04 ,2009
22:10 国道沿いの山道を自転車で走っている。
この時期にしては暖かい夜気に、遅咲きの沈丁花の香が時折混ざり鼻腔をふくらませた。
街灯の少なくなった坂道を立ちこぎに変え、息を切らして上り切ると、神社の鳥居の下の階段に長い脚を組み、しなやかな風情で座る姿を見つけた。Gパンとペパーミント色のTシャツ、それに濃いグリーンと紺のマドラスチェックのシャツを羽織った腰にセーターを巻いている。春に浮かれ躍る胸が、見慣れた制服ではなく私服姿で自分を待つ姿にざわつき出した。
驚くか、呆れるか。ポーカーフェイスが崩れるところが見たくて、暗がりの中でそっと自転車を降りてそのまま音を立てないよう注意を払い近付いていく。
忠桐(ただひさ)の顔は組んだ脚に突いた肘の上で、放心したように少し上に向けられていた。普段の確固たる自信に満ちた態度とは対照的で、あどけなささえ感じさせる。その無防備で頼りなげな表情に、思わず立ち止まった。
参道に明かりを落す花見の雪洞の仄暗い光の中にあってもなお、色褪せることのない凜と張詰めた空気を醸すその姿に、彼が一般人とは隔たった伝統の世界に生きているのだと改めて思い至る。気を緩めている時でさえすっと伸されている少年の瑞々しさが色濃く残る背に、この先否応なく課せられるであろう荷の重さを思うと、切なくなった。
空(くう)の一点を見つめていた瞳が流れて止る。「遅い。」 遅刻を責める流し目と、ぴしゃりと言い放つ声が飛んできた。忠桐は時間に厳しい。
「悪りィ、抜け出すのに手間取った」
「トモくんはドンクサイからな」
「呼び出しといて、言われようじゃん。何の用だよ?」
「ちゃんと家に帰ってすぐ勉強したのか?」
さっきまでの浮かれた気持ちをフリースの下に隠して、つんけんどんに返したオレの言葉は、鋭い諸刃の刃(やいば)となって返ってきた。借りた参考書に、時間と場所だけ示したメモが挟まれてあるのに気付いたのが15分前。つまり、帰ってから一度も参考書を開いてなかった。
「夜桜見物しよう」
「今から? 崖っぷち受験生を夜更に呼び出した理由がそれかよ?」
「それは、受験勉強をやってる人間の言うセリフだ。受験勉強なら、これから9ヶ月間、手取り足取り僕が見てやるって言ってるだろう。GWと夏休みは合宿だから覚悟しとけよ。で、行くの? 行かないの?」
手と足だけか?とツッコミを入れそうになったけれど、不機嫌な眼差しに喉仏の上で飲み込んだ。
「・・・行く」
二人で階段を上がってゆく。
両側から張出した桜の枝が、雪洞に照らされ薄紅のトンネルを作る。人影もなく風もない春の夜に、石段を踏みしめる2人の足音だけがした。
上がりきると薄紅の雲が本殿を取り囲んでいた。忠桐(ただひさ)は一本の大きな樹の前で止まった。
「樹齢300年だってさ」
桜の太い灰色の幹には所々、緑の苔が生している。
「随分と爺さんなんだな」
忠桐は応えず、頭上から垂れ篭める花雲を見上げている。
口角のハッキリした唇を薄く開け、何かに憑かれたように見入る横顔に、心を奪われた。
忠桐を虜にするするものの正体を求めて、自分も同じ様に頭上を仰ぐ。
視界が桜で埋まる。自分達の他に愛でる者もないというのに、その存在を見せ付けるように咲き誇る花。
忠桐を魅了するものを探して、目の前の5枚の花弁や花陰に目を凝らした。
天の黒を背景に桜の薄紅が、ただ咲いている。音も無く、壮絶なまでに咲き競う小さな花弁の群集に、なぜか狂気のようなものを感じてゾッとした。
もの言わぬ小さな花の一つ一つが、強烈な夢想を抱いて咲いている気がする。
怖い
思いは声になって零れたらしい。
「守ってやるから」
少し掠れたゾクリと脳髄を刺激する声が、耳のすぐ後からして、しなやかな腕に抱き込まれた。息のかかる襟足がチリチリと痺れる。
「トモは僕が守ってやる」 何から?
違う、本当はオレが守りたいのに。
行き場を失った頼りなげな低く切ない呟きは空に留まったままで、未熟な自分たちの無力を知る。
独りが心細くて、ゆっくり忠桐と向き合う。その肩を樹齢300年の太い幹に押し付けられた。
自分を魅了した唇が角度を変えて重ねられ、そのまま、太い根の張る根元へと2人して崩れていく。
薄く目を開ければ、自分に跨る形で座る忠桐の背後を桜の花が覆いつくしている。
忠桐はまたあの表情をして桜を見上げ、睨んでいた。
ああ、そうか と思う。
この桜は人の想いを喰らうのだ。だから、ひときわ絢爛に咲くのかもしれない。
天蓋となった桜に忠桐を持っていかれそうな錯覚に捉われて、思わず忠桐に手を伸ばす。
上を見ていた忠桐がごつごつした桜の根を枕に寝転がるオレを見下ろして、薄く笑った。
「今夜は帰したくない。そう言ったら、トモはどうする?」
「オレが絶対帰らない、って言ったら忠桐は? どうすんのさ?」
挑発的に笑う忠桐の唇が 欲情を零しながら桜の天蓋と共に落ちてきた。
― Sakura Spiral
←flower Ⅰ
この時期にしては暖かい夜気に、遅咲きの沈丁花の香が時折混ざり鼻腔をふくらませた。
街灯の少なくなった坂道を立ちこぎに変え、息を切らして上り切ると、神社の鳥居の下の階段に長い脚を組み、しなやかな風情で座る姿を見つけた。Gパンとペパーミント色のTシャツ、それに濃いグリーンと紺のマドラスチェックのシャツを羽織った腰にセーターを巻いている。春に浮かれ躍る胸が、見慣れた制服ではなく私服姿で自分を待つ姿にざわつき出した。
驚くか、呆れるか。ポーカーフェイスが崩れるところが見たくて、暗がりの中でそっと自転車を降りてそのまま音を立てないよう注意を払い近付いていく。
忠桐(ただひさ)の顔は組んだ脚に突いた肘の上で、放心したように少し上に向けられていた。普段の確固たる自信に満ちた態度とは対照的で、あどけなささえ感じさせる。その無防備で頼りなげな表情に、思わず立ち止まった。
参道に明かりを落す花見の雪洞の仄暗い光の中にあってもなお、色褪せることのない凜と張詰めた空気を醸すその姿に、彼が一般人とは隔たった伝統の世界に生きているのだと改めて思い至る。気を緩めている時でさえすっと伸されている少年の瑞々しさが色濃く残る背に、この先否応なく課せられるであろう荷の重さを思うと、切なくなった。
空(くう)の一点を見つめていた瞳が流れて止る。「遅い。」 遅刻を責める流し目と、ぴしゃりと言い放つ声が飛んできた。忠桐は時間に厳しい。
「悪りィ、抜け出すのに手間取った」
「トモくんはドンクサイからな」
「呼び出しといて、言われようじゃん。何の用だよ?」
「ちゃんと家に帰ってすぐ勉強したのか?」
さっきまでの浮かれた気持ちをフリースの下に隠して、つんけんどんに返したオレの言葉は、鋭い諸刃の刃(やいば)となって返ってきた。借りた参考書に、時間と場所だけ示したメモが挟まれてあるのに気付いたのが15分前。つまり、帰ってから一度も参考書を開いてなかった。
「夜桜見物しよう」
「今から? 崖っぷち受験生を夜更に呼び出した理由がそれかよ?」
「それは、受験勉強をやってる人間の言うセリフだ。受験勉強なら、これから9ヶ月間、手取り足取り僕が見てやるって言ってるだろう。GWと夏休みは合宿だから覚悟しとけよ。で、行くの? 行かないの?」
手と足だけか?とツッコミを入れそうになったけれど、不機嫌な眼差しに喉仏の上で飲み込んだ。
「・・・行く」
二人で階段を上がってゆく。
両側から張出した桜の枝が、雪洞に照らされ薄紅のトンネルを作る。人影もなく風もない春の夜に、石段を踏みしめる2人の足音だけがした。
上がりきると薄紅の雲が本殿を取り囲んでいた。忠桐(ただひさ)は一本の大きな樹の前で止まった。
「樹齢300年だってさ」
桜の太い灰色の幹には所々、緑の苔が生している。
「随分と爺さんなんだな」
忠桐は応えず、頭上から垂れ篭める花雲を見上げている。
口角のハッキリした唇を薄く開け、何かに憑かれたように見入る横顔に、心を奪われた。
忠桐を虜にするするものの正体を求めて、自分も同じ様に頭上を仰ぐ。
視界が桜で埋まる。自分達の他に愛でる者もないというのに、その存在を見せ付けるように咲き誇る花。
忠桐を魅了するものを探して、目の前の5枚の花弁や花陰に目を凝らした。
天の黒を背景に桜の薄紅が、ただ咲いている。音も無く、壮絶なまでに咲き競う小さな花弁の群集に、なぜか狂気のようなものを感じてゾッとした。
もの言わぬ小さな花の一つ一つが、強烈な夢想を抱いて咲いている気がする。
思いは声になって零れたらしい。
「守ってやるから」
少し掠れたゾクリと脳髄を刺激する声が、耳のすぐ後からして、しなやかな腕に抱き込まれた。息のかかる襟足がチリチリと痺れる。
「トモは僕が守ってやる」
違う、本当はオレが守りたいのに。
行き場を失った頼りなげな低く切ない呟きは空に留まったままで、未熟な自分たちの無力を知る。
独りが心細くて、ゆっくり忠桐と向き合う。その肩を樹齢300年の太い幹に押し付けられた。
自分を魅了した唇が角度を変えて重ねられ、そのまま、太い根の張る根元へと2人して崩れていく。
薄く目を開ければ、自分に跨る形で座る忠桐の背後を桜の花が覆いつくしている。
忠桐はまたあの表情をして桜を見上げ、睨んでいた。
ああ、そうか
この桜は人の想いを喰らうのだ。だから、ひときわ絢爛に咲くのかもしれない。
天蓋となった桜に忠桐を持っていかれそうな錯覚に捉われて、思わず忠桐に手を伸ばす。
上を見ていた忠桐がごつごつした桜の根を枕に寝転がるオレを見下ろして、薄く笑った。
「今夜は帰したくない。そう言ったら、トモはどうする?」
「オレが絶対帰らない、って言ったら忠桐は? どうすんのさ?」
挑発的に笑う忠桐の唇が 欲情を零しながら桜の天蓋と共に落ちてきた。
― Sakura Spiral
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