06 ,2011
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<ローズ・フィーバー 5>
「ジャスからショウルームになら、いくらでも見に来ていいって伝言も預かってる。今夜ならジャスも遅番だし、混んでなければゆっくりマシンを見せてくれるんじゃないかな」
「今夜、か・・・」
“外勤”の疲れが錆みたいにこびり付いて身体に残る。
他人の潜在意識のの中に潜り込むダイビングは、ダイバーの心身にそれ相応の負担をもたらす。今回はトラップを回避した事で、いつもとは比較にならないくらい体力を消耗した。
黒い瞳が思案するようにアトリウムの外を見る。
陽は落ち、空は一等星を嵌めこんだ濃紺の闇が西の空に残る太陽の名残を追いかける。
夜の帳の下りたガラスの向こうに、自分に向かって手を伸ばした男の姿が蘇った。黒いレザーの手袋を嵌めた手がやけに鮮明に脳裏に残っていた。
あの男は、本当に自分に助けを求めて手を伸ばしたのだろうか?
そして、墜落。
あれは自分を守るためではなかったか。いや、そんなはずはない。
自分の命も危ういのに、何の面識もない人間を守ろうなどありえるはずがない。頭の奥に鈍い痛みを覚え、ダンテに感づかせないよう重い息をつく。あのドライバーは、自分自身が助かるためにエンジンを切ったのだ。
一連の出来事のことを考えると、どくどくと体内の奥底に潜む何かがざわめき出す。
何かが起こりそうな予感に耳の後の生え際がチリチリと逆立つのを感じた。
エレベーターに着くと、発光する長いデッキの反対側から今しがたコンファレンスルームから出てきた数人の男たちが歩いてくる。
コンファレンスルームのあるフロアーは、一般社員の立ち入りを許していない。
メンバーの顔ぶれを見たダンテが隣で緊張するのが手に取るように伝わってきた。
男達は4人。
上質のスーツに身を包むどの男にも隙がなく、とりまく空気には重い緊張感が漂う。
アスクレピオス製薬の裏の貌。
つまり、ノアが本当に所属する部署の幹部たちだ。情報を集め、データを盗み世界を掌握する。
今やアスクレピオス製薬は薬品に留まらず、政治と金融、そして資源をその手中に収めていた。
「ノア」
その場の緊張感など気にするでもなく、先頭の男が声をかけてきた。
他の男達と同じく長躯にダークな色のスーツを纏っているが、醸す雰囲気から明らかに他とは別格であることが伺える。灰色の鋭い眼光。軽く撫で付けた黒い髪。
シャープな顔の造詣は整っているが、人を寄せ付けない底冷えのするような冷たさがある。
迅(ジン)・K・クロスト。
アスクレピオス製薬をいまの規模にまで成長させた男。
37歳の若さで今の地位につくには、普通の事をやっていたのでは成しえない。能力に恵まれ、ノアたちが集めた情報を最大限に生かす術に長けたジンの手は、清廉でも精白でもない。
温度のない灰色の目が隣のダンテを一瞥するとそこには誰もいないかのように、ノアの顔に戻った。
二人は同じ年齢のはずだが、迅の態度にはダンテを気にかける様子は一切ない。存在そのものを無視されたダンテも、ただ硬直して突っ立っている。
居た堪れない気分でノアも黙り、6人の寡黙な男達で重い空気が流れた。
「ラウンジにいたのか。怪我は?」
「別に」
エアフライが衝突した報告はすぐに届いたに違いなかったが、翼がガラスにぶつかった衝撃音くらいは聞こえていただろう。
素早く躰の隅々まで視線を走らせる迅の鋭い眼差しを避けるように顔が俯く。
「今晩、食事に行こう。一度、戻って着替えてくるといい」
怪我の心配かと思ったら、服装チェックだ。気の抜けた息を吐き、顔を上げる。
床の発光を受けた鈍色の目が真っ直ぐにノアを見ている。自分を突き刺すようなこの目にぶつかる度、この男の目も心も血の通わない冷たい金属でできているのではないかと思う。
「先約が入ってるから」
決心がついた。今夜ははBoroth社のショウルームに行く。
迅が視線だけ動かし、ノアの背後に立つダンテをちらっともう一度見る。
ひゃああーー!!という突然の叫びに、ノアの心臓がドキッと撥ねた。
実際に声が出ている訳ではない。ダンテの動揺が強い思念となって、頭の中に飛び込んできたのだ。
『僕のことはいいからっ。な、そっちを優先してくれぇーー!』続けて叫び声が飛んでくる。
横を見るとダンテの瞳孔は開き脂汗をかいている。唇が緊張で震え、実際今にも叫び出しそうな有様だ。
力が抜ける。ノアは溜息し、こめかみを押さえた。
戸惑い困惑するダンテの心の声は、目の前の男にも伝わっている筈だ。黙ってパニックを起こすダンテを、つまらないものでも見るように冷徹な目が見下ろす。そして、ダンテとつるむノアの顔を見ると、小馬鹿にしたように薄笑いを浮かべた。
迅を憮然と見返しながら、同年齢の男相手に隣で萎縮するダンテに憫察と情けなさの両方をを覚えた。
ガツンと言ってやれとは思わない。せめて、ビビらないでくれ。
「まあいい、それなら遅くなっても構わない。こっちに顔を出してくれ」
わざとらしく溜め息を吐いてやる。
「だから、先約があるって言ってる」
「親の言う事は黙って聞くものだろう」
黒い瞳が一点を睨む。後の幹部どもの前ですげなく振ってやろうか。
新世界どころか、今や世界中から冷血と恐れられるこの男に恥をかかせてやりたいという強い欲求に駆られつつ思い直す。
そもそも迅と同じ匂いを放つ男達は、ジンのプライベートになど興味を持たない。どこかに感情を置き忘れた連中だ。
「わかった。俺も“父さん”に聞きたいことがあるし、気が向いたら行く」
ノアたちが呼んだエレベーターに、当然のように先に他の幹部たちが乗り込む。最後にジンが乗ると先に乗った男達は迅を囲むように位置に移動し、自らを狙撃から迅を守る盾にする。本当に、ロボットのような連中だ。
「悪くないな。お前から親呼ばわりされるのも、時には面映くて面白い」
厭味の応酬をさらりと受け流し、迅は嘯く。
赤は緑に、昼は夜に。
この男にかかれば自分の言い分など、小虫の羽音ほどに意味を成さなくなる。
例え動かせない約束があろうと、仕事の最中だろうと、指先一本で合図されるだけで欲望を吐き出すために自分はこの男の元に向かってしまう。
降下を始めた籠の中の男に目をやると、ガラス越しに迅が口元だけで笑う。何があろうとノアが自分の元を訪れることを見越した余裕の笑いを、苦い思いで見返した。
ジョーカーは要らない。
そう思いながらカードを手放せないのは、他でもない自分だ。
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<ローズ・フィーバー 5>
「ジャスからショウルームになら、いくらでも見に来ていいって伝言も預かってる。今夜ならジャスも遅番だし、混んでなければゆっくりマシンを見せてくれるんじゃないかな」
「今夜、か・・・」
“外勤”の疲れが錆みたいにこびり付いて身体に残る。
他人の潜在意識のの中に潜り込むダイビングは、ダイバーの心身にそれ相応の負担をもたらす。今回はトラップを回避した事で、いつもとは比較にならないくらい体力を消耗した。
黒い瞳が思案するようにアトリウムの外を見る。
陽は落ち、空は一等星を嵌めこんだ濃紺の闇が西の空に残る太陽の名残を追いかける。
夜の帳の下りたガラスの向こうに、自分に向かって手を伸ばした男の姿が蘇った。黒いレザーの手袋を嵌めた手がやけに鮮明に脳裏に残っていた。
あの男は、本当に自分に助けを求めて手を伸ばしたのだろうか?
そして、墜落。
あれは自分を守るためではなかったか。いや、そんなはずはない。
自分の命も危ういのに、何の面識もない人間を守ろうなどありえるはずがない。頭の奥に鈍い痛みを覚え、ダンテに感づかせないよう重い息をつく。あのドライバーは、自分自身が助かるためにエンジンを切ったのだ。
一連の出来事のことを考えると、どくどくと体内の奥底に潜む何かがざわめき出す。
何かが起こりそうな予感に耳の後の生え際がチリチリと逆立つのを感じた。
エレベーターに着くと、発光する長いデッキの反対側から今しがたコンファレンスルームから出てきた数人の男たちが歩いてくる。
コンファレンスルームのあるフロアーは、一般社員の立ち入りを許していない。
メンバーの顔ぶれを見たダンテが隣で緊張するのが手に取るように伝わってきた。
男達は4人。
上質のスーツに身を包むどの男にも隙がなく、とりまく空気には重い緊張感が漂う。
アスクレピオス製薬の裏の貌。
つまり、ノアが本当に所属する部署の幹部たちだ。情報を集め、データを盗み世界を掌握する。
今やアスクレピオス製薬は薬品に留まらず、政治と金融、そして資源をその手中に収めていた。
「ノア」
その場の緊張感など気にするでもなく、先頭の男が声をかけてきた。
他の男達と同じく長躯にダークな色のスーツを纏っているが、醸す雰囲気から明らかに他とは別格であることが伺える。灰色の鋭い眼光。軽く撫で付けた黒い髪。
シャープな顔の造詣は整っているが、人を寄せ付けない底冷えのするような冷たさがある。
迅(ジン)・K・クロスト。
アスクレピオス製薬をいまの規模にまで成長させた男。
37歳の若さで今の地位につくには、普通の事をやっていたのでは成しえない。能力に恵まれ、ノアたちが集めた情報を最大限に生かす術に長けたジンの手は、清廉でも精白でもない。
温度のない灰色の目が隣のダンテを一瞥するとそこには誰もいないかのように、ノアの顔に戻った。
二人は同じ年齢のはずだが、迅の態度にはダンテを気にかける様子は一切ない。存在そのものを無視されたダンテも、ただ硬直して突っ立っている。
居た堪れない気分でノアも黙り、6人の寡黙な男達で重い空気が流れた。
「ラウンジにいたのか。怪我は?」
「別に」
エアフライが衝突した報告はすぐに届いたに違いなかったが、翼がガラスにぶつかった衝撃音くらいは聞こえていただろう。
素早く躰の隅々まで視線を走らせる迅の鋭い眼差しを避けるように顔が俯く。
「今晩、食事に行こう。一度、戻って着替えてくるといい」
怪我の心配かと思ったら、服装チェックだ。気の抜けた息を吐き、顔を上げる。
床の発光を受けた鈍色の目が真っ直ぐにノアを見ている。自分を突き刺すようなこの目にぶつかる度、この男の目も心も血の通わない冷たい金属でできているのではないかと思う。
「先約が入ってるから」
決心がついた。今夜ははBoroth社のショウルームに行く。
迅が視線だけ動かし、ノアの背後に立つダンテをちらっともう一度見る。
ひゃああーー!!という突然の叫びに、ノアの心臓がドキッと撥ねた。
実際に声が出ている訳ではない。ダンテの動揺が強い思念となって、頭の中に飛び込んできたのだ。
『僕のことはいいからっ。な、そっちを優先してくれぇーー!』続けて叫び声が飛んでくる。
横を見るとダンテの瞳孔は開き脂汗をかいている。唇が緊張で震え、実際今にも叫び出しそうな有様だ。
力が抜ける。ノアは溜息し、こめかみを押さえた。
戸惑い困惑するダンテの心の声は、目の前の男にも伝わっている筈だ。黙ってパニックを起こすダンテを、つまらないものでも見るように冷徹な目が見下ろす。そして、ダンテとつるむノアの顔を見ると、小馬鹿にしたように薄笑いを浮かべた。
迅を憮然と見返しながら、同年齢の男相手に隣で萎縮するダンテに憫察と情けなさの両方をを覚えた。
ガツンと言ってやれとは思わない。せめて、ビビらないでくれ。
「まあいい、それなら遅くなっても構わない。こっちに顔を出してくれ」
わざとらしく溜め息を吐いてやる。
「だから、先約があるって言ってる」
「親の言う事は黙って聞くものだろう」
黒い瞳が一点を睨む。後の幹部どもの前ですげなく振ってやろうか。
新世界どころか、今や世界中から冷血と恐れられるこの男に恥をかかせてやりたいという強い欲求に駆られつつ思い直す。
そもそも迅と同じ匂いを放つ男達は、ジンのプライベートになど興味を持たない。どこかに感情を置き忘れた連中だ。
「わかった。俺も“父さん”に聞きたいことがあるし、気が向いたら行く」
ノアたちが呼んだエレベーターに、当然のように先に他の幹部たちが乗り込む。最後にジンが乗ると先に乗った男達は迅を囲むように位置に移動し、自らを狙撃から迅を守る盾にする。本当に、ロボットのような連中だ。
「悪くないな。お前から親呼ばわりされるのも、時には面映くて面白い」
厭味の応酬をさらりと受け流し、迅は嘯く。
赤は緑に、昼は夜に。
この男にかかれば自分の言い分など、小虫の羽音ほどに意味を成さなくなる。
例え動かせない約束があろうと、仕事の最中だろうと、指先一本で合図されるだけで欲望を吐き出すために自分はこの男の元に向かってしまう。
降下を始めた籠の中の男に目をやると、ガラス越しに迅が口元だけで笑う。何があろうとノアが自分の元を訪れることを見越した余裕の笑いを、苦い思いで見返した。
ジョーカーは要らない。
そう思いながらカードを手放せないのは、他でもない自分だ。
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