12 ,2009
翠滴 3 傀儡 3 (60)
目の前の美しい装丁本の背表紙に手をかけた。
メキシコの建築家の作品を納めた30センチ四方のその本は、蛍光灯の光の下でもはっとするくらい鮮やかなピンクの布が張られたハードカバーに納まっている。中に使用されている紙も写真の印刷も非常に美しく、簡単に購入を決意できないくらい高価な本だった。
長い間、実家に仕送りを続け、本に金を掛けるゆとりもなく一度は手に入れることを諦めた画集だ。母親の再婚が決まり、妹の就職も内定し仕送りも免除された。
高価な本の購入も大学時代のバイトで買った腕時計の買い替えも自由だ。
好きなものを買えば、いくらかでも気分が晴れるだろうか?
そう思う一方で、孤立感が強まっていく。
今までは、生活を多少切り詰めようと、仕送りすることで離れた家族と繋がっていると感じられた。別に母や妹たちが消えたわけでもなく、いまは名乗ることは叶わないが血を分けた息子もいる。なのに、虚しさのようなものが募り、挫けかけた心が隙を衝いて、ひとつの方向へと流れ出そうとする。
その時点で、享一は思考を断ち切った。
ギシッ、ギシッ。
重量感のある金属の軋む音がして、高さ2.3メートルの巨大なスチール製の本棚がゆっくり自分に向かって迫ってくる。
「うわっ、ちょっと待ってください!ここに、人がいます!」
「おっと、すいませーん。あれ、時見じゃん」
出口の幅60センチ程になった本棚と本棚の間から、体格のよい男がひょいと覗いてきた。片岡だ。
社内の資料庫の本棚は可動式の書架になっており、棚の端のハンドルで床に敷かれたレールを簡単に移動させることが出来た。
これで、通路という余分なスペース省き、1.5倍の本の収納が可能になった。
ただでさえ重い本の棚は、片岡のように横着をして3連纏めて移動させると、それなりに加重も増し挟まれると圧迫死の恐れだってある。
「わりぃ、わりぃ。時見がいるの全然気がつかなかった。ちょっとさ、建築構造の棚開けさせてもらっていい?」
相手が片岡だと知り、遠慮なく舌打ちをする。
「まったく、気をつけろよ。お前、この前も建築部の女の子を挟みそうになってコテンパに怒られただろうが」
文句を言いながら画集を元に戻し、必要な資料だけ持って、書架の間を抜けようとしたところでレールに躓いた。
「危ないっ」
咄嗟に太い腕が伸びてきて、しっかりと肩と脇にまわっている。
「大丈夫か?」
目の前に迫る片岡の顔が妙に紅い。
「・・・ちょっと躓いただけだし・・・それより、なんでお前、赤くなってんだよ」
「ははは・・」
乱暴に引き離した片岡の首から上が、茹で蛸のように紅潮している。頭をかきながら照れた様子を見せる片岡に、黒曜石の冷たい視線を放つ。先週、駅の昇降口で抱きとめられて以来、謂れのない秋波を送られ辟易していた。
同期の中では、結構気も合うし気安い相手だと思っていただけに迷惑だと思う。
「お前、いい加減にしろよな。それとも、もう一発お見舞いしたら目が覚めんのかよ?」
拳を握る享一に、片岡は腰を折り片手を翳しながら後退った。
「タンマ!落ち着けって・・・ああ、もう・・」
今度は片岡が軽く舌打ちをする。
「だってよ、お前最近本当に色っぽいもんよ。あっと。おい、怒んなって」
眉間に険しい縦皺を寄せ片岡を睨み付ける享一を宥めるように言い、苦笑いを浮かべる。哀れなほどに血色よく染まった片岡は俯き歯切れ悪く先を続けた。
「あのな、妖艶っていうか・・・前から、こう・・なんてっか、綺麗な奴だとは思ってたけど、それとは違う感じで」
「いや、俺さァ、そっちの気はなかった筈なんだけど・・・・反応しちゃうってか・・ああ、上手く言えねえな・・やっぱ、お前なんかあったんじゃ・・・・って、アレ時見?」
片岡が顔を上げると資料室の扉をくぐる享一の後ろ姿があり、その痩身の背中は片岡をひとり残して閉まる鉄扉の向こうに消えた。
営業時間外は使う人もない食堂階の手洗いで顔を洗う。
ハンカチで拭いながら、久しぶりにまじまじと鏡の中の自分の顔を見た。
言われれば痩せたような気もするし、前からこの顔だったような気もする。
髪が随分伸びたのだけは確かだ。伸びた髪に囲まれたせいで、顔が余計にやつれて見えるのかもしれないと思った。
前髪を片手で梳き上げると、頭髪に差し込まれた大きな手に髪をかき混ぜられる感覚が蘇る。
途端に、ざわざわと躰の芯を爛れた熱が凄い勢い這い上がり、鏡の中の男が、まったく別の人間に為り変わってゆく。自分の変貌に瞠目し背後によろめいた。
白黒の境がはっきりしていた黒い瞳は淫蕩に濁り、血の色に染まる唇は艶を誘うようにだらしなく半開きにあいている。
鏡の中の男は濃い淫靡を発露させ、熱い視線で物欲しげにこちらを見つめていた。
我が身の中心は淫欲を求め、尻の狭間では後孔が発情した雌犬のように熱を欲しがって蠢いている。
淫乱で下品な娼婦。いや男娼か。
なるほど、これが自分の正体なのだと鏡の中の男を嘲笑った。
『お前は、酷くいやらしい娼婦の顔をする』と瀬尾が言った。
片岡は、肘を引っ張られてよろめいた自分を抱きとめた時、このいやらしい娼婦の顔を見たのかもしれない。
だとしたら、もう片岡に近づかない方がいい。
明朗快活で、まっすぐな気性の片岡が淫欲に溺れたこの醜い姿を知れば、きっと軽蔑する。
鏡から背けた享一の目に涙が滲んだ。
瀬尾には自分の正体が見えていた。だから、捕まったのだ。
その瀬尾は、今日退院の予定だと聞いている。
瀬尾のことを考えると、また自分の中で妙な変化が起こる。享一は片岡に知られることに怯えながらも、性懲りもなく起こるこの変化に呆れ、これはもう天性の淫乱なのだから仕方がないとも思った。
瀬尾が入院している間、自分は申請の再提出の資料作りに勤しみ、提出が終わってからは、その分で遅れた他の仕事に追い回された。
逃げることもせず、和輝にも会いにいっていない。
仕事のせいではない。自分の意思で何もしなかった。
爛れた自分の内側から腐臭が立ち、それと同時に打ち込まれる熱を期待して躰が疼く。
自分の意思など関係ない。
条件反射のように躰が疼きだす。
眩暈を覚え、ろくに食べてもいないのに、吐き気を覚えた。
スラックスのポケットでメールの着信音がする。
発信者を確認した享一の目が大きくなる。
花隈 薫。
この前会ったのは夏だっただろうか。周が代表を務める日本トリニティのホテル「エルミタージュ」のオープニングパーティーの時だ。エルミタージュは、いまや世界中に名を馳せる建築家となった河村 圭太がデザインをし、享一の勤める大森建設が基本設計と施工を請け負った。
パーティーの日、周に手を引かれて群衆から抜け出し、豪華なフラワーアレンジメントの陰でお祝いのキスを送りあった。あれから、半年が経とうとしている。
幸せだった夏のシーンが止める間もなくなだれ込むように鮮烈に蘇る。携帯の画面を通り越し、過ぎ去った時間を見つめる目から涙が零れ落ちた。
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メキシコの建築家の作品を納めた30センチ四方のその本は、蛍光灯の光の下でもはっとするくらい鮮やかなピンクの布が張られたハードカバーに納まっている。中に使用されている紙も写真の印刷も非常に美しく、簡単に購入を決意できないくらい高価な本だった。
長い間、実家に仕送りを続け、本に金を掛けるゆとりもなく一度は手に入れることを諦めた画集だ。母親の再婚が決まり、妹の就職も内定し仕送りも免除された。
高価な本の購入も大学時代のバイトで買った腕時計の買い替えも自由だ。
好きなものを買えば、いくらかでも気分が晴れるだろうか?
そう思う一方で、孤立感が強まっていく。
今までは、生活を多少切り詰めようと、仕送りすることで離れた家族と繋がっていると感じられた。別に母や妹たちが消えたわけでもなく、いまは名乗ることは叶わないが血を分けた息子もいる。なのに、虚しさのようなものが募り、挫けかけた心が隙を衝いて、ひとつの方向へと流れ出そうとする。
その時点で、享一は思考を断ち切った。
ギシッ、ギシッ。
重量感のある金属の軋む音がして、高さ2.3メートルの巨大なスチール製の本棚がゆっくり自分に向かって迫ってくる。
「うわっ、ちょっと待ってください!ここに、人がいます!」
「おっと、すいませーん。あれ、時見じゃん」
出口の幅60センチ程になった本棚と本棚の間から、体格のよい男がひょいと覗いてきた。片岡だ。
社内の資料庫の本棚は可動式の書架になっており、棚の端のハンドルで床に敷かれたレールを簡単に移動させることが出来た。
これで、通路という余分なスペース省き、1.5倍の本の収納が可能になった。
ただでさえ重い本の棚は、片岡のように横着をして3連纏めて移動させると、それなりに加重も増し挟まれると圧迫死の恐れだってある。
「わりぃ、わりぃ。時見がいるの全然気がつかなかった。ちょっとさ、建築構造の棚開けさせてもらっていい?」
相手が片岡だと知り、遠慮なく舌打ちをする。
「まったく、気をつけろよ。お前、この前も建築部の女の子を挟みそうになってコテンパに怒られただろうが」
文句を言いながら画集を元に戻し、必要な資料だけ持って、書架の間を抜けようとしたところでレールに躓いた。
「危ないっ」
咄嗟に太い腕が伸びてきて、しっかりと肩と脇にまわっている。
「大丈夫か?」
目の前に迫る片岡の顔が妙に紅い。
「・・・ちょっと躓いただけだし・・・それより、なんでお前、赤くなってんだよ」
「ははは・・」
乱暴に引き離した片岡の首から上が、茹で蛸のように紅潮している。頭をかきながら照れた様子を見せる片岡に、黒曜石の冷たい視線を放つ。先週、駅の昇降口で抱きとめられて以来、謂れのない秋波を送られ辟易していた。
同期の中では、結構気も合うし気安い相手だと思っていただけに迷惑だと思う。
「お前、いい加減にしろよな。それとも、もう一発お見舞いしたら目が覚めんのかよ?」
拳を握る享一に、片岡は腰を折り片手を翳しながら後退った。
「タンマ!落ち着けって・・・ああ、もう・・」
今度は片岡が軽く舌打ちをする。
「だってよ、お前最近本当に色っぽいもんよ。あっと。おい、怒んなって」
眉間に険しい縦皺を寄せ片岡を睨み付ける享一を宥めるように言い、苦笑いを浮かべる。哀れなほどに血色よく染まった片岡は俯き歯切れ悪く先を続けた。
「あのな、妖艶っていうか・・・前から、こう・・なんてっか、綺麗な奴だとは思ってたけど、それとは違う感じで」
「いや、俺さァ、そっちの気はなかった筈なんだけど・・・・反応しちゃうってか・・ああ、上手く言えねえな・・やっぱ、お前なんかあったんじゃ・・・・って、アレ時見?」
片岡が顔を上げると資料室の扉をくぐる享一の後ろ姿があり、その痩身の背中は片岡をひとり残して閉まる鉄扉の向こうに消えた。
営業時間外は使う人もない食堂階の手洗いで顔を洗う。
ハンカチで拭いながら、久しぶりにまじまじと鏡の中の自分の顔を見た。
言われれば痩せたような気もするし、前からこの顔だったような気もする。
髪が随分伸びたのだけは確かだ。伸びた髪に囲まれたせいで、顔が余計にやつれて見えるのかもしれないと思った。
前髪を片手で梳き上げると、頭髪に差し込まれた大きな手に髪をかき混ぜられる感覚が蘇る。
途端に、ざわざわと躰の芯を爛れた熱が凄い勢い這い上がり、鏡の中の男が、まったく別の人間に為り変わってゆく。自分の変貌に瞠目し背後によろめいた。
白黒の境がはっきりしていた黒い瞳は淫蕩に濁り、血の色に染まる唇は艶を誘うようにだらしなく半開きにあいている。
鏡の中の男は濃い淫靡を発露させ、熱い視線で物欲しげにこちらを見つめていた。
我が身の中心は淫欲を求め、尻の狭間では後孔が発情した雌犬のように熱を欲しがって蠢いている。
淫乱で下品な娼婦。いや男娼か。
なるほど、これが自分の正体なのだと鏡の中の男を嘲笑った。
『お前は、酷くいやらしい娼婦の顔をする』と瀬尾が言った。
片岡は、肘を引っ張られてよろめいた自分を抱きとめた時、このいやらしい娼婦の顔を見たのかもしれない。
だとしたら、もう片岡に近づかない方がいい。
明朗快活で、まっすぐな気性の片岡が淫欲に溺れたこの醜い姿を知れば、きっと軽蔑する。
鏡から背けた享一の目に涙が滲んだ。
瀬尾には自分の正体が見えていた。だから、捕まったのだ。
その瀬尾は、今日退院の予定だと聞いている。
瀬尾のことを考えると、また自分の中で妙な変化が起こる。享一は片岡に知られることに怯えながらも、性懲りもなく起こるこの変化に呆れ、これはもう天性の淫乱なのだから仕方がないとも思った。
瀬尾が入院している間、自分は申請の再提出の資料作りに勤しみ、提出が終わってからは、その分で遅れた他の仕事に追い回された。
逃げることもせず、和輝にも会いにいっていない。
仕事のせいではない。自分の意思で何もしなかった。
爛れた自分の内側から腐臭が立ち、それと同時に打ち込まれる熱を期待して躰が疼く。
自分の意思など関係ない。
条件反射のように躰が疼きだす。
眩暈を覚え、ろくに食べてもいないのに、吐き気を覚えた。
スラックスのポケットでメールの着信音がする。
発信者を確認した享一の目が大きくなる。
花隈 薫。
この前会ったのは夏だっただろうか。周が代表を務める日本トリニティのホテル「エルミタージュ」のオープニングパーティーの時だ。エルミタージュは、いまや世界中に名を馳せる建築家となった河村 圭太がデザインをし、享一の勤める大森建設が基本設計と施工を請け負った。
パーティーの日、周に手を引かれて群衆から抜け出し、豪華なフラワーアレンジメントの陰でお祝いのキスを送りあった。あれから、半年が経とうとしている。
幸せだった夏のシーンが止める間もなくなだれ込むように鮮烈に蘇る。携帯の画面を通り越し、過ぎ去った時間を見つめる目から涙が零れ落ちた。
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□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
花隈登場。突破口が見つかればいいな。
気付けば、30000HIT が目の前でした。ぉお!!(゚ロ゚屮)屮
この、ひっそりサイトにこんな日が来るなんて・・・(感涙
これも、飽きずに遊びに来てくださるみなさまのおかげです!
・゚★,。・:*:・゚☆♪( ^-^)/アリガトウヽ(^-^ )♪・゚★,。・:*:・゚☆
きりバン踏まれました方、よろしかったらご連絡くださいませませ。
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
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この、ひっそりサイトにこんな日が来るなんて・・・(感涙
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また良いところでお兄ちゃん登場だ!ふっくらしたお顔(あくまで想像上)が救世主様に見えます。
兄ちゃん頼んだよぉっ(ノд-。)クスン