12 ,2009
翠滴 3 傀儡 4 (61)
花隈のカットサロン「AZUL」は代官山のヒルトップにある。
ここを訪れるのは久しぶりだ。
結局、昨日の内に退院したはずの瀬尾からの連絡は無く今朝になってメールが届いた。
入院中にマンションが空き巣に入られて、ゴタついているからまた連絡する・・・といったような内容だ。あれほどセキュリティがしっかりしていそうなマンションでも空き巣に狙われるものかと思い、もうひとつ和輝がまだ実家に預かられたままでよかったと思った。
大きな一枚ガラスの扉を開けて店内に入ると、微かにハーブの香りの混ざる柔らかい空気に包まれる。休日のサロンの8つあるカット用のシートは客で埋まっており、小一時間は待つことを覚悟した。
「時見さん、いらっしゃいませ。お待ちしていましたよ」
正面の白い大きな壁の前にあるシンプルな受け付けカウンターから声が掛かった。
男女二人いるスタッフの男の方が近づいてきた。
恐ろしくバランスの取れた長躯と甘いマスクを持つ男は日仏のハーフで、モデル事務所も持つこの店のモデル兼マネージャーだ。近くまで来たガラス細工のようなブルーグレイの瞳が、驚いたように一瞬瞠目しすぐ元に戻った。
途端に、やせ細った自分が恥ずかしいような気がして逃げ出したい気持ちになる。
「お久しぶりです、安里(あさと)さん」
頭を軽く下げると、何も無かったように笑いかけられ、いたたまれなさが増す。
「本当に、久しぶりですね。先生が今か今かと待ちわびていますよ。さ、こちらへ」
イングリッシュガーデン風に設えられた中庭を横目に店舗の奥に進む。
冬には冬の様相をと、考えて作られた庭はきちんと手入れが行き届き趣がある。
「あの、花隈さんが直々に切ってくれるんですか?」
「こちらの部屋です。さあ、どうぞ」
「なんか畏れ多いな。法外な請求出されても、俺は払えませんよ」
花隈は、海外のショウでも活躍するトップメークアップアーティストだ。前に好意で切ってもらって以来、いつも適当に目に付いた店で散髪を済ましてしまう自分には、こんな有名人にいくら払えばいいのか想像もつかない。
安里は可笑しそうに耳障りの良いほがらかな笑い声を上げ、ドアを開けた。
「薫が半強制的にお呼び出ししたんですから、ここは気持ちよく踏み倒してくださ・・」
「!!」
ドアのすぐ内側に立っていた肉の塊に顔面からぶつかり、バウンドしよろけたところをいきなりがばっと抱きしめられた。
懐かしい声が頭の上で抗議をする。
「安里ォ、何を踏み倒すって?いやあね、はなから御代を取ろうなんて思ってないわよっ。ああ、サクラちゃん!よく来たわ」
ふくよかな身体に強く抱きしめられて、ぐうっと呻き声が漏れた。
安里に止めてもらわなかったら窒息したかもしれない。
招き入れられた室内は天井が高く、大きな窓にかかった薄いカーテンを通して柔らかな冬の日差しが床に降り注ぐ。ソファセットとミニバーまであり、奥の一対だけあるシャンプー台とカット用のシートが無ければ庭続きの気持ちのよいリビングに見える。
「安里も僕もこの言い方は好きではないんだけどね、いわゆるVIPルームってやつだよ。初めてだった?周や圭太が来た時はゆっくりしゃべりたいし、いつもここで切ってるよ」
無防備だったところに周の名前を吹き込まれ、胸が激しく動揺した。
「とにかく座って。今日は、カットするためだけに呼んだんじゃないって、わかってるわよね」
弟と同じく、日本人にしては茶味の勝る瞳が真っ直ぐに見詰めてくる。
来るべきではなかったと後悔し始めた腕を引かれ、シートに座らされた。
「・・・随分伸びたね。仕上がりは僕に任せてもらっていいかな」
花隈自らがシャンプーした髪に鋏が入る。
2~3度ほどしか会った事のない安里でさえ気付いた自分の痩せ具合に何も言ってこないのは、温かく細やかな視線で人を見ることが出来る花隈の気遣いなのだろうと思った。
差し障りのない会話と共に、その巨体からは想像もつかないような繊細さで花隈の手先が細かく動く。
顔を覆っていた髪に鋏が入る度に、ケープの上に黒い髪の毛の塊が落ち顔の印象が少しづつ変わっていく。幾分陰鬱にこちらを見返す男の髪の一房一房と共に、しがらみのようなものか自分から切り離され、自分がこの明るく、ふわふわと温かい部屋に馴染んでいくような気がした。
「こんな感じでどう?」
顔を覆っていた髪がなくなったことで痩せてぎすぎすした印象だった顔の陰影が取れ、その分明るくなり別人のようだ。
髪型が変わった。
それだけのことなのに、鏡の中に懐かしい顔を見つける。
鏡の中の男の黒い目から、涙が一粒零れた。
花隈の柔らかい手が子供にするように前髪を掻きあげて、頬を撫でる。
「これで、もとのサクラちゃんに半分は戻ったよ。さ、こっちおいで」
再び、軽く洗い流されトリートメント、ドライヤーと一連の作業が終る頃には、ここに来た事を後悔していた気持ちなど跡形もなく消え失せていた。自分の呼吸を感じ、久々に体の隅々まで新鮮な空気が循環していく充足感に大きく息を吐いた。
「ああ、とてもいいですよ。さっきとは全くの別人ですね。まるで生まれ変わったみたいだ」
腰にエプロンを巻いた安里は手に持っていたサラダの入ったボウルをローテーブルに置くと、花隈に向きなおった。手を伸ばし花隈を抱き寄せる。
「さすが、僕の薫だ」
主に海外で活躍するモデルで、上背のある安里は花隈の大きな身体を難なく抱き込み、愛嬌のある鬚面に何度もキスを落とす。外国人ならではなのか、日仏のハーフである安里の愛情表現はいつもダイレクトだ。
目のやり場に困り固まっていると、同時にこちらを向いた二人が不敵に笑い、口を開いた。
「さて、食べてもらうわよ、サクラちゃん」
「自信作です。たくさん食べていってください」
目の前のローテーブルには、天ぷらに鯛の荒煮、田楽に味噌汁など、洋食器に盛り付けられた和食がずらりと並ぶ。味噌汁が青地に白いニンフの踊るスープ皿に納まるセンスは別として、男の色香漂う美丈夫、安里の趣味が料理とガーデニングだったことを思い出した。
そして、花隈が漢字の読めない安里の和食は、写真だけ見てインスピレーションで作るから味が壮絶なのだと言っていた事も。
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翠滴 2―1 →
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ここを訪れるのは久しぶりだ。
結局、昨日の内に退院したはずの瀬尾からの連絡は無く今朝になってメールが届いた。
入院中にマンションが空き巣に入られて、ゴタついているからまた連絡する・・・といったような内容だ。あれほどセキュリティがしっかりしていそうなマンションでも空き巣に狙われるものかと思い、もうひとつ和輝がまだ実家に預かられたままでよかったと思った。
大きな一枚ガラスの扉を開けて店内に入ると、微かにハーブの香りの混ざる柔らかい空気に包まれる。休日のサロンの8つあるカット用のシートは客で埋まっており、小一時間は待つことを覚悟した。
「時見さん、いらっしゃいませ。お待ちしていましたよ」
正面の白い大きな壁の前にあるシンプルな受け付けカウンターから声が掛かった。
男女二人いるスタッフの男の方が近づいてきた。
恐ろしくバランスの取れた長躯と甘いマスクを持つ男は日仏のハーフで、モデル事務所も持つこの店のモデル兼マネージャーだ。近くまで来たガラス細工のようなブルーグレイの瞳が、驚いたように一瞬瞠目しすぐ元に戻った。
途端に、やせ細った自分が恥ずかしいような気がして逃げ出したい気持ちになる。
「お久しぶりです、安里(あさと)さん」
頭を軽く下げると、何も無かったように笑いかけられ、いたたまれなさが増す。
「本当に、久しぶりですね。先生が今か今かと待ちわびていますよ。さ、こちらへ」
イングリッシュガーデン風に設えられた中庭を横目に店舗の奥に進む。
冬には冬の様相をと、考えて作られた庭はきちんと手入れが行き届き趣がある。
「あの、花隈さんが直々に切ってくれるんですか?」
「こちらの部屋です。さあ、どうぞ」
「なんか畏れ多いな。法外な請求出されても、俺は払えませんよ」
花隈は、海外のショウでも活躍するトップメークアップアーティストだ。前に好意で切ってもらって以来、いつも適当に目に付いた店で散髪を済ましてしまう自分には、こんな有名人にいくら払えばいいのか想像もつかない。
安里は可笑しそうに耳障りの良いほがらかな笑い声を上げ、ドアを開けた。
「薫が半強制的にお呼び出ししたんですから、ここは気持ちよく踏み倒してくださ・・」
「!!」
ドアのすぐ内側に立っていた肉の塊に顔面からぶつかり、バウンドしよろけたところをいきなりがばっと抱きしめられた。
懐かしい声が頭の上で抗議をする。
「安里ォ、何を踏み倒すって?いやあね、はなから御代を取ろうなんて思ってないわよっ。ああ、サクラちゃん!よく来たわ」
ふくよかな身体に強く抱きしめられて、ぐうっと呻き声が漏れた。
安里に止めてもらわなかったら窒息したかもしれない。
招き入れられた室内は天井が高く、大きな窓にかかった薄いカーテンを通して柔らかな冬の日差しが床に降り注ぐ。ソファセットとミニバーまであり、奥の一対だけあるシャンプー台とカット用のシートが無ければ庭続きの気持ちのよいリビングに見える。
「安里も僕もこの言い方は好きではないんだけどね、いわゆるVIPルームってやつだよ。初めてだった?周や圭太が来た時はゆっくりしゃべりたいし、いつもここで切ってるよ」
無防備だったところに周の名前を吹き込まれ、胸が激しく動揺した。
「とにかく座って。今日は、カットするためだけに呼んだんじゃないって、わかってるわよね」
弟と同じく、日本人にしては茶味の勝る瞳が真っ直ぐに見詰めてくる。
来るべきではなかったと後悔し始めた腕を引かれ、シートに座らされた。
「・・・随分伸びたね。仕上がりは僕に任せてもらっていいかな」
花隈自らがシャンプーした髪に鋏が入る。
2~3度ほどしか会った事のない安里でさえ気付いた自分の痩せ具合に何も言ってこないのは、温かく細やかな視線で人を見ることが出来る花隈の気遣いなのだろうと思った。
差し障りのない会話と共に、その巨体からは想像もつかないような繊細さで花隈の手先が細かく動く。
顔を覆っていた髪に鋏が入る度に、ケープの上に黒い髪の毛の塊が落ち顔の印象が少しづつ変わっていく。幾分陰鬱にこちらを見返す男の髪の一房一房と共に、しがらみのようなものか自分から切り離され、自分がこの明るく、ふわふわと温かい部屋に馴染んでいくような気がした。
「こんな感じでどう?」
顔を覆っていた髪がなくなったことで痩せてぎすぎすした印象だった顔の陰影が取れ、その分明るくなり別人のようだ。
髪型が変わった。
それだけのことなのに、鏡の中に懐かしい顔を見つける。
鏡の中の男の黒い目から、涙が一粒零れた。
花隈の柔らかい手が子供にするように前髪を掻きあげて、頬を撫でる。
「これで、もとのサクラちゃんに半分は戻ったよ。さ、こっちおいで」
再び、軽く洗い流されトリートメント、ドライヤーと一連の作業が終る頃には、ここに来た事を後悔していた気持ちなど跡形もなく消え失せていた。自分の呼吸を感じ、久々に体の隅々まで新鮮な空気が循環していく充足感に大きく息を吐いた。
「ああ、とてもいいですよ。さっきとは全くの別人ですね。まるで生まれ変わったみたいだ」
腰にエプロンを巻いた安里は手に持っていたサラダの入ったボウルをローテーブルに置くと、花隈に向きなおった。手を伸ばし花隈を抱き寄せる。
「さすが、僕の薫だ」
主に海外で活躍するモデルで、上背のある安里は花隈の大きな身体を難なく抱き込み、愛嬌のある鬚面に何度もキスを落とす。外国人ならではなのか、日仏のハーフである安里の愛情表現はいつもダイレクトだ。
目のやり場に困り固まっていると、同時にこちらを向いた二人が不敵に笑い、口を開いた。
「さて、食べてもらうわよ、サクラちゃん」
「自信作です。たくさん食べていってください」
目の前のローテーブルには、天ぷらに鯛の荒煮、田楽に味噌汁など、洋食器に盛り付けられた和食がずらりと並ぶ。味噌汁が青地に白いニンフの踊るスープ皿に納まるセンスは別として、男の色香漂う美丈夫、安里の趣味が料理とガーデニングだったことを思い出した。
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□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
味覚障害。。思わぬところで命拾いの享一。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
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そういうときだけ味がわかったりして。
途中で味が蘇ったりしたら、最悪。
でも自信作なのですね。
でもとりあえず栄養補給ですね。