05 ,2009
「そろそろ、携帯を変えようかな」
「故障でもしたのか?」
「なぜです?」
呟いた一言に、リビングのソファで周と鳴海が、同時に振り向いた。周(あまね)が代表を務める会社『日本 トリニティ』 の今後の展開とその戦略について協議をしていた二人は、珍しく互いの言い分を曲げず白熱した口調で意見を戦わせていた。だから、離れた場所に座る自分の呟きへの反応など全く期待してなかった享一は、逆に鼻白んだ。
「なぜ・・・・たって」
思わず、モダンなガラスのダイニングテーブルの上に置いてあった自分の携帯を手に取った。大学の2年の時、バイトした金で買って、そろそろ、5年になる。ストラップも付けてない、いたってシンプルなガラケーだ。だが、今時流行らないゴロンとしたシルエットのボディには無数の大小様々な傷が入り、塗装も剥げている。この手の商品としては、よくもった方だと我ながら思う。
自分の場合、使うといっても通話と簡単なメールくらいなもので、新旧に拘りは無かったが、同期の片岡や同じ設計部の者たちが持っているスリム化された新しい機種と比べると、さすがにみすぼらしさが否めない。大体、周たちが持つ携帯だって、意外と新しい物好きだった鳴海が吟味して購入してきた最新機種なのだ。
「随分と痛んできてるし、そろそろ買い換えてもいいかもなって……思っただけなんですけど?」
答えながらフリップを開けると、デジタルの数字が23:45と出ている。そろそろ帰る時間だ。明日は月曜日で、午前中に定例会議が入っている。享一がいま関わっている物件は、河村 圭太の設計する全室スイートの中規模のホテルだ。勿論、明日は河村も参加する。
そのせいかどうか、定かにすると余計ややこしそうだから確認した事はないが、前日の日曜の夜はたいてい周の機嫌が悪い。ほとんど眠らせてもらえずに出勤し、看破した河村から「お盛んだな」と、揶揄いの言葉を耳打ちされたのも2度3度のことではない。
今日は鳴海がいるうちに退散しようと、ダイニングから様子を窺っていたところに携帯の話が出た。
書類をトンとローテーブルの上で揃える音がして、慌てて振り向いた時には鳴海が立ち上がっていた。まるで、こちらが退場の機会を探っていたのを見越していたかのような素早さだ。
出来れば鳴海より前に席を立ちたかったのにと、タイミングを逃して内心舌を打つ。
「それでは、今日はもう遅いですしこれ位にしておきましょう。今日の経緯を纏めたものを、明朝もう一度出しますので、それを敲き台にして専門家も交えた上でもう一度、検討しましょう。ああ…それと時見さん、携帯の件はもう少し待っていただけませんか?」
たかが、携帯の買い替えだ。どうして、鳴海の許可がいるというのか?
「どうしてです?」
薄いフレームの眼鏡の奥のクールな目が、ちらっと周に流される。なんだろう、いやに引っ掛る目付きだ。
「享一、携帯の事は鳴海に任せておけばいい。鳴海は最近出た新機種はどこのメーカーのも網羅しているし、享一の手間も省ける」
日々、拡張を続ける日本トリニティの代表補佐が、なんで他人の携帯の世話までするのか?
携帯の話題になってから、周が目を合わせないのも気になった。なんか、モヤる。
「では、私はこれで」
「あっ、待ってください。俺も一緒に出ます!」
さっさと廊下に出た鳴海を追いかけて飛び出した享一の行手を、183cmの長躯が塞いだ。
上目遣いで見上げると、麗しい翠の瞳が優しげに微笑む。だからといって笑っていない瞳孔から、口角の窪みから零れる獰猛さは隠せない。
全身から黒いものをゆらゆらと立ち昇らせて微笑う男の瘴気に当てられ、身体が動かない。恐い。
周の手が伸び、石化した享一のネクタイを掬い上げた。
「こんな時間にスーツなんか着て一体、どこに行くつもりだ?」
玄関の扉が閉まる音で、我に返った。
「いや、明日も金曜と同じカッターとネクタイじゃ、やっぱり拙いかなーと思って・・・」
そんな事を聞きたいわけではないのは分かっているが、ここは何とか穏便に運ばないと自分の明日が危ない。
「替えのスーツも、カッターもネクタイも下着も、全てクローゼットの中に揃っていることは?」
「知って・・・・いるけど」
「享一に合わせて作らせたんだから、サイズも合わない筈はない」
そうだろう? と言わんばかりに翠の瞳が重圧をかけてくる。
周が用意してくれた自分用のクローゼットの中には、センスのよい周セレクトで”GLAMOROUS”の扱うブランドのスーツやシャツ、普段着用のラフな服まで充分以上に揃えられている。
忙しい周が自分のために、時間やお金を掛けて揃えてくれた気遣いを嬉しく感じてはいるのだが、
「周、俺の月給でグラマラスのスーツなんか着られる筈ないだろう? この前だって、うっかり会社の女の子にタグを見られて、どこかの金持ちのお坊ちゃんかと勘違いされた上、根掘り葉掘り勘繰られて往生したんだ」
「それなら、“何もかも全て”こっちに持ってくればいい」
傲慢に言い放つ翠の瞳に切望を読み取り、言葉を失う。こんな顔をさせたい訳ではない。
翠に煙る瞳に見るめられると、庄谷で別れてから、再会するまでこの瞳に、この男に死ぬほど焦がれたことを思い出す。
いや、今でも俺は四六時中、周に焦がれている。
二度と失いたくは無い。
何も言わず、腕を広げて自分をどこにも行かせまいと立ちはだかる男を抱きしめた。頭を傾げキスを求めると、熱い抱擁とともに与えられる。
もう、愛するものを失うのは耐えられない。だからこそ、余計に傍にいるのが怖くなる。
<<← 前話 / 次話 →>>
翠滴 1 →
翠滴 2 →