01 ,2016
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河内に繰り返し蹴られた。あまりの痛さに呻き声も出ない。苦痛に歪む顔を、屈んだ河内の達成感に陶酔したようなが覗きこむ。こんな生き生きと澄み切った河内の目を見たことがない。
「司くん、いまから僕とデートしようよ。ね」
とても他人をいたぶっている最中の人間が発しているとは思えない、はしゃぐように弾む幼稚な物言いに恐怖が膨らんだ。
「毎日、いっぱいHしようね。司くんのために、ロープと赤いシーツ、玩具もいっぱい新調したからね」
河内の目的を知り、全身から血の気が引いた。怯え後退る足首を掴んだ河内の、反対側の手で青白い火花が弾けた。
「嬉しいよね。司くん、お返事は?」
スタンガンを構えた河内の顔は、完全に犯罪者のそれだった。ポケットから垂れ下がった手錠が、暗がりでスタンガンの火花を反射して光った。
「き…今日は、まだ予約が」
「僕の方が大事だろぉがぁーー!」
河内の絶叫が遮った
「司は耳障りのいいことばかり言って、いつも僕をいいようにあしらうんだ。もうそうはさせないぞ。司くん、本名教えてよ。どこの大学に通ってるの? 住んでるとこは? 携帯見せてよ」
ヒステリックに叫んだ河内が、地面に放ってあった鞄を取り上げた。
「やめろ!」
名刺入れやスマホの入ったサイドポケットを開けようとする河内を、無事な方の足で蹴った。鞄は河内の手を直撃し、逆上した河内が飛び掛かってきた。
「痛い、痛い痛い。僕を蹴ったな、僕はお客様なのに! 司くん僕を、蹴ったな、蹴ったな、蹴ったな」
馬乗りになり相貌をぐしゃぐしゃに崩した河内が、泣きながらスタンガンを構える。乾燥した空気の中で青白い火花がスパークし、パシッと音が鳴った。
「100万、いや300万えんあげるから。ね、だからもう店はやめて僕のものになって。他の客は取らないでぇ」
人ひとり、その程度の金で縛れると、まさか河内は本気でそう思っているのだろうか。
大した能力もないくせに、他人の稼いだ金で当然のように自分の欲情まで買おうする。いい歳して、世間知らずで稚拙な男に虫唾が走った。
「お前なんか一億積まれたって、お断りだ! その汚い尻をさっさと退かせろっ」
脇腹に感じた鋭い痛みに全身が撥ねた。
痛みに耐えながら、胸の上に馬乗りになった河内の拳で腹を殴ると、今度は露出した首筋にスタンガンがあてられた。
「あんた、なにやってんだ!」
気が遠くなりかけたところで、河内の体重が急に消え呼吸が戻ってきた。
咳き込みながら上半身を起こして息を整える耳に、弾力のある厚い肉を殴る重い音が2度聞こえてきた。
「痛い、痛い、やめて、やめてくれ! ひいぃぃ!」
痺れる項を押さえながら頭を上げると、ビジネスマン風の若い男が河内を殴りつけている。たった2発のパンチで地面に沈んだ河内の顔は、涙と鼻血でぐしゃぐしゃだった。
「待って、待ってくれ。誤解だ。僕は彼と付き合っているんだ。些細な内輪揉めに首を突っ込んできたのはそっちの方だろっ! ね、司くんもなんか言って……」
「あんた些細な内輪揉めで、スタンガンや手錠を使うのか、え?」
地面に落ちたスタンガンを革靴の踵で踏み割り、背の高い男が泣きじゃくる河内の胸ぐらを掴んで持ち上げる。背は低いが河内は小太りな分体重もかなりある。呆気にとられる自分に男は警察に突き出すかと訊いてきた。
逆光でよく見えないが、すっと通った鼻梁が窺える。かなり整った顔の男のようだ。
「警察はいいです」 男に襲われて、男に助けられるとか、まったく勘弁してほしい。
警察に根掘り葉掘り訊かれて都合が悪いのは、会社に隠れてデートクラブで働く自分も同じだ。
ふんと鼻息を飛ばした男が手を離すと、河内が地面に転げ落ちて、よろよろと近寄ってくる。それに男が 「DVで警察呼ぶぞ!」 と恫喝を入れると、河内は飛び上がって逃げだした。男が忘れ物だと怒鳴って、その背中に地面に落ちていた手錠を投げつける。悲鳴を上げたものの、河内は振り向きもせず逃げていった。
楠の枝葉を揺らしたゆるい風が、痺れの残る首や頬を撫でた。
「あんた、大丈夫か?」
目の前に形の良い手を差し出され、不本意に思いつも立たせてもらう。
「危ない仕事するなら、ちゃんと客は選んだほうがいいぞ」
どうやら100万、300万の件も聞かれていたらしい。まったく、踏んだり蹴ったりだ。
びっこを引きながら、男について公園のプロムナードに出た。街路灯の下で見ると、自分のスーツは泥だらけで、無惨に破れた膝には血がこびり付いている。河内への激しい怒りが込み上げた。弁償させたいところだが、もう顔を見るのも声を聞くのもご免だ。
「痛そうだな、ひとりで帰れそうか?」
「大丈夫です。危ないところを、ありがとうございました」
公園の出口はすぐそこだ。背の高い男となるべく顔を合わせないように深く頭を下げ、踵を返した。
「裕紀 (ひろき)?」
久しぶりに呼ばれた下の名前に足が止まった。
「束原 裕紀だろ」
男の声が懐かしい友の声になり、4年という時間の尺が巻き戻される。
向けた背中を急速に蝕み始めた羞恥が、脚を震えさせた。
「あぶない!」
足を前に踏み込んだ膝に激痛が走った。バランスを崩した躯を、後ろから伸びた腕が支える。
「その膝で、いきなり走ったら危ないって」
涼やかな目許に人懐こい笑みを浮かべ、正面に回りこんだ男は裕紀の逃走を阻んだ。
「紅雷……、お前は中国に帰ったんじゃなかったのか」
「誰が大学生だって? 4歳もサバ読むなんて詐欺だよな」
ビールを飲み干した男が呆れた声で言う。
半個室が売りの居酒屋は、程よく混んでいて会話が他の席に訊かれることもない。
「しかもツカサくんって、誰だよ」
「蒸し返すな、マジで殴るぞ」
「おねえさ~ん、焼き鳥の盛り合わせと紹興酒ちょうだーいアル」
通路にひょいと顔を出し、通りかかったバイトの女の子に訛りのない日本語で注文し、最後におふざけをつける。
汪 紅雷 (ワン ホンレイ)は中国人で、大学時代の友人だった。
中国人留学生と、地方から出てきて奨学金で通う学生。大学は違ったがバイトが同じで、ぎこちない日本語とさり気に目を引く整った風貌で印象には残っていた。あっという間にバイトをやめた紅雷が偶然、裕紀のアパートに越してきたことで、話すようになってすぐに意気投合した。
「借金返済の目処が立てば、すぐに辞めるつもりなんだから」
お互い年中金欠で、節約するため卒業までの最後の一年間を、狭い1DKで同居した仲だ。
あの頃の栄養源が、紅雷が中華料理屋のバイト先から貰ってくる賄いの残り物だったといっても過言ではない。今日の自分があるのはある意味、紅雷の賄いのお陰でもある。
そんな過去もあるがゆえ、嬉しくない紅雷との邂逅を我慢して居酒屋の椅子に留まっている。
「奨学金の返済って、そんなに大変なのか? 俺ら外国人には給付型の奨学金や生活費まで出してくれるのに、自国の学生からは利子まで取るとか。なんか歪だな、日本って国は」
「財政難だからな。実際、若者には厳しい時代だよ」
自分だってこの不条理に納得しているわけではないが、銀行の引き落としを諦観の境地で眺めることにも、もう慣れてしまった。
焼き鳥を串から外した紅雷が、もも肉と葱、つくね、軟骨を裕紀の取り皿に選り分けてくれる。とり皮と肝は苦手だ。
「よく覚えてんな」 と呟くと、紅雷は得意そうに男っぽい端正な顔をドヤ顔にしてニッと笑った。

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河内に繰り返し蹴られた。あまりの痛さに呻き声も出ない。苦痛に歪む顔を、屈んだ河内の達成感に陶酔したようなが覗きこむ。こんな生き生きと澄み切った河内の目を見たことがない。
「司くん、いまから僕とデートしようよ。ね」
とても他人をいたぶっている最中の人間が発しているとは思えない、はしゃぐように弾む幼稚な物言いに恐怖が膨らんだ。
「毎日、いっぱいHしようね。司くんのために、ロープと赤いシーツ、玩具もいっぱい新調したからね」
河内の目的を知り、全身から血の気が引いた。怯え後退る足首を掴んだ河内の、反対側の手で青白い火花が弾けた。
「嬉しいよね。司くん、お返事は?」
スタンガンを構えた河内の顔は、完全に犯罪者のそれだった。ポケットから垂れ下がった手錠が、暗がりでスタンガンの火花を反射して光った。
「き…今日は、まだ予約が」
「僕の方が大事だろぉがぁーー!」
河内の絶叫が遮った
「司は耳障りのいいことばかり言って、いつも僕をいいようにあしらうんだ。もうそうはさせないぞ。司くん、本名教えてよ。どこの大学に通ってるの? 住んでるとこは? 携帯見せてよ」
ヒステリックに叫んだ河内が、地面に放ってあった鞄を取り上げた。
「やめろ!」
名刺入れやスマホの入ったサイドポケットを開けようとする河内を、無事な方の足で蹴った。鞄は河内の手を直撃し、逆上した河内が飛び掛かってきた。
「痛い、痛い痛い。僕を蹴ったな、僕はお客様なのに! 司くん僕を、蹴ったな、蹴ったな、蹴ったな」
馬乗りになり相貌をぐしゃぐしゃに崩した河内が、泣きながらスタンガンを構える。乾燥した空気の中で青白い火花がスパークし、パシッと音が鳴った。
「100万、いや300万えんあげるから。ね、だからもう店はやめて僕のものになって。他の客は取らないでぇ」
人ひとり、その程度の金で縛れると、まさか河内は本気でそう思っているのだろうか。
大した能力もないくせに、他人の稼いだ金で当然のように自分の欲情まで買おうする。いい歳して、世間知らずで稚拙な男に虫唾が走った。
「お前なんか一億積まれたって、お断りだ! その汚い尻をさっさと退かせろっ」
脇腹に感じた鋭い痛みに全身が撥ねた。
痛みに耐えながら、胸の上に馬乗りになった河内の拳で腹を殴ると、今度は露出した首筋にスタンガンがあてられた。
「あんた、なにやってんだ!」
気が遠くなりかけたところで、河内の体重が急に消え呼吸が戻ってきた。
咳き込みながら上半身を起こして息を整える耳に、弾力のある厚い肉を殴る重い音が2度聞こえてきた。
「痛い、痛い、やめて、やめてくれ! ひいぃぃ!」
痺れる項を押さえながら頭を上げると、ビジネスマン風の若い男が河内を殴りつけている。たった2発のパンチで地面に沈んだ河内の顔は、涙と鼻血でぐしゃぐしゃだった。
「待って、待ってくれ。誤解だ。僕は彼と付き合っているんだ。些細な内輪揉めに首を突っ込んできたのはそっちの方だろっ! ね、司くんもなんか言って……」
「あんた些細な内輪揉めで、スタンガンや手錠を使うのか、え?」
地面に落ちたスタンガンを革靴の踵で踏み割り、背の高い男が泣きじゃくる河内の胸ぐらを掴んで持ち上げる。背は低いが河内は小太りな分体重もかなりある。呆気にとられる自分に男は警察に突き出すかと訊いてきた。
逆光でよく見えないが、すっと通った鼻梁が窺える。かなり整った顔の男のようだ。
「警察はいいです」 男に襲われて、男に助けられるとか、まったく勘弁してほしい。
警察に根掘り葉掘り訊かれて都合が悪いのは、会社に隠れてデートクラブで働く自分も同じだ。
ふんと鼻息を飛ばした男が手を離すと、河内が地面に転げ落ちて、よろよろと近寄ってくる。それに男が 「DVで警察呼ぶぞ!」 と恫喝を入れると、河内は飛び上がって逃げだした。男が忘れ物だと怒鳴って、その背中に地面に落ちていた手錠を投げつける。悲鳴を上げたものの、河内は振り向きもせず逃げていった。
楠の枝葉を揺らしたゆるい風が、痺れの残る首や頬を撫でた。
「あんた、大丈夫か?」
目の前に形の良い手を差し出され、不本意に思いつも立たせてもらう。
「危ない仕事するなら、ちゃんと客は選んだほうがいいぞ」
どうやら100万、300万の件も聞かれていたらしい。まったく、踏んだり蹴ったりだ。
びっこを引きながら、男について公園のプロムナードに出た。街路灯の下で見ると、自分のスーツは泥だらけで、無惨に破れた膝には血がこびり付いている。河内への激しい怒りが込み上げた。弁償させたいところだが、もう顔を見るのも声を聞くのもご免だ。
「痛そうだな、ひとりで帰れそうか?」
「大丈夫です。危ないところを、ありがとうございました」
公園の出口はすぐそこだ。背の高い男となるべく顔を合わせないように深く頭を下げ、踵を返した。
「裕紀 (ひろき)?」
久しぶりに呼ばれた下の名前に足が止まった。
「束原 裕紀だろ」
男の声が懐かしい友の声になり、4年という時間の尺が巻き戻される。
向けた背中を急速に蝕み始めた羞恥が、脚を震えさせた。
「あぶない!」
足を前に踏み込んだ膝に激痛が走った。バランスを崩した躯を、後ろから伸びた腕が支える。
「その膝で、いきなり走ったら危ないって」
涼やかな目許に人懐こい笑みを浮かべ、正面に回りこんだ男は裕紀の逃走を阻んだ。
「紅雷……、お前は中国に帰ったんじゃなかったのか」
「誰が大学生だって? 4歳もサバ読むなんて詐欺だよな」
ビールを飲み干した男が呆れた声で言う。
半個室が売りの居酒屋は、程よく混んでいて会話が他の席に訊かれることもない。
「しかもツカサくんって、誰だよ」
「蒸し返すな、マジで殴るぞ」
「おねえさ~ん、焼き鳥の盛り合わせと紹興酒ちょうだーいアル」
通路にひょいと顔を出し、通りかかったバイトの女の子に訛りのない日本語で注文し、最後におふざけをつける。
汪 紅雷 (ワン ホンレイ)は中国人で、大学時代の友人だった。
中国人留学生と、地方から出てきて奨学金で通う学生。大学は違ったがバイトが同じで、ぎこちない日本語とさり気に目を引く整った風貌で印象には残っていた。あっという間にバイトをやめた紅雷が偶然、裕紀のアパートに越してきたことで、話すようになってすぐに意気投合した。
「借金返済の目処が立てば、すぐに辞めるつもりなんだから」
お互い年中金欠で、節約するため卒業までの最後の一年間を、狭い1DKで同居した仲だ。
あの頃の栄養源が、紅雷が中華料理屋のバイト先から貰ってくる賄いの残り物だったといっても過言ではない。今日の自分があるのはある意味、紅雷の賄いのお陰でもある。
そんな過去もあるがゆえ、嬉しくない紅雷との邂逅を我慢して居酒屋の椅子に留まっている。
「奨学金の返済って、そんなに大変なのか? 俺ら外国人には給付型の奨学金や生活費まで出してくれるのに、自国の学生からは利子まで取るとか。なんか歪だな、日本って国は」
「財政難だからな。実際、若者には厳しい時代だよ」
自分だってこの不条理に納得しているわけではないが、銀行の引き落としを諦観の境地で眺めることにも、もう慣れてしまった。
焼き鳥を串から外した紅雷が、もも肉と葱、つくね、軟骨を裕紀の取り皿に選り分けてくれる。とり皮と肝は苦手だ。
「よく覚えてんな」 と呟くと、紅雷は得意そうに男っぽい端正な顔をドヤ顔にしてニッと笑った。

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