02 ,2011
レジ男 4
5階の外廊下を吹き抜ける風が頭を冷やす。
冷たい空気を吸い込むと、動揺した胸もようやく落ち着いてきた。
レジ男は裂けたレジ袋から飛び出した鍋の材料を両手で抱え、無言で俺の後ろをついてくる。いらないと言ったのに、レジ男は荷物を俺の部屋まで運びますといって聞かなかった。
啖呵を切った俺に、良平が背中を向けた瞬間全身の力が抜けた。
良平のことだ、別れの言葉を切り出されて怒りまくって責めてくると思った。
まさか、黙って引き下がるとは思ってなかった。レジ男がいなかったら、事態が飲み込めず、良平の去ったエントランスで何時間も立ち尽くしていたかも知れない。
「せっかく届けてくれたのに、嫌な思いさせて悪かったね」
「僕は気にしてないですよ。スーパーで仕事をしていると、それこそ色んなお客さんが来るんです。僕が店長の息子だからか、ありえない難癖つけてくる人もたまにいますからね」
俺の言った‘嫌な思い’の中には、男同士の云々・・・の部分も大いに含まれているのだが、レジ男は頓着する様子もない。
まあ、さすがに面と向かっては突っ込みにくい話題ではある。
何度目かの溜息が漏れた。
「それより良かったんですか? あんな別れ方をしちゃって。あ・・・僕が引き金を引いたようなものですよね。本当に、すみませんでした」
穴があったら、入りたい。入って、もう二度とあのスーパーには近づかないと誓いたい。
「いいんだ。君は、全く気にしないでいいから」
「でも・・・長い付き合いだったんじゃないんですか?」
核心にズバリ、というかズブリと突っ込みを入れてきた。
普段は気遣い上手なくせに、なかなか容赦がない。
「あいつとはこのまま付き合っていても、お互いがダメになるから。ていうか、俺が良平をダメにしてしまうんだ」
「どうしてですか?彼はもう立派な大人ですよ。他人にどうこうされる歳じゃないでしょう」
「はは、君は見た目以上に大人だね。男同士の痴話げんかを見ても、呆れもしないし驚きもしない。ああ、”見た目以上”ってのは余計だったな」
首を傾げて背後を伺うと、レジ男の真っ直ぐな目とぶつかりすぐに引き返した。男前の眼力だろうか、見つめられる項がチリチリと痛い。
「田口さんが彼を駄目にするなんて、どうしてそんな風に考えるんですか?」
意外ととしつこく食い下がってくる。
「君、結構痛いとこ突いてくるね」
「すみません」
「まあ・・・・いいよ。俺が良平を甘やかし過ぎたんだ。身の回りの世話を焼いて、浮気を許して、尽くしまくった。好き過ぎて、いつの間にか主従関係みたいになっていたのに、気がつかないふりをした。良平をあんな鼻持ちならない傲慢な性格にしたのは俺だよ」
レジ男は、何かを考え込むようにしてそれから何も言わなくなった。
玄関でスーパーの商品を返してもらいキッチンに運んだ。コートを脱ぎながら玄関に向かって声をかける。
「ご苦労様。寒かっただろう? 俺のでよかったらなにか羽織るもの貸すから、上がってコーヒーでも飲んで行かないか」
「いえ、まだ仕事が残っていますので、僕はこれで失礼します」
声だけが返ってきてドアの閉まる音がする。
それがレジ男を見た最後だった。
次の日、礼を兼ねて訪れたスーパーにレジ男はいなかった。
年配のパートの女性に尋ねると、昨日付けで辞めたのだと残念そうな顔をして教えてくれた。レジ男は女性客だけじゃなく、パートのおばちゃんたちにも人気だったらしい。
会って訊きたいこともあったのだが、当の本人がいないのであれば、もうどうしようもなかった。
季節はそろそろ春めき、コートも用無しになりつつある。
駅の階段を上がりながら、今夜は何を食べて帰ろうかと考える。別れ話の一件以降、生活が変わった。新規の企業を受け持つことになり、週の半分は取引先の会社に出向している。残業が増えるにつれ外食も増え、スーパーからも足が遠のいた。
コンビニで買った卵をぶら下げ閉店間際のスーパーを覗いてみるが、レジ男らしき人物を見かけることはない。完全に実家であるスーパーの仕事から離れてしまったらしかった。
街で時々レジ男に似た男を見かけると、つい目が行ってしまう。
だが、今風の男前でどこにでもありそうだと思っていた顔は、実際はどの顔とも違っていた。
もしかしたら、本当に六本木辺りでスカウトでもされてしまったのかもしれない。
「田口さん」
背後から名前を呼ばれ、振り返った。
午後8時。そこそこ混み合うホームに見知った顔はない。。
顔を戻しかけたところをもう一度呼ばれ、斜め後ろに立つスーツ姿の男を見た。
「レジ男・・・君?」 レジ男は苦い顔で笑った。
駅の構内にあるバーガーショップに向かい合わせで腰を下ろす。
スーツ姿のレジ男には、スーパーのレジに立っていた頃の面影はない。かといって、タレント業をしているようにも見えなかった。
こんな駅中のファーストフードにつれてきてしまうのが申し訳なくなるような、一流企業の優秀なエリートビジネスマンという風情だ。いや、この店に入ろうと言い出したのは、レジ男の方だったか。
醜態を晒した経緯もあってか、こう改まって向かい合わせに座ると妙に落ち着かない気分になる。
「さっきは悪かったね。山咲君だっけ? いや、すっかり見違えたよ。スーパーは、もう辞めちゃったんだって? てっきり、継ぐのかと思ってた」
「あの店は、もともと手伝いだけの約束でしたから。今は、ここで働いています」
言いながら、一枚の名刺を差し出してきた。
「日本ミラクル? これって、うちのライバル会社じゃないか」
「ええそうです。田口さん、僕の事は本当に覚えてくれていないんですね」
「・・・え?」
淋しげなような責めているような目つきでじっと見られ、慌てて記憶の底辺を掘り起こす。
山咲、ヤマサキ・・・・・・くそ、タイプの顔ならひと目3年なのに。
ようやく、脳みその隅っこに貼り付いている山咲の名前を見つけた。
「あの‥‥もしかして、うちの会社を入社半年で辞めた、あの山咲君?」
「正確には4ヵ月半ですけどね」
ポテトを齧り、スチロールのカップを手にした山咲は、さもがっかりしたという風情で溜息した。
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5階の外廊下を吹き抜ける風が頭を冷やす。
冷たい空気を吸い込むと、動揺した胸もようやく落ち着いてきた。
レジ男は裂けたレジ袋から飛び出した鍋の材料を両手で抱え、無言で俺の後ろをついてくる。いらないと言ったのに、レジ男は荷物を俺の部屋まで運びますといって聞かなかった。
啖呵を切った俺に、良平が背中を向けた瞬間全身の力が抜けた。
良平のことだ、別れの言葉を切り出されて怒りまくって責めてくると思った。
まさか、黙って引き下がるとは思ってなかった。レジ男がいなかったら、事態が飲み込めず、良平の去ったエントランスで何時間も立ち尽くしていたかも知れない。
「せっかく届けてくれたのに、嫌な思いさせて悪かったね」
「僕は気にしてないですよ。スーパーで仕事をしていると、それこそ色んなお客さんが来るんです。僕が店長の息子だからか、ありえない難癖つけてくる人もたまにいますからね」
俺の言った‘嫌な思い’の中には、男同士の云々・・・の部分も大いに含まれているのだが、レジ男は頓着する様子もない。
まあ、さすがに面と向かっては突っ込みにくい話題ではある。
何度目かの溜息が漏れた。
「それより良かったんですか? あんな別れ方をしちゃって。あ・・・僕が引き金を引いたようなものですよね。本当に、すみませんでした」
穴があったら、入りたい。入って、もう二度とあのスーパーには近づかないと誓いたい。
「いいんだ。君は、全く気にしないでいいから」
「でも・・・長い付き合いだったんじゃないんですか?」
核心にズバリ、というかズブリと突っ込みを入れてきた。
普段は気遣い上手なくせに、なかなか容赦がない。
「あいつとはこのまま付き合っていても、お互いがダメになるから。ていうか、俺が良平をダメにしてしまうんだ」
「どうしてですか?彼はもう立派な大人ですよ。他人にどうこうされる歳じゃないでしょう」
「はは、君は見た目以上に大人だね。男同士の痴話げんかを見ても、呆れもしないし驚きもしない。ああ、”見た目以上”ってのは余計だったな」
首を傾げて背後を伺うと、レジ男の真っ直ぐな目とぶつかりすぐに引き返した。男前の眼力だろうか、見つめられる項がチリチリと痛い。
「田口さんが彼を駄目にするなんて、どうしてそんな風に考えるんですか?」
意外ととしつこく食い下がってくる。
「君、結構痛いとこ突いてくるね」
「すみません」
「まあ・・・・いいよ。俺が良平を甘やかし過ぎたんだ。身の回りの世話を焼いて、浮気を許して、尽くしまくった。好き過ぎて、いつの間にか主従関係みたいになっていたのに、気がつかないふりをした。良平をあんな鼻持ちならない傲慢な性格にしたのは俺だよ」
レジ男は、何かを考え込むようにしてそれから何も言わなくなった。
玄関でスーパーの商品を返してもらいキッチンに運んだ。コートを脱ぎながら玄関に向かって声をかける。
「ご苦労様。寒かっただろう? 俺のでよかったらなにか羽織るもの貸すから、上がってコーヒーでも飲んで行かないか」
「いえ、まだ仕事が残っていますので、僕はこれで失礼します」
声だけが返ってきてドアの閉まる音がする。
それがレジ男を見た最後だった。
次の日、礼を兼ねて訪れたスーパーにレジ男はいなかった。
年配のパートの女性に尋ねると、昨日付けで辞めたのだと残念そうな顔をして教えてくれた。レジ男は女性客だけじゃなく、パートのおばちゃんたちにも人気だったらしい。
会って訊きたいこともあったのだが、当の本人がいないのであれば、もうどうしようもなかった。
季節はそろそろ春めき、コートも用無しになりつつある。
駅の階段を上がりながら、今夜は何を食べて帰ろうかと考える。別れ話の一件以降、生活が変わった。新規の企業を受け持つことになり、週の半分は取引先の会社に出向している。残業が増えるにつれ外食も増え、スーパーからも足が遠のいた。
コンビニで買った卵をぶら下げ閉店間際のスーパーを覗いてみるが、レジ男らしき人物を見かけることはない。完全に実家であるスーパーの仕事から離れてしまったらしかった。
街で時々レジ男に似た男を見かけると、つい目が行ってしまう。
だが、今風の男前でどこにでもありそうだと思っていた顔は、実際はどの顔とも違っていた。
もしかしたら、本当に六本木辺りでスカウトでもされてしまったのかもしれない。
「田口さん」
背後から名前を呼ばれ、振り返った。
午後8時。そこそこ混み合うホームに見知った顔はない。。
顔を戻しかけたところをもう一度呼ばれ、斜め後ろに立つスーツ姿の男を見た。
「レジ男・・・君?」 レジ男は苦い顔で笑った。
駅の構内にあるバーガーショップに向かい合わせで腰を下ろす。
スーツ姿のレジ男には、スーパーのレジに立っていた頃の面影はない。かといって、タレント業をしているようにも見えなかった。
こんな駅中のファーストフードにつれてきてしまうのが申し訳なくなるような、一流企業の優秀なエリートビジネスマンという風情だ。いや、この店に入ろうと言い出したのは、レジ男の方だったか。
醜態を晒した経緯もあってか、こう改まって向かい合わせに座ると妙に落ち着かない気分になる。
「さっきは悪かったね。山咲君だっけ? いや、すっかり見違えたよ。スーパーは、もう辞めちゃったんだって? てっきり、継ぐのかと思ってた」
「あの店は、もともと手伝いだけの約束でしたから。今は、ここで働いています」
言いながら、一枚の名刺を差し出してきた。
「日本ミラクル? これって、うちのライバル会社じゃないか」
「ええそうです。田口さん、僕の事は本当に覚えてくれていないんですね」
「・・・え?」
淋しげなような責めているような目つきでじっと見られ、慌てて記憶の底辺を掘り起こす。
山咲、ヤマサキ・・・・・・くそ、タイプの顔ならひと目3年なのに。
ようやく、脳みその隅っこに貼り付いている山咲の名前を見つけた。
「あの‥‥もしかして、うちの会社を入社半年で辞めた、あの山咲君?」
「正確には4ヵ月半ですけどね」
ポテトを齧り、スチロールのカップを手にした山咲は、さもがっかりしたという風情で溜息した。
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