12 ,2009
翠滴 3 傀儡 1 (58)
「当然、このままじゃ補助申請は通らないそうだ。即刻、役所にいって提出した資料を返してもらってきてくれ。来週半ばまで待ってくれるって言ってるから、なんとか間に合わせて提出してもらいたいんだけど、出来そうかな? もし体調が悪いなら・・」
「部長、お呼びですかァ」
これ以上、大石部長にも会社にも迷惑は掛けられない。大丈夫ですと言いかけた享一の背後で間の抜けた声がした。
同じチームで大学の先輩でもある平沢がドアからひょいと顔を出し、大石の手招きで部屋に入ってきた。
「なんすかねえ。R町の計画案ならもう提出しましたよ」
ガリガリと寝ぐせの残る頭を掻きながら、平沢は享一をちらりと見た。相変わらず、眠そうな顔に無精ひげが張り付いている。
「すみません、私の体調は大丈夫ですから。急いで役所に行ってきます」
「まあ、待て。平沢君、いま手は空いてる? もしいけそうなら、時見君のフォロー頼めるかな」
「いいっすよ。積算の佐々木さんが言ってた申請の件ですかね。ついでに外注さんも何人か押さえときます?」
平沢と共に席に戻った。
「すみません、先輩にも手伝わせる事になって。俺、今から役所行ってきます」
「おう、それじゃ俺も一緒に行っから、帰りにメシ食って帰って来ようぜ」
「奢ります」
「たりめえだ。グルメな俺の腹はファストフードなんか受けつけねえからな」
腹を叩いて快活に笑う平沢の笑い声に、不覚にも涙が零れそうになる。
平沢がフォローに入り、外注社員を2人押さえてくれただけも、作業は格段に楽になる。
だが、不意に込み上げた熱いものの理由は、提出が間に合う展望が見えた安堵からではなく、何気ない日常と、平沢のさりげない気遣いに触れて、ふつりと気が緩んでのことだった。
「もっと食えよ。食いもん残すと目ぇつぶれっぞ、って親父に言われたことねェのか?」
「え?」
顔を上げると平沢の一重と衝突して、享一は自分の前に置かれた膳に目を落とした。
役所近くの老舗の蕎麦屋で平沢と向かい合って座っていた。
平沢の隣には、別件で役所を訪れていた片岡が蕎麦屋の決してゆとりがあるとはいえない規格のテーブルと椅子に大柄なその体を窮屈そうに畳み収まっている。
享一の膳の上は、ざる蕎麦が半分減っただけで、後の天ぷらやら造りのがほとんど手付かずで残る。対して平沢と片岡の膳は全ての料理が、器を舐めたのかと思わせるくらい、きれいになくなっていた。
「時見さ、飯は残さない主義だって前に言ってなかったっけ?」
上着のポケットを探りながら片岡も口を挟む。
食べる事に関してだけは煩い母親の躾で、出されたものは全て食べるというのが、享一のこれまでのモットーになっていた。言われてみれば、これだけの食べ物を残すというのは、いままでしたことがなかったかもしれない。
残った料理を放心したように見つめる享一に、向かいの2人がちらりと視線を交わす。
ひとつ咳払いをした片岡が、取り出したタバコを口に咥え灰皿を求めて店内を見まわす。その口がポカンと開き、落ちかけた煙草を気まずそうに箱に戻した。
享一の後ろ、片岡の真正面の煤けた焦げ茶色の木板の壁に、「禁煙」と書かれた紙が堂々と貼ってある。
「あ~、ここの主人の方針でね店内禁煙なのよ。や、本人はヘビースモーカーらしいんだけどね。自分が厨房で我慢すんだから、てめえら客も我慢しろよってことかねえ」
「ったく、そういうの早く言ってくださいよ、平沢さん。真ん前にこんなにデカデカと貼ってあんのに、俺、恥ずかしいじゃないっすか」
ブチブチ文句を言うのをまあまあと宥めつつ、平沢が片岡に目と顎で合図をする。すると、片岡が急に気が付いたように神妙な表情を作り、口を開いた。
「あのさ時見、最近、付き合い程度にしかメシ食ってねえだろ。夜も残メシ食いに一緒にいかなくなったし・・・お前さ、毎日ちゃんと食ってんの?」
「食ってるよ。最近は忙しいし、夜は帰りに買って帰ることが多いからな」
確かに買って帰っているが、コンビニでカゴに放り込むのは、少量で効率的に栄養の摂れる食品ばかりで、食事を楽しむというよりは生命維持のために機械的に口に運ぶ。
口に入れ、租借し、飲み下す。
そこに味を楽しむという工程は無く、噛み砕かれた固形物が喉を通り食道を落ちてゆく感覚があるのみだった。
食べ物の味がわからない。少し前から享一の舌は味覚を失っていた。
また、目の前の二人が目配せを送りあう。
「なんだよ、さっきから2人でこそこそと・・・片岡も、先輩も言いたい事あるならはっきり言ってください」
「そう? んじゃあ言うけど、時見さあ、軽ーく拒食症でしょ。なんか悩み事でもあんなら、俺ちゃんが聞いてやってもいいぞ」
享一がぽかんと、楊枝を咥えてシーシーし始めた平沢を見る。
「平沢さん!! そんな、ぞんざいな言い方してどうすんですかっ?」
片岡の狽え振りから、2人が自分を気に掛けてくれていたことに気が付いた。
面倒見の良い片岡のことだ。役所で会ったのも本当は偶然ではなく、この場を設けるためにわざわざ用事を作って出てきてくれたに違いない。
「俺、そんなに痩せてるかな?」
享一は顔に手をやり顎の辺りを確かめるように撫でた。自分ではわからない。そういえばここのところまともに鏡を見ていないような気もする。
「まあ・・・病的に見えるとこまではいってねぇ・・・・かな」
片岡の気を遣った、言葉を濁す言い方が却って気にかかる。
「いや、やつれた感じがまた堪んないんだけどねえ。残業とか一緒にやってるとな、痩せて儚げな背中に、こうムラムラ~ってな」
平沢の何かを揉むような手つきを見た享一の半眼の眉根が寄る。
「ひ、平沢さん! ナニ言ってんすか? もっと真面目に・・・え? あ、あれ、時見ちゃん」
逼塞し緊迫した心の一部が、少しだけ緩んで軽くなるのを感じた。それまで、冬の重く冷たい夜の底で、ひとり立っているような気分が抜けなかった。
享一は、会計伝票と役所から取り戻した書類が入った紙袋を手に立ち上がった。
笑って見せると、またひとつ心が軽くなった気がした。このままここにいたら、きっと自分は泣いてしまう。
「社に戻って、仕事の段取りを組みたいので、先に帰ります。平沢先輩と片岡はゆっくりしてください」
「時見、ちょっと待てってば、怒んなよ」
「俺は別に怒って・・・・スマン!」
駅の昇降口手前で、追いかけて来た片岡に肘を引っ張られ、体力の削げた体は簡単にラグビーで鍛えられた厚い胸に倒れこんだ。目の前に享一を抱き止めた片岡の、少ししゃくれ上がった肉厚の唇があり、鼻先を覚えのある匂いが掠めた。
プールオムの香り。
ふっと頭の中で時間が途切れて、享一の瞳が虚ろになる。緩慢な仕草で掌を片岡の胸元に這わせると、色香を醸し淫蕩を滲ませる表情で自分の唇を片岡に近づけた。
片岡の両手が享一の肩を掴みごくりと喉仏が上下する。
「と、時見?」
はっ、と享一の瞳が見開き、今にも唇が接触しそうな片岡とバチっと目があった。
ガッ!!
「うおおっ、すっげえ! 時見、やるなあ~」 素っ頓狂な声を上げたのは、追いついた平沢だ。
片岡は享一の拳が見事にヒットした頬を抑えながら、大仰に尻餅をついていた。
昼食帰りのサラリーマンやOLが、歩道に転がる大男に目を丸くする。
「痛ってえなァ。急になにすんだよ!」
「に、匂いが・・・・すまん!片岡」
平沢と2人で、起き上がる片岡に手を貸して立たせた。
「何だよそれ、もう。お前から誘って・・・」 と言いかけ、狼狽する享一の顔を見た片岡は言葉を引っ込めた。
替わりに大袈裟に頬をさする。
「ったく、お前って顔に似合わず鋭いパンチしてくんのな。いててっ」
「ふぅん。時見が、こんな凶暴だったとは知らんかった。オレは襲わなくて正解だったな」
「平沢先輩っ」
享一が睨むと、平沢がニヤニヤしながらウインクと一緒に親指を突き出してくる。
なんで親指なんだと気が抜けて力なく笑い出すと、後の2人も笑い出し、終いには3人で声を上げて笑った。
「ところで、何だよ?匂いって。俺は何にもつけてない・・・あ、これか」
片岡がコートの下、背広の胸ポケットから長細い紙片を取り出す。デパートなどの香水売り場でよく配られるムエット(試香紙)だ。紙片からは瀬尾の愛用するトワレの香りが一層強く立ち上り、享一は思わず口と鼻に手をやり顔を背けた。
条件反射のように背中がぞくりと震え、その後、熱くどろどろしたものが這い上がってくる。性器が僅かに反応したことにショックを受け粟肌が立った。
「時見、どうした? 顔色が悪いぞ、大丈夫か?」
その時、不意に携帯が鳴りだした。 「大丈夫だから」 と短く答えて携帯を取り出す。
見覚えの無い固定電話のナンバーを不審に思いつつも携帯に出た。
「事故? 瀬尾がですか」
俺は今、一体どんな顔をして、何を願っている?
自分の中に芽吹いた願望に気が付き、自分の残忍さに心底震えた。
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ご指摘を頂き、ちょこっと書き足しました。
でも、片岡はとばっちりをうけたまま・・・( ̄Д ̄;)
□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
傀儡(くぐつ)=あやつり人形という意味です。ひとつのサブタイトルに10話・・・詰め込みすぎです。
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享一くん、追い詰められてるなあ。味覚障害ですか。
瀬尾さんが知ったら、どうするのか、事故はどうなのか、気になるところですね。でも、体が反応するほど享一をとりこにしている、というのも、ある意味すごい。
でも、享一の片岡へのパンチを読んで、おいおい瀬尾を殴れよ、と思ったのは私だけではないでしょう。え? 私だけ?
続き楽しみにしています。