02 ,2009
深海魚 5
大きな横長のFIXガラスから見える水平線は、夕刻のゆるい光に空との境界線が曖昧になっている。換気を兼ねて大きなガラスの端にある縦長のスリットガラスを外に押し出して開けると、波の音が押し寄せて店内にも潮が満ちてきた。
椿の花を、がくのすぐ下あたりから落とし、水を張った白乳色のガラスの水盤に浮かべた。小ぶりの歪な形をした分厚い花器のに浮かぶ紅い花は、さながら雪の上に落ちたように花弁の紅と黄色い花芯が艶やかで凛と映える。白い壁に設えられたシンプルなニッチに水盤を飾ると、椿の紅が更に鮮やかに引き立った。
固い蕾だけが残った枝を、シンプルな筒状の花器に生けると、花隈 静(せい)は客の目は届かないが、自分だけに見える場所にそっと飾り小さく笑んだ。
バー・シーラカンスを訪れる客に披露するのは、完成された美であり、そのプロセスや苦心は決して来店してくれる客に見せてはいけない。静は、シンプルでモダンなこの店の雰囲気を壊さないように心掛け、常に細かいところまで気を配っていた。最終チェックで白を基調にした店内を見渡すと、この空間を造り上げた人物の、温かい掌の温度が蘇る。
昨日、圭太に ここ葉山まで車で送ってもらい、美味い料理を出す事で評判の海辺のイタリア料理店「BARI」で夕食をとって別れた。久しぶりの圭太との会話は楽しく、兄の薫の話や薫や圭太に連れられて一緒に遊びまわった高校時代の話や、圭太のアメリカでの留学中の話まで広く話が弾む。
車でマンションまで送ってもらい、別れ際に礼を言うために身体を捩って向き合うと、このまま、別れてしまうのが惜しくなってしまって思わず圭太を見つめた。
「今日はありがとう、圭太さん・・・おやすみなさい」
「うん、俺も今日は久しぶりにシズカとゆっくり話が出来て楽しかった。
明日は、店に顔出す。じゃあな、おやすみシズカ」そう言って、再び静の頭をクシャッと撫でた。そういえば、出会った頃、自分はまだ小学生で完全に子供の扱いをされ、よくこうやって頭を撫でられたことを思い出した。昔と変わらず圭太の掌は温かく、だからこそ尚更 切なかった。
しばらく、されるに任せていたが頭上の温もりが後頭部に廻り、はっと目を上げると、複雑な色をした圭太の瞳とぶつかった。一瞬、廻された掌に、ぐっと引き寄せる方向で力が篭ったが、温もりはそのまま頭から離れていく。
圭太は、いったい何をしようとしていたのか・・・・希望的観測が脳裏を過り、ほんの少し心拍数が上がる。勘違いでも錯覚でも、想像だけは自由だ。静は昨日の別れ際の圭太の掌の温もりを思い出し、そっと自分の頭に手を当て、柔かい髪が指に絡まると、面映げに小さく笑った。
今日はバレンタインだ。客へのサービスのために取り寄せた有名ブランドのチョコレートを箱から取り出し、皿に美しく盛り付けてからカウンターの端に飾る。
次に氷を取り出し、アイスピックで砕いていく。ピックの先端に注意を払い、無心に氷を砕いていると、入り口ドアの開く気配がして、ドキリと胸が高鳴り顔を上げた。自分の顔が落胆の色を露にしそうになるのを、静は自分のプロ意識を総動員し取り繕った。
「やあ、静君 昨日は悪かったね」
「伊原さん・・・・・」
「すまなかった。わざわざ東京まで出向いてくれたのに、なんか気まずい終わり方をしちゃったみたいだから、君が怒ってないかと気になって顔を見に来たんだ」
荒削りな印象を与える男らしい精悍な顔に穿たれた、双の眼が静を捕らえるとニコリと笑った。愛嬌があるといえなくも無い悪戯っぽい視線をやや上目の目線で投げかけ、昨日の話し合いを口先ほど気にする風でもなく、軽やかに言い募る。
この男も、圭太と同じく選ばれた人間特有のオーラを放っていた。
伊原はこの店のオーナーであり、静の雇い主だ。
東京と自分の出身地であるこの辺りに、数々の飲食店や親から引き継いだ老舗ホテルを展開している。昨夜、圭太と夕食をとったBARIもこの伊原の店だ。圭太もかなり裕福な家の出であったが、実家が堅い医者という職業もあって勘定高さのようなものは感じることはない。だが、この伊原は、根っからの経営者ということなのか、柔かい物腰に紛れさせて、時折何かを値踏みするような眼光の鋭い冷徹な貌を見せることがある。
37歳という若さで、親から引き継いだ事業と自ら起こした飲食業を切り盛りする。伊原は経済力に容姿も兼ね備え、浅く日焼けした肌に一流ブランドのスーツをわざと砕けた着こなしで身に纏う。一見遊び人風に見せてはいるが、中身は計算高く抜け目が無い。何事に対しても貪欲な『事業家』と呼ばれるに相応しい男だ。
客商売について益々鑑識眼のついた静は、この伊原が苦手で、伊原の前に立つといつもほんの少し緊張し余裕を失う。
氷を砕く作業を止めて、静は伊原が必ず注文するマティーニを作り始めた。
「伊原さんは、なにも・・・わざわざお越し頂かなくても、伊原さんが気になさる事はありませんから」
昨日、自分の話を一向に取り合ってはくれない伊原に業を煮やし珍しく不機嫌な顔で、伊原のオフィスを去ったことを気にかけているのかもしれない。
「そうはいかない。僕の申し出も、そろそろ真剣に考えてほしいからね」
「・・・・・そのお話は、何度もお断りしたはずです。昨日だって・・・それより、俺がこの店を買い受ける話ですが少しは考えて頂けませんか?」
昨日は、歯牙にもかけて貰えなかった。
伊原の前に、マティーニにサービスのチョコレートを添えて出す。
「ああ、バレンタインね・・・・」そう呟き、伊原は口角を上げて嗤うと、静の顔を見ながら摘んだチョコレートをゆっくりと齧った。
←前話 次話→
■深海魚 1 から読む
■静×圭太 関連<SS> ― 願い ―
■河村 圭太 関連作 翠滴 2
椿の花を、がくのすぐ下あたりから落とし、水を張った白乳色のガラスの水盤に浮かべた。小ぶりの歪な形をした分厚い花器のに浮かぶ紅い花は、さながら雪の上に落ちたように花弁の紅と黄色い花芯が艶やかで凛と映える。白い壁に設えられたシンプルなニッチに水盤を飾ると、椿の紅が更に鮮やかに引き立った。
固い蕾だけが残った枝を、シンプルな筒状の花器に生けると、花隈 静(せい)は客の目は届かないが、自分だけに見える場所にそっと飾り小さく笑んだ。
バー・シーラカンスを訪れる客に披露するのは、完成された美であり、そのプロセスや苦心は決して来店してくれる客に見せてはいけない。静は、シンプルでモダンなこの店の雰囲気を壊さないように心掛け、常に細かいところまで気を配っていた。最終チェックで白を基調にした店内を見渡すと、この空間を造り上げた人物の、温かい掌の温度が蘇る。
昨日、圭太に ここ葉山まで車で送ってもらい、美味い料理を出す事で評判の海辺のイタリア料理店「BARI」で夕食をとって別れた。久しぶりの圭太との会話は楽しく、兄の薫の話や薫や圭太に連れられて一緒に遊びまわった高校時代の話や、圭太のアメリカでの留学中の話まで広く話が弾む。
車でマンションまで送ってもらい、別れ際に礼を言うために身体を捩って向き合うと、このまま、別れてしまうのが惜しくなってしまって思わず圭太を見つめた。
「今日はありがとう、圭太さん・・・おやすみなさい」
「うん、俺も今日は久しぶりにシズカとゆっくり話が出来て楽しかった。
明日は、店に顔出す。じゃあな、おやすみシズカ」そう言って、再び静の頭をクシャッと撫でた。そういえば、出会った頃、自分はまだ小学生で完全に子供の扱いをされ、よくこうやって頭を撫でられたことを思い出した。昔と変わらず圭太の掌は温かく、だからこそ尚更 切なかった。
しばらく、されるに任せていたが頭上の温もりが後頭部に廻り、はっと目を上げると、複雑な色をした圭太の瞳とぶつかった。一瞬、廻された掌に、ぐっと引き寄せる方向で力が篭ったが、温もりはそのまま頭から離れていく。
圭太は、いったい何をしようとしていたのか・・・・希望的観測が脳裏を過り、ほんの少し心拍数が上がる。勘違いでも錯覚でも、想像だけは自由だ。静は昨日の別れ際の圭太の掌の温もりを思い出し、そっと自分の頭に手を当て、柔かい髪が指に絡まると、面映げに小さく笑った。
今日はバレンタインだ。客へのサービスのために取り寄せた有名ブランドのチョコレートを箱から取り出し、皿に美しく盛り付けてからカウンターの端に飾る。
次に氷を取り出し、アイスピックで砕いていく。ピックの先端に注意を払い、無心に氷を砕いていると、入り口ドアの開く気配がして、ドキリと胸が高鳴り顔を上げた。自分の顔が落胆の色を露にしそうになるのを、静は自分のプロ意識を総動員し取り繕った。
「やあ、静君 昨日は悪かったね」
「伊原さん・・・・・」
「すまなかった。わざわざ東京まで出向いてくれたのに、なんか気まずい終わり方をしちゃったみたいだから、君が怒ってないかと気になって顔を見に来たんだ」
荒削りな印象を与える男らしい精悍な顔に穿たれた、双の眼が静を捕らえるとニコリと笑った。愛嬌があるといえなくも無い悪戯っぽい視線をやや上目の目線で投げかけ、昨日の話し合いを口先ほど気にする風でもなく、軽やかに言い募る。
この男も、圭太と同じく選ばれた人間特有のオーラを放っていた。
伊原はこの店のオーナーであり、静の雇い主だ。
東京と自分の出身地であるこの辺りに、数々の飲食店や親から引き継いだ老舗ホテルを展開している。昨夜、圭太と夕食をとったBARIもこの伊原の店だ。圭太もかなり裕福な家の出であったが、実家が堅い医者という職業もあって勘定高さのようなものは感じることはない。だが、この伊原は、根っからの経営者ということなのか、柔かい物腰に紛れさせて、時折何かを値踏みするような眼光の鋭い冷徹な貌を見せることがある。
37歳という若さで、親から引き継いだ事業と自ら起こした飲食業を切り盛りする。伊原は経済力に容姿も兼ね備え、浅く日焼けした肌に一流ブランドのスーツをわざと砕けた着こなしで身に纏う。一見遊び人風に見せてはいるが、中身は計算高く抜け目が無い。何事に対しても貪欲な『事業家』と呼ばれるに相応しい男だ。
客商売について益々鑑識眼のついた静は、この伊原が苦手で、伊原の前に立つといつもほんの少し緊張し余裕を失う。
氷を砕く作業を止めて、静は伊原が必ず注文するマティーニを作り始めた。
「伊原さんは、なにも・・・わざわざお越し頂かなくても、伊原さんが気になさる事はありませんから」
昨日、自分の話を一向に取り合ってはくれない伊原に業を煮やし珍しく不機嫌な顔で、伊原のオフィスを去ったことを気にかけているのかもしれない。
「そうはいかない。僕の申し出も、そろそろ真剣に考えてほしいからね」
「・・・・・そのお話は、何度もお断りしたはずです。昨日だって・・・それより、俺がこの店を買い受ける話ですが少しは考えて頂けませんか?」
昨日は、歯牙にもかけて貰えなかった。
伊原の前に、マティーニにサービスのチョコレートを添えて出す。
「ああ、バレンタインね・・・・」そう呟き、伊原は口角を上げて嗤うと、静の顔を見ながら摘んだチョコレートをゆっくりと齧った。
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■深海魚 1 から読む
■静×圭太 関連<SS> ― 願い ―
■河村 圭太 関連作 翠滴 2
■最後までお読みいただき、ありがとうございます。
確か、この話はバレンタイン企画・・・だったのでは??
一週間が過ぎて、やっと深海魚にもバレンタインがやってきました。
世間様にとっては、バレンタインなんぞ過去の話・・・なんですのネ。
オホホ・・・(汗
クリック・クリック・コメント(ワルツのリズムで♪)、ありがとうございます。
孤独な執筆活動、(”執筆”・・・ああ、なんて、大それた良い響き・・実際は書き散らかし・・)
を予想していましたのに、ぬるま湯の中、マ~ッタリ楽しく書かせていただいています。
ありがとうございます。
確か、この話はバレンタイン企画・・・だったのでは??
一週間が過ぎて、やっと深海魚にもバレンタインがやってきました。
世間様にとっては、バレンタインなんぞ過去の話・・・なんですのネ。
オホホ・・・(汗
クリック・クリック・コメント(ワルツのリズムで♪)、ありがとうございます。
孤独な執筆活動、(”執筆”・・・ああ、なんて、大それた良い響き・・実際は書き散らかし・・)
を予想していましたのに、ぬるま湯の中、マ~ッタリ楽しく書かせていただいています。
ありがとうございます。
>溜め息の出る文章があってわくわくします
わ~~~~っ、褒めても何も出ませんよ~~
ああ、どうしよう、どうしよう、とり合えず、
お茶とイチゴショートでも・・・ドゾ
文章の書き方・・・・紙魚の方が、伝授してほしいっす。
どうしたら、クドくなく素直でメジャーな文章が書けるのでしょうか?
教えを乞いたい~~(T▽T)
コメント、ありがとうございます。
色々と、お忙しく大変だとは思いますが、どうぞ
体調管理はしっかりとなさって風邪など召されませんように。