01 ,2016
<6>
頬をなで前髪をそっと梳くと、眠っている唇が幸せそうに笑う。それにつられて、釣られるように自分の口も綻ぶのを感じた。
枕元には真新しい定期入れが置いてある。いつも持ち歩いて欲しいという、贈り主の粘着質な気質が透けて見えて、窓から投げ捨てたい衝動に駆られた。
定期に添えてあった、毒みたいに甘ったるいチョコレートはあっという間になくなった。安らかな寝息を立てる男が、宝石みたいに摘んで口に頬張った時の幸せそうな顔を思い出して、嫉妬で目が眩みそうになる。
「チョコ、嫌いだっけ?」
目を瞬かせた裕紀に、ただ微笑んだ。
安物のチョコレートなんか口に合わない。そう言って贈った相手を貶してやりたかった。だが、「バレンタインにチョコレートもらうなんて久しぶりだよなあ」 と、嬉しそうに茶色い粒を齧る裕紀を目にして結局、なにも言えなかった。
夜中、寒さに目が覚めて窓を見ると雪がちらついていた。
2月14日、聖バレンタイン。大切な人に贈り物を渡す日。いつの頃か贈り物はチョコレートに定着した。自分のチョコレートは心の中にしまってあって、もう3つも溜まっている。
バイト先で知って一目で恋に落ちて、すぐに同じ学生寮に引っ越した。
努力の甲斐あってトントン拍子で仲良くなれて、大学生活最後の一年間は家賃と光熱費の節約を口実に同居することになった。
浮かれて舞い上がって嬉し泣きするオレに、叔父貴は白けた顔で、「無可救藥」(馬鹿につける薬は無いね)と頭を振った。痛い目を見るぞとも。
叔父貴の忠告通り、自分の浅はかさに気付くのに、そう時間はかからなかった。
好きだから一緒にいたい。無邪気な欲求が先走った同居は、残酷な現実を突きつけてきた。
息遣いも体温も、すぐ手の届くところにいる相手に愛情も欲望も高まる一方なのに、触れることすらできはしない。深夜、隣で寝息を立てる裕紀の汗の匂いに、発動する欲望を押さえることがどれだけ難しいか。
男同士だからと警戒心もなく、シャワーから素っ裸で出てきて上気した喉を晒して水を飲む。その無神経さに翻弄される男のどれだけ惨めなことか。
毎日が欲望に暴れる懊悩との戦いで頭がおかしくなりそうだった。
友情と信じて無邪気に信頼を寄せる友を、愛しいと思えば思うほど自分が壊れていった。
そんな生殺しの日々にも転機が訪れた。
裕紀に彼女が出来た。
あの日は、同居して初めてのクリスマスだった。
二人分のケーキはバイト先でもらったことにして、ホテルの限定ケーキを自分で買った。ブランディーのきいたナポレオンパイと、あまおうをふんだん使ったショートケーキ。
裕紀はいちごが好きだが、節約生活にいちごを買う余裕はない。ツリーも電飾もない夜も、2人で特別なケーキを食べれば楽しいはずだった。
日が暮れてから気温が急に下がって、雪が降り始めている。
寒いから早く帰っておいでと、雪を眺めながらひとり帰りを待つ部屋に、裕紀は女の子を伴って帰ってきた。
「バイト先で知り合った酒井亜美さん。実は、先週から付き合い始めたんだ」
裕紀のはにかみと、すっかり恋人面で小首傾げて挨拶する亜美に、横面を張られた気分だった。
裕紀のために買ったケーキを半分こしようとした裕紀に、亜美はいっこまるごと食べたいと、マスカラで大きく見せた瞳を瞬かせて強請る。
丸ごと亜美にあげようとした裕紀を制して、自分のナポレオンパイを亜美に渡した。
「あげるよ、オレはバイト先で食べたから」
「え、いいの? ホンちゃん優しいね」
誰がホンちゃんだ。
亜美は 「美味しーい」 を連発し、ナポレオンパイをあっという間に完食した。そして裕紀のケーキのあまおうをフォークで突き刺すと、呆気にとられる裕紀を横目にぱくりと口に放り込んだ。
「うふふ、だってイチゴ好きなんだもん」
上目遣いで舌を出す亜美に、裕紀は目尻を下げ、オレは軽く殺意を抱いた。
家を覚えた亜美は、それから頻繁にやって来るようになった。奥さん気取りでやたら味の濃い料理を作っては、狭いワンボックスの冷蔵庫をいっぱいにする。
そんなある日、裕紀のいない時を狙って亜美がやってきた。
「私とひろくん、卒業後に結婚しようって話してるんだ」
亜美お得意の上目遣いは、敵にとどめを刺す時の勝利を確信した愉悦にギラギラと光っていた。
「ホンちゃんの気持ちは黙っててあげるから、ひろくんは諦めて他の男の子さがしてくれないかな。中国って人口多いし、ホンちゃんの好みに合うゲイの男の子だっていっぱいいると思うよ」
眉間を押さえながら、はっきりと気付いた事があった。
この苦痛は繰り返す、ということを。
例え亜美と別れたとしても、裕紀はまた女を選ぶ。ヘテロである裕紀が、男である自分を選ぶ日は永遠にない。
別れれば終わる恋愛と違って、友情ならずっと続く。広い距離を保ちながらも延々と流れる河のように。
つまり友情という大きな河は、どこまで流れても友情のままだった。
苦しくて、切なくて、恋しくて。このままでは、いつか自分は裕紀を。自分の願望に欲望が呼応して、ぞくりと甘い毒がせり上がってくる。自分が怖くなった。恋心が拗れた破壊衝動に変わる前に逃げるしかなかった。
帰国前日の夜、穏やかな寝息を立てる裕紀の顔を何時間も眺めた。
3月 裕紀は就職の決まった会社と同じ沿線上に部屋を借り、自分は中国への帰国を決めた。裕紀の新しい転居先は空港で迷った末、携帯から消去した。
断ち切ることの出来ない想いに終止符を打つため、手に入れた自由も就職も捨て逃げた。
*********
「お前さ、いつも家でゴロゴロしてないで、週末くらい外出しろよ」
「東京の夏は湿度が高い上に、アスファルトがフライパンみたいに照り返すから嫌だ」
初夏の日差しが大理石の床に濃い影を落とす。
「もう2年目だろ、いい加減に慣れろ。大学の4年間で夏の東京の厳しさを知ってて、戻ってきたのはお前だろが」
「うるせえ」
「やっぱ、馬鹿につける薬は無えな」
ソファに寝そべった長駆がふんと不貞腐れ、もぞもぞと背中を向けた。
「お前さ、恋煩いもこう長いと女々しいだけだぞ。振られた恋なんざ忘れて、新しい恋人を作れよ。若いんだし仕事ばっかしてねえで、恋して遊んで、その若さを謳歌しろ」
「べつに振られてねえし。年中パートナーの尻に敷かれてる中年に、あれこれ言われたかないね」
向かいのソファでコロナを呷った男が口元を拭い、ムッとする。
「昔は俺の後ろばっかついて回ってた癖に、なんど可愛げのねえ奴に成長したもんだ。さては、相当溜まってんだろ」
嫌味が、ニヤついた声に変わる。こういう時、大概ろくでもないことを考えるのがこの男。叔父貴の幸田 東夷だ。
「しょうがねえな、大サービスだぞ。呼んでやるから、こっから好きなの選べ」
ソファに寝転がった顔の前にタブレットが翳される。
ずらりと並んだ顔写真と簡単なプロフィール。顔写真をクリックすると全身の写真と、もう少し詳しい情報が出てくる。
「これって、東夷がやってる、いかがわしいクラブのHPじゃん。オレに男を買えっていうのか?」
「付き合いたい相手がいないなら、こういうのもアリだろってこと。若い身空で自分で処理してばっかじゃ、寂しい限りだろうよ。たまにはこういうの利用してみてもいいんじゃねえか、俺の奢りだし」
言われてみれば一理ある。
男には定期的にすっきりさせたい、躯の事情ってものがある。
行きずりは危険が多いし、面識のある相手は関係を持つと付き合うのどうのと後々、面倒くさい事になって疲れる事が多い。金を払う相手なら、後腐れがなくていいかもしれない。
「そうだな、お薦めの子とかいる?」
身を乗り出すと、そう来なくちゃと東夷がソファの袖に座る。
「うちのボーイは容姿も性格も厳選してるから、どの子もお薦めだぜ」
「片手間で運営してるくせによく言うよ。レジデンスを2部屋もVIPルームに使って、晴人によくバレないね」
画面をスクロールしてざっと目を通す。東夷が自慢するだけあって、なかなか容姿の整った男が揃っている。
「あいつは1年の半分も日本にいないからな。来月また一週間も留守にするんだとさ。まったく俺をなんだと思ってんだろうかね」
「仕方ないだろ、そういうことわかって音楽家と付き合ってんだから」
デートクラブとカタカナで言うと小洒落て聞こえるが、つまるところは風俗だ。会員制のアルデバランのHPはグレーを基調にした上品で趣味の良いデザインで、風俗の卑猥さも後ろ暗さは微塵もない。本当にモデルでも通用しそうな男たちを、たいして熱心にでもなく眺めた。
自分の目につくのは、惚れて諦めた男に似た面影をもつ男ばかりだ。
目つき、細い鼻筋、少し尖った顎のラインが…似ているようで、よく見ると全然似ていない。
「いいか、晴人にはクラブのことを絶対に言うなよ」
「今度こそ、間違いなく捨てられるもんな……いい気味」
スクロールしかけた指が止まった。
「どれ、気になるのがいたか」
画面をタッチする指が慄えた。全身写真とプロフィールが出てくる。
繊細な顎のラインに、薄い目蓋が印象的な目。全神経が画面に喰い付くのを感じた。
司というのは源氏名だろう。 21歳 大学生 自己紹介欄は空白で、セクシャリティはヘテロ。
「21歳って」
「ああ、そいつなぁ」
ソファの袖に腰掛けた東夷がタブレットを覗き込み苦い声で語尾を伸ばす。
「やっぱわかるか、サバ読んでんだよな。ノンケ好き以外にも割りと人気ある子みたいだけど、なにせノンケだからな、お前の相手ならこっちの方が…」
クローズしようとした東夷の手をタブレットを持つ手が邪険に払った。
「紅雷?」
蒼白になった紅雷と顔を合わせた東夷の眼が大きくなった。
◀◀ 5 / 7 ▷▷
