06 ,2013
なべて世はこともなし 木曜日
「あの、オレはもう……」
「そんなこと言わずに、俺の独立祝いだと思って付き合えよ」
薄いグラスに赤ワインが注がれるのを、淳明は半ば諦めの面持ちで眺めた。
「櫻井さんの独立祝いは、ちゃんと企画していますよ。矢沢さんが張り切ってて、北野町の店を予約したそうです」
「それはそれ、これはこれだろう。前から、お前を一度ここに連れてきてやりたいと思っていたんだ」
迫る山と海に挟まれた港の町の夜は、遙か東の彼方にまで長く長く光の絨毯が続いていく。天の川を思わせる光の連なりの中心に君臨するように、櫻井の連れてきてくれたバーはあった。
「こんないい店に連れてきてもらえて、光栄です」
シックだが構えすぎない設え、やりすぎないアレンジが心地良いジャズ。金銭的なだけでなく、精神的にも余裕のある大人の選ぶ店だと、淳明は向かいに座る男に笑い返しながら思う。
「山下なら、すぐこういう店が似合う男になれるさ。ま、俺の下に付けばの話、だがな」
櫻井の言葉に、淳明の笑みは困ったように弱くなった。
「先日も言いましたけれど、オレはもう少し今の会社で頑張るつもりですよ。でも、いままで櫻井さんの下につけて、オレは本当によかったと思います」
「そうか。手塩にかけて育てた山下にそう言われると、嬉しいね」
手塩にかけて育てた―― 櫻井には仕事のイロハから教えてもらった。櫻井は淳明の能力を買い、独立時の戦力になると認めたからこそ、淳明に目をかけてくれたのだ。
そう思うと、なんとも居た堪れない気持ちになる。
「そんな申し訳無さそうな顔をするな。お前の意志以外にも、どこぞの洟垂れ小僧の強力プッシュが掛かってんだろ? あいつの事だ。お前に、泣いて縋りでもしたんじゃないのか?」
ワインを口に運んだまま淳明は固まり、目を瞬かせた。
「その顔は、図星だな」
櫻井はクっと口角を上げ意地の悪そうな笑みを浮かべる。そして腕時計をちらりと見て 「まだ宵の口だな、ちょっと付き合え」 と言ってきた。
『飲みに連れて行ってやるから、神戸まで来い』
この日、残業していた淳明の携帯に、定時で会社を出た櫻井から電話が入ったのは午後の8時も過ぎた頃だった。
はじめは見覚えのない番号に首を傾げが、スピーカー越しの声を聞いて、前夜、設楽への憤怒を渦巻かせながら眺めた、櫻井のプライベートナンバーだったことを思い出した。
櫻井は設樂の叔父であり、ゲイだ。ゲイで、おまけに淳明がタイプだという。設樂から教えられ、戸惑いがないわけではなかったが、尊敬する上司の退職ははやり寂しい。そう思ったから来た。
決して、決―っして、設樂の浮気に対する当て擦りなどではない。
昨夜見かけた設楽の浮気の相手は、綺麗な顔をした華奢な男だった。
潮風がすれ違う男の柔らかそうな髪と、軽く羽織ったシャツを煽るのがスローモーションのように、何度も頭の中で再生される。薄羽を透かすような儚げで美しい男。
エレベーターの中で握った拳に爪が食い込む。
(お前のドンピシャな好みは、オレなんちゃうんかい!?)
「山下、この階だ降りろ」
先にエレベーターを降りた櫻井が、振り返って口角をクイッと広げて笑う。
「そんな熱っぽい目で凝視められると、故意にでも勘違いしたくなるな」
「は?」
あの甥に、この叔父アリ。 タラシの血統か?
七年前、熱烈にモーションを仕掛けてきたのは大学で一緒になった設樂の方だ。元々ゲイでもなんでもなく、「真っ当」な人生を歩んできた淳明は、それなりに女の子にももて、それなりに順調に青春していた。
それを設樂は、五年間というマダルコシイ年月をかけて、淳明を自分に夢中にさせた。
(自分から言い寄ってきたくせに。付き合ってくれって、泣いて土下座して頼んできたくせに!)
昨夜のことを考えれば考える程、拳は慄え、腸が煮え返ってくる。
設楽に告白された当時、男同士という関係を信じられなかった自分。当時の感情が、設樂によって葬られたはずの懐疑的な感情が淳明の中で息吹を吹き返す。
一線を越えた自分には、もう設楽しか見えない。でも根っからのゲイである設樂には、世の中の半分が恋愛対象になる。よく失恋した奴を慰める時に使う 「男は(女は)アイツだけじゃない。世界の半分は……」 という、微妙に無責任に聞こえるアレだ。
付き合いだしてからの二年、自分はずっと心のどこかで設樂の心変わりを怖れていた。
設楽を好きになればなるほど、愛しいと思えば思うほど、怯えや焦燥が大きくなる。設楽に同棲を強請られても、踏み切れないのもそのせいだ。
全てを明け渡して、手放しで愛した恋人に捨てられたら。
そんなことになったら、オレは――。
「山下、小僧に泣かされるようなことをされたのか?」
指先で頬を拭われる感触に我に返った。
直ぐ目の前にある櫻井の顔に驚き、タイルカーペットの床を後ずさった。
十一時も近いオフィスはしんと静まり返り、明かりも付いていない。バーからよりやや低い位置から見える夜景が右手の窓いっぱいに広がり、櫻井の顔半分に仄昏い影を落とす。
どうして、櫻井は明かりを付けないのだろうか?
「ヤマシタ」 後ずさった淳明を追うように、櫻井がゆっくり間合いを詰める。薄く開いた櫻井の唇から目が離せない。
「気付いてたか? 今日一日、お前はずっと泣きそうな顔をしていた」
思わず顔に手をやる。指を濡らす自分の涙に驚いた。
「お前、可愛すぎだ」
設楽も同じセリフを言っていた。これも血統のなせる技か。
櫻井は暗がりの中で苦笑し引き下がると、慣れた仕草で周囲に目を走らせ煙草を咥えた。
「やれやれ、託卵されたことに気付かず一生懸命育てた可愛い雛を、まだ毛も生え揃ってない馬鹿鳥に掻っ攫われた気分だな。あー、ライターはどこだ?」
「櫻井さん」
ライター求めてデスクの周辺を探し回るその背中に声を掛けると、櫻井は「はん?」と返事を返してくる。
「オレ、女に走ります」
ばっと半身振り返った櫻井の口から、ぽろりと煙草が落ちた。
一呼吸おいて、背後のドアの辺りでブーッと噴出すような音が鳴り、続いてゲラゲラという大きな笑い声がして驚いた。暗かったオフィスに煌々と明かりがつき、櫻井と淳明は同時に照明のスイッチに手を伸ばしながら笑い続ける男を見た。
「失礼。あまりに馬鹿馬鹿しい上に、なお且つ斬新なセリフだったんで、思わず吹き出してしまいました」
<2>
サイドできっちり分けた髪、リムレスフレームの奥の目は鋭く、端正な顔の口元は冷笑に歪んでいる。スーツのトラウザーに片手を突っ込んだ男は、明るくなったオフィスを軽い足取りで歩いてきた。決まりすぎた動作が、まるっぽ嫌味に見える。
男は、櫻井の煙草を拾うと見せつけるように半分に千切り、ゴミ箱に放り込む。そして苦虫を噛み潰したような顔の櫻井を見、背中が薄寒くなるような酷薄な微笑を浮かべた。
「櫻井、ここでの煙草は厳禁。だよな?」 声は柔らかいが、温かみはまったくない。
厄介な奴に出くわした。櫻井はそんな顔で前髪を雑に掻き揚げ、息を吐いた。
「山下、この男は俺の共同経営者の立川明人だ。おい明人、俺のライターを隠したのはお前だな。どこへやった?」
「隠す? 櫻井、俺がそんなヌルい事するわけ無いだろう」
笑顔が冷たすぎて怖い。
「まさか、捨てたのか?」
「ふふ…、二十七個きっちりとな。それより君、昨日は挨拶もなしで悪かったね」
立川は淳明に向き直り、打って変わった笑顔を向ける。悪魔の冷笑を見てしまった後では、怒られるより笑われた方が百倍怖い。こんな物騒な男と一度会ったら、忘れるわけがない。
「すみません、どちらでお会いしたか思い出せないんですが」
立川はニヤリと笑ってメガネを外し、セットした髪型を差し込んだ指で崩した。現れた儚げな美貌に淳明は刮目する。
「明人、どういうことだ?」
明人、アキト……そういえばそんな名前だった。
「別に。シンジが新しいの教えて欲しいって言うから、マンションまで行ったんだけど、帰りにこの彼とすれ違ったんだ」
「新しいのって……?」
櫻井の顔がウンザリするのに反して、立川は思わせぶりにただでさえ黒い笑みを真っ黒けにして笑う。切れ長の目も、整った鼻梁や唇のラインも。華奢で綺麗な分だけ、立川の黒い輝きは増していくようだった。
「わかっているのに聞くかね。まあいいや。それより君……山下くんだっけ。今更、本気でノンケに戻れると思っていると?」
いきなり切り込まれて、淳明はぐっと言葉に詰まった。
「戻れるなら、大いに結構。大歓迎だけどね、僕は」
「お前、何いってんだ? 山下はいま坊主と付き合ってんだそ」
「どこのタラシの口が言う? お前だって、下心があってここに連れ込んだんだろうが。お前が平気でそういう態度を取るんだから、お前と似たその甥をと、僕が普通に考えても悪くないよな」
淳明に激震が走った。全く普通でない論理に、淳明と同じく愕然と立ち竦んだ櫻井を、立川は愛でるように見たあと、淳明に冷ややかな視線を向けてきた。
立川は設楽狙い。ということは、浮気は未遂?
「幸い、僕はゲイです。しかも君も知らないシンジの特別な趣向も共有できる」
淳明は、怒りも露骨に立川を睨んだ。
「特別な趣向って、どういうことですか?」
三人の間に空々しい空気が垂れ篭める。本当は知っているのにみんなで知らないふりをしている。そんな空気だ。
本当に自分は知らないだろうか?頭の中をそっと手探りして、開けようとするとイヤイヤをする黒い蓋がある。蓋はどうしてか、黒い革製のブレスレットの形をしていた。
「所詮、凡人には理解できない同族の絆というものが、僕達の間にはあるのですよ」
「誰が凡人だ? 勝手に凡人にするな。お前らが超絶非凡人なだけだろうが」
「お黙り、凡人。じゃあ櫻井が僕の趣向に付き合ってくれるとでも?」
艶を帯びた立川の視線が横目で撫でた瞬間、ビジネス百戦錬磨の櫻井がピタリと貝になる。
立川明人、怖ろしい男だ。
クツクツと余裕の表情で笑い、設樂と特別を共有すると言い切った立川に猛烈に怒りが湧いてきた。
自分以外の人間が設楽と共有する特別。そんな特別、認められるわけがない。
言い寄られて五年、付き合って二年。今更こんな猟奇的で凶器みたいな男に、設楽を渡せない。
「どう特別なのか、そんなものは聞いてみないとわからないじゃないですか」
立川の目の端がギラ―ンと光る。
「ふぅん、受け止める覚悟はあると? じゃ本人から直接、聞けばいい。ほらどうぞ」
立川の指差す方向を見た淳明の目が点になる。
映画のシーンのパロディみたいに、涙と洟水でグチャグチャに濡れた顔を新品のガラスに貼り付けて設楽が立っていた。
「……後でガラス拭けよな」
気の抜けた声で櫻井が独りごちる。
立川の手招きで中に入ってきた設樂は、涙に濡れて赤くなった目で櫻井を睨んだ。
「睨むな真治、俺は“未だ”潔白だ。大体、なんでお前までこんなところにいるんだ」
「下心をたんまり抱えながら若人の相談に乗っていたのは、櫻井だけじゃないってことさ。さて、シンジどうする? お前のツレ、ノンケに戻るってさ」
いやいや、それは設楽が立川と浮気をしていたと思ったからで、今はそんなつもりも気持ちも微塵もない。ただ、立川とは共有できて、自分とは出来ないものがあることがすごく悔しい。
「設樂、オレは……」
とにかく浮気を疑った事を謝ろうとした淳明の前で、いきなり設楽が土下座した。
「アツ、ごめん! アキトとはほんまなんでもないねん。出会ってから九年前。俺にはアツしかおらへん。それだけは信じてくれっ」
「その純情ダイレクトな言い回し、何気にムカつくな」
設楽の告白に、腕組した立川が半眼で見下ろしながらムッとする。設樂のマンションで見た時は儚げな印象だったが、目の前にいる立川はかなり自己中で傲慢なタイプに見える。年齢不詳、誰の味方なのかもよくわからない。ただ、櫻井とは共同経営者という以外に、ただならぬ関係ではあるようだ。
「オレこそ事情も聞かずに悪かった。とりあえず、浮気の嫌疑は晴れたし、それはもうええから」
淳明は屈み、設樂の顔を覗きこんだ。関西弁に戻した淳明に、「いいね」と呟いた櫻井に設楽がガンを飛ばす。
その顔をそっと挟んで自分に向けさせ、淳明は続けた。
「だから設樂、説明してほしいねん。浮気やなかったんやったら、設樂は立川さんとはベッドで何してたんや?」
うぅ……? 手の間で呻いたまま固まる設楽に、淳明の顔から不意に柔らかさが消えた。口調だけは、穏やかに設樂への自白を強要する。
「なに聞いても怒らんから。設樂は立川さんから一体、何を教わってたんや?」
立川とは出来て自分とは出来ない秘密。そんな秘密の存在など、許してたまるか。
「うううぅぅ……」
呻くばかりで、顔中に脂汗を吹き出させた設樂に、淳明の苛々が膨らんでゆく。
「だから、昨日の如何にもヤリましたって感じの、アレは一体なんやったんやって訊いてるんや、オレはっ!?」
徐々に声にドスが篭っていく淳明の声に、立川が短く口笛を吹く。
「うわぁ、赤裸々。関西弁って普段は可愛いのに、ドスが入るといい感じで脅せて便利だねえ」
嬉しくもない感想に立川は付け足した。
「シンジさ、もういい加減吐いちまえば? このままじゃお前だって欲求不満で、山下君じゃもの足りなくなるのは必至だろ。あ……これは、失礼」
ギッと睨む淳明の視線と、「アキト!」という二人分の叱責と叱咤を、立川は同時に掌で跳ね返す。
「設樂……っ」
淳明の呼びかけに、設楽は観念したようにがっくり肩を落として項垂れた。
愛しい男の哀れな姿に哀憫の情が湧く。が、これからの自分たちのためにも、「なあなあ」にしてはいけない。淳明は心を鬼にした。
「……の……してました」 設樂は口の中で言い篭る。
「聞こえへん! 二人で何してたんや? いい大人がモゴモゴ口篭らんと、もっとはっきり言えやっ」
設楽が目を閉じ、鼻孔を開いておもいっきり肺に息を送り込んだ。
「緊縛のお稽古してましたっ。 ごめんなさいっっ!!」
渾身の激白と同時に土下座し、ひれ伏した設樂の後頭部を見ながら、淳明の頭の中は真っ白になった。
満員の終電に揺られる身体は脱力して、なんだか足が痛い。
ああそうだ、設樂に蹴りを入れたんだった。設樂がオレを縛らせてくれと言ったその直後に。
吊革につかまり、淳明は重い溜息をついた。
愛が勝つか、常識が勝つか。車窓の外を、きらきらの街の光が流れてゆく。
< 水曜日 金曜日 >>

◆ なべて世はこともなし ◆
※こちらは『卯月屋文庫』にての公開になり、別窓で開きます。
「あの、オレはもう……」
「そんなこと言わずに、俺の独立祝いだと思って付き合えよ」
薄いグラスに赤ワインが注がれるのを、淳明は半ば諦めの面持ちで眺めた。
「櫻井さんの独立祝いは、ちゃんと企画していますよ。矢沢さんが張り切ってて、北野町の店を予約したそうです」
「それはそれ、これはこれだろう。前から、お前を一度ここに連れてきてやりたいと思っていたんだ」
迫る山と海に挟まれた港の町の夜は、遙か東の彼方にまで長く長く光の絨毯が続いていく。天の川を思わせる光の連なりの中心に君臨するように、櫻井の連れてきてくれたバーはあった。
「こんないい店に連れてきてもらえて、光栄です」
シックだが構えすぎない設え、やりすぎないアレンジが心地良いジャズ。金銭的なだけでなく、精神的にも余裕のある大人の選ぶ店だと、淳明は向かいに座る男に笑い返しながら思う。
「山下なら、すぐこういう店が似合う男になれるさ。ま、俺の下に付けばの話、だがな」
櫻井の言葉に、淳明の笑みは困ったように弱くなった。
「先日も言いましたけれど、オレはもう少し今の会社で頑張るつもりですよ。でも、いままで櫻井さんの下につけて、オレは本当によかったと思います」
「そうか。手塩にかけて育てた山下にそう言われると、嬉しいね」
手塩にかけて育てた―― 櫻井には仕事のイロハから教えてもらった。櫻井は淳明の能力を買い、独立時の戦力になると認めたからこそ、淳明に目をかけてくれたのだ。
そう思うと、なんとも居た堪れない気持ちになる。
「そんな申し訳無さそうな顔をするな。お前の意志以外にも、どこぞの洟垂れ小僧の強力プッシュが掛かってんだろ? あいつの事だ。お前に、泣いて縋りでもしたんじゃないのか?」
ワインを口に運んだまま淳明は固まり、目を瞬かせた。
「その顔は、図星だな」
櫻井はクっと口角を上げ意地の悪そうな笑みを浮かべる。そして腕時計をちらりと見て 「まだ宵の口だな、ちょっと付き合え」 と言ってきた。
『飲みに連れて行ってやるから、神戸まで来い』
この日、残業していた淳明の携帯に、定時で会社を出た櫻井から電話が入ったのは午後の8時も過ぎた頃だった。
はじめは見覚えのない番号に首を傾げが、スピーカー越しの声を聞いて、前夜、設楽への憤怒を渦巻かせながら眺めた、櫻井のプライベートナンバーだったことを思い出した。
櫻井は設樂の叔父であり、ゲイだ。ゲイで、おまけに淳明がタイプだという。設樂から教えられ、戸惑いがないわけではなかったが、尊敬する上司の退職ははやり寂しい。そう思ったから来た。
決して、決―っして、設樂の浮気に対する当て擦りなどではない。
昨夜見かけた設楽の浮気の相手は、綺麗な顔をした華奢な男だった。
潮風がすれ違う男の柔らかそうな髪と、軽く羽織ったシャツを煽るのがスローモーションのように、何度も頭の中で再生される。薄羽を透かすような儚げで美しい男。
エレベーターの中で握った拳に爪が食い込む。
(お前のドンピシャな好みは、オレなんちゃうんかい!?)
「山下、この階だ降りろ」
先にエレベーターを降りた櫻井が、振り返って口角をクイッと広げて笑う。
「そんな熱っぽい目で凝視められると、故意にでも勘違いしたくなるな」
「は?」
あの甥に、この叔父アリ。 タラシの血統か?
七年前、熱烈にモーションを仕掛けてきたのは大学で一緒になった設樂の方だ。元々ゲイでもなんでもなく、「真っ当」な人生を歩んできた淳明は、それなりに女の子にももて、それなりに順調に青春していた。
それを設樂は、五年間というマダルコシイ年月をかけて、淳明を自分に夢中にさせた。
(自分から言い寄ってきたくせに。付き合ってくれって、泣いて土下座して頼んできたくせに!)
昨夜のことを考えれば考える程、拳は慄え、腸が煮え返ってくる。
設楽に告白された当時、男同士という関係を信じられなかった自分。当時の感情が、設樂によって葬られたはずの懐疑的な感情が淳明の中で息吹を吹き返す。
一線を越えた自分には、もう設楽しか見えない。でも根っからのゲイである設樂には、世の中の半分が恋愛対象になる。よく失恋した奴を慰める時に使う 「男は(女は)アイツだけじゃない。世界の半分は……」 という、微妙に無責任に聞こえるアレだ。
付き合いだしてからの二年、自分はずっと心のどこかで設樂の心変わりを怖れていた。
設楽を好きになればなるほど、愛しいと思えば思うほど、怯えや焦燥が大きくなる。設楽に同棲を強請られても、踏み切れないのもそのせいだ。
全てを明け渡して、手放しで愛した恋人に捨てられたら。
そんなことになったら、オレは――。
「山下、小僧に泣かされるようなことをされたのか?」
指先で頬を拭われる感触に我に返った。
直ぐ目の前にある櫻井の顔に驚き、タイルカーペットの床を後ずさった。
十一時も近いオフィスはしんと静まり返り、明かりも付いていない。バーからよりやや低い位置から見える夜景が右手の窓いっぱいに広がり、櫻井の顔半分に仄昏い影を落とす。
どうして、櫻井は明かりを付けないのだろうか?
「ヤマシタ」 後ずさった淳明を追うように、櫻井がゆっくり間合いを詰める。薄く開いた櫻井の唇から目が離せない。
「気付いてたか? 今日一日、お前はずっと泣きそうな顔をしていた」
思わず顔に手をやる。指を濡らす自分の涙に驚いた。
「お前、可愛すぎだ」
設楽も同じセリフを言っていた。これも血統のなせる技か。
櫻井は暗がりの中で苦笑し引き下がると、慣れた仕草で周囲に目を走らせ煙草を咥えた。
「やれやれ、託卵されたことに気付かず一生懸命育てた可愛い雛を、まだ毛も生え揃ってない馬鹿鳥に掻っ攫われた気分だな。あー、ライターはどこだ?」
「櫻井さん」
ライター求めてデスクの周辺を探し回るその背中に声を掛けると、櫻井は「はん?」と返事を返してくる。
「オレ、女に走ります」
ばっと半身振り返った櫻井の口から、ぽろりと煙草が落ちた。
一呼吸おいて、背後のドアの辺りでブーッと噴出すような音が鳴り、続いてゲラゲラという大きな笑い声がして驚いた。暗かったオフィスに煌々と明かりがつき、櫻井と淳明は同時に照明のスイッチに手を伸ばしながら笑い続ける男を見た。
「失礼。あまりに馬鹿馬鹿しい上に、なお且つ斬新なセリフだったんで、思わず吹き出してしまいました」
<2>
サイドできっちり分けた髪、リムレスフレームの奥の目は鋭く、端正な顔の口元は冷笑に歪んでいる。スーツのトラウザーに片手を突っ込んだ男は、明るくなったオフィスを軽い足取りで歩いてきた。決まりすぎた動作が、まるっぽ嫌味に見える。
男は、櫻井の煙草を拾うと見せつけるように半分に千切り、ゴミ箱に放り込む。そして苦虫を噛み潰したような顔の櫻井を見、背中が薄寒くなるような酷薄な微笑を浮かべた。
「櫻井、ここでの煙草は厳禁。だよな?」 声は柔らかいが、温かみはまったくない。
厄介な奴に出くわした。櫻井はそんな顔で前髪を雑に掻き揚げ、息を吐いた。
「山下、この男は俺の共同経営者の立川明人だ。おい明人、俺のライターを隠したのはお前だな。どこへやった?」
「隠す? 櫻井、俺がそんなヌルい事するわけ無いだろう」
笑顔が冷たすぎて怖い。
「まさか、捨てたのか?」
「ふふ…、二十七個きっちりとな。それより君、昨日は挨拶もなしで悪かったね」
立川は淳明に向き直り、打って変わった笑顔を向ける。悪魔の冷笑を見てしまった後では、怒られるより笑われた方が百倍怖い。こんな物騒な男と一度会ったら、忘れるわけがない。
「すみません、どちらでお会いしたか思い出せないんですが」
立川はニヤリと笑ってメガネを外し、セットした髪型を差し込んだ指で崩した。現れた儚げな美貌に淳明は刮目する。
「明人、どういうことだ?」
明人、アキト……そういえばそんな名前だった。
「別に。シンジが新しいの教えて欲しいって言うから、マンションまで行ったんだけど、帰りにこの彼とすれ違ったんだ」
「新しいのって……?」
櫻井の顔がウンザリするのに反して、立川は思わせぶりにただでさえ黒い笑みを真っ黒けにして笑う。切れ長の目も、整った鼻梁や唇のラインも。華奢で綺麗な分だけ、立川の黒い輝きは増していくようだった。
「わかっているのに聞くかね。まあいいや。それより君……山下くんだっけ。今更、本気でノンケに戻れると思っていると?」
いきなり切り込まれて、淳明はぐっと言葉に詰まった。
「戻れるなら、大いに結構。大歓迎だけどね、僕は」
「お前、何いってんだ? 山下はいま坊主と付き合ってんだそ」
「どこのタラシの口が言う? お前だって、下心があってここに連れ込んだんだろうが。お前が平気でそういう態度を取るんだから、お前と似たその甥をと、僕が普通に考えても悪くないよな」
淳明に激震が走った。全く普通でない論理に、淳明と同じく愕然と立ち竦んだ櫻井を、立川は愛でるように見たあと、淳明に冷ややかな視線を向けてきた。
立川は設楽狙い。ということは、浮気は未遂?
「幸い、僕はゲイです。しかも君も知らないシンジの特別な趣向も共有できる」
淳明は、怒りも露骨に立川を睨んだ。
「特別な趣向って、どういうことですか?」
三人の間に空々しい空気が垂れ篭める。本当は知っているのにみんなで知らないふりをしている。そんな空気だ。
本当に自分は知らないだろうか?頭の中をそっと手探りして、開けようとするとイヤイヤをする黒い蓋がある。蓋はどうしてか、黒い革製のブレスレットの形をしていた。
「所詮、凡人には理解できない同族の絆というものが、僕達の間にはあるのですよ」
「誰が凡人だ? 勝手に凡人にするな。お前らが超絶非凡人なだけだろうが」
「お黙り、凡人。じゃあ櫻井が僕の趣向に付き合ってくれるとでも?」
艶を帯びた立川の視線が横目で撫でた瞬間、ビジネス百戦錬磨の櫻井がピタリと貝になる。
立川明人、怖ろしい男だ。
クツクツと余裕の表情で笑い、設樂と特別を共有すると言い切った立川に猛烈に怒りが湧いてきた。
自分以外の人間が設楽と共有する特別。そんな特別、認められるわけがない。
言い寄られて五年、付き合って二年。今更こんな猟奇的で凶器みたいな男に、設楽を渡せない。
「どう特別なのか、そんなものは聞いてみないとわからないじゃないですか」
立川の目の端がギラ―ンと光る。
「ふぅん、受け止める覚悟はあると? じゃ本人から直接、聞けばいい。ほらどうぞ」
立川の指差す方向を見た淳明の目が点になる。
映画のシーンのパロディみたいに、涙と洟水でグチャグチャに濡れた顔を新品のガラスに貼り付けて設楽が立っていた。
「……後でガラス拭けよな」
気の抜けた声で櫻井が独りごちる。
立川の手招きで中に入ってきた設樂は、涙に濡れて赤くなった目で櫻井を睨んだ。
「睨むな真治、俺は“未だ”潔白だ。大体、なんでお前までこんなところにいるんだ」
「下心をたんまり抱えながら若人の相談に乗っていたのは、櫻井だけじゃないってことさ。さて、シンジどうする? お前のツレ、ノンケに戻るってさ」
いやいや、それは設楽が立川と浮気をしていたと思ったからで、今はそんなつもりも気持ちも微塵もない。ただ、立川とは共有できて、自分とは出来ないものがあることがすごく悔しい。
「設樂、オレは……」
とにかく浮気を疑った事を謝ろうとした淳明の前で、いきなり設楽が土下座した。
「アツ、ごめん! アキトとはほんまなんでもないねん。出会ってから九年前。俺にはアツしかおらへん。それだけは信じてくれっ」
「その純情ダイレクトな言い回し、何気にムカつくな」
設楽の告白に、腕組した立川が半眼で見下ろしながらムッとする。設樂のマンションで見た時は儚げな印象だったが、目の前にいる立川はかなり自己中で傲慢なタイプに見える。年齢不詳、誰の味方なのかもよくわからない。ただ、櫻井とは共同経営者という以外に、ただならぬ関係ではあるようだ。
「オレこそ事情も聞かずに悪かった。とりあえず、浮気の嫌疑は晴れたし、それはもうええから」
淳明は屈み、設樂の顔を覗きこんだ。関西弁に戻した淳明に、「いいね」と呟いた櫻井に設楽がガンを飛ばす。
その顔をそっと挟んで自分に向けさせ、淳明は続けた。
「だから設樂、説明してほしいねん。浮気やなかったんやったら、設樂は立川さんとはベッドで何してたんや?」
うぅ……? 手の間で呻いたまま固まる設楽に、淳明の顔から不意に柔らかさが消えた。口調だけは、穏やかに設樂への自白を強要する。
「なに聞いても怒らんから。設樂は立川さんから一体、何を教わってたんや?」
立川とは出来て自分とは出来ない秘密。そんな秘密の存在など、許してたまるか。
「うううぅぅ……」
呻くばかりで、顔中に脂汗を吹き出させた設樂に、淳明の苛々が膨らんでゆく。
「だから、昨日の如何にもヤリましたって感じの、アレは一体なんやったんやって訊いてるんや、オレはっ!?」
徐々に声にドスが篭っていく淳明の声に、立川が短く口笛を吹く。
「うわぁ、赤裸々。関西弁って普段は可愛いのに、ドスが入るといい感じで脅せて便利だねえ」
嬉しくもない感想に立川は付け足した。
「シンジさ、もういい加減吐いちまえば? このままじゃお前だって欲求不満で、山下君じゃもの足りなくなるのは必至だろ。あ……これは、失礼」
ギッと睨む淳明の視線と、「アキト!」という二人分の叱責と叱咤を、立川は同時に掌で跳ね返す。
「設樂……っ」
淳明の呼びかけに、設楽は観念したようにがっくり肩を落として項垂れた。
愛しい男の哀れな姿に哀憫の情が湧く。が、これからの自分たちのためにも、「なあなあ」にしてはいけない。淳明は心を鬼にした。
「……の……してました」 設樂は口の中で言い篭る。
「聞こえへん! 二人で何してたんや? いい大人がモゴモゴ口篭らんと、もっとはっきり言えやっ」
設楽が目を閉じ、鼻孔を開いておもいっきり肺に息を送り込んだ。
「緊縛のお稽古してましたっ。 ごめんなさいっっ!!」
渾身の激白と同時に土下座し、ひれ伏した設樂の後頭部を見ながら、淳明の頭の中は真っ白になった。
満員の終電に揺られる身体は脱力して、なんだか足が痛い。
ああそうだ、設樂に蹴りを入れたんだった。設樂がオレを縛らせてくれと言ったその直後に。
吊革につかまり、淳明は重い溜息をついた。
愛が勝つか、常識が勝つか。車窓の外を、きらきらの街の光が流れてゆく。
< 水曜日 金曜日 >>

◆ なべて世はこともなし ◆
※こちらは『卯月屋文庫』にての公開になり、別窓で開きます。