12 ,2009
翠滴 3 傀儡 2 (59)
外の重く湿っぽい凍てつくような雨模様とは対照的に、室温が調節された病室には適度な暖かさの微風が送り込まれている。
柔らかな白と、明るめの木調の腰壁がぐるりと張り巡らされた個室はまるで品の良いホテルの部屋みたいで、頭に包帯を巻いた瀬尾がいなければ自分が病室にいるのだということを、うっかりと忘れそうになる。
「いい部屋だな。ここが病院だってことを忘れそうだ」
「特別室だそうだ。普段は、都合よく病気になる政治家や企業のトップに立つような人間が使っている」
「VIP対応だな」
大規模な総合病院ではないが個人病院としてはかなりのものだろう。
「たまたま病室の空きがなかったってことだろう。身内がここに勤めてるんだ」
なるほど、と納得した。いくら空きがなかろうと、この部屋を一般に貸し出すとは思えない。それより、享一は耳慣れない瀬尾の身内という方に興味を持つ。
事故の知らせのあった週末、出社の途中に頼まれた着替えの類を持って、瀬尾の入院する病院に寄った。
瀬尾の事故は、完全なる自損事故だった。
急に遠方のクライアントの元に出向くことになった瀬尾が、携帯を事務所に忘れたことに気がつき、車をターンさせたところで起こった。そこそこスピードも出ていた車は目測を見誤り、曲がり損ねレールを突き破り、車ごと街路樹に突っ込んだ。
丁度、車の往来も途切れ、歩行者や他の車を巻き込むことはなかったのが幸いだ。
瀬尾自身の怪我もエアバックのお陰で奇跡的に軽く済んだが、遠心力のかかった頭部を左側のドアで強く打ちつけ脳の隙間に血が溜まり、その血を抜くための手術で一週間ほどの入院をすることになった。
---7日間の解放。和輝は瀬尾の実家に預けられ、会う事は出来ない。
何故だろう、ほっとしている自分がいる。
最近、和輝の顔をまともに見ることが出来ない。当然だ。
瀬尾との爛れた関係を隠し、和輝に笑いかけることが苦痛になっていた。
思考に埋没する目の前に白い箱が差し出された。
箱の中には8尾の鯛焼きが行儀良く同じ方向を向いて並んでいる。
「今朝、事務所のボスが持ってきてくれたんだ。実家が鯛焼き屋なんだとさ。今から仕事なんだろう。食ってけ」
時刻は午後を少し回り、朝昼兼用でゼリー状の健康食品を胃に流し込んできた。
昨夜、深夜までかかって俄か作りのチームで補助申請用の資料を作り直し、一旦休もうと休日の今日は午後の集合となった。
「食えよ、結構いけるぜ」
目の前にぐいと差し出されて、仕方なく手前の一尾を取り口に運んだ。
尻尾の方を少し齧る。
中から黄色がかったクリームが顔を出し、餡子ではなくてカスタードクリームなのかと思った。
小さくもう一口齧り、咀嚼する。やっぱり味がわからない。
「旨い?」
瀬尾がさも可笑しそうに笑うので、享一もふっと気が緩む。喩え一時の迷いでも、見の前で笑い動いている人間を脳内で殺せてしまう自分が恐ろしいと思った。
「ああ、甘いな」
自分の弱さをひけらかすような気がして味覚障害のことは瀬尾には話してはいない。堕ちる所まで堕ちた自分に、干からびこびりつくようにして残った僅かなプライドなど、ただ滑稽なだけだと思いつつ、それでも捨てられない。
瀬尾の顔から笑顔が消え真顔で見つめてくる。
自分を見入る瀬尾の鋭い視線に、なんとも落ち着かない気分になって、そろそろ行こうとした時だった。突然、瀬尾が鯛焼きを持つ手首を掴み、見せ付けるように目の前に持ってきた。
「中を見ろよ」
硬い声で言われ視線を自分の齧った鯛焼きに移す。
カスタードクリームだと思っていた鯛の腹の中から、赤いケチャップやピーマンの切れ端が顔を出す。
「お前が今食べたのは、ピザ味なんだ。甘いはずがない」
瀬尾の表情に苦悶の色が浮かび、ぐるりと手首に巻かれた指に力が篭る。「痛っ」あまりの痛さに、力の抜けた指から鯛焼きが床に落ち、中身がカーぺットタイルの上に飛び散った。
そのまま強く手を引かれベッドに腰掛ける瀬尾の膝によろめいた。
「ああ、困るな。せっかく、特別室を誂て貰ったのに汚されちゃ」
瞬間、手首が離され体勢を立て直し、声の方を向くと白衣を着た男が腕を組んで立っている。中肉中背で薄茶のフレームの眼鏡をかけ首から聴診器をぶら下げている。
「すみません」 慌てて鯛焼きを拾い、カーペットに飛び散った中身を拭き取ろうとハンカチを出した。その手を白衣の腕が制する。
「擦ると余計に広がる。後で掃除させますから、構いませんよ。ケチャップの染みは落ちにくいですからね」
上品な物言いの中にさらりと嫌味が混ざる。穏やかな声音だが言葉に温度がない。耳に届いた端から鋭い棘を持った塊となり、ガサガサとこちらの気持ちに小さな掻きキズをつけてゆく。そんなしゃべり方だ。
「キョウ、放っておけ。どうせ、ろくでもない奴らの使う部屋だ。俺は別に特別室を用意してくれとは頼んだ覚えはない」
「相変わらず可愛げのない弟だな、お前は。この防弾ガラスの嵌った部屋をおさえることに尽力した僕に、少しは感謝してもいいんじゃないのか?」
病院を出て歩き出した享一の頭の中で、瀬尾の兄の冷たい印象が強く尾を引いた。
何故、防弾ガラスなのか?
足許に落ちる小雨が雪に変わる。3月だというのに気温がぬるむ気配がない。
ビルの谷底から天を見上げるとライトグレイの空からちらほらと灰色の雪が落ちてくる。
春はまだ遠い。
果たして、時間が巡り季節が巡ろうとも、自分はずっとこの薄暗い冬の底に囚われたままであるような気がした。
目の前の、綿のような雪が、はらはらと漂いながら舞い落ちる花弁を思わせる。
春には必ず一緒に見ようと誓った桜があった。
手のひらに捕らえた花びらは、無常なまでの素っ気無さで溶けて消えた。
もう、涙も、迸る切なさも何も湧いてこない。
自分の中で周に対する想いが死んでしまったのだと、静かに悟った。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
柔らかな白と、明るめの木調の腰壁がぐるりと張り巡らされた個室はまるで品の良いホテルの部屋みたいで、頭に包帯を巻いた瀬尾がいなければ自分が病室にいるのだということを、うっかりと忘れそうになる。
「いい部屋だな。ここが病院だってことを忘れそうだ」
「特別室だそうだ。普段は、都合よく病気になる政治家や企業のトップに立つような人間が使っている」
「VIP対応だな」
大規模な総合病院ではないが個人病院としてはかなりのものだろう。
「たまたま病室の空きがなかったってことだろう。身内がここに勤めてるんだ」
なるほど、と納得した。いくら空きがなかろうと、この部屋を一般に貸し出すとは思えない。それより、享一は耳慣れない瀬尾の身内という方に興味を持つ。
事故の知らせのあった週末、出社の途中に頼まれた着替えの類を持って、瀬尾の入院する病院に寄った。
瀬尾の事故は、完全なる自損事故だった。
急に遠方のクライアントの元に出向くことになった瀬尾が、携帯を事務所に忘れたことに気がつき、車をターンさせたところで起こった。そこそこスピードも出ていた車は目測を見誤り、曲がり損ねレールを突き破り、車ごと街路樹に突っ込んだ。
丁度、車の往来も途切れ、歩行者や他の車を巻き込むことはなかったのが幸いだ。
瀬尾自身の怪我もエアバックのお陰で奇跡的に軽く済んだが、遠心力のかかった頭部を左側のドアで強く打ちつけ脳の隙間に血が溜まり、その血を抜くための手術で一週間ほどの入院をすることになった。
---7日間の解放。和輝は瀬尾の実家に預けられ、会う事は出来ない。
何故だろう、ほっとしている自分がいる。
最近、和輝の顔をまともに見ることが出来ない。当然だ。
瀬尾との爛れた関係を隠し、和輝に笑いかけることが苦痛になっていた。
思考に埋没する目の前に白い箱が差し出された。
箱の中には8尾の鯛焼きが行儀良く同じ方向を向いて並んでいる。
「今朝、事務所のボスが持ってきてくれたんだ。実家が鯛焼き屋なんだとさ。今から仕事なんだろう。食ってけ」
時刻は午後を少し回り、朝昼兼用でゼリー状の健康食品を胃に流し込んできた。
昨夜、深夜までかかって俄か作りのチームで補助申請用の資料を作り直し、一旦休もうと休日の今日は午後の集合となった。
「食えよ、結構いけるぜ」
目の前にぐいと差し出されて、仕方なく手前の一尾を取り口に運んだ。
尻尾の方を少し齧る。
中から黄色がかったクリームが顔を出し、餡子ではなくてカスタードクリームなのかと思った。
小さくもう一口齧り、咀嚼する。やっぱり味がわからない。
「旨い?」
瀬尾がさも可笑しそうに笑うので、享一もふっと気が緩む。喩え一時の迷いでも、見の前で笑い動いている人間を脳内で殺せてしまう自分が恐ろしいと思った。
「ああ、甘いな」
自分の弱さをひけらかすような気がして味覚障害のことは瀬尾には話してはいない。堕ちる所まで堕ちた自分に、干からびこびりつくようにして残った僅かなプライドなど、ただ滑稽なだけだと思いつつ、それでも捨てられない。
瀬尾の顔から笑顔が消え真顔で見つめてくる。
自分を見入る瀬尾の鋭い視線に、なんとも落ち着かない気分になって、そろそろ行こうとした時だった。突然、瀬尾が鯛焼きを持つ手首を掴み、見せ付けるように目の前に持ってきた。
「中を見ろよ」
硬い声で言われ視線を自分の齧った鯛焼きに移す。
カスタードクリームだと思っていた鯛の腹の中から、赤いケチャップやピーマンの切れ端が顔を出す。
「お前が今食べたのは、ピザ味なんだ。甘いはずがない」
瀬尾の表情に苦悶の色が浮かび、ぐるりと手首に巻かれた指に力が篭る。「痛っ」あまりの痛さに、力の抜けた指から鯛焼きが床に落ち、中身がカーぺットタイルの上に飛び散った。
そのまま強く手を引かれベッドに腰掛ける瀬尾の膝によろめいた。
「ああ、困るな。せっかく、特別室を誂て貰ったのに汚されちゃ」
瞬間、手首が離され体勢を立て直し、声の方を向くと白衣を着た男が腕を組んで立っている。中肉中背で薄茶のフレームの眼鏡をかけ首から聴診器をぶら下げている。
「すみません」 慌てて鯛焼きを拾い、カーペットに飛び散った中身を拭き取ろうとハンカチを出した。その手を白衣の腕が制する。
「擦ると余計に広がる。後で掃除させますから、構いませんよ。ケチャップの染みは落ちにくいですからね」
上品な物言いの中にさらりと嫌味が混ざる。穏やかな声音だが言葉に温度がない。耳に届いた端から鋭い棘を持った塊となり、ガサガサとこちらの気持ちに小さな掻きキズをつけてゆく。そんなしゃべり方だ。
「キョウ、放っておけ。どうせ、ろくでもない奴らの使う部屋だ。俺は別に特別室を用意してくれとは頼んだ覚えはない」
「相変わらず可愛げのない弟だな、お前は。この防弾ガラスの嵌った部屋をおさえることに尽力した僕に、少しは感謝してもいいんじゃないのか?」
病院を出て歩き出した享一の頭の中で、瀬尾の兄の冷たい印象が強く尾を引いた。
何故、防弾ガラスなのか?
足許に落ちる小雨が雪に変わる。3月だというのに気温がぬるむ気配がない。
ビルの谷底から天を見上げるとライトグレイの空からちらほらと灰色の雪が落ちてくる。
春はまだ遠い。
果たして、時間が巡り季節が巡ろうとも、自分はずっとこの薄暗い冬の底に囚われたままであるような気がした。
目の前の、綿のような雪が、はらはらと漂いながら舞い落ちる花弁を思わせる。
春には必ず一緒に見ようと誓った桜があった。
手のひらに捕らえた花びらは、無常なまでの素っ気無さで溶けて消えた。
もう、涙も、迸る切なさも何も湧いてこない。
自分の中で周に対する想いが死んでしまったのだと、静かに悟った。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
生きてました♪だ~れ~だ~、殺っちゃえばいいのにって言う人(いないって・笑)
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
■ブログ拍手コメントのお返事は、サイトの”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事からか、もしくは*こちら*から
ランキングに参加しています
よろしければ、踏んでいってくださいな♪
↓↓↓

にほんブログ村
生きてました♪だ~れ~だ~、殺っちゃえばいいのにって言う人(いないって・笑)
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
■ブログ拍手コメントのお返事は、サイトの”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事からか、もしくは*こちら*から
ランキングに参加しています
よろしければ、踏んでいってくださいな♪
↓↓↓

にほんブログ村
人間生きててなんぼです(急にオバちゃん)
それにしても、流行りの白いたい焼きで味覚障害がばれるとは!
手首を・・・ああ…手首をつかまれた~と、思ったらお兄さん!
(このおにいさん、ちょっと美味しそう)
雪を見て思うのは
>自分の中で周に対する想いが死んでしまったのだと、静かに悟った。
そ、そんな~
って、これって感想じゃないですね・・・。
お話の筋をなぞってる~、\(゜ロ\)(/ロ゜)/興奮状態
どうして、いつもMさんと同時アップなんですか~?
頭の切り替えが~~~。
てか…幸せいっぱい←オカシイ( ̄▼ ̄)ノ