02 ,2016
<15>
「東夷のクラブはなくなるよ」
「……そうか」
例え、アルデバランが存続しても、もう自分は雇ってはもらえないし、紅雷の身内が経営するクラブだと知った今、もう寄り付くこともないが。
まさかアルデバランが、あの幸田のクラブだったとは。道理で、幸田と紅雷の雰囲気が似て……とそこまで考えた瞬間、裕紀は昆布茶の碗を手に持ったまま立ち上がっていた。
「なにいきなり立ってんだよ、トイレ?」
「いや」
見上げてくる紅雷の眼差しに責められている気がするのは、自分の中に覚えがあるからだ。欠損していた事実。なぜこんなことを忘れていたのか。
「じゃあ、座れよ。まだ話は終わってないから」
「俺は……」 なんてことをしてしまったのか。仕事とはいえ幸田と、紅雷の伯父と自分は寝てしまった。
風俗やって、伯父と寝て、涙ながらに甥の紅雷に好きだと激白した。目に余るろくでなし具合に、意識を失いそうになって片手で顔を覆う。俺は、最低だ。
紅雷は、考えこむように祈るように合わせた手の中の碗を凝視ている。
眉尻に向かって真直ぐ伸びた意志の強そうな眉や、鼻梁の通った鼻、物思いに耽る横顔に眼が吸い寄せられた。そのくっきりと陰影を彫り込んだ唇が触れる瞬間の、ヘッドライトの光の川や、唇に当たる柔らかな感触が不意に蘇る。
紅雷がキスをして、自分がゲイだと言った。
あれは、現実に起こったことだろうかと思う。ほんの数十分まえの出来事のはずなのに、現実味がない。
手の中の昆布茶はどんどん冷め、もう手のひらとほとんど変わらない温度になった。
お互いが口を閉ざし、濃密な静寂にいい加減、押し潰されそうになった時、紅雷が長い沈黙を破った。
「オレはさ、裕紀が風俗をやってるって知った時、本当はもう駄目だって思った」
紅雷の静かな告白は雷鎚となって、裕紀をざっくりと抉った。胸に走る鋭い痛みに息が止まり目を閉じた。
「過去にどれだけ好きだったとしても、不特定の男に躯を売って金をもらう人間は愛せないって。でも、間違ってた」
はっと顔を上げた裕紀に、紅雷は自分の碗をテーブルに置いて向き直った。
「俺はさ、4年前に一度、裕紀から逃げたんだ」
紅雷は裕紀の碗も取り上げて自分の碗の隣に置き、裕紀を正面に囚えた。
「さっきオレのことを何もわかっていないって、裕紀は言ったよな。お前こそ何もわかってないよ」
あの頃、オレがどれだけ裕紀のことを好きだったか。
紅雷が投げて寄越す直球の言葉と視線に、呼吸も鼓動も丸呑みにされた。
「18歳男子の単純さていうの。初めてバイト先で裕紀を見かけた時、マジ運命の人を見つけたって、オレは本気で思ったんだ」
そう言った紅雷は、少し照れたように笑った。
「だから裕紀と生活費を浮かせるためと称して、同居を始めた当初は有頂天なばっかで、それがどんな結果を招くかなんて全然、気が付かなかった。素っ裸で目の前を歩かれたり、肩で無防備な寝顔を見せられたり。自分の欲望が欲しいと大合唱する相手にそんな姿を見せられながら、手どころか指一本出せない男の惨めさ、お前にわかる?」
はじめて聞かされる過去の話に、目を瞬かせるしか無い。
逡巡の末、裕紀は小声ですまんと謝った。
静かな夜、大きなソファに座った2人の時間は、過去を流れてゆく。
「好きで好きで欲しくて堪んないのに、オレの前に横たわる友情という障害のせいで、オレの手なんか届きやしないんだ」
紅雷が好きだという度、羨ましくて過去の自分に嫉妬した。
「亜美ちゃんの出現で、もうダメだってわかっても、裕紀の生活費のことを考えると出ていけなかった。好きだという気持ちが嫉妬に、憎悪に変わり始めて、無理矢理にでもって衝動に何度負けそうになったか。犯罪紛いのことをやらかしそうな自分を持て余すようになったオレは、中国に帰ったんじゃなくて裕紀から逃げたんだ」
衝撃だった。
紅雷の告白は、甘ったるい恋の告白などではなく、深い懊悩に喘ぐ苦しい恋情の吐露だった。卒業式を待たずに帰国した紅雷は、最後の二ヶ月分の家賃と光熱費を裕紀の分まで払い込んで帰っていった。
「あの頃、裕紀はオレの気持ちなんか、毛の先ほども気付かなかったろう?」
猛々しさをその虹彩の中にちらつかせながら、紅雷はじりと上半身を乗り出してくる。それに圧されるように、裕紀の背中もソファの上で傾斜する。
「オレは中国に帰ってからも、ずっと裕紀のことを考えてたよ。友情という長くて広い、邪魔な河を飛び越えるにはどうしたらいいのかって、そればかり考えてた。考えすぎてこじらせて、また日本に戻ってきてしまった」
いや違うなと、続ける紅雷の右手が裕紀の顎を捕える。もう背後に空きはない。背中の半分以上がソファの座面に沈んでいた。
「風俗の仕事なんか、赦せるはずがない」
「紅雷…」
とうとう頭が座面に落ちた。
脇に膝をついた紅雷がソファに寝転ぶ形になった裕紀を見おろした。
「裕紀の前で笑顔を作りながらながら、腹の中は煮えくり返ってたよ。でも完全に拒否されるのだけは避けたいから、理解あるフリをしてた。仕事だから、愛情はないからと自分を宥めても、爪の先ほども納得なんて出来わけない。本心は縛り付けてでもやめさせたかった。自分の無力さに腹が立って心が荒んで。4年前より状況はなお酷い。じゃあ自分は何のために日本に戻ってきたのかって。考えて考えて、やっとわかったんだ」
背もたれに手を置き覆いかぶさった紅雷の、瞳孔の奥まで澄み切った強い眼差しにぞくりと血潮がさざめいた。潜めるように息をする裕紀の唇を捲るように親指で強く嬲って、紅雷が自分の唇を近づける。
「オレは、裕紀を強奪するために戻ってきたんだ」
これまで交わしたどんなキスとも、次元が違っていた。
少し前の啄むようなキスですら目眩を覚えたというのに、そんな真新しい記憶すら早々に塗り替え、より深い場所まで連れ去ろうとする。
濡れた音を残して唇が離れた。
「オレは今も裕紀が好きだ。裕紀が何をやっていようが、誰と付き合っていたかも赦してしまう程に。だから、自分の心をよく探ってから答えてくれ。イエスと言えば二度と…」
離さないと、頬を目の縁を紅雷の指が滑る。
「好きだ、紅雷。お前が好きだ。けど俺は……」
紅雷の口の中に飲み込まれた。
風俗の仕事を、初めて痛烈に後悔した。自分は女ではないし、会社や知人、家族にさえバレなければ、なんの痛手も後腐れもないと思っていた。大切に想ってくれる誰かのために自分を守るなどという発想は無かった。
細めた目にも、微笑む形に綻ぶ口許にも蜜のような甘さが滲みだす。
「紅雷……ぅん」
おずおずと緩いシャツの狭間に入り込んだ紅雷の手指を阻むと、接吻けが深くなった。紅雷の舌が器用に上唇を持ち上げ、するりと忍び込んでくる。舌を柔らかく絡め、力の抜けたところを吸われただけで視界に霞がかかり、頭の芯がぼうっとしてくる。
仕事で培った豊富なはずの経験は、一体どこに行ったのか。
「裕紀は凄く甘い」
唇に直に伝わる囁きに、唇のみならず全身が発火する。甘いと呟く紅雷に、甘いのは紅雷のほうだと告げると、下肢に熱い塊を押し付けられ焦った。
紅雷の侵入を阻んでいた手はいつの間にか、逆に紅雷に絡め取られてしまっていて、空いた手が借りた大きめのシャツの下に潜り込んでいる。
「紅雷、先にシャワーを……まっ」 鎖骨に顔を埋めた紅雷が返事代わりに爪で乳嘴を弾く。小さな痛みは、皮膚の上で、うぶ毛の先で生まれた官能を束ね、熱のうねりとなって雄穂を直撃した。
「裕紀、オレはもう4年、いやそれ以上待ったんだ。これ以上待たせるなら」
眇めた虹彩に凶暴な光が宿り始める。
「そうじゃなくて。お前は俺にたくさんのものをくれたのに、俺にはもう何も残ってなくて……」
他にお前にやれるものはないからと、意を決して紅雷の手を下肢に誘導する。
感嘆したように紅雷が瞠目したのは一瞬で、その眼も、口許にも濃い艶を刷きながら耳に口を寄せてきた。
「いいの?」
頷いた耳殻への接吻は、世界を真っ二つにしそうな程の威力があった。
◀◀ 14 / 16 ▷▷

「東夷のクラブはなくなるよ」
「……そうか」
例え、アルデバランが存続しても、もう自分は雇ってはもらえないし、紅雷の身内が経営するクラブだと知った今、もう寄り付くこともないが。
まさかアルデバランが、あの幸田のクラブだったとは。道理で、幸田と紅雷の雰囲気が似て……とそこまで考えた瞬間、裕紀は昆布茶の碗を手に持ったまま立ち上がっていた。
「なにいきなり立ってんだよ、トイレ?」
「いや」
見上げてくる紅雷の眼差しに責められている気がするのは、自分の中に覚えがあるからだ。欠損していた事実。なぜこんなことを忘れていたのか。
「じゃあ、座れよ。まだ話は終わってないから」
「俺は……」 なんてことをしてしまったのか。仕事とはいえ幸田と、紅雷の伯父と自分は寝てしまった。
風俗やって、伯父と寝て、涙ながらに甥の紅雷に好きだと激白した。目に余るろくでなし具合に、意識を失いそうになって片手で顔を覆う。俺は、最低だ。
紅雷は、考えこむように祈るように合わせた手の中の碗を凝視ている。
眉尻に向かって真直ぐ伸びた意志の強そうな眉や、鼻梁の通った鼻、物思いに耽る横顔に眼が吸い寄せられた。そのくっきりと陰影を彫り込んだ唇が触れる瞬間の、ヘッドライトの光の川や、唇に当たる柔らかな感触が不意に蘇る。
紅雷がキスをして、自分がゲイだと言った。
あれは、現実に起こったことだろうかと思う。ほんの数十分まえの出来事のはずなのに、現実味がない。
手の中の昆布茶はどんどん冷め、もう手のひらとほとんど変わらない温度になった。
お互いが口を閉ざし、濃密な静寂にいい加減、押し潰されそうになった時、紅雷が長い沈黙を破った。
「オレはさ、裕紀が風俗をやってるって知った時、本当はもう駄目だって思った」
紅雷の静かな告白は雷鎚となって、裕紀をざっくりと抉った。胸に走る鋭い痛みに息が止まり目を閉じた。
「過去にどれだけ好きだったとしても、不特定の男に躯を売って金をもらう人間は愛せないって。でも、間違ってた」
はっと顔を上げた裕紀に、紅雷は自分の碗をテーブルに置いて向き直った。
「俺はさ、4年前に一度、裕紀から逃げたんだ」
紅雷は裕紀の碗も取り上げて自分の碗の隣に置き、裕紀を正面に囚えた。
「さっきオレのことを何もわかっていないって、裕紀は言ったよな。お前こそ何もわかってないよ」
あの頃、オレがどれだけ裕紀のことを好きだったか。
紅雷が投げて寄越す直球の言葉と視線に、呼吸も鼓動も丸呑みにされた。
「18歳男子の単純さていうの。初めてバイト先で裕紀を見かけた時、マジ運命の人を見つけたって、オレは本気で思ったんだ」
そう言った紅雷は、少し照れたように笑った。
「だから裕紀と生活費を浮かせるためと称して、同居を始めた当初は有頂天なばっかで、それがどんな結果を招くかなんて全然、気が付かなかった。素っ裸で目の前を歩かれたり、肩で無防備な寝顔を見せられたり。自分の欲望が欲しいと大合唱する相手にそんな姿を見せられながら、手どころか指一本出せない男の惨めさ、お前にわかる?」
はじめて聞かされる過去の話に、目を瞬かせるしか無い。
逡巡の末、裕紀は小声ですまんと謝った。
静かな夜、大きなソファに座った2人の時間は、過去を流れてゆく。
「好きで好きで欲しくて堪んないのに、オレの前に横たわる友情という障害のせいで、オレの手なんか届きやしないんだ」
紅雷が好きだという度、羨ましくて過去の自分に嫉妬した。
「亜美ちゃんの出現で、もうダメだってわかっても、裕紀の生活費のことを考えると出ていけなかった。好きだという気持ちが嫉妬に、憎悪に変わり始めて、無理矢理にでもって衝動に何度負けそうになったか。犯罪紛いのことをやらかしそうな自分を持て余すようになったオレは、中国に帰ったんじゃなくて裕紀から逃げたんだ」
衝撃だった。
紅雷の告白は、甘ったるい恋の告白などではなく、深い懊悩に喘ぐ苦しい恋情の吐露だった。卒業式を待たずに帰国した紅雷は、最後の二ヶ月分の家賃と光熱費を裕紀の分まで払い込んで帰っていった。
「あの頃、裕紀はオレの気持ちなんか、毛の先ほども気付かなかったろう?」
猛々しさをその虹彩の中にちらつかせながら、紅雷はじりと上半身を乗り出してくる。それに圧されるように、裕紀の背中もソファの上で傾斜する。
「オレは中国に帰ってからも、ずっと裕紀のことを考えてたよ。友情という長くて広い、邪魔な河を飛び越えるにはどうしたらいいのかって、そればかり考えてた。考えすぎてこじらせて、また日本に戻ってきてしまった」
いや違うなと、続ける紅雷の右手が裕紀の顎を捕える。もう背後に空きはない。背中の半分以上がソファの座面に沈んでいた。
「風俗の仕事なんか、赦せるはずがない」
「紅雷…」
とうとう頭が座面に落ちた。
脇に膝をついた紅雷がソファに寝転ぶ形になった裕紀を見おろした。
「裕紀の前で笑顔を作りながらながら、腹の中は煮えくり返ってたよ。でも完全に拒否されるのだけは避けたいから、理解あるフリをしてた。仕事だから、愛情はないからと自分を宥めても、爪の先ほども納得なんて出来わけない。本心は縛り付けてでもやめさせたかった。自分の無力さに腹が立って心が荒んで。4年前より状況はなお酷い。じゃあ自分は何のために日本に戻ってきたのかって。考えて考えて、やっとわかったんだ」
背もたれに手を置き覆いかぶさった紅雷の、瞳孔の奥まで澄み切った強い眼差しにぞくりと血潮がさざめいた。潜めるように息をする裕紀の唇を捲るように親指で強く嬲って、紅雷が自分の唇を近づける。
「オレは、裕紀を強奪するために戻ってきたんだ」
これまで交わしたどんなキスとも、次元が違っていた。
少し前の啄むようなキスですら目眩を覚えたというのに、そんな真新しい記憶すら早々に塗り替え、より深い場所まで連れ去ろうとする。
濡れた音を残して唇が離れた。
「オレは今も裕紀が好きだ。裕紀が何をやっていようが、誰と付き合っていたかも赦してしまう程に。だから、自分の心をよく探ってから答えてくれ。イエスと言えば二度と…」
離さないと、頬を目の縁を紅雷の指が滑る。
「好きだ、紅雷。お前が好きだ。けど俺は……」
紅雷の口の中に飲み込まれた。
風俗の仕事を、初めて痛烈に後悔した。自分は女ではないし、会社や知人、家族にさえバレなければ、なんの痛手も後腐れもないと思っていた。大切に想ってくれる誰かのために自分を守るなどという発想は無かった。
細めた目にも、微笑む形に綻ぶ口許にも蜜のような甘さが滲みだす。
「紅雷……ぅん」
おずおずと緩いシャツの狭間に入り込んだ紅雷の手指を阻むと、接吻けが深くなった。紅雷の舌が器用に上唇を持ち上げ、するりと忍び込んでくる。舌を柔らかく絡め、力の抜けたところを吸われただけで視界に霞がかかり、頭の芯がぼうっとしてくる。
仕事で培った豊富なはずの経験は、一体どこに行ったのか。
「裕紀は凄く甘い」
唇に直に伝わる囁きに、唇のみならず全身が発火する。甘いと呟く紅雷に、甘いのは紅雷のほうだと告げると、下肢に熱い塊を押し付けられ焦った。
紅雷の侵入を阻んでいた手はいつの間にか、逆に紅雷に絡め取られてしまっていて、空いた手が借りた大きめのシャツの下に潜り込んでいる。
「紅雷、先にシャワーを……まっ」 鎖骨に顔を埋めた紅雷が返事代わりに爪で乳嘴を弾く。小さな痛みは、皮膚の上で、うぶ毛の先で生まれた官能を束ね、熱のうねりとなって雄穂を直撃した。
「裕紀、オレはもう4年、いやそれ以上待ったんだ。これ以上待たせるなら」
眇めた虹彩に凶暴な光が宿り始める。
「そうじゃなくて。お前は俺にたくさんのものをくれたのに、俺にはもう何も残ってなくて……」
他にお前にやれるものはないからと、意を決して紅雷の手を下肢に誘導する。
感嘆したように紅雷が瞠目したのは一瞬で、その眼も、口許にも濃い艶を刷きながら耳に口を寄せてきた。
「いいの?」
頷いた耳殻への接吻は、世界を真っ二つにしそうな程の威力があった。
◀◀ 14 / 16 ▷▷
