚と、この場所へ連れ帰ってくれた人物の気持ちがわからず、狼狽した胸が締め付けられた。
開いているドアから聞こえる周と河村の話す声が、より明瞭になってきた。
「俺の車は、車検だ」
「車検?あの車が車検に通るのか。まあいいさ。それよりあの辰村って男だが・・・何者かは知らないが、あんなのと付き合ってると、そのうち痛い目に遭うぞ」
「あの男とはもう話がついた。この先、個人的な用件で会うことは、もうないだろう」
「お前には享一がいるんだ。あいつは“バカ”がつくほど真面目で考え込む性質(たち)なんだから自分の行動をもっと考えろ。ああそれと、今晩は寒の戻りで冷えるそうだから、風邪をひかせるなよ。これで肺炎でも併発したら、目も当てられないからな。じゃあな」
咄嗟に声を出そうとしたが、咽から喘いだような空気が漏れただけだった。
その癖、自分が何を言おうとしたのわからなかった。
周は辰村とはもう会わないと言った。一体どう話をつけたというのだろう?
百足と蝶の刺青が自分の吐いた血で染まった鮮烈な記憶が、鼻の奥の鉄臭さと共に蘇る。
怖い男だった。
粗野で荒削りな猛々しい怒りと、冷静な残酷さを持った男だった。
簡単に引き下がるタイプの人物ではない。
拘束された瀬尾はどうなったのだろう。和輝は?
周に別れを告げた夜、自分の首に和輝が小さな腕を回し、一緒に泣いてくれた。周恋しさに流す未練の涙を、小さな手で一生懸命止めようとしてくれた和輝。
あの小さな手をこの手に握る事は、きっともうないのだろう。
周も和輝も、そして瀬尾さえも。
結局、何もかも中途半端だった自分の腕の中には、何も残らなかった。
「享一、目が覚めたのか?」
自分を見下ろす鮮やかな翡翠と視線がぶつかり、自分の色褪せた世界が静止した。
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翠滴 3―1 →
□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
今日からサブタイトルは-born-です。骨(bone)じゃないよ、生まれる(born)の方です。
あ、わかってますね・・すみません。コレマタ長くなりそうな予感がするタイトルです←
昨日は、録画しているにもかかわらず、とうとう最後までフィギュアに見入ってしまった私です。
男子も女子も本当に美しい競技で目の保養をさせて頂きました。
(ア、「書かんかい!」という突っ込みはどうぞ、ナシで・・
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
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あ、わかってますね・・すみません。コレマタ長くなりそうな予感がするタイトルです←
昨日は、録画しているにもかかわらず、とうとう最後までフィギュアに見入ってしまった私です。
男子も女子も本当に美しい競技で目の保養をさせて頂きました。
(ア、「書かんかい!」という突っ込みはどうぞ、ナシで・・
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ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
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車検…なんて現実的な…。
そんな会話が交わされる前には、幻想的な蓮の花とタッツーを彷彿とさせる百足が…美しい白い花におぞましい蟲…享一の幻想は、綺麗でキモチ悪い。
あ、キモチワルイのは、気持ちいいんです(どっちなんだ?)
その描写を読んでいて快感に変わる自分がコワイです。
紙魚マジックです!
新章に入って、展開が変わって行くのをうっとり、ぞんわり感じさせてくれました。
周さんと享一は、二人で生きていけるのでしょうか?
幸せなラストに向かって走っているのだと信じています。