02 ,2016
<13>
木枯しが吹く度、枯葉が乾いた音を立てアスファルトの上を転がってゆく。車1台がようやく通れるくらいの狭い道が夢のような金色に染まったのは、ほんの短い間だった。
食べ終えたトンカツ弁当の容器をポリ袋に突っ込み、後半のスケジュールを再確認して車を出す。
新年の挨拶を兼ねて何軒かの得意先を回り、会社に戻ったころには就業時間も過ぎていた。
「シマちゃん、太田部長って出張?」
「広島で、戻られるのは週明けの火曜日です。急ぎなら直接携帯に連絡入れてもいいって聞いてますけど、番号わかります?」
ホワイトボードを見ながら帰り支度をしているシマちゃんに尋ねると、引き出しから大田部長の番号を書きつけたメモを取り出した。
「いや、別に急ぎじゃないからいいよ」
退職願は鞄の中に入っている。
レジデンスで紅雷と会った翌日、1月4日は仕事始めだった。
クラブが開店する13時を待って、人気のない路肩に停めた営業車の中から佐野に電話をいれた。落札者とのデートが自分の不手際で不履行だったことを詫び、紅雷が払った一千万の返却を頼むつもりだった。違約金を請求されるかもしれないが仕方ない。
あと、フルタイムのシフトに移行したい旨も一緒に伝えるつもりだった。退職届は、昼もアルデバランで働くことを見越して、レジデンスから戻った夜に認めた。
「ウチの客が他のクラブより格段に高額な料金なのにかかわらず、会員登録するのはなぜか、お前はしっているか? ボーイやサービスの質が高いのも当然だが、何より客が重視するのは、安全と信頼だ。一度、愛想を尽かして他に流れた客は、その客が良客であればあるほど戻ってくることはない。アルデバランが最も重きを置く信頼に泥を塗ったことを、お前はわかってんのか?」
電話に出た佐野から、いきなりクビを告げら、スマホを落としそうになった。
弁解も聞いてもらえず、紅雷の1千万の支払いについても、部外者には何も教えられることはないと素気無く突っぱねられ、一方的に通話を切られた。スマホを耳に当てた姿のまま暫し放心した。
奨学金に賠償金、父親の入院費、それに紅雷に返す1千万が加算される。
新しい店を探しても高値で売れる旬はそう長くはない。今度こそ本気で体を売るか、いっそ強盗でもするか。短絡的にそんな発想が出てくる自分に辟易し、人が堕落していくことの容易さに身震いした。
「束原さん?」
シマちゃんの声に我に返った。
「どこか体調でも悪いんじゃないですか? 時々ぼんやりしちゃってるし。今日はもう飲みはやめてまっすぐ帰ったほうがいいですよ」
シマちゃんがいたずらっぽく笑いながら下を指差す。その意味を察して、隠微に溜息が出た。
「わかった。ありがとう、そうするよ」
シマちゃんがくすくす笑い出した。
「なんか、あの人ってすごい男前なのにどこか犬っぽくないですよね。わざわざ迎えに来てくれるところなんか、まるで忠実な恋人みたい」
男前で犬で、忠実な恋人。シマちゃんの発想には時々ついていけない時がある。
「やめてくれよ。嫁さんがおめでたで、早く帰ると邪険にされるんだってさ」
笑いながらすらすらと口を滑りでる嘘が、自分の耳に突き刺さった。
退職願の入った鞄を手に営業部を出た。紅雷が待つ正面エントランスではなく、裏の駐車場につながる階段を下りて外に出る。外気に触れた途端、思わず首をすくめた。気温はまた下り、まるで冷蔵庫の中にいるような寒さの中を駅に向かって歩き出す。
澄んだ天空に、小さな星がさえざえと輝き、アスファルトに響く靴の音さえ凍りつきそうな夜だった。
裏から出たことを知らない紅雷は、きっとこの寒空の下で自分を待ち続けることになるのだろう。
立ち止まって向きを変えた靴の爪先は暫し迷い、元の角度に戻すと歩き出した。
「まずは……一緒にシャワーを浴びてください、汪様」
汪様と呼ぶ声に薄く蔑みが滲む。
バスルームに連れて行き戻ろうとする肘を 裕紀に掴まれた。
「一緒にと言っただろう。そういう決まりなんだよ」
どこといって特別なところは何もない。ニットシャツに綿のズボンという、ごく平凡な格好をした男が視線を上げるだけで、身体の奥の熱の塊がドクンと脈打った。
束の間、自分を見つめていた裕紀が薄い目蓋を緩く下ろす。
いきなり躊躇いなく服を脱ぎだした裕紀に、平常心もまともな判断力も木っ端微塵に吹き飛んだ。
能勢にパネライを返させ、京都行きも阻止できた。確信した勝利が、能勢の耳打ちに目許を染める裕紀を見た途端、不安定に揺れだした。
そこに 『今日も、可愛がってもらえよ』 という中年の冷やかしだ。今日もって、何だよ?
動揺する裕紀を問い詰めたい気持ちを力技で捩じ伏せ、面白がる男に殺意すら覚えたところで、
――俺たちはそんなんじゃないですから!
裕紀のこの否定が、暴走に弾みをつけた。
平静時ならば、裕紀の否定がオレを庇うために言った言葉だと、すぐに理解できたはずだ。
それを先走ったバカ男は、嫉妬と怒りをエネルギーに、広い広い河を一気に飛び越えようとジャンプした。
―― で、どんなことをしてくれんの?
自分の思い上がったセリフを思い出す度、叫びたくなる。
裕紀に好感をもってもらおうと、裕紀に会う時は自分が最大限格好良く見える服や靴を時間を掛けて選び、普段は適当に撫で付けるだけの髪型もワックスでスタイリングした。
複雑な生い立ちのせいか、自分の中に潔癖なところがあることを、自覚している。だから正直、裕紀が風俗に足を踏み入れたと知った時は、もう昔のような純粋な気持ちで裕紀を想うことはないだろうと思っていた。
それが、公園で襲われたところを助けたあの短い時間で、裕紀への想いは4年前よりも激しく再燃した。
可愛い、愛しい、どうしても手に入れたい。
表と裏の生活の間を、危ういバランスを行き来する裕紀は、無闇に関わりたがる古い友人を煙たがった。疎ましがられず、傍にいられる存在になるには、どうすればいいのか?
それには、裕紀の理解者にならなければならない。心中では苦々しく思っていても、裕紀の副業を非難したりせず、平常心で受け流す努力をした。
そして自分の仕事の面白さとか、充実感を事細かく話して聞かせた。最初は鬱陶しそうに聞いていた裕紀も次第に触発され、食品衛生管理者の資格を取りたいと聞いた時は、抱きしめたいのを抑えるのにそれほど苦労したことか。
スマートな大人の男に見えるか、スーツは決まっているか。裕紀と会う前は、職場の鏡で再度念入りにチェックする。社長にデートかと冷やかされ、頷く時の幸福感。そう、数年越しの想いをやっと成就させ、惚れきった大好きな恋人とデートする。
気分はまさしくそんな感じだが、裕紀は恋人ではない。
一度はクラブの仕事をやめそうな雰囲気で万々歳だったのが、その後、裕紀は拍車を掛けて客を取るようになり、とうとうオークションにその源氏名が上がった。
理由は、電話2本であっさり解った。裕紀が保険で賄うと言っていた父親の事故は、実際は保険に入っておらず、賠償金も入院代も保険金はおりてなかった。パートの母親の収入では賄いきれるはずもなく、当然その重圧は裕紀に掛かっていた。
プライドもあるだろうし、心配させたくなかったのかもしれない。それでも、一言でいいから相談して欲しかった。
裕紀が風俗をやっているだけでも充分、赦し難いのに、ヴァージンを他人に渡すなど。考えただけでもドス黒い嫉妬と怒りで、腸が煮えくり返った。
そして佐野にサーバー事故を装ってオークションを中断させ、自分もオークションに参加することを条件に再開させた。
他に追随できない金額で裕紀を落札し、京都に裕紀を連れ去ろうとする能勢の陰謀を挫き、最後は裕紀と手をとって喜び合う手はずだった。裕紀に頼りになるところを見せ、あわよくば好きになってもらえるかもという下心も当然あった。
それが自分の品のない一連の言動で、全ての努力は泡となって潰えた。
好きになってもらうどころか、友人として、人間として裕紀の中でオレはもう終わっている。
「煩いヤツだな。叫ぶんなら、空いてるから下の防音室に篭もれ」
頭を掻き毟り、意味不明な中国語を叫んだ紅雷に東夷が冷たく言い捨てた。
階下から澄んだチェロの音が聞こえてくる。
バッハのプレリュード。音が上がってくるのは晴人が防音室でなく、恋人を追い出して自分たちの部屋のリビングで弾いているからだ。
「もうオレに会いたくねえって」
優しい調べがメランコリックな気分を増長し、今にも涙が出そうだ。
ちなみに晴人は、この傷心を知っていてわざとメランコリックな曲ばかり選んで弾いている。マジでうざったい中年バカップルだ。
「友達に一千万なんて品のない値段つけたんだ。まあ、嫌われても仕方ないな」
呑気にミカンを頬張りながら、やれやれと東夷が頭を振る。
「こういう輩がいるから爆買いとか下品な言われ方するんだよな、俺たち中国人は」
「東夷は半分じゃん。自分も面白がって、一枚噛んだくせに。殺すぞ中年ハーフ」
「おお、怖い、怖い。さすが汪家の若様だねえ。脅しも一味違うねえ」
ソファに座り膝に突いた両手に顎を乗せた紅雷が、黒い虹彩だけを東夷に向ける。
「今は受け流すゆとりねえから、マジで喧嘩を売らないでくれ」
東夷が再び、ヤレヤレと頭を振った。
「紅雷、お前が支払った代償は一千万なんて端金じゃない。束原 裕紀はそれだけの価値がある相手か? その上、奴はお前がその端金で自分の人生を売ったことも知らないんだろ」
関係ないと言わんばかりに、ぷいと横を向く。
「おい若者、その猪突猛進型の性格をなんとかしねえと。そのうちこっ酷い目にあって、後悔をすることになるぞ」
「よく言うぜ。親父とグルになって、オレをハメたくせに」
「ご明察だな。俺は義兄さんに弱い」
手で支えていた頭が、ガクンと項垂れた。
「もう色んな意味で、オレは後悔の大海原で遭難中だよ」
背中を大きなクッショに埋め、まるで溺れる人のように紅雷は長い腕を上にあげ、目を瞑った。
裕紀が服を脱ぎ始めた。
セーターの裾に手を掛け、次々と着ている服をその躯から剥いでゆく。潔すぎてムードも何もない脱ぎ方だったが、露わになっていく愛しい相手の裸体に視覚が痺れ、心臓が壊れるんじゃないかというくらい激しく脈打った。
ほっそりとした頸も、浮き出た肩甲骨も踝さえ、ただ愛しくて。
高圧的な態度で出たことも忘れ、下着も足から抜き去り一糸纏わぬ姿になった裕紀を感極まる想いで凝視めた。
「じっとして」
見蕩れていた喉元に伸びてきた裕紀の手指が、サックスブルーのシャツのボタンを外したところでぎくりと息を呑んだ。困ったことに、素直過ぎる欲望が強烈に反応してしまっている。
格好つけて啖呵をきった手前、獰猛な野獣レベルで反応する劣情を曝せば、裕紀のさらなる侮蔑を買うのではないか。自分の卑しい下心は、果たしてここで丸裸にしてよいものだろうか。
「なあ、裕紀」
逡巡の末、シャツの袷に滑りこんだ手指を掴まえる。
問いかけるようにゆっくり上がった裕紀の目が突然、夢から醒めたように見開き、自分の手を引き抜いた。
「あ…す、すまん」 裕紀が後ずさった。俯いた耳まで真赤に染まっている。首の後ろ、背骨に続く骨の小さな突起の可愛らしさに、全身の血液が騒ぎ出す。
「いや、あ……あの」 興奮で鼻息が荒くなるのを手で抑えて隠した。
「ごめんな、紅雷」
呼び名が汪から、元の紅雷に戻っていた。
下を向いた裕紀の頭から、ポタポタと床に落ちた涙に、金槌で頭を殴られたような衝撃を受けた。ようやく冷静になって、金で裕紀を買った他の男達と同じことをしている自分に気がついた。
「俺が不甲斐ないせいで、お前にこんな辛い茶番までさせて……ごめんな」
え? 感情のアップダウンに翻弄され、思考力か欠落した頭は裕紀が言っていることがいまひとつ理解できない。
「わかっているんだ。お前は男を抱けるようなやつじゃない。俺がお前に負い目を感じないでいいように、俺を買うなんてことを思いついたんだろう? 大事な親友にこんな真似をさせる俺は最低だ。借金は俺の問題だから。俺のためにこんな無茶はもうしないでくれ」
なんでそうなるんだ、最低なのはオレの方だろう?
「お前がクラブに払った金は、返してもらえるように俺が頼んでやる。紅雷はなにも心配するな」
脱ぐ時の更に5分の1の速さで衣服を身につけた裕紀は、事態の急展開に呆然とするオレをバスルームに残し帰ってしまった。
4年前となにも変わっていない。
手の伸ばせば届く距離にいる。想いだって届きそうなものなのに、心はいつまで経っても触れることも出来ない。
本当はこんなやり方では駄目なことくらいわかっているのに。
じゃあ、どうすればいい?
河岸は遠く、飛び越えればより深い友情の流れに落ち、泳いで渡ろうとすれば流される。
どうしたらこの広くて長い河を越えられる?
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木枯しが吹く度、枯葉が乾いた音を立てアスファルトの上を転がってゆく。車1台がようやく通れるくらいの狭い道が夢のような金色に染まったのは、ほんの短い間だった。
食べ終えたトンカツ弁当の容器をポリ袋に突っ込み、後半のスケジュールを再確認して車を出す。
新年の挨拶を兼ねて何軒かの得意先を回り、会社に戻ったころには就業時間も過ぎていた。
「シマちゃん、太田部長って出張?」
「広島で、戻られるのは週明けの火曜日です。急ぎなら直接携帯に連絡入れてもいいって聞いてますけど、番号わかります?」
ホワイトボードを見ながら帰り支度をしているシマちゃんに尋ねると、引き出しから大田部長の番号を書きつけたメモを取り出した。
「いや、別に急ぎじゃないからいいよ」
退職願は鞄の中に入っている。
レジデンスで紅雷と会った翌日、1月4日は仕事始めだった。
クラブが開店する13時を待って、人気のない路肩に停めた営業車の中から佐野に電話をいれた。落札者とのデートが自分の不手際で不履行だったことを詫び、紅雷が払った一千万の返却を頼むつもりだった。違約金を請求されるかもしれないが仕方ない。
あと、フルタイムのシフトに移行したい旨も一緒に伝えるつもりだった。退職届は、昼もアルデバランで働くことを見越して、レジデンスから戻った夜に認めた。
「ウチの客が他のクラブより格段に高額な料金なのにかかわらず、会員登録するのはなぜか、お前はしっているか? ボーイやサービスの質が高いのも当然だが、何より客が重視するのは、安全と信頼だ。一度、愛想を尽かして他に流れた客は、その客が良客であればあるほど戻ってくることはない。アルデバランが最も重きを置く信頼に泥を塗ったことを、お前はわかってんのか?」
電話に出た佐野から、いきなりクビを告げら、スマホを落としそうになった。
弁解も聞いてもらえず、紅雷の1千万の支払いについても、部外者には何も教えられることはないと素気無く突っぱねられ、一方的に通話を切られた。スマホを耳に当てた姿のまま暫し放心した。
奨学金に賠償金、父親の入院費、それに紅雷に返す1千万が加算される。
新しい店を探しても高値で売れる旬はそう長くはない。今度こそ本気で体を売るか、いっそ強盗でもするか。短絡的にそんな発想が出てくる自分に辟易し、人が堕落していくことの容易さに身震いした。
「束原さん?」
シマちゃんの声に我に返った。
「どこか体調でも悪いんじゃないですか? 時々ぼんやりしちゃってるし。今日はもう飲みはやめてまっすぐ帰ったほうがいいですよ」
シマちゃんがいたずらっぽく笑いながら下を指差す。その意味を察して、隠微に溜息が出た。
「わかった。ありがとう、そうするよ」
シマちゃんがくすくす笑い出した。
「なんか、あの人ってすごい男前なのにどこか犬っぽくないですよね。わざわざ迎えに来てくれるところなんか、まるで忠実な恋人みたい」
男前で犬で、忠実な恋人。シマちゃんの発想には時々ついていけない時がある。
「やめてくれよ。嫁さんがおめでたで、早く帰ると邪険にされるんだってさ」
笑いながらすらすらと口を滑りでる嘘が、自分の耳に突き刺さった。
退職願の入った鞄を手に営業部を出た。紅雷が待つ正面エントランスではなく、裏の駐車場につながる階段を下りて外に出る。外気に触れた途端、思わず首をすくめた。気温はまた下り、まるで冷蔵庫の中にいるような寒さの中を駅に向かって歩き出す。
澄んだ天空に、小さな星がさえざえと輝き、アスファルトに響く靴の音さえ凍りつきそうな夜だった。
裏から出たことを知らない紅雷は、きっとこの寒空の下で自分を待ち続けることになるのだろう。
立ち止まって向きを変えた靴の爪先は暫し迷い、元の角度に戻すと歩き出した。
「まずは……一緒にシャワーを浴びてください、汪様」
汪様と呼ぶ声に薄く蔑みが滲む。
バスルームに連れて行き戻ろうとする肘を 裕紀に掴まれた。
「一緒にと言っただろう。そういう決まりなんだよ」
どこといって特別なところは何もない。ニットシャツに綿のズボンという、ごく平凡な格好をした男が視線を上げるだけで、身体の奥の熱の塊がドクンと脈打った。
束の間、自分を見つめていた裕紀が薄い目蓋を緩く下ろす。
いきなり躊躇いなく服を脱ぎだした裕紀に、平常心もまともな判断力も木っ端微塵に吹き飛んだ。
能勢にパネライを返させ、京都行きも阻止できた。確信した勝利が、能勢の耳打ちに目許を染める裕紀を見た途端、不安定に揺れだした。
そこに 『今日も、可愛がってもらえよ』 という中年の冷やかしだ。今日もって、何だよ?
動揺する裕紀を問い詰めたい気持ちを力技で捩じ伏せ、面白がる男に殺意すら覚えたところで、
――俺たちはそんなんじゃないですから!
裕紀のこの否定が、暴走に弾みをつけた。
平静時ならば、裕紀の否定がオレを庇うために言った言葉だと、すぐに理解できたはずだ。
それを先走ったバカ男は、嫉妬と怒りをエネルギーに、広い広い河を一気に飛び越えようとジャンプした。
―― で、どんなことをしてくれんの?
自分の思い上がったセリフを思い出す度、叫びたくなる。
裕紀に好感をもってもらおうと、裕紀に会う時は自分が最大限格好良く見える服や靴を時間を掛けて選び、普段は適当に撫で付けるだけの髪型もワックスでスタイリングした。
複雑な生い立ちのせいか、自分の中に潔癖なところがあることを、自覚している。だから正直、裕紀が風俗に足を踏み入れたと知った時は、もう昔のような純粋な気持ちで裕紀を想うことはないだろうと思っていた。
それが、公園で襲われたところを助けたあの短い時間で、裕紀への想いは4年前よりも激しく再燃した。
可愛い、愛しい、どうしても手に入れたい。
表と裏の生活の間を、危ういバランスを行き来する裕紀は、無闇に関わりたがる古い友人を煙たがった。疎ましがられず、傍にいられる存在になるには、どうすればいいのか?
それには、裕紀の理解者にならなければならない。心中では苦々しく思っていても、裕紀の副業を非難したりせず、平常心で受け流す努力をした。
そして自分の仕事の面白さとか、充実感を事細かく話して聞かせた。最初は鬱陶しそうに聞いていた裕紀も次第に触発され、食品衛生管理者の資格を取りたいと聞いた時は、抱きしめたいのを抑えるのにそれほど苦労したことか。
スマートな大人の男に見えるか、スーツは決まっているか。裕紀と会う前は、職場の鏡で再度念入りにチェックする。社長にデートかと冷やかされ、頷く時の幸福感。そう、数年越しの想いをやっと成就させ、惚れきった大好きな恋人とデートする。
気分はまさしくそんな感じだが、裕紀は恋人ではない。
一度はクラブの仕事をやめそうな雰囲気で万々歳だったのが、その後、裕紀は拍車を掛けて客を取るようになり、とうとうオークションにその源氏名が上がった。
理由は、電話2本であっさり解った。裕紀が保険で賄うと言っていた父親の事故は、実際は保険に入っておらず、賠償金も入院代も保険金はおりてなかった。パートの母親の収入では賄いきれるはずもなく、当然その重圧は裕紀に掛かっていた。
プライドもあるだろうし、心配させたくなかったのかもしれない。それでも、一言でいいから相談して欲しかった。
裕紀が風俗をやっているだけでも充分、赦し難いのに、ヴァージンを他人に渡すなど。考えただけでもドス黒い嫉妬と怒りで、腸が煮えくり返った。
そして佐野にサーバー事故を装ってオークションを中断させ、自分もオークションに参加することを条件に再開させた。
他に追随できない金額で裕紀を落札し、京都に裕紀を連れ去ろうとする能勢の陰謀を挫き、最後は裕紀と手をとって喜び合う手はずだった。裕紀に頼りになるところを見せ、あわよくば好きになってもらえるかもという下心も当然あった。
それが自分の品のない一連の言動で、全ての努力は泡となって潰えた。
好きになってもらうどころか、友人として、人間として裕紀の中でオレはもう終わっている。
「煩いヤツだな。叫ぶんなら、空いてるから下の防音室に篭もれ」
頭を掻き毟り、意味不明な中国語を叫んだ紅雷に東夷が冷たく言い捨てた。
階下から澄んだチェロの音が聞こえてくる。
バッハのプレリュード。音が上がってくるのは晴人が防音室でなく、恋人を追い出して自分たちの部屋のリビングで弾いているからだ。
「もうオレに会いたくねえって」
優しい調べがメランコリックな気分を増長し、今にも涙が出そうだ。
ちなみに晴人は、この傷心を知っていてわざとメランコリックな曲ばかり選んで弾いている。マジでうざったい中年バカップルだ。
「友達に一千万なんて品のない値段つけたんだ。まあ、嫌われても仕方ないな」
呑気にミカンを頬張りながら、やれやれと東夷が頭を振る。
「こういう輩がいるから爆買いとか下品な言われ方するんだよな、俺たち中国人は」
「東夷は半分じゃん。自分も面白がって、一枚噛んだくせに。殺すぞ中年ハーフ」
「おお、怖い、怖い。さすが汪家の若様だねえ。脅しも一味違うねえ」
ソファに座り膝に突いた両手に顎を乗せた紅雷が、黒い虹彩だけを東夷に向ける。
「今は受け流すゆとりねえから、マジで喧嘩を売らないでくれ」
東夷が再び、ヤレヤレと頭を振った。
「紅雷、お前が支払った代償は一千万なんて端金じゃない。束原 裕紀はそれだけの価値がある相手か? その上、奴はお前がその端金で自分の人生を売ったことも知らないんだろ」
関係ないと言わんばかりに、ぷいと横を向く。
「おい若者、その猪突猛進型の性格をなんとかしねえと。そのうちこっ酷い目にあって、後悔をすることになるぞ」
「よく言うぜ。親父とグルになって、オレをハメたくせに」
「ご明察だな。俺は義兄さんに弱い」
手で支えていた頭が、ガクンと項垂れた。
「もう色んな意味で、オレは後悔の大海原で遭難中だよ」
背中を大きなクッショに埋め、まるで溺れる人のように紅雷は長い腕を上にあげ、目を瞑った。
裕紀が服を脱ぎ始めた。
セーターの裾に手を掛け、次々と着ている服をその躯から剥いでゆく。潔すぎてムードも何もない脱ぎ方だったが、露わになっていく愛しい相手の裸体に視覚が痺れ、心臓が壊れるんじゃないかというくらい激しく脈打った。
ほっそりとした頸も、浮き出た肩甲骨も踝さえ、ただ愛しくて。
高圧的な態度で出たことも忘れ、下着も足から抜き去り一糸纏わぬ姿になった裕紀を感極まる想いで凝視めた。
「じっとして」
見蕩れていた喉元に伸びてきた裕紀の手指が、サックスブルーのシャツのボタンを外したところでぎくりと息を呑んだ。困ったことに、素直過ぎる欲望が強烈に反応してしまっている。
格好つけて啖呵をきった手前、獰猛な野獣レベルで反応する劣情を曝せば、裕紀のさらなる侮蔑を買うのではないか。自分の卑しい下心は、果たしてここで丸裸にしてよいものだろうか。
「なあ、裕紀」
逡巡の末、シャツの袷に滑りこんだ手指を掴まえる。
問いかけるようにゆっくり上がった裕紀の目が突然、夢から醒めたように見開き、自分の手を引き抜いた。
「あ…す、すまん」 裕紀が後ずさった。俯いた耳まで真赤に染まっている。首の後ろ、背骨に続く骨の小さな突起の可愛らしさに、全身の血液が騒ぎ出す。
「いや、あ……あの」 興奮で鼻息が荒くなるのを手で抑えて隠した。
「ごめんな、紅雷」
呼び名が汪から、元の紅雷に戻っていた。
下を向いた裕紀の頭から、ポタポタと床に落ちた涙に、金槌で頭を殴られたような衝撃を受けた。ようやく冷静になって、金で裕紀を買った他の男達と同じことをしている自分に気がついた。
「俺が不甲斐ないせいで、お前にこんな辛い茶番までさせて……ごめんな」
え? 感情のアップダウンに翻弄され、思考力か欠落した頭は裕紀が言っていることがいまひとつ理解できない。
「わかっているんだ。お前は男を抱けるようなやつじゃない。俺がお前に負い目を感じないでいいように、俺を買うなんてことを思いついたんだろう? 大事な親友にこんな真似をさせる俺は最低だ。借金は俺の問題だから。俺のためにこんな無茶はもうしないでくれ」
なんでそうなるんだ、最低なのはオレの方だろう?
「お前がクラブに払った金は、返してもらえるように俺が頼んでやる。紅雷はなにも心配するな」
脱ぐ時の更に5分の1の速さで衣服を身につけた裕紀は、事態の急展開に呆然とするオレをバスルームに残し帰ってしまった。
4年前となにも変わっていない。
手の伸ばせば届く距離にいる。想いだって届きそうなものなのに、心はいつまで経っても触れることも出来ない。
本当はこんなやり方では駄目なことくらいわかっているのに。
じゃあ、どうすればいい?
河岸は遠く、飛び越えればより深い友情の流れに落ち、泳いで渡ろうとすれば流される。
どうしたらこの広くて長い河を越えられる?
◀◀ 12 / 14 ▷▷
