06 ,2012
軒先の風鈴を弱い風がちりんと鳴らす。
わたしは、小虫の羽音にも負けそうなほど、幽かな風鈴の音に我に返った。いつの間にか蝉の声も止んでいた。急激に陽が翳り、辺りに湿気った空気が充満する。 ひと雨来そうだと思った時には、最初のひと滴が窓ガラスを叩いた。
窓を閉めた小さな店内には、男の仄かな余韻が残っていた。薄暗く、男の動作のように静かで、ひんやりと皮膚を湿らせる。厚い雨雲で暗転した店内で、わたしは閉塞した水底にいるような気分になった。
男は、澤村真之と名乗った。これは、私が知る男の名前ではない。
他人の空似だろうか? 手首の徴も、実は単なる痣か怪我の後とかで、自分の中の恐れが勝手に記憶に残る符号と重ねただけかもしれない。
男とは3日後に、一緒に現地を見に行く約束をした。
澤村は病床についた祖父の会社を手伝うため、大学を中退したと言っていた。今回の土地買収も、わたしの父母の郷里が同じ土地だと人づてに知り、祖父の代理で来たのだという。やれ、ビー・ジーズだアバだのと浮かれ、大学をすべりまくった自分の息子とは大違いだ。
「ま、後を継いでもらいたい店でもないがね」
猫の額のたぶん半分もない店内は見回すまでもない。ひと目で全てが目に飛び込んでくるのだから。だがこの狭い店が、わたしには居心地のいい城なのだ。贅沢はできなくとも飯はちゃんと食えて、家族も養える。
質素倹約な子供時代を過ごしたせいか、わたしの欲望はコンパクトなのだ。
店頭のガラス戸を締めようとすると、朝顔の花が一輪、軒先から降り込む雨に打たれて項垂れている。他の朝顔は午前中に萎れてしまったというのに、この花だけは午後になっても残っていた。
『息子が独立したら離婚して下さい』
朝顔の鉢は、私に三行半を突きつけた嫁が、何を思ったか突然持ってきた。離縁される理由が、未だにわたしにはわからない。だが、そのわからないということが別れたい理由なのだと、嫁は言った。いつまでも変わらないわたしに、愛想が尽きたのだと。
帰り際、一輪残った鮮やかな瑠璃色に澤村が足を止めた。
「それ、家内が鉢ごと置いていったんですよ」
澤村の眼球だけが、何の気なく説明したわたしを捉え、すぐに離れた。涼やかな目に、冷たさが混ざったのは、ほんの一瞬だったか。全身がぞわりと総毛立った。
――― お前も早くお逝き。
「え…… あ、なんですか?」
澤村は薄く笑って健気に咲き続ける朝顔に囁くと、問い返そうとしたわたしを振り返りもせず去っていった。
澤村は 「お逝き」 と言った。あの時の澤村の目が頭から離れない。なぜ、澤村はあんな目でわたしを見たのか。なぜ、たったひとつ残った朝顔に逝けと言ったのか。
澤村が買い取りたいといったのは、私の郷里のあの淵のある土地だった。彼とよく似た男が、愛した男と眠る底なしの淵。
あんな山ばかりの土地を何に使うのかと問うと、削って造成して住宅地として売りだすのだという。周辺一帯が御神体とされてます、祟られますよ? そう言ったわたしに、「あなた、儲けるの下手でしょう」 と澤村は冷ややかに笑った。
ハイライトを口に咥え、斜向かいの喫茶店の名前が書かれたマッチで火をつける。
澤村の冷たい笑い顔がいつまでも頭から離れない。
「余計なお世話だ」
吐き出した紫煙は、灼熱に喘いでいた街を冷やす土砂降りの夕立に吸い込まれていった。
◇ ◇ ◇
その人は、大広間の末席で真っ直ぐな背筋を更に伸ばし正座していた。
顎を引き、前に向けた横顔はいつもと変わらぬ凛とした美しさがあったが、これまでに見た彼のどの顔よりも険しく、そしてどの顔より希望を失っていた。
終戦を告げる玉音放送を聞いたのが半年前。時代が動き出す気配は、いろんなものや形に姿を変えて、わたしたちのまえに現れた。
「このままでは、会社もこの東郷の家も立ちゆかん。この村かて、ほとんどの家が東郷の世話になってんねやで。融資を受けるためにも……ここはひとつ。章俊君、わかるやろ」
威圧と馴れ馴れしさがが妙な配合で混ざった言葉の語尾が上がる。
章俊君と名前を呼ばれた彼は、まっすぐ前に向けていた目をほんの少し下げ口を開いた。
「お祖父様のお考えをお聞かせ下さいませんか。お祖父様も、正彦大叔父と同じお考えなんですか?」
お祖父様もと問われた上座の老人は、
「この話、お前の意にそぐわんのは重々承知しとる。しかし、この戦争で潰れた工場を再興するだけの財力も力も、東郷にはもう残っておらん。情けないがか、もうお前に頼るしか、会社や工場に残ってくれた従業員とその家族の生活を守る道はない。黙ってこの条件を呑んでくれ、章俊」
頼むと言いながらもその声には、否を唱えさせない不動の響きがある。長きに渡り、この地方一帯を統率し支配してきた東郷家の翁にたてつける者など誰もいない。それは、直系の孫である章俊にしても同じだった。
黙ったままで、首を縦に振らない章俊に、しびれを切らした正彦がにじり寄った。
「なあ、今までも散々話おうたやないか。早川は、お前を養子にして、将来は朔之介さんの右腕になるよう育てたい言うてるんや。遠縁とは言うても、わしらと違うて早川は押しも押されもせん財閥や。朔之介さんには、政界からの引きもあると聞くで。お前も末は約束されたようなもんやし、我々の会社も助かる。悪い話やない」
「そんなええ話なら、僕やのうて、隆さんが行かはったらええんとちゃいますか?」
「章俊、何言いだすんや」
章俊の冷ややかな声に、正彦と横にいた夫婦が気色ばんだ。隆とは正彦大叔父の孫で、隣の夫婦の息子だ。隆は章俊と同い年であったが、派手ななりで人を見下した態度をとるので、帰省しても村での評判は良くない。
俄かに正彦の口角が下卑た形に歪んだ。
「早川の坊ちゃんは、’お前がええ’て言うてはるんやで。お前かて、そこんところはようわかってるんやろ」
「正彦、もうええ加減にせい」 正彦の言葉を叩き落すような恫喝に、襖の陰で隠れ聞いていたわたしまで竦み上がった。
「息子夫婦を流行り病で亡くしてから、お前を我が子のように育ててきた。正直、孫の中でも一番優秀なおまえを手放すのは業腹や。だが、この通りや。苦しい戦争を何とか生き抜いた従業員や工員たち、その家族らを、これからという時に路頭に放り出すわけにはいかん。不甲斐ないこの祖父を許してくれ」
上座を降りた東郷翁は畳に手をついて、章俊の前で頭を下げた。驚いた参列者たちも慌てて頭を下げる。
「……わかりました。どうか、頭をあげてください。早川には、章俊が承諾したと伝えて下さい」
話の内容はさっぱりわからなかったが、広間には緊迫を伴う陰鬱な空気が満ちていた。子供だったわたしは興味本位で覗いた襖の傍からそっと離れ、この立派な東郷の屋敷で何が起こっているのか答えを求めて、勝手口へと向かった。
勝手横の炊事場では、竃釜を囲んで女たちが何やらこそこそ話をしている。耳を澄ませば、「身売り」だの「男妾」だのと、聞いたことのない単語がぽんぽん飛び出してきた。
「ねえ、男妾って何?」
女たちの背中に向かって声をかけると、面白いくらいに揃って飛び上がってくれた。
「健吉っ、あんたなに立ち聞きしとん」
立ち上がったのは、小百合ネエだ。花嫁修行を兼ねて、東郷家に働きに来ているわたしの従姉妹だった。
小百合ネエは私の耳を摘んで外に引っ張り出すと、このことは誰にも言うなと怒った。口止めしたくせに、結局何も教えてくれずにさっさと戻ってしまった小百合ネエに、わたしはあかんべの応酬をした。
「けん坊。またお使いなんか。寒いのに偉いな」
引っ張られ損の耳を摩っていると、寸前まで広間にいた章俊が声を掛けてきた。
◀◀◀ 前話 次話 ▷▷▷
わたしは、小虫の羽音にも負けそうなほど、幽かな風鈴の音に我に返った。いつの間にか蝉の声も止んでいた。急激に陽が翳り、辺りに湿気った空気が充満する。 ひと雨来そうだと思った時には、最初のひと滴が窓ガラスを叩いた。
窓を閉めた小さな店内には、男の仄かな余韻が残っていた。薄暗く、男の動作のように静かで、ひんやりと皮膚を湿らせる。厚い雨雲で暗転した店内で、わたしは閉塞した水底にいるような気分になった。
男は、澤村真之と名乗った。これは、私が知る男の名前ではない。
他人の空似だろうか? 手首の徴も、実は単なる痣か怪我の後とかで、自分の中の恐れが勝手に記憶に残る符号と重ねただけかもしれない。
男とは3日後に、一緒に現地を見に行く約束をした。
澤村は病床についた祖父の会社を手伝うため、大学を中退したと言っていた。今回の土地買収も、わたしの父母の郷里が同じ土地だと人づてに知り、祖父の代理で来たのだという。やれ、ビー・ジーズだアバだのと浮かれ、大学をすべりまくった自分の息子とは大違いだ。
「ま、後を継いでもらいたい店でもないがね」
猫の額のたぶん半分もない店内は見回すまでもない。ひと目で全てが目に飛び込んでくるのだから。だがこの狭い店が、わたしには居心地のいい城なのだ。贅沢はできなくとも飯はちゃんと食えて、家族も養える。
質素倹約な子供時代を過ごしたせいか、わたしの欲望はコンパクトなのだ。
店頭のガラス戸を締めようとすると、朝顔の花が一輪、軒先から降り込む雨に打たれて項垂れている。他の朝顔は午前中に萎れてしまったというのに、この花だけは午後になっても残っていた。
『息子が独立したら離婚して下さい』
朝顔の鉢は、私に三行半を突きつけた嫁が、何を思ったか突然持ってきた。離縁される理由が、未だにわたしにはわからない。だが、そのわからないということが別れたい理由なのだと、嫁は言った。いつまでも変わらないわたしに、愛想が尽きたのだと。
帰り際、一輪残った鮮やかな瑠璃色に澤村が足を止めた。
「それ、家内が鉢ごと置いていったんですよ」
澤村の眼球だけが、何の気なく説明したわたしを捉え、すぐに離れた。涼やかな目に、冷たさが混ざったのは、ほんの一瞬だったか。全身がぞわりと総毛立った。
――― お前も早くお逝き。
「え…… あ、なんですか?」
澤村は薄く笑って健気に咲き続ける朝顔に囁くと、問い返そうとしたわたしを振り返りもせず去っていった。
澤村は 「お逝き」 と言った。あの時の澤村の目が頭から離れない。なぜ、澤村はあんな目でわたしを見たのか。なぜ、たったひとつ残った朝顔に逝けと言ったのか。
澤村が買い取りたいといったのは、私の郷里のあの淵のある土地だった。彼とよく似た男が、愛した男と眠る底なしの淵。
あんな山ばかりの土地を何に使うのかと問うと、削って造成して住宅地として売りだすのだという。周辺一帯が御神体とされてます、祟られますよ? そう言ったわたしに、「あなた、儲けるの下手でしょう」 と澤村は冷ややかに笑った。
ハイライトを口に咥え、斜向かいの喫茶店の名前が書かれたマッチで火をつける。
澤村の冷たい笑い顔がいつまでも頭から離れない。
「余計なお世話だ」
吐き出した紫煙は、灼熱に喘いでいた街を冷やす土砂降りの夕立に吸い込まれていった。
◇ ◇ ◇
その人は、大広間の末席で真っ直ぐな背筋を更に伸ばし正座していた。
顎を引き、前に向けた横顔はいつもと変わらぬ凛とした美しさがあったが、これまでに見た彼のどの顔よりも険しく、そしてどの顔より希望を失っていた。
終戦を告げる玉音放送を聞いたのが半年前。時代が動き出す気配は、いろんなものや形に姿を変えて、わたしたちのまえに現れた。
「このままでは、会社もこの東郷の家も立ちゆかん。この村かて、ほとんどの家が東郷の世話になってんねやで。融資を受けるためにも……ここはひとつ。章俊君、わかるやろ」
威圧と馴れ馴れしさがが妙な配合で混ざった言葉の語尾が上がる。
章俊君と名前を呼ばれた彼は、まっすぐ前に向けていた目をほんの少し下げ口を開いた。
「お祖父様のお考えをお聞かせ下さいませんか。お祖父様も、正彦大叔父と同じお考えなんですか?」
お祖父様もと問われた上座の老人は、
「この話、お前の意にそぐわんのは重々承知しとる。しかし、この戦争で潰れた工場を再興するだけの財力も力も、東郷にはもう残っておらん。情けないがか、もうお前に頼るしか、会社や工場に残ってくれた従業員とその家族の生活を守る道はない。黙ってこの条件を呑んでくれ、章俊」
頼むと言いながらもその声には、否を唱えさせない不動の響きがある。長きに渡り、この地方一帯を統率し支配してきた東郷家の翁にたてつける者など誰もいない。それは、直系の孫である章俊にしても同じだった。
黙ったままで、首を縦に振らない章俊に、しびれを切らした正彦がにじり寄った。
「なあ、今までも散々話おうたやないか。早川は、お前を養子にして、将来は朔之介さんの右腕になるよう育てたい言うてるんや。遠縁とは言うても、わしらと違うて早川は押しも押されもせん財閥や。朔之介さんには、政界からの引きもあると聞くで。お前も末は約束されたようなもんやし、我々の会社も助かる。悪い話やない」
「そんなええ話なら、僕やのうて、隆さんが行かはったらええんとちゃいますか?」
「章俊、何言いだすんや」
章俊の冷ややかな声に、正彦と横にいた夫婦が気色ばんだ。隆とは正彦大叔父の孫で、隣の夫婦の息子だ。隆は章俊と同い年であったが、派手ななりで人を見下した態度をとるので、帰省しても村での評判は良くない。
俄かに正彦の口角が下卑た形に歪んだ。
「早川の坊ちゃんは、’お前がええ’て言うてはるんやで。お前かて、そこんところはようわかってるんやろ」
「正彦、もうええ加減にせい」 正彦の言葉を叩き落すような恫喝に、襖の陰で隠れ聞いていたわたしまで竦み上がった。
「息子夫婦を流行り病で亡くしてから、お前を我が子のように育ててきた。正直、孫の中でも一番優秀なおまえを手放すのは業腹や。だが、この通りや。苦しい戦争を何とか生き抜いた従業員や工員たち、その家族らを、これからという時に路頭に放り出すわけにはいかん。不甲斐ないこの祖父を許してくれ」
上座を降りた東郷翁は畳に手をついて、章俊の前で頭を下げた。驚いた参列者たちも慌てて頭を下げる。
「……わかりました。どうか、頭をあげてください。早川には、章俊が承諾したと伝えて下さい」
話の内容はさっぱりわからなかったが、広間には緊迫を伴う陰鬱な空気が満ちていた。子供だったわたしは興味本位で覗いた襖の傍からそっと離れ、この立派な東郷の屋敷で何が起こっているのか答えを求めて、勝手口へと向かった。
勝手横の炊事場では、竃釜を囲んで女たちが何やらこそこそ話をしている。耳を澄ませば、「身売り」だの「男妾」だのと、聞いたことのない単語がぽんぽん飛び出してきた。
「ねえ、男妾って何?」
女たちの背中に向かって声をかけると、面白いくらいに揃って飛び上がってくれた。
「健吉っ、あんたなに立ち聞きしとん」
立ち上がったのは、小百合ネエだ。花嫁修行を兼ねて、東郷家に働きに来ているわたしの従姉妹だった。
小百合ネエは私の耳を摘んで外に引っ張り出すと、このことは誰にも言うなと怒った。口止めしたくせに、結局何も教えてくれずにさっさと戻ってしまった小百合ネエに、わたしはあかんべの応酬をした。
「けん坊。またお使いなんか。寒いのに偉いな」
引っ張られ損の耳を摩っていると、寸前まで広間にいた章俊が声を掛けてきた。
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