01 ,2016
<7>
カーテンの隙間から差し込んだ月光が、フローリングの床に一本の白い線を引く。
深夜2時。ベッドに入っても睡魔は訪れない。
72時間後、土曜日の夜には、セックスをする相手が決まる。店のHPを開いても、VIP専用のパスワードを知らされていない裕紀には、オークションサイトを見ることは出来ない。
オークション期間中はフライング防止のため、京都の織物会社の若社長 能勢の予約以外は全てキャンセルするよう、佐野からお達しが出たが断った。
今日も佐野と話した後、ショートの客を取った。
何か取り返しの付かないことをしてしまった感が、ずっとついて回っている。
「何を今更。腹を括れよ、自分」
念のためと渡されたゲイビは、本番を迎えるまでに一度は観ておけと佐野に言われたが、持ち帰ってすぐ、使っていないキッチンの吊り戸棚の中にしまった。
早ければ能勢の仕事が終わった月曜日には、自分を落札した相手とすることになる。
いろんなことが心のなかで雑音を立て、とうとうベッドから起き上がった。キッチンに行き、明かりもつけずに水道の水を汲んで一気に飲み干し、息を吐いた。
膠着しそうな静寂の中、充電中のスマホから電子音が響き、ぎくりと戦いた。確かめると、奨学金引き落とし完了の通知だ。
「何時だと思ってんだ、下種なブラック金融め」
呆れたのか諦めたのか、それとも怒ったのか。昆明にいる紅雷からの着信は、ここ2日間ほど無い。
1千万という大金は、やはり貸してもらえなかった。当たり前だ。
それどころか、「思い余って怪しげな金融とかで借りたりするんじゃないぞ」 と、佐野に念押しまでされた。
競売でケツを売ったところで、せいぜい5万もつけば御の字。
床の照り返しでぼんやり輪郭の浮かぶ天井を見上げながら、20万円と口走った河内の脂ぎった白い顔を思い浮かべ、惜しかったかもと思ってしまう自分が情けない。
突然、静かな室内に短い電子音が鳴る。充電コードをつけたままのスマホの画面に、紅雷の名前が表示されて消えた。
「これが清王朝時代の布銭の偽物で、こっちが明の頃の。で、こっちが樹脂製の琥珀に虫が入ったやつ。ジュラシックパークみたいだろ」
「樹脂なら樹脂って普通に言えよ。それをわざわざ琥珀っておかしいだろ」
結局は布銭も琥珀メイドインチャイナの偽物という訳だ。裕紀の突っ込みに、紅雷は 「やっぱり?」 と笑い返し、居酒屋の壁に掛けた上着の内ポケットから黒っぽい小箱を取り出した。
「中国の偽造はもう文化だと思って諦めてくれ。でもこっちは本物だから」
偽造を文化と言い切り、平然と開き直る中国人の強かさに呆れつつ、見た目より重量のある小箱を受け取った。
8角柱の箱は表面に漆が塗られ、金色と色硝子で細かな象嵌が施されている。
「なんか高そうな箱だな」
「蓋を開けてみてよ」
興奮を抑えるような声に促され、金具を外して蓋を開けると、内張りの臙脂の天鵞絨に緑色の玉が嵌めこまれていた。
「こういうの見ると、中国人って雑なのか器用なのかわからなくなるな」
直径40ミリほどの球体の表面には、びっしりと細かい透かし彫りがされ、隙間から覗くと、中にも同じような玉を内包する石の球体が入っているのが見えた。全ての玉に細やかな透かし彫りと金色の細工が施されている。
「ガキん時、友達の家の客間でもっと大きいのを見たことがある。金細工のない真っ白なやつで、そいつの父親は象牙だって自慢してたな」
ふうんと紅雷が皮肉めいた笑みを口の端に挟む。驚いたことに、それだけで友人の父親の自慢する象牙は自分の中で無価値になった。
「これは玉(ぎょく)といって、翡翠でできてるんだ」
「ああ、中国人は翡翠が好きだよな。この金の模様って」
それは、どちらかといえば気味の悪い類の生き物で、美しい球体に張り付くには似つかわしくいように思えた。
「コウモリだ。中国では蝙蝠という字から福を偏る、つまり福を呼ぶ生き物として、縁起がいいとされてる」
「へー、4個だな」
「なんだよ、その微妙な数は」
珍しく拗ねた顔をした紅雷に、悪戯心が顔を出す。
「だってコウモリだろ。夕方になると空を飛んでる、ちょっと気味悪いアレだろ。いくら縁起物つってもな、微妙だろ」
にやつきながら意地悪な感想を言ってやると、気分を害したらしい紅雷がさっさとテーブルに広げた中国土産を片付け始める。
「ごめんごめん、悪かった。嘘だって。土産なんてよかったのに、わざわざありがとうな」
笑いながら謝って礼を言うと、紅雷の曲がった口が横に広がって、嬉しそうな顔になる。つられて笑いながら、笑みひとつで自分の価値観さえ動かしてしまった紅雷に、微かに震撼した。
その日、仕事を終えて会社を出ると、紅雷がエントランスの前で仁王立ちしていて驚いた。
入っていたボーイの指名がキャンセルになり、気は進まないがアルデバランの経営するナイトクラブで客待ちでもするかと思っていたところだった。
「なんで、メールの返事をくれない、電話に出ない?」
紅雷の足元のグレーのリモアには、まだ機内預けのタグがついている。空港に降り立ったその足で直行してきたのがわかった。
「メールも電話も、何度もしたのに」
低い声に、冷静であろうとする抑圧された紅雷の憤怒が籠もる。
すらりと長駆で人目を引く容姿の男にがんと睨まれ、唖然と立ち尽くした裕紀を、エントランスから出てくる女子社員たちが、横目で見ながら帰ってゆく。
紅雷の風貌や身なりの良さのせいで、無条件で裕紀に非があるように見えるところが分が悪い。実際その通りだから 「心配するだろう」 と紅雷に凄まれて、すまんと消沈して謝った。
「時間、あるか?」
なくても作れと睥睨する紅雷の眼が脅してくる。仕方なく頷いた。
タクシーに乗せられ、再会して以来、何度か足を運んだ居酒屋に落ち着いた。
ごぼうサラダとサイコロステーキが運ばれて、狭くなったテーブルの上から紅雷の中国土産の古銭や樹脂琥珀やらを片付けた。
「でさ、向こうの地域開発部長が頷く度に、カツラがずりってズレるんだよな。もう、社長も俺も、笑いを堪えるんで必至でさ、あれは本気でやばかった」
紅雷の怒りはタクシーに揺られるうちに解け、居酒屋に到着する頃にはほぼ上機嫌状態だった。店の暖簾を持ち上げ、裕紀を先に中に入れる。
「なんか強引というか、おまえって前からこんな性格だっけ?」
まるで連行されたみたいだと、通りざま溜息した裕紀に 「お前にはもう遠慮しないって決めたから」 と。なにやら韻を含む言い方が気になって見上げると、逃げるように視線を逸らされた。
「で、何があった?」
一通り料理に箸をつけ、酒も入ったところで紅雷がまた話を掘り返す。食い下がる紅雷のしつこさにもいい加減呆れ、今度は裕紀が口を曲げる番だった。
「だから悪かったって、俺は謝っただろう。残業が続いたところにバイトも入って、超絶に忙しかったんだから仕方ないだろう」
「嘘だな。そんなことなら今までもあったけど、いつもメールを返すくらいはしてくれただろ」
「お前さ、俺の彼女じゃねえんだからメールの返信がないくらいで、男がぶうぶう言うなよ」
「茶化すな。俺はまじめに聞いている」
芯のある低い声に、ほろ酔だった気分が一気に醒めた。腕を組んで睨めつける紅雷の様子に、生半可な理由では納得しなさそうだと、口につけていたビールグラスを置き重い息を吐いた。
「親父が仕事先で自動車事故を起こして、入院したんだ」
紅雷の瞠目した瞳から、急速に怒りが抜けた。そして、済まなさそうに肩を落とした。
「そうだったのか。全然知らなかった。くだらないことで怒ったりして悪かった」
「親父はいいんだ、自業自得だから。ただ対人事故でさ、相手に全治3ヶ月の怪我を追わせてしまったんだ」
「実家に帰らなくていいのか。対人なら損害賠償とかは? 大丈夫なのか」
「家には月に帰ってきた。賠償金とかは保険から下りるらしいから、大丈夫だ」
嘘だ、親父も相手も保険に入ってなかった。そして、相手の男性の意識はまだ戻らない。病院のベッドで 「俺が死ねばよかったんだ」 と言った父親の言葉を否定してやることが出来なかった。
「なあ、裕紀」
テーブルに置いていた腕に、紅雷の手が置かれた。別に深い意図も無く軽く載せられただけなのに、心臓に触れられたような衝撃を感じて反射的に腕を引いてしまった。
ほんの一瞬、2人の間に気不味い空気が流れて、紅雷も自分の手を元の位置に引っ込める。
「お父さん、早く良くなるといいな。困った事があったら、いやなくても、どんな小さなことでも絶対に俺に話してくれよな」
金が要る。大金を作らなくては。頭ではそんなことを考えながら、機械的に頷いた。
「絶対だぞ」
誠実で曇りのない紅雷の黒瞳。いつもは穏やかなその黒い眼が本気で怒ると、灼け付きそうな熱を孕むことをきょう知った。いまは和紙を透過した柔らかい明かりの下で、心配そうに自分を見つめている。温かく力のある視線に胸が苦しくなる。
「ああ、ありがとうな」
潤みだした瞳を誤魔化すように俯いて、料理をつついた。
甘ったるくて息苦しい。
間違いなく、自分は紅雷を好きになる。これまでのような友人としてではなく、性的な意味も含めた恋愛の対象として惚れる。
自分はこれまで同性である男に性欲を感じる客たちを、どれだけ冷ややかな目で見てきたことか。
欲望を満たすために男を買う。憐れな欲を満たしてやるのだから、高い対価を払うのは当然だと、男の足下に傅きながらそう思っていた。
今、やっとわかった。
手が届かない、報いのない相手だとわかっていながら恋に落ちてゆく怖さが。自分を買った男たちがその胸に抱える葛藤や絶望を、初めて自分にも垣間見えた気がした。
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