02 ,2016
<11>
俺は君を落札できんかった」
言葉を失い、見つめ合うふたりの頭上でし、飛び立つ鳥の羽音が鳴き声が高く響いた。
むかし華族の邸宅のあった場所に建てられたレジデンスは、クラシカルな色調の高い柵が敷地をぐるりと囲む。
裕紀は能勢から視線を移動させた。表通りに真っ直ぐに伸びる道、瀟洒な柵のデザインに合わせた分厚い木製の門扉。車6台分はありそうなカーポートの跳ね上がり戸も木製だが、こちらは薄く埃が溜まり、あまり頻繁に使われていないようだ。
ひっそりと静まり返り返った私道には、他の誰の姿もない。能勢と裕紀だけだ。視線を戻し問いかける自分の声が空々しい他人の声に聞こた。
「……でも、能勢さんは落札たからここにいらしゃったんですよね?」
能勢でないとしたら当然、他の誰かが自分を落札したということになる。想定外の出来事に予定調和が崩れた。不安げに揺れた表情は、次の能勢の言葉で感情がすとんと抜け落ちた。。
「俺の入札額は百万。たかがと言うては何やが、セックス1回にこの金額は常識ではありえへん数字や。せやけど、一千万いれてきた人間がおったらしい」
「一千……」 異常だ。
オークションはただのお遊びだと佐野は言った。
能勢の言う通り、たかがセックスの代償に百万という数字を提示した能勢も既に尋常ではないと思うが、能勢にしてみればこの後の愛人契約のための手付金的な意味合いも含んでの値段だ。
その十倍もの金額をつけるなど、常軌を逸しているというより、既にまともな思考を持つ人間のすることではない。
そんな狂気めいた金額で買われた自分は、一体何をさせられるというのか。
背筋がぞっと震えた。
もしかしたら、自分はアルデバランに裏切られたのかもしれないという気がしてきた。
店が人身売買にまで手を出すようなことはしてないと信じたいが、所詮 人を売り物にして稼ぐ世界だ。店長の佐野は金儲けには抜目の無い男だし、破格の落札価格に欲が出たということも。
自分を騙そうとする片鱗が無かったかと、佐野との会話を頭の中で再生する。
佐野は落札者の名前を言わなかった。自分も、能勢が落札したとばかり思い込んでいたから、尋ねもしなかった。一番大事なことを確認しなかった自分の迂闊さが悔やまれた。
「俺は……落札したのは、能勢様だとばかり思っていたから」
他の男に抱かれても、能勢はまだ自分を京都に連れて行きたいと思ってくれるだろうか。痩せこけた父の顔と、長い息を吐いて俯いた母の毛玉をいっぱいつけたカーディガンの薄い肩が脳裏にちらついた。
無意識に手首のパラネイを弄る裕紀の手を能勢が握った。
「心配せんでもええ、俺もこれから司と一緒に落札した奴に会うて、交渉をするつもりや」
「能勢様、それはできません。そんなことは、店が許すはずが…」
馬鹿げたオークションであっても、オークションという形をとって大金が絡んだ以上、自分個人の勝手など許されるはずがない。
「アルデバランには許可を取ってある。だから俺は今日、ここに来れたんや」
「店が…、ここを教えたんですか?」
驚いた。店が落札者以外に情報を流すなど考えられない。
ならば、能勢はどうしてこの場所を知ったのか。能勢は自分を待ち伏せした河内のような、器の小さな人間ではない。
安心させるように能勢が裕紀の背中を軽く抱き寄せ、安心させるようにポンポンと叩いた。子共にするみたいな宥め方に気恥ずかしくもあるが、胸に安堵が広がったのも事実だ。
「俺が来ることは、落札した相手も承諾してるて聞いてる。そやから、司はなんも心配せんでええ」
冬枯の高い木樹に囲まれた冷たい石の道の上で、能勢が唇を合わせてくる。
「わざわざ京都から駆けつけご足労頂いても、オレは譲りませんけどね」
その声は、まさにいま唇の先端が触れんという、そのタイミング割り込んできた。甘い空気を乱暴に蹴散らした怒気の篭った声に、能勢と同時に振り向いた裕紀は声もなく固まった。その顔を驚きが支配し、冷ややというには冷たすぎる相手の視線に、瞠目した眼の色が絶望に変わる。
音にならない声で、紅雷と唇を戦慄かせた裕紀を無視し紅雷は続けた。
「オレも、今日はあなたに会っておきたくて、店にここを教えるように言っておいたんです」
そう言いはじめて表情らしきもの、挑戦的な笑みを紅雷は口端に刻んだ。
蒼白だった裕紀の顔が紅潮した。ここに来るまで探し求めていた男が、なぜこのタイミングで現れるのか。運命を呪いたくなる。男と抱き合うところなんか、キスするところなんか世界で一番、見られたくない相手だった。
「紅雷。お前がなんで……」
「なんでオレがここにいるかなんて、決まってるだろ」
門扉にもたれていた紅雷が、新しい枯葉を踏みながら近づいてきた。
感の鋭い能勢は、この状況が把握できないまでも裕紀の反応に何かを感知し、狼狽と驚愕に強張る裕紀の腰をさらに抱き寄せる。
「裕紀をオレが落札したからだ」
言うや伸びてきた紅雷の手が裕紀の肩を掴み、乱暴な仕草で紅雷はもぎ取るように能勢から引き離した。一瞬、頭の中が真っ白になる。次に裕紀を占拠したのは怒りだ。
「お前、なに言ってるんだ? ふざけんなよっ、紅雷! これはお遊びなんかじゃないんだぞ」
「オレは能勢さんと話をつけたいから、裕紀はちょっと黙っててくれ」
落ち着き払った紅雷の態度に、自分を落札したの本当に紅雷であることを確信した。
声を荒げ、向かせようと掴み掛る裕紀を隠すように自分の背後に押し、紅雷は露骨に敵意押し出し能勢と真正面から向き合った。
「オレは裕紀の……ああ、あなたは源氏名の 『司』 で呼んでるんでしたっけ。オレは彼の大学時代の友人の汪といいます」
裕紀との親密度の違いを嫌味っぽく絡めて自己紹介した紅雷に、能勢は冷静な大人の顔を崩さず、「それで?」 と口端を緩める。その眼が紅雷の背後で狼狽する裕紀に向けられ、安心させるようにふわりと細まった。
「紅雷、やめろって。お前、何考えてんだよ」
紅雷の肘を引っ張ると、邪険に振り払われた。OOO必死な背中
「大学時代の友人が、一千万なんていう大金をただの友人に払うのか?」
「払いますよ、一千万くらい。金で裕紀が買われていくのに、指を銜えて見ていられるわけがない」
紅雷は、パラネイをくれたのも京都に誘ったのも、この能勢だと感づいたらしかった。
いくら高給取りでも、まだ20代の青年に一千万円は払える額ではない。友人がオークションにかけられ、感情に流されて突発的に参加したのかもしれないが、そんなことをすれば紅雷まで借金地獄に落ちることになる。そんなことは、絶対にさせない。
「紅雷、頼むからこの権利は能勢さんに譲ってくれ」
紅雷のコートの背中を捕まえて、頭を下げた。
「断る」
「紅雷!」
声音と気配で、裕紀が頭を下げていることはわかっていたはずだ。紅雷の返事は拒絶の一言だけだった。
「なるほど、君は司を……いや、裕紀を救うために落札したと、そういうことやな?」
裕紀と形を結んだ能勢の唇が、その音を味わうように言葉をついだ。
「金のどうのという問題やない。友人の君が心配するのは当然かもしれんが、私は本気で裕紀を大事に思うてるし、ずっと側に置いておきたいと本気で願うてるで」
能勢の言葉に、胸にじわりと熱いものが込み上げる。その高さの分だけ罪悪感が凝るのは、背中を向けるこの男に心をもって行かれているからだ。
「オレがここに来たのは、裕紀の友人としてではありません。落札者としてここに来たんです」
「紅雷、もういい加減にしろ。 なんてことをしたんだ。そんな大金、お前に払えるわけないだろう!」
首だけで紅雷が振り返る。灰色の寒空を凝縮したような冷たい目だった。
「一千万なら安いもんだ。買ってやるよ裕紀。お前を丸ごと。爆買いは中国人のお家芸だからな」
お前は、馬鹿だ。眼球の奥が熱くなる。
「どこに行く? 買ったのはオレだぞ」
能勢に目で合図し、立ち去りかけた腕を紅雷に掴まれた。
「勝手なこと言ってんじゃねえよ。こんなんは無効だからな」
「無効もなにも、落札者はオレはだ。お前、前に言ったよな。金を払えばオレにでも自分を売るって。オレは金を払った。勝手なこと言ってるのは裕紀の方だろう?」
自分の吐き捨てた言葉に頭を殴られた。言質にとられた言葉は、自分が金さえ出せば誰でも買えるお安い男だということを、能勢に再認識させたに違いない。
紅雷は俯いた裕紀の肩を掴んで引き寄せ、能勢に向かせた。情けなさと羞恥が綯い交ぜになって、能勢の顔がまともに見れない。
「能勢さん、帰っていただけませんか。裕紀のことは諦めてください。京都にも行かせません。それを知っていただきたくて、今日はあなたに来てもらったんです。」
紅雷との遣り取りを黙って聞いていた能勢が、不意に白い息を吐いた。
「なるほど、ええでしょう」
能勢の返事に全身の力が抜けた。
「裕紀、パネライを能勢さんに返してくれ」
もう反論も弁解する気力も起こらなかった。
裕紀と能勢が呼ぶ。その能勢の優しい声にほんの少し救われた。
「俺はな、裕紀君のことはまだよう知らんけど、司のことはよう分とったつもりや。そやから、そんな顔はせんでええ。ほなら、時計は返してもらおか」
腕から時計を外して能勢に返した。
「すみません。こんなことになるなんて。またのご指名をお待ちしていますから」
そう頭を下げた裕紀に、能勢が耳打ちする。
「愛情の原因は、この人なんやな」
下に向けた目がかっと見開いた。鎌倉で能勢は、裕紀の奉仕に愛情を感じたと言った。
瞬時に耳朶まで真っ赤に染めた裕紀に、能勢が低く笑う。
「もういいですか?」
紅雷の尖った声に、能勢がええでと答える。
「司、もう俺が君を指名することはない。司はもう消えてしもたからな、そういうことなんやろ」
後半の確認するような言葉は紅雷に投げられ、受け止めた紅雷は黙って頷いた。
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俺は君を落札できんかった」
言葉を失い、見つめ合うふたりの頭上でし、飛び立つ鳥の羽音が鳴き声が高く響いた。
むかし華族の邸宅のあった場所に建てられたレジデンスは、クラシカルな色調の高い柵が敷地をぐるりと囲む。
裕紀は能勢から視線を移動させた。表通りに真っ直ぐに伸びる道、瀟洒な柵のデザインに合わせた分厚い木製の門扉。車6台分はありそうなカーポートの跳ね上がり戸も木製だが、こちらは薄く埃が溜まり、あまり頻繁に使われていないようだ。
ひっそりと静まり返り返った私道には、他の誰の姿もない。能勢と裕紀だけだ。視線を戻し問いかける自分の声が空々しい他人の声に聞こた。
「……でも、能勢さんは落札たからここにいらしゃったんですよね?」
能勢でないとしたら当然、他の誰かが自分を落札したということになる。想定外の出来事に予定調和が崩れた。不安げに揺れた表情は、次の能勢の言葉で感情がすとんと抜け落ちた。。
「俺の入札額は百万。たかがと言うては何やが、セックス1回にこの金額は常識ではありえへん数字や。せやけど、一千万いれてきた人間がおったらしい」
「一千……」 異常だ。
オークションはただのお遊びだと佐野は言った。
能勢の言う通り、たかがセックスの代償に百万という数字を提示した能勢も既に尋常ではないと思うが、能勢にしてみればこの後の愛人契約のための手付金的な意味合いも含んでの値段だ。
その十倍もの金額をつけるなど、常軌を逸しているというより、既にまともな思考を持つ人間のすることではない。
そんな狂気めいた金額で買われた自分は、一体何をさせられるというのか。
背筋がぞっと震えた。
もしかしたら、自分はアルデバランに裏切られたのかもしれないという気がしてきた。
店が人身売買にまで手を出すようなことはしてないと信じたいが、所詮 人を売り物にして稼ぐ世界だ。店長の佐野は金儲けには抜目の無い男だし、破格の落札価格に欲が出たということも。
自分を騙そうとする片鱗が無かったかと、佐野との会話を頭の中で再生する。
佐野は落札者の名前を言わなかった。自分も、能勢が落札したとばかり思い込んでいたから、尋ねもしなかった。一番大事なことを確認しなかった自分の迂闊さが悔やまれた。
「俺は……落札したのは、能勢様だとばかり思っていたから」
他の男に抱かれても、能勢はまだ自分を京都に連れて行きたいと思ってくれるだろうか。痩せこけた父の顔と、長い息を吐いて俯いた母の毛玉をいっぱいつけたカーディガンの薄い肩が脳裏にちらついた。
無意識に手首のパラネイを弄る裕紀の手を能勢が握った。
「心配せんでもええ、俺もこれから司と一緒に落札した奴に会うて、交渉をするつもりや」
「能勢様、それはできません。そんなことは、店が許すはずが…」
馬鹿げたオークションであっても、オークションという形をとって大金が絡んだ以上、自分個人の勝手など許されるはずがない。
「アルデバランには許可を取ってある。だから俺は今日、ここに来れたんや」
「店が…、ここを教えたんですか?」
驚いた。店が落札者以外に情報を流すなど考えられない。
ならば、能勢はどうしてこの場所を知ったのか。能勢は自分を待ち伏せした河内のような、器の小さな人間ではない。
安心させるように能勢が裕紀の背中を軽く抱き寄せ、安心させるようにポンポンと叩いた。子共にするみたいな宥め方に気恥ずかしくもあるが、胸に安堵が広がったのも事実だ。
「俺が来ることは、落札した相手も承諾してるて聞いてる。そやから、司はなんも心配せんでええ」
冬枯の高い木樹に囲まれた冷たい石の道の上で、能勢が唇を合わせてくる。
「わざわざ京都から駆けつけご足労頂いても、オレは譲りませんけどね」
その声は、まさにいま唇の先端が触れんという、そのタイミング割り込んできた。甘い空気を乱暴に蹴散らした怒気の篭った声に、能勢と同時に振り向いた裕紀は声もなく固まった。その顔を驚きが支配し、冷ややというには冷たすぎる相手の視線に、瞠目した眼の色が絶望に変わる。
音にならない声で、紅雷と唇を戦慄かせた裕紀を無視し紅雷は続けた。
「オレも、今日はあなたに会っておきたくて、店にここを教えるように言っておいたんです」
そう言いはじめて表情らしきもの、挑戦的な笑みを紅雷は口端に刻んだ。
蒼白だった裕紀の顔が紅潮した。ここに来るまで探し求めていた男が、なぜこのタイミングで現れるのか。運命を呪いたくなる。男と抱き合うところなんか、キスするところなんか世界で一番、見られたくない相手だった。
「紅雷。お前がなんで……」
「なんでオレがここにいるかなんて、決まってるだろ」
門扉にもたれていた紅雷が、新しい枯葉を踏みながら近づいてきた。
感の鋭い能勢は、この状況が把握できないまでも裕紀の反応に何かを感知し、狼狽と驚愕に強張る裕紀の腰をさらに抱き寄せる。
「裕紀をオレが落札したからだ」
言うや伸びてきた紅雷の手が裕紀の肩を掴み、乱暴な仕草で紅雷はもぎ取るように能勢から引き離した。一瞬、頭の中が真っ白になる。次に裕紀を占拠したのは怒りだ。
「お前、なに言ってるんだ? ふざけんなよっ、紅雷! これはお遊びなんかじゃないんだぞ」
「オレは能勢さんと話をつけたいから、裕紀はちょっと黙っててくれ」
落ち着き払った紅雷の態度に、自分を落札したの本当に紅雷であることを確信した。
声を荒げ、向かせようと掴み掛る裕紀を隠すように自分の背後に押し、紅雷は露骨に敵意押し出し能勢と真正面から向き合った。
「オレは裕紀の……ああ、あなたは源氏名の 『司』 で呼んでるんでしたっけ。オレは彼の大学時代の友人の汪といいます」
裕紀との親密度の違いを嫌味っぽく絡めて自己紹介した紅雷に、能勢は冷静な大人の顔を崩さず、「それで?」 と口端を緩める。その眼が紅雷の背後で狼狽する裕紀に向けられ、安心させるようにふわりと細まった。
「紅雷、やめろって。お前、何考えてんだよ」
紅雷の肘を引っ張ると、邪険に振り払われた。OOO必死な背中
「大学時代の友人が、一千万なんていう大金をただの友人に払うのか?」
「払いますよ、一千万くらい。金で裕紀が買われていくのに、指を銜えて見ていられるわけがない」
紅雷は、パラネイをくれたのも京都に誘ったのも、この能勢だと感づいたらしかった。
いくら高給取りでも、まだ20代の青年に一千万円は払える額ではない。友人がオークションにかけられ、感情に流されて突発的に参加したのかもしれないが、そんなことをすれば紅雷まで借金地獄に落ちることになる。そんなことは、絶対にさせない。
「紅雷、頼むからこの権利は能勢さんに譲ってくれ」
紅雷のコートの背中を捕まえて、頭を下げた。
「断る」
「紅雷!」
声音と気配で、裕紀が頭を下げていることはわかっていたはずだ。紅雷の返事は拒絶の一言だけだった。
「なるほど、君は司を……いや、裕紀を救うために落札したと、そういうことやな?」
裕紀と形を結んだ能勢の唇が、その音を味わうように言葉をついだ。
「金のどうのという問題やない。友人の君が心配するのは当然かもしれんが、私は本気で裕紀を大事に思うてるし、ずっと側に置いておきたいと本気で願うてるで」
能勢の言葉に、胸にじわりと熱いものが込み上げる。その高さの分だけ罪悪感が凝るのは、背中を向けるこの男に心をもって行かれているからだ。
「オレがここに来たのは、裕紀の友人としてではありません。落札者としてここに来たんです」
「紅雷、もういい加減にしろ。 なんてことをしたんだ。そんな大金、お前に払えるわけないだろう!」
首だけで紅雷が振り返る。灰色の寒空を凝縮したような冷たい目だった。
「一千万なら安いもんだ。買ってやるよ裕紀。お前を丸ごと。爆買いは中国人のお家芸だからな」
お前は、馬鹿だ。眼球の奥が熱くなる。
「どこに行く? 買ったのはオレだぞ」
能勢に目で合図し、立ち去りかけた腕を紅雷に掴まれた。
「勝手なこと言ってんじゃねえよ。こんなんは無効だからな」
「無効もなにも、落札者はオレはだ。お前、前に言ったよな。金を払えばオレにでも自分を売るって。オレは金を払った。勝手なこと言ってるのは裕紀の方だろう?」
自分の吐き捨てた言葉に頭を殴られた。言質にとられた言葉は、自分が金さえ出せば誰でも買えるお安い男だということを、能勢に再認識させたに違いない。
紅雷は俯いた裕紀の肩を掴んで引き寄せ、能勢に向かせた。情けなさと羞恥が綯い交ぜになって、能勢の顔がまともに見れない。
「能勢さん、帰っていただけませんか。裕紀のことは諦めてください。京都にも行かせません。それを知っていただきたくて、今日はあなたに来てもらったんです。」
紅雷との遣り取りを黙って聞いていた能勢が、不意に白い息を吐いた。
「なるほど、ええでしょう」
能勢の返事に全身の力が抜けた。
「裕紀、パネライを能勢さんに返してくれ」
もう反論も弁解する気力も起こらなかった。
裕紀と能勢が呼ぶ。その能勢の優しい声にほんの少し救われた。
「俺はな、裕紀君のことはまだよう知らんけど、司のことはよう分とったつもりや。そやから、そんな顔はせんでええ。ほなら、時計は返してもらおか」
腕から時計を外して能勢に返した。
「すみません。こんなことになるなんて。またのご指名をお待ちしていますから」
そう頭を下げた裕紀に、能勢が耳打ちする。
「愛情の原因は、この人なんやな」
下に向けた目がかっと見開いた。鎌倉で能勢は、裕紀の奉仕に愛情を感じたと言った。
瞬時に耳朶まで真っ赤に染めた裕紀に、能勢が低く笑う。
「もういいですか?」
紅雷の尖った声に、能勢がええでと答える。
「司、もう俺が君を指名することはない。司はもう消えてしもたからな、そういうことなんやろ」
後半の確認するような言葉は紅雷に投げられ、受け止めた紅雷は黙って頷いた。
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