06 ,2013
なべて世はこともなし 金曜日
設樂が淳明の両の手首を後ろ手で戒める。勿論、件の黒いブレスレットで。二つのブレスレットを一つに繋ぐ鎖が、硬質の冷たさを身体に伝えた。
設樂の手には彼のネクタイがあった。それを淳明の目に当てがう。
ふわりと紅茶の香りが淳明の鼻腔に滑り込んだ。設樂愛用のコロンの残り香だ。手に続いて視界の自由を奪われ、少しばかり慄いていた淳明だが、その香りに昂り、安心と期待を覚える――これから始まる『夜』に。
習慣とは恐ろしいもので、会社を退けた後、淳明の足は無意識に海辺の街への路線へと向いていた。土曜日に休日出勤や特別な予定が入っていないかぎり、淳明は金曜の夜から設樂のマンションで週末を過ごした。定時退社出来れば自宅に一旦着替えに戻るが、残業が長引くと会社から直接向かう。今夜は後者のパターンだった。
前日、設樂に蹴りを入れて自宅に戻った淳明だったが、浮気でなかったことがわかると現金なもので、彼のところに行く行かないの迷いはあるものの、週末が待ち遠しくてならなくなっていた。
今朝から文面を変えつつ、一貫して「会いたい」を主張するメールが設樂から送られてきた。それを見ると、彼に対する想いが淳明の中にじわじわと広がって行くのだが、結局、返事は打てずにいる。あんな態度――蹴りを食らわした――で帰ったことでバツが悪い上に、設樂が自分とSMプレイをしたがっていると知って、返事のしように困っている。淳明も基本的には会いたいのだが。
(もし、『縛らせてくれ』て言われたら…)
昨夜、疲労感を引きずっての帰宅後、SMの縛りとはどう言うものなのかをパソコンで検索した。
SMプレイなど、自分達とは無縁のものだと思っていたが、淳明に思い当たる節がないではない。設樂はここのところ、ベッドの上では「いじわる」になっていた。つまり、なかなか欲望を解放させてくれないのだ。痛いことはしないかわり、快感で淳明を責め殺そうとしているかのようだった。あれも一種のSMプレイではないのか。
『緊縛』のサイトでは、どうすればそんな風に出来るのかわからない複雑な縛り方で、責め苛まれる女性の姿を見た。自分の顔を彼女達とすり替えてみるが、「とても無理」と冷や汗が出る。設樂のところに縄はなかったと思い直し、ではレザーのブレスレットを使ったプレイはと検索にかけると、思わず息を呑む有様。
淳明の目に触れたのは黒革のブレスレットだけだったが、他にも何かアイテムを隠し持っているのだろうか。
などと逡巡しているうちに、足は勝手にJR線へと向かった。何の疑いもなく電車に乗り込み、ぼんやり電車に揺られ、あたりまえのように設樂の住む街の駅で降りた。ホームで磯の香りを含んだ風に頬を撫でられてやっと、淳明は自分がここに来てしまったことを実感したのである。
そう多くない乗降客が家路を急ぐ中、改札を出るべきか、向かいのホームに渡って戻るべきか淳明は迷った。腕を掴まれたのは、その時だった。
「設樂」
不意のことに驚いて振り返ると、設樂が立っていた。
少し手前でバスを降りて、夏は海水浴客で賑わう砂浜を並んで歩く。
駅前で食べて帰ろうかと言った設樂だが、すぐに撤回して淳明の腕を掴んだままバス停に向かった。帰ろうかどうしようかと迷っている淳明の気持ちを読んだかのようだった。それにどうしても昨日の話が出るだろう。人前で話せることではない。
バスを下りようと言ったのは淳明だった。このまま設樂のマンションに直行するには抵抗があったし、押し黙ったまま十分以上もバスに揺られるのは辛い。
夜の海は暗く、数メートルおきに設置された堤防の街灯の明かりを頼りに、二人は砂の上を歩いた。禁止されている花火やオフロードバイクを走らせるために若者が集まる時間にはまだまだ早いらしく、人気(ひとけ)はない。音はと言えば二人の足の下で生まれる砂のこすれる音と、穏やかに打ち寄せて細かに砕ける波の音、それから少し山寄りを走る電車の通過音だけだった。
会話の最初の糸口は何だったのか。いや、沈黙を破って設樂が唐突に「別にええねん。どうしてもアツを縛りたいってわけやないから」と口にしたのだったか。ともかく核心をついた会話は、バスを降りてしばらくして始まった。
「や、まあ、したくないわけやないけど、それはもっとアツに気持ちようなって欲しいからで。そんで、もっと俺を欲しがって欲しいって言うか。俺、自信ないねん。ほら、アツは元々ノンケやろ? 拝み倒して付きおうてもらうようになったから、いつ『やっぱり女の方がええから』って離れていかれるか不安で」
設樂が不安に思っていたことは、淳明にとって意外だった。
「エッチする時はごっつ可愛いのに、普段は全然淡白やし、もしかしたらセフレ程度にしか思ってもらえてないんちゃうかって」
淳明は同性相手が初めてのノンケよりも、やはり何かと事情のわかるゲイの方が良いと言われるのではないかと不安に思っていた。傷つくことを恐れて知らず知らずに距離を取ってしまったのだが、それが設樂をもまた不安にさせていたのだと知る。
「設樂、それは誤…」
それは誤解だ、むしろ不安を抱いていたのは自分の方だと淳明は言おうとしたが、それより先に設樂が続ける。
「したら、俺がアツを繋ぎ止められるんて、エッチのテク、磨くしかないやん」
殊勝な口調でサラリと言われ、淳明の目は点になった。
「なんでそこやねん」
「とことん気持ちようさせて、女相手じゃ物足りんくらいにして、俺から離れられんくするって計画」
「アホやろ」
「アホです」
ちょうど街灯の下にさしかかり、設樂が肩を竦めたのがわかった。目が合って、淳明は思わず吹き出して笑った。設樂は少し目を見開いた後、同じく笑った。
昨日のことが、ひどく昔に思える。海の街の駅に着くまで――バスを降りるまで引きずっていたわだかまりが、すうっと消えていった。
設樂の手が淳明の手に触れて、指を絡ませ合い繋ぐ。いつもは熱いくらいの設樂の体温だが、その手は冷たかった。緊張してのことだろうか。途端に愛しさが蘇える。
「何度言うても、なかなか一緒に住むんに『うん』言うてくれへんし、ちょっと焦ってた」
「そやからって、他の男相手に練習するんか?」
「したかて、アツに痛い思いさせられへんやろ?」
街灯の下から離れ、明かりに背を向けた状態で良かったと淳明は思う。頬が緩み、そこに熱が集まっていることを感じていた。
「ごめん、さっき何か言いかけてへんかった?」
淳明のそんな状態に気づくはずもない設樂が思い出したように聞くので、「何でもない」と答えた。自分も同じく不安を抱えていたと言うつもりだったが、そのまま誤解させておくことにする。弱みをわざわざ見せる必要はなく、また性にも合わなかった。どこまでもツンデレな淳明だが、相変わらず本人に自覚はない。
砂を踏む音が止まる。設樂が立ち止まり、繋いだ手が外れた。彼の両手は淳明の頬を包んだ。
「ちゃんと言うてくれへんかったら、また俺、焦ってしまうんやけど?」
設樂の手に温もりが戻っていた。頬の熱さが移ったのではと思うほどに、実は淳明は赤面している。暗さでわからずとも、手を通して設樂は感じているだろう。
「何でもないて言うてるやろ」
「ほな、許してくれる?」
甘い声が淳明の耳をくすぐった。不安定な砂地も手伝って、淳明は腰が崩れそうになる。陶然とする感覚を必死に抑えた。夜で人気がないとは言え、外なのである。今の体勢が人目に触れれば、怪しいことこの上ない。
「『とことん気持ちよう』してくれたら許す」
消えたわだかまりの後にこみ上げてきた愛しさは、色を含み始めていた。早く設樂の腕の中で安心したかった。
「縛ってええん?」
「痛いのはちょっと勘弁」
「わかりました。あくまでも気持ち良さ最優先で」
設樂はそう言うと、淳明の唇に口づけた。
*******
夜は静かに始まった。じゃれ合うこともなく、会話もなく。
触れる膝頭で、設樂がすぐ向かいに座っていることがわかる。淳明が彼を感じる手立てはそれだけだった。
太ももに設樂の指先が触れた。ネクタイの目隠しで彼の動きが予測出来ず、淳明の肩がピクリと跳ねる。それを見て設樂が小さく笑ったのがわかった。
「設樂」
名を呼んだ淳明の口の上で啄む音がした。音を生んだのは設樂の唇だ。
弾力のある彼の唇はしかしそこには留まらず、淳明の顎の先で同じ音をたて、喉を舐め、鎖骨を甘噛みした。
そろり、そろりと設樂の唇は、甘やかな恍惚を引き出しつつ移動する。淳明の波打つ胸の理由は、呼吸ばかりではないだろう。その証拠に、身体は明らかな変化を見せる。
唇は、フッと存在を消した。
「し、設樂!」
その変化が顕著な先端に口づけられ、淳明の身体が大きく仰け反った。後ろに傾ぐのを、設樂の腕が抱きとめる。引き寄せられた淳明は、今度は前に倒れ込んだ。
背中を抱く設樂の腕が、稜線を形作る脊椎の一つ一つを指先で確かめながら下って行く。尾骨に至り撫でられると、形容しづらいものが身体中を駆け巡ったのは、その先に本来とは別の役割を覚えた場所があり、ほどなく設樂の長い指が辿りつくことへの、淫靡な期待によるものだろう。
彼の指が臀部の二つのまろみを割り拡げ、準備はしているものの、まだまだ固いその『期待の源』に触れた。
ひんやりとしたジェルが塗りこめられて一瞬引けた腰を、設樂の腕がまた戻す。
目が利かないが故に鋭敏となった感覚――この二年間で設樂によって導かれた身体は、すでに彼の指が、舌が、どのような愉悦をもたらすか知っているはずであるのに、どこを触れられても、まるで初めての経験であるかのように、淳明を追い上げて行く。
二人の間で昂る欲望の『証』が、時折互いを刺激した。それは意図したものではなく、直接的でもない。煽られた淳明の腰が揺れることによる偶然であった。
それだからもどかしい。もっとちゃんと触れたい、触れて欲しいのに、淳明の腕は自由が利かず、設樂の両手の意識はそれぞれ、後ろと胸に集中するばかり。いつもならまず温かな舌が、淳明の切ない部分を高めてくれると言うのに。
「触ってくれ」と懇願しようにも絶え間ないキスが口を塞ぎ、設樂の指が生み出す恍惚の波紋が言葉にする暇を与えない。
「腰、揺れてる。我慢出来へん?」
キスの間隙を縫って設樂が耳元で囁く。
淳明が頷くと、身体の中で蠢いていた設樂の指が一層奥へと差し込まれ、陶酔をもたらす栗の実に触れた。自分のものとは思えない淫らな一声が、淳明の耳の中で響く。
求めている解放の予感が、淳明を更なる昂揚へと誘った。
胸の辺りを彷徨っていた設樂の手が、触れられることを切望するそこへ伸びた。設樂の手は触れるには触れたが。
「し、設樂!」
上り詰めることを促すのとは反対の動きをする。解放が塞き止められたのだ。
後ろに押し倒されると同時に、淳明に埋まっていた彼の指が引き抜かれた。その手は淳明の足首を掴み、身体を開く。
いまだに緊張する設樂を迎え入れる瞬間が、今夜は待ち遠しくてたまらない。解された場所に設樂が自身を押し当てると、淳明の身体は悦びに打ち震えた。
ゆっくりと侵入する彼の体温が、淳明の身体に移って行く。今夜の設樂は決して焦らない。高まった淳明の快感が削がれてしまわないように、十分に時間をかけているのか。あまりのはがゆさに、唯一自由の利く淳明の片方の足は、設樂の腰に絡みついた。
ようやく一つに繋がると、設樂の熱い吐息が淳明の耳元で放たれる。それを合図に、淳明の身体を緩やかに、彼が穿ち始めた。
「はっ、あ…っ」
その動きに合わせて淳明の口から短く息が漏れ、切れ切れに声も混じった。
設樂の広い背中に縋りつきたいのに、淳明の腕はいまだにブレスレットの支配下にある。淳明は与えられる快感に、ただ啜り泣きながら耐えた。
下肢から伝わる振動が目隠し代わりのネクタイを緩め、やがて頭から抜けた。視界が開けるのを感じ、薄く目を開く。涙でぼやけた先に設樂の顔が見えた。
「設樂ぁ…」
「うん」
瞼にキスが落ちる。
こめかみにキスが落ちる。
耳朶にキスが落ちる。
設樂の熱い息が、耳の中に滑り込む。
「もう少し待てる?」
との囁きに、淳明は左右に首を振った。
何度も、何度も、何度も、何度も。
淳明の腰から背後に設樂は手を差し込み、手探りでブレスレットの片方を外した。やっと自由を得た淳明の手はシーツを滑り、すぐさま彼の背中を掻き抱く。設樂の動きは速くなり、淳明の官能の放出を塞き止めていた手が比例して上下した。
一際強い一撃。設樂の刹那な呻きと共に、言いようのない快感が淳明を襲う。目の奥に光を感じた。
何もかもから解放され、淳明の意識は遠のいた。
「いやぁ、燃えたなぁ」
頭の後ろで設樂の満足げで脳天気な声がした。
(燃え尽きたわ)
淳明はぐったりと俯せになったまま、心の中で悪態をつく。
一声出すのも億劫なくらい、淳明は疲れ切っていた。一晩中、組んず解れつ状態、何度達したかわからない。とにかく激しい、そして思い出すだに恥ずかしい一夜だった。
意識を飛ばすこと数回。気がつく度に設樂の身体が重なってきては求められ、設樂もまたあられもなくそれに応えた。あまりの快感に淳明が叫びそうになるのを、辛うじて設樂の口が封じてくれたものの、普段では有りえないほど声が出ていたことは確かだ。「もっと」だの、「許して」だのも連発していたに違いない。以前、二人で観たアダルト・ゲイ・ビデオの中で、夜も昼もなく嬌声を上げるネコ役に、「ありえへん」と冷静に言い放ったのはどこのどなた様だったか。
今週、淳明は「ありえない」と思ったキャラクターにことごとく当てはまっている。恋は心の箍を簡単に外してしまうものだったのだと、淳明は痛感した。
「アツ、ほんまに可愛かった」
そんな羞恥で頭が沸騰しそうな淳明のことなど知ってか知らでか、設樂は悪びれもせず耳元で囁いた。
(無視や、無視)
「ぐずっておねだりされた時、歯止め利かんかも思ったくらいや」
(実際、歯止め利かんかったっちゅーに)
「可憐っちゅう言葉は、俺の中ではアツのために存在するってこと、ようわかった」
(何言い晒す、このアホ設樂)
「アツがあないに感じてくれて、ほんま嬉しかった」
肩の先に口づけされるに至り、
「ええ加減にせえよ!」
淳明はついに我慢出来ず身体を起こした。頭が設樂の顔面を直撃する形になる。「痛い」と彼は鼻の辺りを抑えたが、それは淳明の頭も同様だった。淳明は再びベッドに俯せに倒れ込んだが、頭突きの痛みからではなく、身体に力が入らなかったためだ。
ベッドが軋み、設樂が身体を起こす気配を感じた。それにつづくカラカラと言う音は、ベランダ側の掃出しの窓を開ける音だろう。涼やかな朝の風が部屋の中に入り込み、海の匂いが充満した。微かに波の音がする。
またベッドが軋み、設樂が淳明の背後に戻った。
「声、ちょっと枯れてるな? エロい声でようさん啼いてくれたから」
自分の発する一言一言が、どれほど淳明の羞恥を煽るか、設樂は全く意に介していない。その配慮を欠くデリカシーのなさに、色々とツッコミを入れたい淳明だが諦め、ベッドに顔を埋めて、恥ずかしさを意識下から逃がす努力をした。
「気持ち良かった?」
肩を掴まれひっくり返されると、男女問わず蕩かすであろう設樂の笑顔が真上に迫る。淳明の恥ずかしさは倍増した。わざわざ聞かなくとも、夜通し淳明の反応を見ていたならわかるだろう。
「れ…練習の成果は出とった」
ようやく答えて、淳明はハタと思い出す。淳明を快感の極致にさらった夜は、立川明人と言う男との『お稽古』によって得られたものなのだと。
「どないした?」
眉根を寄せる淳明を、設樂が見つめる。
「あの人とも、こんな感じやったんか?」
「あの人?」
「アキト」
設樂の目は明後日の方向を見た。淳明は手を伸ばして、彼の前髪を掴み視線を戻させる。
「そやから、アキトとは練習しただけで、最後までしてません」
「ジェルやコンドーム、使うた癖に」
「あれは、ほんまにあちこち汚さんためで…。『俺をイカせられなかったら、手本を見せるから』って言いよるし。本気出してやらんと、なかなかイカへんのや、あの人は。第一、アキトはバリバリのタチやねんで。俺となんてありえへん」
「え?!」
タチと言うと、設樂のポジションである。あの華奢でキレイ系の立川明人が攻める方だとは、俄かには信じがたい。櫻井とは仕事のパートナー以上の、只ならぬ関係に見えた。設樂よりは体格が劣るとは言え、ベッドで櫻井が淳明と同じ立場だとは思えなかった。
「そやからオッサン、毎回苦労してんねん。どっちがマウント取るか、まずそっからやから。アキトは合気道の段持ちやねん。気ぃ抜くとすぐにひっくり返される。俺、ホンマに貞操の危機やってんで」
設樂は口をへの字に曲げた後、ぶるると身を震わせた。複雑な表情が、思い出したくないと語っていた。どうやら、アキトとは本当に何もなかったらしい。
「まあ、ええセンセイやったのは確か。アツも満足させられたし。またしよな?」
「お断りや」
掠れた声で間髪入れずにはっきりと淳明は答えた。
予測とは違っていたらしい反応に、設樂は「え?!」と驚く。
「何で?! 良かったやろ?! ごっつ良かったやろ?!」
確かに良かった。それは淳明も認める。しかし毎週末これでは、淳明の身が持たない。設樂は「毎週末」とは言わなかったが、そうなるに決まっている。それでなくともここ最近、設樂の施すセックスは徐々にエスカレートしていた。これで味をしめたに違いないのだ。
今日はとてもベッドから出られそうになかったし、起きられたとしてせいぜい部屋の中で過ごすくらいだろう。
「せっかくの休みでも、どっこも出かけられへん。映画行ったり、買い物したり、一緒にしたいこといっぱいあんのに、エッチだけで時間潰れるんて、それこそセフレとおなしやんけ」
「アツ」
「オレはおまえとセックスだけしたいわけやないし、おまえのテクとやらに惚れたわけでもない。一緒におるだけで楽しいし、これからもずっと一緒におれたらええと…」
続きの言葉は設樂の唇に吸い取られた。少し厚ぼったく、弾力のある設樂の唇の感触が夜の記憶を引き出して、淳明の身体に熱を呼び戻しつつある。
しかしキスは、キスだけで終わった。唇を離し、再び淳明を眼下にする設樂には、極上の笑みが浮かんでいる。
「アツは俺んこと、そないに想ってくれてたんや? 俺、嬉しくて泣きそう」
淳明はまた手を伸ばした。今度は両手を設樂の髪に差し入れ、くしゃくしゃと撫でる。多少乱暴なのは、照れ隠しも入っていた。
「泣いてる暇あったら、朝飯作ってくれへんかな。晩飯抜いて、カロリーごっつ消費したから、腹減って堪らんのやけど?」
乱れて目にかかる髪をかき上げ、設樂は「わかった、すぐに」と身を起こす。
「風呂も入りたい」
「ほな、湯、張ってくる。アツがゆっくり浸かってる間に、朝飯作っとくから」
「それから」
ベッドを下りかけた設樂に呼びかける。
「ん?」
「も一回、キスしてくれ」
設樂は「喜んで」と答えて、再び淳明の上に戻った。
キスをして、風呂に入って、朝食を取って――今日は無理だが一日身体を休めたら、多分、明日には体力も戻って普通に過ごせるだろう。そうしたら、設樂に言おうと淳明は思った。
「不動産屋、覗きに行かへん?」
きっとまた極上の笑みを見せるに違いなく、それを想像すると淳明は嬉しくて、彼の首に回した腕に力が入った。
< 木曜日

◆ なべて世はこともなし ◆
※こちらは『卯月屋文庫』にての公開になり、別窓で開きます。
設樂が淳明の両の手首を後ろ手で戒める。勿論、件の黒いブレスレットで。二つのブレスレットを一つに繋ぐ鎖が、硬質の冷たさを身体に伝えた。
設樂の手には彼のネクタイがあった。それを淳明の目に当てがう。
ふわりと紅茶の香りが淳明の鼻腔に滑り込んだ。設樂愛用のコロンの残り香だ。手に続いて視界の自由を奪われ、少しばかり慄いていた淳明だが、その香りに昂り、安心と期待を覚える――これから始まる『夜』に。
習慣とは恐ろしいもので、会社を退けた後、淳明の足は無意識に海辺の街への路線へと向いていた。土曜日に休日出勤や特別な予定が入っていないかぎり、淳明は金曜の夜から設樂のマンションで週末を過ごした。定時退社出来れば自宅に一旦着替えに戻るが、残業が長引くと会社から直接向かう。今夜は後者のパターンだった。
前日、設樂に蹴りを入れて自宅に戻った淳明だったが、浮気でなかったことがわかると現金なもので、彼のところに行く行かないの迷いはあるものの、週末が待ち遠しくてならなくなっていた。
今朝から文面を変えつつ、一貫して「会いたい」を主張するメールが設樂から送られてきた。それを見ると、彼に対する想いが淳明の中にじわじわと広がって行くのだが、結局、返事は打てずにいる。あんな態度――蹴りを食らわした――で帰ったことでバツが悪い上に、設樂が自分とSMプレイをしたがっていると知って、返事のしように困っている。淳明も基本的には会いたいのだが。
(もし、『縛らせてくれ』て言われたら…)
昨夜、疲労感を引きずっての帰宅後、SMの縛りとはどう言うものなのかをパソコンで検索した。
SMプレイなど、自分達とは無縁のものだと思っていたが、淳明に思い当たる節がないではない。設樂はここのところ、ベッドの上では「いじわる」になっていた。つまり、なかなか欲望を解放させてくれないのだ。痛いことはしないかわり、快感で淳明を責め殺そうとしているかのようだった。あれも一種のSMプレイではないのか。
『緊縛』のサイトでは、どうすればそんな風に出来るのかわからない複雑な縛り方で、責め苛まれる女性の姿を見た。自分の顔を彼女達とすり替えてみるが、「とても無理」と冷や汗が出る。設樂のところに縄はなかったと思い直し、ではレザーのブレスレットを使ったプレイはと検索にかけると、思わず息を呑む有様。
淳明の目に触れたのは黒革のブレスレットだけだったが、他にも何かアイテムを隠し持っているのだろうか。
などと逡巡しているうちに、足は勝手にJR線へと向かった。何の疑いもなく電車に乗り込み、ぼんやり電車に揺られ、あたりまえのように設樂の住む街の駅で降りた。ホームで磯の香りを含んだ風に頬を撫でられてやっと、淳明は自分がここに来てしまったことを実感したのである。
そう多くない乗降客が家路を急ぐ中、改札を出るべきか、向かいのホームに渡って戻るべきか淳明は迷った。腕を掴まれたのは、その時だった。
「設樂」
不意のことに驚いて振り返ると、設樂が立っていた。
少し手前でバスを降りて、夏は海水浴客で賑わう砂浜を並んで歩く。
駅前で食べて帰ろうかと言った設樂だが、すぐに撤回して淳明の腕を掴んだままバス停に向かった。帰ろうかどうしようかと迷っている淳明の気持ちを読んだかのようだった。それにどうしても昨日の話が出るだろう。人前で話せることではない。
バスを下りようと言ったのは淳明だった。このまま設樂のマンションに直行するには抵抗があったし、押し黙ったまま十分以上もバスに揺られるのは辛い。
夜の海は暗く、数メートルおきに設置された堤防の街灯の明かりを頼りに、二人は砂の上を歩いた。禁止されている花火やオフロードバイクを走らせるために若者が集まる時間にはまだまだ早いらしく、人気(ひとけ)はない。音はと言えば二人の足の下で生まれる砂のこすれる音と、穏やかに打ち寄せて細かに砕ける波の音、それから少し山寄りを走る電車の通過音だけだった。
会話の最初の糸口は何だったのか。いや、沈黙を破って設樂が唐突に「別にええねん。どうしてもアツを縛りたいってわけやないから」と口にしたのだったか。ともかく核心をついた会話は、バスを降りてしばらくして始まった。
「や、まあ、したくないわけやないけど、それはもっとアツに気持ちようなって欲しいからで。そんで、もっと俺を欲しがって欲しいって言うか。俺、自信ないねん。ほら、アツは元々ノンケやろ? 拝み倒して付きおうてもらうようになったから、いつ『やっぱり女の方がええから』って離れていかれるか不安で」
設樂が不安に思っていたことは、淳明にとって意外だった。
「エッチする時はごっつ可愛いのに、普段は全然淡白やし、もしかしたらセフレ程度にしか思ってもらえてないんちゃうかって」
淳明は同性相手が初めてのノンケよりも、やはり何かと事情のわかるゲイの方が良いと言われるのではないかと不安に思っていた。傷つくことを恐れて知らず知らずに距離を取ってしまったのだが、それが設樂をもまた不安にさせていたのだと知る。
「設樂、それは誤…」
それは誤解だ、むしろ不安を抱いていたのは自分の方だと淳明は言おうとしたが、それより先に設樂が続ける。
「したら、俺がアツを繋ぎ止められるんて、エッチのテク、磨くしかないやん」
殊勝な口調でサラリと言われ、淳明の目は点になった。
「なんでそこやねん」
「とことん気持ちようさせて、女相手じゃ物足りんくらいにして、俺から離れられんくするって計画」
「アホやろ」
「アホです」
ちょうど街灯の下にさしかかり、設樂が肩を竦めたのがわかった。目が合って、淳明は思わず吹き出して笑った。設樂は少し目を見開いた後、同じく笑った。
昨日のことが、ひどく昔に思える。海の街の駅に着くまで――バスを降りるまで引きずっていたわだかまりが、すうっと消えていった。
設樂の手が淳明の手に触れて、指を絡ませ合い繋ぐ。いつもは熱いくらいの設樂の体温だが、その手は冷たかった。緊張してのことだろうか。途端に愛しさが蘇える。
「何度言うても、なかなか一緒に住むんに『うん』言うてくれへんし、ちょっと焦ってた」
「そやからって、他の男相手に練習するんか?」
「したかて、アツに痛い思いさせられへんやろ?」
街灯の下から離れ、明かりに背を向けた状態で良かったと淳明は思う。頬が緩み、そこに熱が集まっていることを感じていた。
「ごめん、さっき何か言いかけてへんかった?」
淳明のそんな状態に気づくはずもない設樂が思い出したように聞くので、「何でもない」と答えた。自分も同じく不安を抱えていたと言うつもりだったが、そのまま誤解させておくことにする。弱みをわざわざ見せる必要はなく、また性にも合わなかった。どこまでもツンデレな淳明だが、相変わらず本人に自覚はない。
砂を踏む音が止まる。設樂が立ち止まり、繋いだ手が外れた。彼の両手は淳明の頬を包んだ。
「ちゃんと言うてくれへんかったら、また俺、焦ってしまうんやけど?」
設樂の手に温もりが戻っていた。頬の熱さが移ったのではと思うほどに、実は淳明は赤面している。暗さでわからずとも、手を通して設樂は感じているだろう。
「何でもないて言うてるやろ」
「ほな、許してくれる?」
甘い声が淳明の耳をくすぐった。不安定な砂地も手伝って、淳明は腰が崩れそうになる。陶然とする感覚を必死に抑えた。夜で人気がないとは言え、外なのである。今の体勢が人目に触れれば、怪しいことこの上ない。
「『とことん気持ちよう』してくれたら許す」
消えたわだかまりの後にこみ上げてきた愛しさは、色を含み始めていた。早く設樂の腕の中で安心したかった。
「縛ってええん?」
「痛いのはちょっと勘弁」
「わかりました。あくまでも気持ち良さ最優先で」
設樂はそう言うと、淳明の唇に口づけた。
*******
夜は静かに始まった。じゃれ合うこともなく、会話もなく。
触れる膝頭で、設樂がすぐ向かいに座っていることがわかる。淳明が彼を感じる手立てはそれだけだった。
太ももに設樂の指先が触れた。ネクタイの目隠しで彼の動きが予測出来ず、淳明の肩がピクリと跳ねる。それを見て設樂が小さく笑ったのがわかった。
「設樂」
名を呼んだ淳明の口の上で啄む音がした。音を生んだのは設樂の唇だ。
弾力のある彼の唇はしかしそこには留まらず、淳明の顎の先で同じ音をたて、喉を舐め、鎖骨を甘噛みした。
そろり、そろりと設樂の唇は、甘やかな恍惚を引き出しつつ移動する。淳明の波打つ胸の理由は、呼吸ばかりではないだろう。その証拠に、身体は明らかな変化を見せる。
唇は、フッと存在を消した。
「し、設樂!」
その変化が顕著な先端に口づけられ、淳明の身体が大きく仰け反った。後ろに傾ぐのを、設樂の腕が抱きとめる。引き寄せられた淳明は、今度は前に倒れ込んだ。
背中を抱く設樂の腕が、稜線を形作る脊椎の一つ一つを指先で確かめながら下って行く。尾骨に至り撫でられると、形容しづらいものが身体中を駆け巡ったのは、その先に本来とは別の役割を覚えた場所があり、ほどなく設樂の長い指が辿りつくことへの、淫靡な期待によるものだろう。
彼の指が臀部の二つのまろみを割り拡げ、準備はしているものの、まだまだ固いその『期待の源』に触れた。
ひんやりとしたジェルが塗りこめられて一瞬引けた腰を、設樂の腕がまた戻す。
目が利かないが故に鋭敏となった感覚――この二年間で設樂によって導かれた身体は、すでに彼の指が、舌が、どのような愉悦をもたらすか知っているはずであるのに、どこを触れられても、まるで初めての経験であるかのように、淳明を追い上げて行く。
二人の間で昂る欲望の『証』が、時折互いを刺激した。それは意図したものではなく、直接的でもない。煽られた淳明の腰が揺れることによる偶然であった。
それだからもどかしい。もっとちゃんと触れたい、触れて欲しいのに、淳明の腕は自由が利かず、設樂の両手の意識はそれぞれ、後ろと胸に集中するばかり。いつもならまず温かな舌が、淳明の切ない部分を高めてくれると言うのに。
「触ってくれ」と懇願しようにも絶え間ないキスが口を塞ぎ、設樂の指が生み出す恍惚の波紋が言葉にする暇を与えない。
「腰、揺れてる。我慢出来へん?」
キスの間隙を縫って設樂が耳元で囁く。
淳明が頷くと、身体の中で蠢いていた設樂の指が一層奥へと差し込まれ、陶酔をもたらす栗の実に触れた。自分のものとは思えない淫らな一声が、淳明の耳の中で響く。
求めている解放の予感が、淳明を更なる昂揚へと誘った。
胸の辺りを彷徨っていた設樂の手が、触れられることを切望するそこへ伸びた。設樂の手は触れるには触れたが。
「し、設樂!」
上り詰めることを促すのとは反対の動きをする。解放が塞き止められたのだ。
後ろに押し倒されると同時に、淳明に埋まっていた彼の指が引き抜かれた。その手は淳明の足首を掴み、身体を開く。
いまだに緊張する設樂を迎え入れる瞬間が、今夜は待ち遠しくてたまらない。解された場所に設樂が自身を押し当てると、淳明の身体は悦びに打ち震えた。
ゆっくりと侵入する彼の体温が、淳明の身体に移って行く。今夜の設樂は決して焦らない。高まった淳明の快感が削がれてしまわないように、十分に時間をかけているのか。あまりのはがゆさに、唯一自由の利く淳明の片方の足は、設樂の腰に絡みついた。
ようやく一つに繋がると、設樂の熱い吐息が淳明の耳元で放たれる。それを合図に、淳明の身体を緩やかに、彼が穿ち始めた。
「はっ、あ…っ」
その動きに合わせて淳明の口から短く息が漏れ、切れ切れに声も混じった。
設樂の広い背中に縋りつきたいのに、淳明の腕はいまだにブレスレットの支配下にある。淳明は与えられる快感に、ただ啜り泣きながら耐えた。
下肢から伝わる振動が目隠し代わりのネクタイを緩め、やがて頭から抜けた。視界が開けるのを感じ、薄く目を開く。涙でぼやけた先に設樂の顔が見えた。
「設樂ぁ…」
「うん」
瞼にキスが落ちる。
こめかみにキスが落ちる。
耳朶にキスが落ちる。
設樂の熱い息が、耳の中に滑り込む。
「もう少し待てる?」
との囁きに、淳明は左右に首を振った。
何度も、何度も、何度も、何度も。
淳明の腰から背後に設樂は手を差し込み、手探りでブレスレットの片方を外した。やっと自由を得た淳明の手はシーツを滑り、すぐさま彼の背中を掻き抱く。設樂の動きは速くなり、淳明の官能の放出を塞き止めていた手が比例して上下した。
一際強い一撃。設樂の刹那な呻きと共に、言いようのない快感が淳明を襲う。目の奥に光を感じた。
何もかもから解放され、淳明の意識は遠のいた。
「いやぁ、燃えたなぁ」
頭の後ろで設樂の満足げで脳天気な声がした。
(燃え尽きたわ)
淳明はぐったりと俯せになったまま、心の中で悪態をつく。
一声出すのも億劫なくらい、淳明は疲れ切っていた。一晩中、組んず解れつ状態、何度達したかわからない。とにかく激しい、そして思い出すだに恥ずかしい一夜だった。
意識を飛ばすこと数回。気がつく度に設樂の身体が重なってきては求められ、設樂もまたあられもなくそれに応えた。あまりの快感に淳明が叫びそうになるのを、辛うじて設樂の口が封じてくれたものの、普段では有りえないほど声が出ていたことは確かだ。「もっと」だの、「許して」だのも連発していたに違いない。以前、二人で観たアダルト・ゲイ・ビデオの中で、夜も昼もなく嬌声を上げるネコ役に、「ありえへん」と冷静に言い放ったのはどこのどなた様だったか。
今週、淳明は「ありえない」と思ったキャラクターにことごとく当てはまっている。恋は心の箍を簡単に外してしまうものだったのだと、淳明は痛感した。
「アツ、ほんまに可愛かった」
そんな羞恥で頭が沸騰しそうな淳明のことなど知ってか知らでか、設樂は悪びれもせず耳元で囁いた。
(無視や、無視)
「ぐずっておねだりされた時、歯止め利かんかも思ったくらいや」
(実際、歯止め利かんかったっちゅーに)
「可憐っちゅう言葉は、俺の中ではアツのために存在するってこと、ようわかった」
(何言い晒す、このアホ設樂)
「アツがあないに感じてくれて、ほんま嬉しかった」
肩の先に口づけされるに至り、
「ええ加減にせえよ!」
淳明はついに我慢出来ず身体を起こした。頭が設樂の顔面を直撃する形になる。「痛い」と彼は鼻の辺りを抑えたが、それは淳明の頭も同様だった。淳明は再びベッドに俯せに倒れ込んだが、頭突きの痛みからではなく、身体に力が入らなかったためだ。
ベッドが軋み、設樂が身体を起こす気配を感じた。それにつづくカラカラと言う音は、ベランダ側の掃出しの窓を開ける音だろう。涼やかな朝の風が部屋の中に入り込み、海の匂いが充満した。微かに波の音がする。
またベッドが軋み、設樂が淳明の背後に戻った。
「声、ちょっと枯れてるな? エロい声でようさん啼いてくれたから」
自分の発する一言一言が、どれほど淳明の羞恥を煽るか、設樂は全く意に介していない。その配慮を欠くデリカシーのなさに、色々とツッコミを入れたい淳明だが諦め、ベッドに顔を埋めて、恥ずかしさを意識下から逃がす努力をした。
「気持ち良かった?」
肩を掴まれひっくり返されると、男女問わず蕩かすであろう設樂の笑顔が真上に迫る。淳明の恥ずかしさは倍増した。わざわざ聞かなくとも、夜通し淳明の反応を見ていたならわかるだろう。
「れ…練習の成果は出とった」
ようやく答えて、淳明はハタと思い出す。淳明を快感の極致にさらった夜は、立川明人と言う男との『お稽古』によって得られたものなのだと。
「どないした?」
眉根を寄せる淳明を、設樂が見つめる。
「あの人とも、こんな感じやったんか?」
「あの人?」
「アキト」
設樂の目は明後日の方向を見た。淳明は手を伸ばして、彼の前髪を掴み視線を戻させる。
「そやから、アキトとは練習しただけで、最後までしてません」
「ジェルやコンドーム、使うた癖に」
「あれは、ほんまにあちこち汚さんためで…。『俺をイカせられなかったら、手本を見せるから』って言いよるし。本気出してやらんと、なかなかイカへんのや、あの人は。第一、アキトはバリバリのタチやねんで。俺となんてありえへん」
「え?!」
タチと言うと、設樂のポジションである。あの華奢でキレイ系の立川明人が攻める方だとは、俄かには信じがたい。櫻井とは仕事のパートナー以上の、只ならぬ関係に見えた。設樂よりは体格が劣るとは言え、ベッドで櫻井が淳明と同じ立場だとは思えなかった。
「そやからオッサン、毎回苦労してんねん。どっちがマウント取るか、まずそっからやから。アキトは合気道の段持ちやねん。気ぃ抜くとすぐにひっくり返される。俺、ホンマに貞操の危機やってんで」
設樂は口をへの字に曲げた後、ぶるると身を震わせた。複雑な表情が、思い出したくないと語っていた。どうやら、アキトとは本当に何もなかったらしい。
「まあ、ええセンセイやったのは確か。アツも満足させられたし。またしよな?」
「お断りや」
掠れた声で間髪入れずにはっきりと淳明は答えた。
予測とは違っていたらしい反応に、設樂は「え?!」と驚く。
「何で?! 良かったやろ?! ごっつ良かったやろ?!」
確かに良かった。それは淳明も認める。しかし毎週末これでは、淳明の身が持たない。設樂は「毎週末」とは言わなかったが、そうなるに決まっている。それでなくともここ最近、設樂の施すセックスは徐々にエスカレートしていた。これで味をしめたに違いないのだ。
今日はとてもベッドから出られそうになかったし、起きられたとしてせいぜい部屋の中で過ごすくらいだろう。
「せっかくの休みでも、どっこも出かけられへん。映画行ったり、買い物したり、一緒にしたいこといっぱいあんのに、エッチだけで時間潰れるんて、それこそセフレとおなしやんけ」
「アツ」
「オレはおまえとセックスだけしたいわけやないし、おまえのテクとやらに惚れたわけでもない。一緒におるだけで楽しいし、これからもずっと一緒におれたらええと…」
続きの言葉は設樂の唇に吸い取られた。少し厚ぼったく、弾力のある設樂の唇の感触が夜の記憶を引き出して、淳明の身体に熱を呼び戻しつつある。
しかしキスは、キスだけで終わった。唇を離し、再び淳明を眼下にする設樂には、極上の笑みが浮かんでいる。
「アツは俺んこと、そないに想ってくれてたんや? 俺、嬉しくて泣きそう」
淳明はまた手を伸ばした。今度は両手を設樂の髪に差し入れ、くしゃくしゃと撫でる。多少乱暴なのは、照れ隠しも入っていた。
「泣いてる暇あったら、朝飯作ってくれへんかな。晩飯抜いて、カロリーごっつ消費したから、腹減って堪らんのやけど?」
乱れて目にかかる髪をかき上げ、設樂は「わかった、すぐに」と身を起こす。
「風呂も入りたい」
「ほな、湯、張ってくる。アツがゆっくり浸かってる間に、朝飯作っとくから」
「それから」
ベッドを下りかけた設樂に呼びかける。
「ん?」
「も一回、キスしてくれ」
設樂は「喜んで」と答えて、再び淳明の上に戻った。
キスをして、風呂に入って、朝食を取って――今日は無理だが一日身体を休めたら、多分、明日には体力も戻って普通に過ごせるだろう。そうしたら、設樂に言おうと淳明は思った。
「不動産屋、覗きに行かへん?」
きっとまた極上の笑みを見せるに違いなく、それを想像すると淳明は嬉しくて、彼の首に回した腕に力が入った。
< 木曜日

◆ なべて世はこともなし ◆
※こちらは『卯月屋文庫』にての公開になり、別窓で開きます。