10 ,2008
←戻る / 進む→
では、その兄は?
今夜の祝言の主役である 類稀なる美貌を持ち 高潔に咲き続ける華やかな白い百合のような風貌の、屋敷の主人を思い浮かべた。
その瞳は、日常の穏やかな何気ない仕草の折りにも、世間を取り繕う一切の仮面を打捨て、激しい情熱で享一を抱く時にも、包み込むように心を合わせるように覗いてくる。
「周(あまね)…」
名前を口にすると、切なさのようなものが込み上げてくる。身体中が周に手を延ばし同性であるその花を手折り、本当は永遠に手に入れてしまいたいと願う自分の欲望の浅ましさに今更 気がついて狼狽えた。
『ここにいる間だけ…』 周の言葉がリフレインし胸を締付ける。
享一は、唇を噛締め 屋敷に向って一礼すると踵を返して走り出した。
今、顔を合わせてしまえば総てが動き出してしまう。
太陽は遠い山の稜線に隠れ、秋の気配を強める高い空浮ぶ雲に残光を残すのみとなった。遠くの民家に灯が点り、足許から青い暗闇が急速に広がって行く。闇に捕まるまいとするように、必死に走った。
「うわぁーーっ」
不意に地面が消えた。目を開けると、頭を垂れた稲穂と、秋の気配を滲ませた蒼穹の空が視界一杯に広がっていた。視線を下ろすと1m程の段差があって、どうやら下段の田んぼに頭から突っ込んだらしい。
何故か笑いが零れた。
笑うと頭の中が軽くなって、そのまま目を閉じる。そよ風に、稲の葉が揺れてカサカサと音がして頬を擽る。こうしていると、この2ヶ月の出来事が、実は幻想だったのではないかと思えてくる。
静かだ。
襦袢の裾が捲れ上がって夕方の緩い風に裾の奥を撫でられゾクッとした。
1ヶ月前には知らなかった性的な感覚に身が竦み、立ち上がろうと撓んだ稲の上で藻掻いた。
「イテテ…」
何とか上体を起こそうとするが、着慣れない襦袢の所為で身体を安定させる事が出来ず上手くいかない。
「どうぞ」
稲の上で藻掻く享一の目の前に 整った指を軽く伸した掌がエスコートをするように差し延べられた。見上げると、高い菫色の空を背景に、今し方切り捨てたばかりの筈の美しい男の顔が無表情で享一を見下ろしていた。
残光を浴びた白いシャツが眩しい。
「周・・・さん」
「今晩、主役の筈の花嫁が、こんな格好で出迎えとは。まあ、煽情的な君の
エロティックな姿は、いつでも大歓迎 ですがね…」
周が口角を上げ、切れ長の眼を細めた。
享一は、慌てて無様に乱れた襦袢からニョキと延びた足を隠すべく、裾を掻き合わせる。
言葉の丁寧さや、太陽が尽きる前の重い光を受けて静かに燃える翠の瞳に、怒気と痛みのようなものが宿るのを認め、息が苦しくなった。
こんな顔をさせたい訳では無かった。
「逃げられませんよ」
周が眼を眇める。
享一は、周の手を借りて立ち上がり、襦袢についた汚れを払う。右手は周の左手の中にホールドされたままだ。泥で汚れてしまった足袋はもう使い物にならないだろう。双子からの嫌味の応酬は、避けられそうもない。
「逃がさない」
周の右手が顎に掛り上を向かされる。
享一は視線を外したまま答えた。
「逃げないよ・・・」
すっかり日の落ちた稲穂の海で 風に煽られ唇を合わせる。
繋いだ手が、痛いほど握られた。
俺は、今日この男と結婚する。そしてなにもかもが終わる。
周の唇が名残惜しそうに離れ、享一の肩はこれから起る現実に震えた。
藍の海1へ戻る
続きを読む
では、その兄は?
今夜の祝言の主役である 類稀なる美貌を持ち 高潔に咲き続ける華やかな白い百合のような風貌の、屋敷の主人を思い浮かべた。
その瞳は、日常の穏やかな何気ない仕草の折りにも、世間を取り繕う一切の仮面を打捨て、激しい情熱で享一を抱く時にも、包み込むように心を合わせるように覗いてくる。
「周(あまね)…」
名前を口にすると、切なさのようなものが込み上げてくる。身体中が周に手を延ばし同性であるその花を手折り、本当は永遠に手に入れてしまいたいと願う自分の欲望の浅ましさに今更 気がついて狼狽えた。
『ここにいる間だけ…』 周の言葉がリフレインし胸を締付ける。
享一は、唇を噛締め 屋敷に向って一礼すると踵を返して走り出した。
今、顔を合わせてしまえば総てが動き出してしまう。
太陽は遠い山の稜線に隠れ、秋の気配を強める高い空浮ぶ雲に残光を残すのみとなった。遠くの民家に灯が点り、足許から青い暗闇が急速に広がって行く。闇に捕まるまいとするように、必死に走った。
「うわぁーーっ」
不意に地面が消えた。目を開けると、頭を垂れた稲穂と、秋の気配を滲ませた蒼穹の空が視界一杯に広がっていた。視線を下ろすと1m程の段差があって、どうやら下段の田んぼに頭から突っ込んだらしい。
何故か笑いが零れた。
笑うと頭の中が軽くなって、そのまま目を閉じる。そよ風に、稲の葉が揺れてカサカサと音がして頬を擽る。こうしていると、この2ヶ月の出来事が、実は幻想だったのではないかと思えてくる。
静かだ。
襦袢の裾が捲れ上がって夕方の緩い風に裾の奥を撫でられゾクッとした。
1ヶ月前には知らなかった性的な感覚に身が竦み、立ち上がろうと撓んだ稲の上で藻掻いた。
「イテテ…」
何とか上体を起こそうとするが、着慣れない襦袢の所為で身体を安定させる事が出来ず上手くいかない。
「どうぞ」
稲の上で藻掻く享一の目の前に 整った指を軽く伸した掌がエスコートをするように差し延べられた。見上げると、高い菫色の空を背景に、今し方切り捨てたばかりの筈の美しい男の顔が無表情で享一を見下ろしていた。
残光を浴びた白いシャツが眩しい。
「周・・・さん」
「今晩、主役の筈の花嫁が、こんな格好で出迎えとは。まあ、煽情的な君の
エロティックな姿は、いつでも大歓迎 ですがね…」
周が口角を上げ、切れ長の眼を細めた。
享一は、慌てて無様に乱れた襦袢からニョキと延びた足を隠すべく、裾を掻き合わせる。
言葉の丁寧さや、太陽が尽きる前の重い光を受けて静かに燃える翠の瞳に、怒気と痛みのようなものが宿るのを認め、息が苦しくなった。
こんな顔をさせたい訳では無かった。
「逃げられませんよ」
周が眼を眇める。
享一は、周の手を借りて立ち上がり、襦袢についた汚れを払う。右手は周の左手の中にホールドされたままだ。泥で汚れてしまった足袋はもう使い物にならないだろう。双子からの嫌味の応酬は、避けられそうもない。
「逃がさない」
周の右手が顎に掛り上を向かされる。
享一は視線を外したまま答えた。
「逃げないよ・・・」
すっかり日の落ちた稲穂の海で 風に煽られ唇を合わせる。
繋いだ手が、痛いほど握られた。
俺は、今日この男と結婚する。そしてなにもかもが終わる。
周の唇が名残惜しそうに離れ、享一の肩はこれから起る現実に震えた。
藍の海1へ戻る
続きを読む