01 ,2010
翠滴 3 傀儡 13 (70)
大森建設の設計部にある自分のブースにつく頃には、躰のだるさも幾分か楽になった。
発熱が原因で遅刻した事にしていたせいか、体調を気遣った数人から声を掛けられた。
実際、熱を帯びた躰はふわふわと浮ついた感じで、馴染みの職場なのに目に映るもの全てが現実味に欠けている気がした。
会社を辞めるにしても、辞表を出してすぐに止められるものでもない。手続きを踏んで引継ぎをして、最短でも来月末ということになるだろう。
自分は本当にこの職場を去るのだろうか?
ふと、ブースに納まったデスクやきちんと整理された本棚、落とされたままのPCモニターを実感のわかないまま眺めながら漠然と思った。
3年前、就職難のこのご時世に、スーパーゼネコンとまでは行かないが中堅どころのこの大森建設に採用が決まり、飛び上がるほど喜んだ。
これで、女手ひとつで必死に働いて自分達兄弟を育ててくれた母親にも楽をさせてやれるとも思った。社会人なんだからきちんとしたものをと言って、母親が奮発して買ってくれたフレッシャーマンズスーツは、まだ大切にアパートのクローゼットの中にしまってある。
その母親も、第二の自分のための人生を歩き始めた。再婚を考えているからと紹介された暮林とは、年が明けて間もない頃に入籍したと母親から連絡を貰った。
所定の場所に鞄を置き、2本目の栄養ドリンクを取り出すとゆっくりと席に着いた。
腰を屈め座面に腰掛けた瞬間、躰を二等分に割くような痛みが電気に感電したみたいに全身に走る。
息を詰めて眉間に皺を寄せ、痛みのピークをやり過ごす。いつもは鬱陶しいと思えたブースを隔てるパーテションがありがたい。今日を乗り切れば、明日は週末で休みだ。
その間に辞表を書いて、週明けに設計部長に提出するつもりだった。
PCを立ち上げると、数件の業者からのメールと共にアトリエ設計事務所K2の河村からもメールが届いていた。昨日から、携帯にもメールと着信履歴が残っていたが、誰かとコンタクトを取る気になれず、今まで放置したままにしていた。メールの内容は、月曜日のエルミタージュホテルの半年検査についてで、すっかり検査の事を失念していた享一はスケジュールを開いた。
「おう、時見。熱出したんだって?出てきて大丈夫なのか?」
見上げるとパーテションの上から平沢が顔を覗かせている。
「遅れてすみませんでした。ほんの少し上がっただけなんで、大丈夫です」
「そうか。でも顔色悪りぃし、今日はあんま無理すんなよ」
そう言っておいて、平沢の心配顔が策士顔に変身する。なにか腹に謀のある時の癖で無邪気そうにニカッと笑う。何でもあけすけな平沢は隠し事が下手くそだ。
内心で苦笑し、何が飛び出すかと無意識に身構えた。
「ところで、月曜のエルミタージュの検査、お前どうする?体調悪いなら俺が代わりに行って来てやろうか?」
エルミタージュホテルの経営はアメリカ・トリニティの持つホテルグループが受け持ち、不動産そのものは周が代表を務める日本トリニティのものだ。
小規模ながらも、モダンでエレガントな建物と美しい庭、行き届いたサービスで、宿泊料金もこの金額で利用するものがいるのかと思えるほど高い。カフェやレストランも宿泊しているか、もしくは予約がなくては利用もままならない。
何だかんだと言って、結婚式や宴会での利益を中心とするほかの高級と称されるホテルとは一線を隔する。そのせいか人気は鰻登りで予約も半年待ちだと聞いた。
エルミタージュが、質のよいホテル雑誌などで真のラグジュアリーと紹介される所以だ。
去年の暮に周に少し早めのクリスマスをと強請られ、甘い時間を過ごした思い出の場所。
仕事面でもプライベートでも思い入れの強いホテルだ。
検査には当然、日本トリニティの人間が出てくるはずだが、検査ごときに会社の代表が出てくることはありえない。
「2日も休めば大丈夫ですし、検査には自分が出ます」
だが、言ってしまった後、すぐ後悔が後を追ってきた。あの場所に行って自分が平静でいられる自信がなかった。
即、「あ・・でも」と撤回しようと言葉を継いだ声に残念そうな平沢の声が被さる。
「ちぇ!やっぱ、ダメか。実は室長にもダメだしされちまったしな。時見が心血注いだ物件なんだから、当然時見が行くべきだろってさ。ま、そりゃ、そうだわ」
「いや、あの・・・」
「いっぺん見てみたかったんだけどなぁ~ウワサの超高級ホテルと河村 圭太。仕方ねえよなあ、月曜は定例に大人しく参加するとすっかぁ」
本来なら当然、自分の仕事である定例のほうを優先させるべきだろう。
「あの・・・もし、平沢先輩さえ・・・」
「あ~、いいって、いいって。室長にも釘刺されちゃってるもんよ」
「え・・・あ」
ぴんと揃えた掌で享一を制し、頭をボリボリと掻きながら、残念そうな沢村の顔が地平線に消える太陽よろしくパーテションの向こうに沈んでゆく。
平沢に検査を振るタイミングを逃して溜息をついた。
トリニティの不動産部は鳴海の管轄だが、担当者は30前後の小西という言う男だ。
検査には設計者の河村も立ち会うとメールに書いてあった。河村がいて、他人の目もあれば、そう自分も崩れる事がないと信じるしかない。
躰の中に色濃く残る疲労と疼痛を抱え、自分のアパートにたどり着く頃には心身ともに疲れ果てていた。少しだけ残業をしコンビニで辞表用の便箋と封筒、それにゼリータイプの栄養食品を買う。少し前の生活に逆戻りしており、アンバランスだとわかっていながらも食欲は湧かなかった。
それでも時刻は21時を越え、早く風呂に入ってベッドにもぐりこみたいと思った。
辞職の事も、バンクーバー行きのことも一度寝てからゆっくり考えたい。
キーケースから家の鍵を取り出し鍵穴に差し込んだ。いつもとは違う手ごたえを不審に思いノブに手をかけるとぽろりと把手が落ちた。
重い金属音が足元のモルタルの上でガシャンと短く鳴りもとの静寂が訪れる。
享一は信じられないものでも見るように視線を足元に転がる把手を見た。
瀬尾のマンションに入ったピッキング犯と同一かもしれない・・・・そう思うと、薄ら寒いものが背中を這い上がる。
息を潜め耳を澄ましドアの向こうの様子に注意を払う。
部屋の中は明かりも点っておらず、誰かがいる気配はない。
緊張しながら、把手のあった場所にあいた直径3センチほどの穴に指を掛け手前に引っ張ると簡単にドアが開いた。
薄暗い玄関に入り明かりをつけた享一は敲きの上で呆然と立ち竦んだ。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
発熱が原因で遅刻した事にしていたせいか、体調を気遣った数人から声を掛けられた。
実際、熱を帯びた躰はふわふわと浮ついた感じで、馴染みの職場なのに目に映るもの全てが現実味に欠けている気がした。
会社を辞めるにしても、辞表を出してすぐに止められるものでもない。手続きを踏んで引継ぎをして、最短でも来月末ということになるだろう。
自分は本当にこの職場を去るのだろうか?
ふと、ブースに納まったデスクやきちんと整理された本棚、落とされたままのPCモニターを実感のわかないまま眺めながら漠然と思った。
3年前、就職難のこのご時世に、スーパーゼネコンとまでは行かないが中堅どころのこの大森建設に採用が決まり、飛び上がるほど喜んだ。
これで、女手ひとつで必死に働いて自分達兄弟を育ててくれた母親にも楽をさせてやれるとも思った。社会人なんだからきちんとしたものをと言って、母親が奮発して買ってくれたフレッシャーマンズスーツは、まだ大切にアパートのクローゼットの中にしまってある。
その母親も、第二の自分のための人生を歩き始めた。再婚を考えているからと紹介された暮林とは、年が明けて間もない頃に入籍したと母親から連絡を貰った。
所定の場所に鞄を置き、2本目の栄養ドリンクを取り出すとゆっくりと席に着いた。
腰を屈め座面に腰掛けた瞬間、躰を二等分に割くような痛みが電気に感電したみたいに全身に走る。
息を詰めて眉間に皺を寄せ、痛みのピークをやり過ごす。いつもは鬱陶しいと思えたブースを隔てるパーテションがありがたい。今日を乗り切れば、明日は週末で休みだ。
その間に辞表を書いて、週明けに設計部長に提出するつもりだった。
PCを立ち上げると、数件の業者からのメールと共にアトリエ設計事務所K2の河村からもメールが届いていた。昨日から、携帯にもメールと着信履歴が残っていたが、誰かとコンタクトを取る気になれず、今まで放置したままにしていた。メールの内容は、月曜日のエルミタージュホテルの半年検査についてで、すっかり検査の事を失念していた享一はスケジュールを開いた。
「おう、時見。熱出したんだって?出てきて大丈夫なのか?」
見上げるとパーテションの上から平沢が顔を覗かせている。
「遅れてすみませんでした。ほんの少し上がっただけなんで、大丈夫です」
「そうか。でも顔色悪りぃし、今日はあんま無理すんなよ」
そう言っておいて、平沢の心配顔が策士顔に変身する。なにか腹に謀のある時の癖で無邪気そうにニカッと笑う。何でもあけすけな平沢は隠し事が下手くそだ。
内心で苦笑し、何が飛び出すかと無意識に身構えた。
「ところで、月曜のエルミタージュの検査、お前どうする?体調悪いなら俺が代わりに行って来てやろうか?」
エルミタージュホテルの経営はアメリカ・トリニティの持つホテルグループが受け持ち、不動産そのものは周が代表を務める日本トリニティのものだ。
小規模ながらも、モダンでエレガントな建物と美しい庭、行き届いたサービスで、宿泊料金もこの金額で利用するものがいるのかと思えるほど高い。カフェやレストランも宿泊しているか、もしくは予約がなくては利用もままならない。
何だかんだと言って、結婚式や宴会での利益を中心とするほかの高級と称されるホテルとは一線を隔する。そのせいか人気は鰻登りで予約も半年待ちだと聞いた。
エルミタージュが、質のよいホテル雑誌などで真のラグジュアリーと紹介される所以だ。
去年の暮に周に少し早めのクリスマスをと強請られ、甘い時間を過ごした思い出の場所。
仕事面でもプライベートでも思い入れの強いホテルだ。
検査には当然、日本トリニティの人間が出てくるはずだが、検査ごときに会社の代表が出てくることはありえない。
「2日も休めば大丈夫ですし、検査には自分が出ます」
だが、言ってしまった後、すぐ後悔が後を追ってきた。あの場所に行って自分が平静でいられる自信がなかった。
即、「あ・・でも」と撤回しようと言葉を継いだ声に残念そうな平沢の声が被さる。
「ちぇ!やっぱ、ダメか。実は室長にもダメだしされちまったしな。時見が心血注いだ物件なんだから、当然時見が行くべきだろってさ。ま、そりゃ、そうだわ」
「いや、あの・・・」
「いっぺん見てみたかったんだけどなぁ~ウワサの超高級ホテルと河村 圭太。仕方ねえよなあ、月曜は定例に大人しく参加するとすっかぁ」
本来なら当然、自分の仕事である定例のほうを優先させるべきだろう。
「あの・・・もし、平沢先輩さえ・・・」
「あ~、いいって、いいって。室長にも釘刺されちゃってるもんよ」
「え・・・あ」
ぴんと揃えた掌で享一を制し、頭をボリボリと掻きながら、残念そうな沢村の顔が地平線に消える太陽よろしくパーテションの向こうに沈んでゆく。
平沢に検査を振るタイミングを逃して溜息をついた。
トリニティの不動産部は鳴海の管轄だが、担当者は30前後の小西という言う男だ。
検査には設計者の河村も立ち会うとメールに書いてあった。河村がいて、他人の目もあれば、そう自分も崩れる事がないと信じるしかない。
躰の中に色濃く残る疲労と疼痛を抱え、自分のアパートにたどり着く頃には心身ともに疲れ果てていた。少しだけ残業をしコンビニで辞表用の便箋と封筒、それにゼリータイプの栄養食品を買う。少し前の生活に逆戻りしており、アンバランスだとわかっていながらも食欲は湧かなかった。
それでも時刻は21時を越え、早く風呂に入ってベッドにもぐりこみたいと思った。
辞職の事も、バンクーバー行きのことも一度寝てからゆっくり考えたい。
キーケースから家の鍵を取り出し鍵穴に差し込んだ。いつもとは違う手ごたえを不審に思いノブに手をかけるとぽろりと把手が落ちた。
重い金属音が足元のモルタルの上でガシャンと短く鳴りもとの静寂が訪れる。
享一は信じられないものでも見るように視線を足元に転がる把手を見た。
瀬尾のマンションに入ったピッキング犯と同一かもしれない・・・・そう思うと、薄ら寒いものが背中を這い上がる。
息を潜め耳を澄ましドアの向こうの様子に注意を払う。
部屋の中は明かりも点っておらず、誰かがいる気配はない。
緊張しながら、把手のあった場所にあいた直径3センチほどの穴に指を掛け手前に引っ張ると簡単にドアが開いた。
薄暗い玄関に入り明かりをつけた享一は敲きの上で呆然と立ち竦んだ。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
ううう~~。やっと動き出したよう。
次かその次で周も出ます。あ~~周さん、お久しぶりだけど、書けるかしらん。
SSも止まったままで・・・途中までお読み下さっていた方、本当に申し訳ありません。
何とか早めに再開すべく努力いたします(*- -)(*_ _)ペコリ
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
■ブログ拍手コメントのお返事は、サイトの”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事からか、もしくは*こちら*から
ランキングに参加しています
よろしければ、踏んでいってくださいませ♪
↓↓↓

にほんブログ村
ううう~~。やっと動き出したよう。
次かその次で周も出ます。あ~~周さん、お久しぶりだけど、書けるかしらん。
SSも止まったままで・・・途中までお読み下さっていた方、本当に申し訳ありません。
何とか早めに再開すべく努力いたします(*- -)(*_ _)ペコリ
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
■ブログ拍手コメントのお返事は、サイトの”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事からか、もしくは*こちら*から
ランキングに参加しています
よろしければ、踏んでいってくださいませ♪
↓↓↓

にほんブログ村
寸止め!
続き続き……首を長くして待ってます~~~