10 ,2009
翠滴 3 breath 1 (48)
享一が消えたドアをいつまでも見ていた。
シンと冷え切った空気の中、何もかもが凍りついたようで動くものなど何一つ無い。ただ、享一の消えたそのドアだけが、僅かな温度を持っているように思えて凝視し続けた。
やがて、微かに子供の泣き声が聞こえてくる。
和輝の声だ。
享一の血を受け継ぐ子供。
間近で見るのは初めてだった。顔の作りが享一とよく似ていて、わかりきったことである筈であるのに、そのことに少なからず衝撃を受けた。
そして、和輝を抱き上げる享一の顔が父親のそれであることにも。
すすり泣くような、ほんの小さな子供の声が凍りついた空気を揺さぶり、享一の世界から自分を追い立てている。
周は、まるで眼力で薄いアパートのドアをぶち破らんばかりにドアを睨み立ち尽くした。
本音を言えば今すぐあのドアを蹴破り、享一を無理矢理にでも自分のペントハウスへと引っ張って帰りたい。
確かに腕の中に感じた享一の存在が、一枚の薄いドアを隔てただけで手の届かぬところへ攫われてしまった気がした。いや、違う。
今、享一との間に立ち塞がるのは、たった5歳の子供だ。
瀬尾のみが相手であるならば、いくらでも手は打てた。
合わせた唇は、享一の心が離れた訳ではないことを明白に語っていた。
お前を取り戻すには、どうすればいい? 享一
どこかでテレビのスイッチが入ったのか、静かな住宅街にくぐもった音が洩れてくる。外気はさらに冷え込み深夜の冷気がびっしりと身を包む。
コートのポケットからフェアレディのキーを取り出し、踵を返して歩き出したその足が止まった。
「いつからそこに居た?」
「いつから貴方を見ていたかということでしたら、貴方がここに来た時からです。つまり、3時間程前から、ということですね」
周はフェアレディの赤い車体に凭れる鳴海の前を何も言わず通り過ぎ、フロントドアのとってに手を掛けた。
「さすがの貴方も、子供の涙には勝てませんか」
周の横に立ち、やや薄笑いを含んだ声で聞いてきた。
「さっさとNYに行けよ、エドがお前を待っている。メールを読まなかったのか?」
乗り込もうとしたところを、ルーフに渡された鳴海の腕に阻まれ怜悧な顔を睨みつける。鳴海の冷たく鋭い視線が、チタンフレームの眼鏡の奥から問いかけるよう見つめ返してきた。
「明日の早朝の便を押さえてあります。・・・私を人身御供に差し出すわけですか?」
横目で鳴海を捉えた周の薄い唇の口角がくっと上がる。
「訳のわからないこと言うな、鳴海。エドは年末からスキーバカンスの予定だそうだ。さっさと行って年内に仕事を片して来い」
鳴海の表情が消えて、外気の冷たさを凌ぐほどに冷めていく。
すっと顔を寄せた鳴海の唇が耳許で囁いた。
「高くつきますよ」
耳殻にあたる吐息に眉を顰める。
鳴海の鼻先でドアを閉め、車を発進させた。
大通りに出ればクリスマスの電飾が街路樹を飾る。NYに比べればささやかなものだが、チカチカと街を飾る電飾は喪失感や寂寥感を掻き立てるには充分だ。
一旦、自分の腕の中に納まった享一の躰を手離したことを激しく後悔している自分に気がつく。享一は、少しやつれていた。もともと細身な体型であったが、最後に抱いた時に比べ確実に肉が落ちていた。
『早めのクリスマス』と称して、ホテル・エルミタージュのスウィートで享一を自分の酔狂に付き合わせた。素手で互いの素肌をクリームでべとべとにしながらケーキを食べ、ラッパ飲みしたヴーヴ・クリコの薄い薔薇色の甘い液体を、口移しで何度も花弁の唇に注ぎ込んだ。
恥ずかしそうにしながらも、蕩けそうな顔で微笑む享一は、この幸せがいつまでも続けばいいと囁いた。声も息遣いも、潤んだ黒曜石の瞳も何もかもが自分の腕の中で歓喜に震え、甘い蜜を零し続けた。
必ずこの手に取り戻す。
今は敢えて瀬尾 隆典の存在は頭から締め出した。考え始めると、腸が煮えくり返り自分を見失いかねない。
自分にしか対処できない案件を処理し、NYのエドの元を発ち漸く帰途に着いた機上のモニターの中に瀬尾の姿を見つけた。
警察官絡みの事件があそこまで大々的に表沙汰になることは珍しい。大概がメディアに載る前に上から圧力がかかるか、揉み消される。しかも、自殺したのは被告本人ではなくその父親だ。息子の裁判やその弁護に回る瀬尾ら弁護団がクローズアップされたことにも違和感を感じた。
今、冷静さを欠いて行動すれば、享一をも傷つける結果になるかもしれない。
疲労の色を濃くし、カメラを前に項垂れる瀬尾の憐れな姿は情の深い享一の目にどのように映っただろう。享一の性格と、和輝の存在や瀬尾の享一への恋情といった数々のピースを重ねると不愉快な仮説が持ち上がる。
ドアウインドウを下げると、身を切るような冷たい風が頬を叩き髪を弄った。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →

にほんブログ村
シンと冷え切った空気の中、何もかもが凍りついたようで動くものなど何一つ無い。ただ、享一の消えたそのドアだけが、僅かな温度を持っているように思えて凝視し続けた。
やがて、微かに子供の泣き声が聞こえてくる。
和輝の声だ。
享一の血を受け継ぐ子供。
間近で見るのは初めてだった。顔の作りが享一とよく似ていて、わかりきったことである筈であるのに、そのことに少なからず衝撃を受けた。
そして、和輝を抱き上げる享一の顔が父親のそれであることにも。
すすり泣くような、ほんの小さな子供の声が凍りついた空気を揺さぶり、享一の世界から自分を追い立てている。
周は、まるで眼力で薄いアパートのドアをぶち破らんばかりにドアを睨み立ち尽くした。
本音を言えば今すぐあのドアを蹴破り、享一を無理矢理にでも自分のペントハウスへと引っ張って帰りたい。
確かに腕の中に感じた享一の存在が、一枚の薄いドアを隔てただけで手の届かぬところへ攫われてしまった気がした。いや、違う。
今、享一との間に立ち塞がるのは、たった5歳の子供だ。
瀬尾のみが相手であるならば、いくらでも手は打てた。
合わせた唇は、享一の心が離れた訳ではないことを明白に語っていた。
お前を取り戻すには、どうすればいい?
どこかでテレビのスイッチが入ったのか、静かな住宅街にくぐもった音が洩れてくる。外気はさらに冷え込み深夜の冷気がびっしりと身を包む。
コートのポケットからフェアレディのキーを取り出し、踵を返して歩き出したその足が止まった。
「いつからそこに居た?」
「いつから貴方を見ていたかということでしたら、貴方がここに来た時からです。つまり、3時間程前から、ということですね」
周はフェアレディの赤い車体に凭れる鳴海の前を何も言わず通り過ぎ、フロントドアのとってに手を掛けた。
「さすがの貴方も、子供の涙には勝てませんか」
周の横に立ち、やや薄笑いを含んだ声で聞いてきた。
「さっさとNYに行けよ、エドがお前を待っている。メールを読まなかったのか?」
乗り込もうとしたところを、ルーフに渡された鳴海の腕に阻まれ怜悧な顔を睨みつける。鳴海の冷たく鋭い視線が、チタンフレームの眼鏡の奥から問いかけるよう見つめ返してきた。
「明日の早朝の便を押さえてあります。・・・私を人身御供に差し出すわけですか?」
横目で鳴海を捉えた周の薄い唇の口角がくっと上がる。
「訳のわからないこと言うな、鳴海。エドは年末からスキーバカンスの予定だそうだ。さっさと行って年内に仕事を片して来い」
鳴海の表情が消えて、外気の冷たさを凌ぐほどに冷めていく。
すっと顔を寄せた鳴海の唇が耳許で囁いた。
「高くつきますよ」
耳殻にあたる吐息に眉を顰める。
鳴海の鼻先でドアを閉め、車を発進させた。
大通りに出ればクリスマスの電飾が街路樹を飾る。NYに比べればささやかなものだが、チカチカと街を飾る電飾は喪失感や寂寥感を掻き立てるには充分だ。
一旦、自分の腕の中に納まった享一の躰を手離したことを激しく後悔している自分に気がつく。享一は、少しやつれていた。もともと細身な体型であったが、最後に抱いた時に比べ確実に肉が落ちていた。
『早めのクリスマス』と称して、ホテル・エルミタージュのスウィートで享一を自分の酔狂に付き合わせた。素手で互いの素肌をクリームでべとべとにしながらケーキを食べ、ラッパ飲みしたヴーヴ・クリコの薄い薔薇色の甘い液体を、口移しで何度も花弁の唇に注ぎ込んだ。
恥ずかしそうにしながらも、蕩けそうな顔で微笑む享一は、この幸せがいつまでも続けばいいと囁いた。声も息遣いも、潤んだ黒曜石の瞳も何もかもが自分の腕の中で歓喜に震え、甘い蜜を零し続けた。
今は敢えて瀬尾 隆典の存在は頭から締め出した。考え始めると、腸が煮えくり返り自分を見失いかねない。
自分にしか対処できない案件を処理し、NYのエドの元を発ち漸く帰途に着いた機上のモニターの中に瀬尾の姿を見つけた。
警察官絡みの事件があそこまで大々的に表沙汰になることは珍しい。大概がメディアに載る前に上から圧力がかかるか、揉み消される。しかも、自殺したのは被告本人ではなくその父親だ。息子の裁判やその弁護に回る瀬尾ら弁護団がクローズアップされたことにも違和感を感じた。
今、冷静さを欠いて行動すれば、享一をも傷つける結果になるかもしれない。
疲労の色を濃くし、カメラを前に項垂れる瀬尾の憐れな姿は情の深い享一の目にどのように映っただろう。享一の性格と、和輝の存在や瀬尾の享一への恋情といった数々のピースを重ねると不愉快な仮説が持ち上がる。
ドアウインドウを下げると、身を切るような冷たい風が頬を叩き髪を弄った。
<< ←前話 / 次話→ >>
目次を見る
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →

にほんブログ村
□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
サブタイトルは、breath〔ブレス〕にしました。
和輝を含めた4人の思惑や温度の違った息遣いを感じて頂ける章に出来ればいいなと思います。
鳴海はNYに行って、その後どうなるんだろう・・・・・・ま、いっか(笑)
ヴーヴ・クリコ・・・未亡人の名のつくこのシャンパン。
結婚のお祝に持って行ってはいけないと昔ワインスクールの先生に教えていただきました。
皆さまもお気をつけあそばせ(舌かんだ・・・
紙魚
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
■ブログ拍手コメントのお返事は、サイトの”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事からか、もしくは*こちら*から
サブタイトルは、breath〔ブレス〕にしました。
和輝を含めた4人の思惑や温度の違った息遣いを感じて頂ける章に出来ればいいなと思います。
鳴海はNYに行って、その後どうなるんだろう・・・・・・ま、いっか(笑)
ヴーヴ・クリコ・・・未亡人の名のつくこのシャンパン。
結婚のお祝に持って行ってはいけないと昔ワインスクールの先生に教えていただきました。
皆さまもお気をつけあそばせ(舌かんだ・・・
紙魚
■拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
ほんの拙文しか書けない私ですがですが、書いていく励みになります。。
■ブログ拍手コメントのお返事は、サイトの”もんもんもん”の
ブログ拍手コメ・メールのお返事からか、もしくは*こちら*から
コメでUPを知り、つい読みに走ってしまいました。。
で、めくるめく官能に、鼻血ダラダラで戻って参りました(フキフキ・・
> つい来ちゃいました。ま、自分のはあとでいいや。
・ええっ?!ダメですよ~~~っ!!ちゃんとUPしてくださらないと、読み手の方が焦れてらっしゃいますよ(゚Д゚;)
> でも周さんが、無理に押し切ろうとはしないで、それでもあきらめない姿にちょっとほっとしました。
周も、和輝のことがありますので享一の心を慮って慎重です。
全員が息を潜めてジレジレする感じが書ければいいなあって思うのですけど、筆と頭の両方ともがついていきません(泣
> 一流のスナイパーかなんかに育てて、周さんの邪魔をする人間を葬ってもらうってことで……え、ぜんぜん違う?
・これはこれで、全く別の話が一本書けそう(笑)
でも、享一が絶対許しませんって!
> じゃあじゃあ、妖魔が出てきて過去の記憶を奪って……え、それも違う?
・そういえば、そちらにさすらいの妖魔様がおひとりいらっしゃったはず・・・・
出張でいかがでしょう♪この際、享一をもうひとり・・っていうのも有り?(笑)
> 私の予想なんてこんなもんです。
・めっちゃ、楽しませていただきました(爆
コメント&ご訪問、ありがとうございます!!