06 ,2009
翠滴 3 penny rain 7 (23)
視界いっぱいに靄がかかり、低い位置で一際濃い霧が雲海のように棚引いている。
山も空も、人家も眼下に広がる田畑すらも、一切の色を消し無彩色の濃淡に沈んでいる。
「水墨画みたいだ」
享一は広縁の細い柱に立ったまま凭れ、目の前に広がる繊細な筆先で刷かれた薄墨の世界に見とれながらポツリと呟いた。後頭部をこつんと柱に当てて、朝方の夢に想いを馳せるが、目の前の靄のように掴み所がなく、これ一つ形になるものを掬い上げることが出来ない。
せめて、胸に引っ掛かるモヤモヤを吐き出そうとするように宙に向けて息をついた。
昨夜からの雨も午後遅くになってようやく上がり、周のクローゼットから借りたセーターの隙間からひんやりと湿った冷気が忍び込んでくるのが心地よかった。風景の中で唯一色を持った桜の葉の紅葉が秋が深まりつつさることを教えてくれる。
心の中で昨夜の情事を反芻する。
自分は、ちゃんと周を抱くことが出来ただろうか?
自分の拙い愛撫やぎこちない行為に周は満足して抱かれてくれただろうか?
躯だけではなく、心も、自分と出会う前の自分が知らなかった周の時間も抱きたい、そう思って包み込んだ。
享一が目覚めたのは昼も近くなってからで、身体はきれいに拭われ後処理も済まされ、ご丁寧にパジャマまで着せられていた。周はいつも、享一が意識を飛ばして泥のように眠り込んだ後、必ずこれらのことをしてくれる。一体、正体もなく眠りこける自分を周はどんな顔で、何を思い一連の作業をしてくれているのだろうか?
想像すると恥ずかしく、消え入りたい気持ちになる。
その周は、享一が起きた時にはもうラップトップを立ち上げ仕事に没頭していた。
こうなると、何を話しかけても無駄になる。
返ってくるのは生返事のみで、それでも返ってくるだけましな方なのだ。
周が代表を務める日本トリニティは、日本に先駆けて世界中にラグジュアリーホテルを展開する母体、アメリカトリニティに習い、今秋から日本でもホテル事業を開始することになった。
その記念すべき一つ目のホテルが河村が率いるもう一つの設計集団”ハニカム7”の設計するホテル・エルミタージュだ。施工と基本設計は大森建設で享一と先輩の平沢が担当している。
シャワーを浴び、周の部屋にある簡易キッチンで冷凍庫にあった豆で2人分のブラックコーヒーを淹れ、一つをソファに座ってキーを叩き資料を読み耽る周の傍に置き、もう一つを手に持って周の部屋を出てきた。
目の前には、この屋敷が建てられた300年前と、さしては変らないであろう風景が広がる。
ふと、現在この屋敷で、周が東京やNYとオンラインで結びリアルタイムで仕事をしているという事実が、300年という時間の経過を瞬時に飛び越え圧縮させてしまったような気がして、時間の軸が自分の中で大きく捻れる不思議な感覚に陥った。
時間は確実に流れている、それでも変らないものもある。
視線をめぐらせると、長い広縁の天井や、静かな広間の薄暗がりに確かに300年の時間を経た何かが息づきたゆとうている。
だが、時間が流れが早いのもまた確かだ。永久も瞬間の積み重ねに過ぎない。
そう思うと、周と共に歩める時間もあっという間に過ぎてしまいそうで、ほんの一秒だって無駄にしたくない、そんな焦りにも似た気持ちが湧いてくる。
自分は、なんという遠回りをして時間を無駄に消費したことか。
今すぐ周を抱きしめたい・・・・・。
逸りだした身を起こそうとしたその刹那、背後から柱ごと抱きしめられた。
周独特の花のような香りが、雨上がりの土の香りと混ざってぞわぞわと背中を駆け抜けた。
「仕事は済んだのか?」
「ああ、明日の午後、事業企画部のメンバーとミーティングが入った。明朝にはここを発たなくてはいけなくなった」
声音に、すまなさそうな感情が滲む。
この場所や建物に惚れ込んでいる享一を慮っての言葉に心が柔らかいものに触れる。
「かまわないよ。どうせ、明日のうちには東京へ戻らなくてはいけなかったんだから。朝一で、ここを出ようか」
抱きしめる腕に力が篭った。
「邪魔な柱だな。圧し折ってやろうか?」 声に笑がまざる。
「よせよ、これ以上この屋敷に傷を入れたら、香田教授がまたひっくり返っちまう」
香田教授とは、建築学科だった享一の大学時代の恩師で重要文化財に指定されるこの屋敷の研究に心血を注いでいる。去年の暮れ調査のために訪れた教授に階下の周の居室である隠し部屋の存在が知られてしまい、教授はその場でぶっ倒れて寝込んでしまった。
ことの顛末を思い出し、二人の口から苦笑いにも似た笑いが漏れた。
享一は周の腕を振り解くと、「ほら」と腕を伸ばし正面から抱き合う。
「ありがとう」
耳元の低い呟きに、周の心を抱くことが出来たことを知る。
何か返そうとしても言葉が見つからず、周に回す腕に力を込めた。
唇が重なり足腰の力が抜けたところで、広い座敷の冷んやりとした畳の上に押し倒された。
「俺、もう今日は打ち止めなんだけど?」
「少しだけ」
セーターを掻い潜りシャツの下に忍び込んだ掌は、少し冷たくて今朝の名残の官能を引き出す。
静寂の中、口腔を貪りあう、濡れた音だけが響いた。
済し崩しになりそうなこの状況に、流されたい気持ちを抑えて声を掛ける。
「周、俺達何か食べないと飢え死にしちゃうぜ。そろそろ買出しにでも行かないか?」
「了解」
「晩飯、なんにする?」
「おでん」重なった唇から含み笑いが漏れた。
「でも、もう少しだけこのままで。享一・・・」 絡めた指先が強請ってくる。
「ああ・・・」
もう少し、もう少し・・・・刹那が連なって、やがて永い時間になる。
一秒でも長く、可能な限り2人一緒にいよう・・・・そう願った筈なのに。
週明けの月曜の夕方、携帯ショップのサービスカウンターで享一は眉間に皺を寄せ、難しい顔のまま強張っていた。店員が気遣わしげな表情で、固まった享一を見守っている。
「盗聴・・・・ですか?」
「警察に届けましょうか?」
<< ←前話 / 次話→>>
翠滴 1―1 →
翠滴 2―1 →
翠滴 3―1 →
山も空も、人家も眼下に広がる田畑すらも、一切の色を消し無彩色の濃淡に沈んでいる。
「水墨画みたいだ」
享一は広縁の細い柱に立ったまま凭れ、目の前に広がる繊細な筆先で刷かれた薄墨の世界に見とれながらポツリと呟いた。後頭部をこつんと柱に当てて、朝方の夢に想いを馳せるが、目の前の靄のように掴み所がなく、これ一つ形になるものを掬い上げることが出来ない。
せめて、胸に引っ掛かるモヤモヤを吐き出そうとするように宙に向けて息をついた。
昨夜からの雨も午後遅くになってようやく上がり、周のクローゼットから借りたセーターの隙間からひんやりと湿った冷気が忍び込んでくるのが心地よかった。風景の中で唯一色を持った桜の葉の紅葉が秋が深まりつつさることを教えてくれる。
心の中で昨夜の情事を反芻する。
自分は、ちゃんと周を抱くことが出来ただろうか?
自分の拙い愛撫やぎこちない行為に周は満足して抱かれてくれただろうか?
躯だけではなく、心も、自分と出会う前の自分が知らなかった周の時間も抱きたい、そう思って包み込んだ。
享一が目覚めたのは昼も近くなってからで、身体はきれいに拭われ後処理も済まされ、ご丁寧にパジャマまで着せられていた。周はいつも、享一が意識を飛ばして泥のように眠り込んだ後、必ずこれらのことをしてくれる。一体、正体もなく眠りこける自分を周はどんな顔で、何を思い一連の作業をしてくれているのだろうか?
想像すると恥ずかしく、消え入りたい気持ちになる。
その周は、享一が起きた時にはもうラップトップを立ち上げ仕事に没頭していた。
こうなると、何を話しかけても無駄になる。
返ってくるのは生返事のみで、それでも返ってくるだけましな方なのだ。
周が代表を務める日本トリニティは、日本に先駆けて世界中にラグジュアリーホテルを展開する母体、アメリカトリニティに習い、今秋から日本でもホテル事業を開始することになった。
その記念すべき一つ目のホテルが河村が率いるもう一つの設計集団”ハニカム7”の設計するホテル・エルミタージュだ。施工と基本設計は大森建設で享一と先輩の平沢が担当している。
シャワーを浴び、周の部屋にある簡易キッチンで冷凍庫にあった豆で2人分のブラックコーヒーを淹れ、一つをソファに座ってキーを叩き資料を読み耽る周の傍に置き、もう一つを手に持って周の部屋を出てきた。
目の前には、この屋敷が建てられた300年前と、さしては変らないであろう風景が広がる。
ふと、現在この屋敷で、周が東京やNYとオンラインで結びリアルタイムで仕事をしているという事実が、300年という時間の経過を瞬時に飛び越え圧縮させてしまったような気がして、時間の軸が自分の中で大きく捻れる不思議な感覚に陥った。
時間は確実に流れている、それでも変らないものもある。
視線をめぐらせると、長い広縁の天井や、静かな広間の薄暗がりに確かに300年の時間を経た何かが息づきたゆとうている。
だが、時間が流れが早いのもまた確かだ。永久も瞬間の積み重ねに過ぎない。
そう思うと、周と共に歩める時間もあっという間に過ぎてしまいそうで、ほんの一秒だって無駄にしたくない、そんな焦りにも似た気持ちが湧いてくる。
自分は、なんという遠回りをして時間を無駄に消費したことか。
今すぐ周を抱きしめたい・・・・・。
逸りだした身を起こそうとしたその刹那、背後から柱ごと抱きしめられた。
周独特の花のような香りが、雨上がりの土の香りと混ざってぞわぞわと背中を駆け抜けた。
「仕事は済んだのか?」
「ああ、明日の午後、事業企画部のメンバーとミーティングが入った。明朝にはここを発たなくてはいけなくなった」
声音に、すまなさそうな感情が滲む。
この場所や建物に惚れ込んでいる享一を慮っての言葉に心が柔らかいものに触れる。
「かまわないよ。どうせ、明日のうちには東京へ戻らなくてはいけなかったんだから。朝一で、ここを出ようか」
抱きしめる腕に力が篭った。
「邪魔な柱だな。圧し折ってやろうか?」 声に笑がまざる。
「よせよ、これ以上この屋敷に傷を入れたら、香田教授がまたひっくり返っちまう」
香田教授とは、建築学科だった享一の大学時代の恩師で重要文化財に指定されるこの屋敷の研究に心血を注いでいる。去年の暮れ調査のために訪れた教授に階下の周の居室である隠し部屋の存在が知られてしまい、教授はその場でぶっ倒れて寝込んでしまった。
ことの顛末を思い出し、二人の口から苦笑いにも似た笑いが漏れた。
享一は周の腕を振り解くと、「ほら」と腕を伸ばし正面から抱き合う。
「ありがとう」
耳元の低い呟きに、周の心を抱くことが出来たことを知る。
何か返そうとしても言葉が見つからず、周に回す腕に力を込めた。
唇が重なり足腰の力が抜けたところで、広い座敷の冷んやりとした畳の上に押し倒された。
「俺、もう今日は打ち止めなんだけど?」
「少しだけ」
セーターを掻い潜りシャツの下に忍び込んだ掌は、少し冷たくて今朝の名残の官能を引き出す。
静寂の中、口腔を貪りあう、濡れた音だけが響いた。
済し崩しになりそうなこの状況に、流されたい気持ちを抑えて声を掛ける。
「周、俺達何か食べないと飢え死にしちゃうぜ。そろそろ買出しにでも行かないか?」
「了解」
「晩飯、なんにする?」
「おでん」重なった唇から含み笑いが漏れた。
「でも、もう少しだけこのままで。享一・・・」 絡めた指先が強請ってくる。
「ああ・・・」
もう少し、もう少し・・・・刹那が連なって、やがて永い時間になる。
一秒でも長く、可能な限り2人一緒にいよう・・・・そう願った筈なのに。
週明けの月曜の夕方、携帯ショップのサービスカウンターで享一は眉間に皺を寄せ、難しい顔のまま強張っていた。店員が気遣わしげな表情で、固まった享一を見守っている。
「盗聴・・・・ですか?」
「警察に届けましょうか?」
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□□最後までお読みいただき、ありがとうございます(*^_^*)ペコリ
警察に届けちゃえ~!(笑)とうとう、バレました。
次話は『out of the blue』です。明日、いけそうなら更新します♪
拍手ポチ、コメント、村ポチと・・本当に、いつもありがとうございます。
大変、大変、励みになります。。
紙魚
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続き書いてもいいよ~♪
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警察に届けちゃえ~!(笑)とうとう、バレました。
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紙魚
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ほんのり甘酸っぱい、心がほんわかしつつ締め付けられる…。
くぅ~~~!!!
と思ってたら、亨ちゃん!!!!
何故に待てなかったかな~~(苦笑)
新しいの探して持たせてくれるって言ってたでしょ!!
携帯高いんだから、素直に待ってれば良かったのにー(そこ?w
あぁ~あぁ、バレちゃったよー周さん…瀬尾っちも怖いし…あぁ~あぁ(;´Д`)