12 ,2008
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反射的に、足が止まった。
なぜ立ち止まったのか、自分でも訳が解らず190cmはあろう長身をゆっくり見上げた。神前と目が合った瞬間、ズレて嫌な感覚を享一に齎していた記憶の断片が音を立てて嵌り慄いた。
『サクラ』は、永邨 周(ながむら あまね)と祝言を挙げた時の享一の偽名だ。
神前は、あの時の参列者の一人で、周と”羽衣”を舞い、渡り廊下で周と揉めていた。
振り返っては、いけなかった。
そう思った途端、身体が凍付いて動けなくなる。背中を冷たいイヤな汗が伝う。
「なるほど…これは これは、こんな所でお会いできようとは。
まさか、あなたが男性だったとは、思いもよりませんでしたね。
でも、見た瞬間、あなただってわかりましたよ」
神前は、酷薄ともとれるしたり顔で目を眇めた。宝物を見つけたトレジャーハンターよろしく、嬉しくてしょうがないとでも言わんばかりに愉悦の表情で笑っている。
どうすれば、この状況を切り抜けられる?
「あの、ちゃんと聞き取れなかったもので。私に、なにか仰られましたか?」
喉が、からからに渇いていた。
享一は、狼狽を読み取られぬように、全神経を総動員して平静を装う。
左胸から、今にも心臓が飛び出そうだ。
「周には一杯食わされたな。なるほど、木の葉を隠すなら森ということか。最も見付け難い場所 東京に、大事な花嫁を隠した訳だ。まったく小賢しいことを。それとも、君がここにいるのは偶然かな?時見……享一君?」
神崎は享一の首に掛けられた社員証を見ながら言う。
隠す?
周の名を耳にして、心は完全に動揺していた。
「申し訳ございません。人違いをされているのでは? 仰られている事が、私にはよく判りませんが。急いでおりますので、失礼します」
頭を下げ、足早にエレベーターホールに向う。背中に享一を見ている男の視線を痛いほど感じる。エレベーターのドアが閉まったとたん足が震えた。
声は震えて無かっただろうか? 顔色は?
無理だ。周の名前を聞いただけでも、狼狽えて平静でいられなくなるのに。
祝言の時は髪型も違ったし化粧もしていた。自分でも、全くの別人に見えた。
これはもう、神前が気のせいだったと思ってくれる事を願うしかない。
夜になって雨が降り始めた。
都会の夏の雨は湿度を伴った生温い空気が身体に纏りついて気持ちが悪い。
シャワーで汗を流した後、コンタクトから眼鏡に替えて缶ビール片手にソファに沈み込んだ。
柔らかな白熱色の光が静けさを強調して、雨の音だけが際立つ。
「疲れた」
背凭れに頭を預けて目を閉じる。今、頭を占めているのは、やはり昼間の一件だ。
長い間、風の便りにすら聞くことの出来なかった周の名を耳にして、享一の中の動揺は抑えきれない。神前は周とどういう関係なのだろうか?
あの男は、「隠した 」と言った。あれは、一体どういうことなのか? 神前の物言いからして、只の友人とは思えない。恋人なのだろうか?
では、あの祝言は何だったのか? 鳴海とは……わからない事だらけだ。
2年を隔てた今、庄谷での出来事は混迷の途を辿るばかりだった。
あの身を焦がすような短い日々。周は 『惚れた』 と何度も言葉で享一の胸を打ち抜き、煽り続け、それまで享一が知らなかった恋の懊脳と、煮え滾る情欲の波の中に引きずり込んだ。
たった3週間で、時見 享一という人間を周は根こそぎ変え、そして鮮やに身を翻しあっさり捨てた。
「アマネ……」
酷い男だと思う。
それなのに、この2年の間、享一の心は周に支配され求め続けている。あの深緑の瞳にもう一度会えたなら自分は一体、何と言うのだろうか?
もしかしたら、泣き縋り 「傍にいさせてくれ」 と乞うてしまうかもしれない。
惨めだ。
結婚まで考えた由利と別れた時にすら、こんな感情は生まれなかった。
雨足が強くなって、雨音が部屋ごと享一を包んでゆく。
夏の雨は苦手だ。
周と二人で堂に出掛けた日の雨を思い出す。少し冷んやりして、仄暗い。雨に濡れた木々や下草の鮮やかな緑が豊かな芳香を放ち、古い堂の中の2人を包んでいた。
記憶に煽られ、胸が苦しくなり熱い吐息をついた。葉山での出来事が、熱に翻弄される躯に追討ちを掛ける。
会いたい。あの多様な色彩を放つ不思議な深緑の瞳にもう一度、見つめられたいと思う。
何度も思い出す度、傷だらけになりながら抑え付けた気持ちが、変わってしまった想い人の心を求めて、深夜に降り続く雨の中へと彷徨い始めた。
反射的に、足が止まった。
なぜ立ち止まったのか、自分でも訳が解らず190cmはあろう長身をゆっくり見上げた。神前と目が合った瞬間、ズレて嫌な感覚を享一に齎していた記憶の断片が音を立てて嵌り慄いた。
『サクラ』は、永邨 周(ながむら あまね)と祝言を挙げた時の享一の偽名だ。
神前は、あの時の参列者の一人で、周と”羽衣”を舞い、渡り廊下で周と揉めていた。
振り返っては、いけなかった。
そう思った途端、身体が凍付いて動けなくなる。背中を冷たいイヤな汗が伝う。
「なるほど…これは これは、こんな所でお会いできようとは。
まさか、あなたが男性だったとは、思いもよりませんでしたね。
でも、見た瞬間、あなただってわかりましたよ」
神前は、酷薄ともとれるしたり顔で目を眇めた。宝物を見つけたトレジャーハンターよろしく、嬉しくてしょうがないとでも言わんばかりに愉悦の表情で笑っている。
どうすれば、この状況を切り抜けられる?
「あの、ちゃんと聞き取れなかったもので。私に、なにか仰られましたか?」
喉が、からからに渇いていた。
享一は、狼狽を読み取られぬように、全神経を総動員して平静を装う。
左胸から、今にも心臓が飛び出そうだ。
「周には一杯食わされたな。なるほど、木の葉を隠すなら森ということか。最も見付け難い場所 東京に、大事な花嫁を隠した訳だ。まったく小賢しいことを。それとも、君がここにいるのは偶然かな?時見……享一君?」
神崎は享一の首に掛けられた社員証を見ながら言う。
周の名を耳にして、心は完全に動揺していた。
「申し訳ございません。人違いをされているのでは? 仰られている事が、私にはよく判りませんが。急いでおりますので、失礼します」
頭を下げ、足早にエレベーターホールに向う。背中に享一を見ている男の視線を痛いほど感じる。エレベーターのドアが閉まったとたん足が震えた。
声は震えて無かっただろうか? 顔色は?
無理だ。周の名前を聞いただけでも、狼狽えて平静でいられなくなるのに。
祝言の時は髪型も違ったし化粧もしていた。自分でも、全くの別人に見えた。
これはもう、神前が気のせいだったと思ってくれる事を願うしかない。
夜になって雨が降り始めた。
都会の夏の雨は湿度を伴った生温い空気が身体に纏りついて気持ちが悪い。
シャワーで汗を流した後、コンタクトから眼鏡に替えて缶ビール片手にソファに沈み込んだ。
柔らかな白熱色の光が静けさを強調して、雨の音だけが際立つ。
「疲れた」
背凭れに頭を預けて目を閉じる。今、頭を占めているのは、やはり昼間の一件だ。
長い間、風の便りにすら聞くことの出来なかった周の名を耳にして、享一の中の動揺は抑えきれない。神前は周とどういう関係なのだろうか?
あの男は、「隠した 」と言った。あれは、一体どういうことなのか? 神前の物言いからして、只の友人とは思えない。恋人なのだろうか?
では、あの祝言は何だったのか? 鳴海とは……わからない事だらけだ。
2年を隔てた今、庄谷での出来事は混迷の途を辿るばかりだった。
あの身を焦がすような短い日々。周は 『惚れた』 と何度も言葉で享一の胸を打ち抜き、煽り続け、それまで享一が知らなかった恋の懊脳と、煮え滾る情欲の波の中に引きずり込んだ。
たった3週間で、時見 享一という人間を周は根こそぎ変え、そして鮮やに身を翻しあっさり捨てた。
「アマネ……」
酷い男だと思う。
それなのに、この2年の間、享一の心は周に支配され求め続けている。あの深緑の瞳にもう一度会えたなら自分は一体、何と言うのだろうか?
もしかしたら、泣き縋り 「傍にいさせてくれ」 と乞うてしまうかもしれない。
惨めだ。
結婚まで考えた由利と別れた時にすら、こんな感情は生まれなかった。
雨足が強くなって、雨音が部屋ごと享一を包んでゆく。
夏の雨は苦手だ。
周と二人で堂に出掛けた日の雨を思い出す。少し冷んやりして、仄暗い。雨に濡れた木々や下草の鮮やかな緑が豊かな芳香を放ち、古い堂の中の2人を包んでいた。
記憶に煽られ、胸が苦しくなり熱い吐息をついた。葉山での出来事が、熱に翻弄される躯に追討ちを掛ける。
会いたい。あの多様な色彩を放つ不思議な深緑の瞳にもう一度、見つめられたいと思う。
何度も思い出す度、傷だらけになりながら抑え付けた気持ちが、変わってしまった想い人の心を求めて、深夜に降り続く雨の中へと彷徨い始めた。