10 ,2008
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一ケ月半前、享一は強烈な失恋をして この地を訪れた。
「出来ちゃったの」
待合わせのカフェで、恋人の上原由利が衝撃の一言を口にした。
危うく手の中のコーヒーカップを落としそうになって、慌ててソーサーに下ろした。
昼下がりの静な店内に派手な陶器のぶつかる音が響く。
由利とは大学1年の後半から付き合い始めてもうすぐ2年になる。はじめは、由利の猛烈なアタックで何となく付き合いだしたが、全てが小造りで由利の女らしい仕草や甘えるような話し方に、速度を増ながら惹かれていった。
卒業するまでは・・・と、避妊には気を遣ったつもりだった。
計算を間違えたのか、避妊具に不具合があったのか。
目の前の由利は、ハンカチを泣き腫らした目に当て顔を合わせようとしない。
責任は勿論、自分にもある。由利にこんな顔をさせたことを、申し訳なく思うと同時に、自分の子供を身籠もってくれた由利が凄く愛しくて、感謝の気持ちが込み上げた。
優しい気持に満たされて、笑みが零れるのを自覚した。
父親になるのだ。
自分が父親になる。
それは、享一にとって大きな意味と希望をもたらす。
欠けた存在と過去を修正する。自分は、決して愛する人を裏切ったりはしない。
少し、時期が早かっただけだ。
卒業したら告げようと用意していた言葉を、迷わず口に登らせた。生活が苦しければ、大学をやめて働けばいい。
「由利、俺は嬉しいよ?順番は狂っちゃったけど、俺と結婚してくれる?」
返事は判っていたが、一生に一度だけ口にするプロポーズの言葉だ。
心臓が飛び出しそうなほどドキドキして、逆流する血潮で顔が真っ赤になるのが自分でもわかった。
「・・・・ないの」
「え?」
声が小さくて、聞こえなかった。由利の顔がハンカチの奥で苦悶に歪む。
その声には、言いたくない話を無理矢理に聞こうこうとしている享一を、逆に責めるかのような強張りがあった。
「父親は、瀬尾君なの」
「はぁ?」
思考が停止した。見開いた目と同じく、ポカンと開いた口から、間の抜けた声が漏れた。何を言っているのか、全然理解出来ない。
なんで、ここに自分の親友である瀬尾の名が出てくるのか、解らなかった。
「それ、どういう事?」
「だからさ、そういう事なんだって」
返事は由利の口からでは無く、背後からよく徹る男の声で降ってきた。
振り返ると、法学部の瀬尾隆典が隣席の椅子の背凭れに軽く腰を載せて立っていた。学内一のモテ男と謳われるワイルド系の容姿と、腕を組むバランスの良い長身が今日もイヤミなくらい決まっている。
彫の深い顔に穿たれたアーモンド形の瞳が、悪びれもせず笑いながら享一を見下ろしいていた。
瀬尾とは高校からの付合いで、学部は違っても時間さえ合えばつるんでいた。
互いの性格をよく知り、享一にとって唯一の親友と呼べる友人だ。2人で遊びに行く事も多く、コロコロ変る瀬尾のガールフレンドや由利を加えて3~4人で行動する事もよくあった。勿論、瀬尾は享一が由利にベタ惚れで、どっぷり傾倒していることも知っている。
チラリと由利に目を遣ると、助け船でも来たというふうに、安堵の表情を浮かべ、縋るように瀬尾を見ている。その頬に朱が差しているのを認めて、漸く事情が飲み込めた。
享一の顔が困惑と疑惑に険しく曇る。
「悪いな、キョウ」
「どういう事か、説明しろよ」
”悪いな”が”鈍いな”に聞こえた。瀬尾の少し上がった口角が、謝罪とは裏腹にこの状況を悦しんでいるように見えて怒りが頂点に達した。
「親友だと思っていたのに…」声が震える。
「俺はお前を、今も親友だと思ってるけど?」
気が付くと、享一は瀬尾の顔を思い切り殴っていた。倒れ込んで抵抗を見せない瀬尾に跨がり、胸倉を掴んで更に腕を振上げる。店内が騒然となった。
「やめて!瀬尾君を殴らないで!」
「由利…どけっ」
由利が一方的に殴ろうとする享一の前に身を伏せて瀬尾を庇った。泣きながら享一に向けて身を捩り、叩き付けるように告白した。
「私達、結婚するの! 私が、私が瀬尾君が好きなのよ、前からずっと好きだったの、だから、殴るなら、私を殴って」
「結…婚?」
由利の言葉に自分という人間がごっそり抉られ、身体のど真ん中に大きな穴が開き、自分が空っぽになった気がした。 俺は一体、誰を何を大切に想ってきたのか?
空洞になった胸に、忘却の箱にしまいこんでいた馴染みの喪失感が蘇る。
油断していた。 『ココロはカワル』のだ。
別格も特別も無い。変わらない心なんて在りはしない。
知っていたのに判っていた筈なのに、自分と由利は当て嵌まらないつもりでいた。不変の愛を信じたかっただけかもしれない。由利との恋はだけはスペシャルだと思っていた。
だってお前、俺の事が好きだって言ったじゃん
「瀬尾君にはいつでも彼女がいたし、私なんてって思ってた。でも、憧れだったのよ」
「・・・だから、親友だった俺と付き合った?」
急速に冷えていく心と裏腹に、一縷の望みに縋ろうとする自分がいる。
恋は盲目。落ちた人間の目を塞いで愚かにする。
「違うわ、最初は時見君が瀬尾君と仲がいいなんて知らなかった。時見君と付き合える事になった時は、わたし本当に嬉しかった。でも、時見君と一緒に瀬尾君に会うようになって、瀬尾君の事をどんどん好きになる気持ちが加速して、戻れなくなっちゃったのよ」
自分が可愛いと思ってきた女の瞳から、大粒の自愛の涙が零れた。
その涙を見た途端、縋る想いも一気にしらけた。
「俺の事は、好きじゃなかった?」
もう、なにも聞きたくなかったのに、自分の残骸が自動的に応答を繰り出す。
感情がエラーを起こしていた。
「好きなままでいれると思った。時見君綺麗だし優しいし、一緒にいて 凄く安心出来たの
でも、恋じゃ無かった」
「野郎に綺麗って何だよ、訳わかんねえ。優しい?それだけ?恋じゃ無かったって・・・」ソレ、ナニヨ?
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一ケ月半前、享一は強烈な失恋をして この地を訪れた。
「出来ちゃったの」
待合わせのカフェで、恋人の上原由利が衝撃の一言を口にした。
危うく手の中のコーヒーカップを落としそうになって、慌ててソーサーに下ろした。
昼下がりの静な店内に派手な陶器のぶつかる音が響く。
由利とは大学1年の後半から付き合い始めてもうすぐ2年になる。はじめは、由利の猛烈なアタックで何となく付き合いだしたが、全てが小造りで由利の女らしい仕草や甘えるような話し方に、速度を増ながら惹かれていった。
卒業するまでは・・・と、避妊には気を遣ったつもりだった。
計算を間違えたのか、避妊具に不具合があったのか。
目の前の由利は、ハンカチを泣き腫らした目に当て顔を合わせようとしない。
責任は勿論、自分にもある。由利にこんな顔をさせたことを、申し訳なく思うと同時に、自分の子供を身籠もってくれた由利が凄く愛しくて、感謝の気持ちが込み上げた。
優しい気持に満たされて、笑みが零れるのを自覚した。
父親になるのだ。
自分が父親になる。
それは、享一にとって大きな意味と希望をもたらす。
欠けた存在と過去を修正する。自分は、決して愛する人を裏切ったりはしない。
少し、時期が早かっただけだ。
卒業したら告げようと用意していた言葉を、迷わず口に登らせた。生活が苦しければ、大学をやめて働けばいい。
「由利、俺は嬉しいよ?順番は狂っちゃったけど、俺と結婚してくれる?」
返事は判っていたが、一生に一度だけ口にするプロポーズの言葉だ。
心臓が飛び出しそうなほどドキドキして、逆流する血潮で顔が真っ赤になるのが自分でもわかった。
「・・・・ないの」
「え?」
声が小さくて、聞こえなかった。由利の顔がハンカチの奥で苦悶に歪む。
その声には、言いたくない話を無理矢理に聞こうこうとしている享一を、逆に責めるかのような強張りがあった。
「父親は、瀬尾君なの」
「はぁ?」
思考が停止した。見開いた目と同じく、ポカンと開いた口から、間の抜けた声が漏れた。何を言っているのか、全然理解出来ない。
なんで、ここに自分の親友である瀬尾の名が出てくるのか、解らなかった。
「それ、どういう事?」
「だからさ、そういう事なんだって」
返事は由利の口からでは無く、背後からよく徹る男の声で降ってきた。
振り返ると、法学部の瀬尾隆典が隣席の椅子の背凭れに軽く腰を載せて立っていた。学内一のモテ男と謳われるワイルド系の容姿と、腕を組むバランスの良い長身が今日もイヤミなくらい決まっている。
彫の深い顔に穿たれたアーモンド形の瞳が、悪びれもせず笑いながら享一を見下ろしいていた。
瀬尾とは高校からの付合いで、学部は違っても時間さえ合えばつるんでいた。
互いの性格をよく知り、享一にとって唯一の親友と呼べる友人だ。2人で遊びに行く事も多く、コロコロ変る瀬尾のガールフレンドや由利を加えて3~4人で行動する事もよくあった。勿論、瀬尾は享一が由利にベタ惚れで、どっぷり傾倒していることも知っている。
チラリと由利に目を遣ると、助け船でも来たというふうに、安堵の表情を浮かべ、縋るように瀬尾を見ている。その頬に朱が差しているのを認めて、漸く事情が飲み込めた。
享一の顔が困惑と疑惑に険しく曇る。
「悪いな、キョウ」
「どういう事か、説明しろよ」
”悪いな”が”鈍いな”に聞こえた。瀬尾の少し上がった口角が、謝罪とは裏腹にこの状況を悦しんでいるように見えて怒りが頂点に達した。
「親友だと思っていたのに…」声が震える。
「俺はお前を、今も親友だと思ってるけど?」
気が付くと、享一は瀬尾の顔を思い切り殴っていた。倒れ込んで抵抗を見せない瀬尾に跨がり、胸倉を掴んで更に腕を振上げる。店内が騒然となった。
「やめて!瀬尾君を殴らないで!」
「由利…どけっ」
由利が一方的に殴ろうとする享一の前に身を伏せて瀬尾を庇った。泣きながら享一に向けて身を捩り、叩き付けるように告白した。
「私達、結婚するの! 私が、私が瀬尾君が好きなのよ、前からずっと好きだったの、だから、殴るなら、私を殴って」
「結…婚?」
由利の言葉に自分という人間がごっそり抉られ、身体のど真ん中に大きな穴が開き、自分が空っぽになった気がした。 俺は一体、誰を何を大切に想ってきたのか?
空洞になった胸に、忘却の箱にしまいこんでいた馴染みの喪失感が蘇る。
油断していた。 『ココロはカワル』のだ。
別格も特別も無い。変わらない心なんて在りはしない。
知っていたのに判っていた筈なのに、自分と由利は当て嵌まらないつもりでいた。不変の愛を信じたかっただけかもしれない。由利との恋はだけはスペシャルだと思っていた。
だってお前、俺の事が好きだって言ったじゃん
「瀬尾君にはいつでも彼女がいたし、私なんてって思ってた。でも、憧れだったのよ」
「・・・だから、親友だった俺と付き合った?」
急速に冷えていく心と裏腹に、一縷の望みに縋ろうとする自分がいる。
恋は盲目。落ちた人間の目を塞いで愚かにする。
「違うわ、最初は時見君が瀬尾君と仲がいいなんて知らなかった。時見君と付き合える事になった時は、わたし本当に嬉しかった。でも、時見君と一緒に瀬尾君に会うようになって、瀬尾君の事をどんどん好きになる気持ちが加速して、戻れなくなっちゃったのよ」
自分が可愛いと思ってきた女の瞳から、大粒の自愛の涙が零れた。
その涙を見た途端、縋る想いも一気にしらけた。
「俺の事は、好きじゃなかった?」
もう、なにも聞きたくなかったのに、自分の残骸が自動的に応答を繰り出す。
感情がエラーを起こしていた。
「好きなままでいれると思った。時見君綺麗だし優しいし、一緒にいて 凄く安心出来たの
でも、恋じゃ無かった」
「野郎に綺麗って何だよ、訳わかんねえ。優しい?それだけ?恋じゃ無かったって・・・」ソレ、ナニヨ?
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