04 ,2009
ホームに降り立った。
いつもと同じで、朝の通勤ラッシュに駅はごった返している。
地下道を通って、反対方向行きのホームに移った。見知ったアルバイトたちが、発車前の車両のドアから零れた乗客を中に入れようと押し込んでいる。
共に人海戦術で戦ってきたバイト生達は、制服姿ではなくスーツを着たオレに気付かない。
彼らにとって、制服を着ていないオレはオレではないということなんだろう。
『達彦』
名前とか、制服って結局、オレの本質とは全然関係ないような気がしてくる。
オレは、ホームに滑り込む乗車率230%の車両を見てゲンナリした。
本社にはアパートのある最寄り駅から20分で行けるところをわざわざ遠回りして、このホームに立った。
一本やり過ごして、次の電車を待つ。いつも三沢が乗っていた電車だ。
胸がバクバクして、目を閉じた。
ホームに滑り込んだ電車の扉が開いて、オレは落胆した。
後の客に押されるように乗り込み振り返れば、先日のオレよろしく、バイト生が乗客をグイグイ押し込んでくれる。やはり社員とバイトの違いか、押し込む腕に愛が感じられない。
「アレ、真嶋さんじゃないすか」
「よう」
はたと目が会ったバイト生が、オレをマジマジと見上げてくる。バイトのナニガシは、口の片端をニヤっと上げるとドアの閉まり際に手を伸ばし、なんと俺の大事なモンを思いっきり握ってくれた。
「ぐぅ・・・・ぅ、の・・・ヤロ」
流れ出したドアの外を不敵に笑う顔が過ぎてゆく。ち、畜生・・・ゴンッと、苦痛に前屈した額が扉のガラスにぶつかった。あのクソガキ・・、今までオレをこういう眼で見ていたのかよっ!
車窓が暗転すると電車は地下に潜る。
余韻の残る下半身を刺激しないように、頭を少しずらして車内を見回した。もしかしたらと思う我が身が、いじらしくて情けない。視線を戻し、目の前にある顔に虚を突かれた。
三沢に『人恋しそうな顔』と喩えられた顔が、暗いガラスの中から真っ直ぐに見返してきていた。
「あーっと、君、真嶋君?」
総務部のドアを開け、総務部長に挨拶に向かおうとした背中に声を掛けられた。
振り返った視線がそのまま上がる。思いがけず黒縁眼鏡の奥にある鋭い目とぶち当たって硬直した。その目がオレの視線とは逆にオレの身体を下っていき、足元からターンして戻ってくる。
眼鏡の奥が細まってニヤリと笑った。
「悪い、トレードだ。君の配属は経営企画部に変わったから、俺がこれから案内するよ」
「初日でいきなり変わるんですか?」
「そ、いきなり変わるんだよ、悪いね。こちらにもいろいろ事情があるもんでさ。じゃ、行くか」
唖然とするオレにはお構いなく、『北山 大河』 と書かれた社員証を首から下げた男はさっさと歩き出し、オレは慌てて後に続いた。
出社初日にトレードっていうのは腑に落ちないが、”御達し”とあらば仕方が無い。
廊下の窪みに設置された休憩コーナーに差し掛かると、北山が振り返った。
勤務時間が始まったばっかりで、人影はない。訝しむオレに面と向った北山の全身から、芳醇な大人の男の色気が攻撃的な勢いで漂ってきた。
な、なんだこの場違いな秋波は?
三沢と出会う前だったらコロっと堕されていた・・・イヤイヤ、オレの事だ。自分から堕しにかかったに違いない。
「ふうん。達彦くんだっけ? まだ何にも聞いてないんだ」
「は? なにがですか?」
達彦? この馴れ馴れしさは一体ナニ?
本能的な警戒心が働いてジリジリとあとずさる。
『猛獣と出会ったら近づいてはいけない』 の法則だ。もちろん猛獣は熱帯の密林とか世界遺産の国立公園の中とかだけじゃなくて、都会にも出没する。本来なら目を合わせるのもご法度だが、この場合はいたしかたないだろう。一応、職場の上司だ。
「だからさあ、芳実から・・」
ヨシミって、そんな女は知らないぞ。間合いを詰められて、更に後退すると背中に壁が当たる。
頭の横の壁に北山が左手をつき、目前に迫ったやたらとエロい唇に目が釘付けになる。
本社勤務初日でいきなり、セクハラかよ?
「ストップ!! それ以上やるとセクハラで訴えるぞ、大河」
そうだセクハラだ。パワハラも追加で訴えてやるぞ、北山サン。
声のするほうへ北山と同時に振り向き、オレはそのまま蝋人形よろしく固まった。
「あらら、見つかちゃった」
「大河、総務部長が呼んでいる」
「ウ・ソ。」
背の高い北山は上目遣いで、そのくせ愛嬌タップリに呼び出しを告げる男を睨む。
「呼・ん・で・る、からさっさと行けよ」
三沢が去れとばかりに顎をしゃくった。
「ちぇっ、芳実のケーチ。じゃな、達彦君。そいつの爽やか系魅惑の微笑に騙されんなよ。結構、腹黒だぜ。ま、そこがまたイイんだけどね」
立ち去り際に北山が指の先で小さく投げた”投げキッス”を邪険に躱すと、三沢はこちらに真っ直ぐ向き直った。
唖然と突っ立ったままのオレに、今朝、電車で捜し求めていた顔がニッコリ笑いかける。
「待っていたよ、真嶋 達彦君」
濡れたキスの音が、誰もいない会議室に響く。
「真嶋君、上司の僕としては、本社に勤務するに当たって髪をもう少し切ってもらいたいな。ウチは、いわばお客様相手の商売だ。直接接することは無くても、爽やかで清廉なイメージが大切だからね」
「オレも、すっかりそのサワヤカさに騙されたクチなんだけど?」
「うん、一昨日は心配したよ。アパートにも帰ってなかったし、あれから、君の行きそうなところを随分探し回ったんだ。すごく心配した」
両手で頬を挟まれて、額に口付けをされる。
ふと、小さなホテルの灯りが思い浮かび、自分の中の何かがやわらかく満たされるのを感じる。
「アパートって、オレの?知ってんの?」
「履歴書に載ってることは一通りインプットしてある。達彦のことは面接の時から目をつけてたからね。あと、食べ物の好みも、音楽も映画も、僕と同じ困った性癖も。今朝、バイトに大事なトコ摑まれたこともね。」
「あの電車に、乗ってた?」
「君に会えるかと思って。そしたら、君が僕を探してた・・・・」
唇が何度も落ちて、体中で小さな火花が散り始めた。
「でもあの電車に乗るのはもう、ゴメンだな。毎朝、君に会えると思ったから我慢出来たんだ」
「電鉄会社の社員のクセに」
「僕はもともと車通勤なんだ。達彦がいなければ、乗車率230%なんて電車になんか乗らなかったよ。でも会社には感謝だ、君の情報をたくさん教えてくれた」
個人情報保護もへったくれも無いわけだ。
呆れ顔で見上げると、心の中を覗き込むようにアンバーの視線が注がれる。
「でもね、そんなものは僕が君を知ってるうちには入らない。名前も住所も、携帯番号も肩書きもただの付加された事実に過ぎないから。もっともっと、深くお互いを知り合おう・・・・後腐れの無い関係なんて二度と言わせない」
ああ・・・・そういうことか。
壁に張付けられた躯が落ちていった。三沢をもっと知りたいと、オレの全てが訴えている。
後腐れどころか、この日から三沢とオレは上司と部下の関係になった。
社会的立場など関係ないようなことを言っておきながら、三沢はオレ達部下に厳しい上司ぶりを発揮する。今も、提出した企画案の練り直しを命ぜらればかりた。
席に戻り、ボツった書類をめくるとメモが挟まっている。
頭を抱え目だけで三沢を睨むと、涼やかな風のような、それでいて艶やかな微笑が返ってきた。
『PM 9:00 エルミタージュで それまでに”企画書”を仕上げてください
アイシテイマス』
おわり
←前話
ラッシュアワー 1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5
いつもと同じで、朝の通勤ラッシュに駅はごった返している。
地下道を通って、反対方向行きのホームに移った。見知ったアルバイトたちが、発車前の車両のドアから零れた乗客を中に入れようと押し込んでいる。
共に人海戦術で戦ってきたバイト生達は、制服姿ではなくスーツを着たオレに気付かない。
彼らにとって、制服を着ていないオレはオレではないということなんだろう。
名前とか、制服って結局、オレの本質とは全然関係ないような気がしてくる。
オレは、ホームに滑り込む乗車率230%の車両を見てゲンナリした。
本社にはアパートのある最寄り駅から20分で行けるところをわざわざ遠回りして、このホームに立った。
一本やり過ごして、次の電車を待つ。いつも三沢が乗っていた電車だ。
胸がバクバクして、目を閉じた。
ホームに滑り込んだ電車の扉が開いて、オレは落胆した。
後の客に押されるように乗り込み振り返れば、先日のオレよろしく、バイト生が乗客をグイグイ押し込んでくれる。やはり社員とバイトの違いか、押し込む腕に愛が感じられない。
「アレ、真嶋さんじゃないすか」
「よう」
はたと目が会ったバイト生が、オレをマジマジと見上げてくる。バイトのナニガシは、口の片端をニヤっと上げるとドアの閉まり際に手を伸ばし、なんと俺の大事なモンを思いっきり握ってくれた。
「ぐぅ・・・・ぅ、の・・・ヤロ」
流れ出したドアの外を不敵に笑う顔が過ぎてゆく。ち、畜生・・・ゴンッと、苦痛に前屈した額が扉のガラスにぶつかった。あのクソガキ・・、今までオレをこういう眼で見ていたのかよっ!
車窓が暗転すると電車は地下に潜る。
余韻の残る下半身を刺激しないように、頭を少しずらして車内を見回した。もしかしたらと思う我が身が、いじらしくて情けない。視線を戻し、目の前にある顔に虚を突かれた。
三沢に『人恋しそうな顔』と喩えられた顔が、暗いガラスの中から真っ直ぐに見返してきていた。
「あーっと、君、真嶋君?」
総務部のドアを開け、総務部長に挨拶に向かおうとした背中に声を掛けられた。
振り返った視線がそのまま上がる。思いがけず黒縁眼鏡の奥にある鋭い目とぶち当たって硬直した。その目がオレの視線とは逆にオレの身体を下っていき、足元からターンして戻ってくる。
眼鏡の奥が細まってニヤリと笑った。
「悪い、トレードだ。君の配属は経営企画部に変わったから、俺がこれから案内するよ」
「初日でいきなり変わるんですか?」
「そ、いきなり変わるんだよ、悪いね。こちらにもいろいろ事情があるもんでさ。じゃ、行くか」
唖然とするオレにはお構いなく、『北山 大河』 と書かれた社員証を首から下げた男はさっさと歩き出し、オレは慌てて後に続いた。
出社初日にトレードっていうのは腑に落ちないが、”御達し”とあらば仕方が無い。
廊下の窪みに設置された休憩コーナーに差し掛かると、北山が振り返った。
勤務時間が始まったばっかりで、人影はない。訝しむオレに面と向った北山の全身から、芳醇な大人の男の色気が攻撃的な勢いで漂ってきた。
な、なんだこの場違いな秋波は?
三沢と出会う前だったらコロっと堕されていた・・・イヤイヤ、オレの事だ。自分から堕しにかかったに違いない。
「ふうん。達彦くんだっけ? まだ何にも聞いてないんだ」
「は? なにがですか?」
達彦? この馴れ馴れしさは一体ナニ?
本能的な警戒心が働いてジリジリとあとずさる。
『猛獣と出会ったら近づいてはいけない』 の法則だ。もちろん猛獣は熱帯の密林とか世界遺産の国立公園の中とかだけじゃなくて、都会にも出没する。本来なら目を合わせるのもご法度だが、この場合はいたしかたないだろう。一応、職場の上司だ。
「だからさあ、芳実から・・」
ヨシミって、そんな女は知らないぞ。間合いを詰められて、更に後退すると背中に壁が当たる。
頭の横の壁に北山が左手をつき、目前に迫ったやたらとエロい唇に目が釘付けになる。
本社勤務初日でいきなり、セクハラかよ?
「ストップ!! それ以上やるとセクハラで訴えるぞ、大河」
そうだセクハラだ。パワハラも追加で訴えてやるぞ、北山サン。
声のするほうへ北山と同時に振り向き、オレはそのまま蝋人形よろしく固まった。
「あらら、見つかちゃった」
「大河、総務部長が呼んでいる」
「ウ・ソ。」
背の高い北山は上目遣いで、そのくせ愛嬌タップリに呼び出しを告げる男を睨む。
「呼・ん・で・る、からさっさと行けよ」
三沢が去れとばかりに顎をしゃくった。
「ちぇっ、芳実のケーチ。じゃな、達彦君。そいつの爽やか系魅惑の微笑に騙されんなよ。結構、腹黒だぜ。ま、そこがまたイイんだけどね」
立ち去り際に北山が指の先で小さく投げた”投げキッス”を邪険に躱すと、三沢はこちらに真っ直ぐ向き直った。
唖然と突っ立ったままのオレに、今朝、電車で捜し求めていた顔がニッコリ笑いかける。
「待っていたよ、真嶋 達彦君」
濡れたキスの音が、誰もいない会議室に響く。
「真嶋君、上司の僕としては、本社に勤務するに当たって髪をもう少し切ってもらいたいな。ウチは、いわばお客様相手の商売だ。直接接することは無くても、爽やかで清廉なイメージが大切だからね」
「オレも、すっかりそのサワヤカさに騙されたクチなんだけど?」
「うん、一昨日は心配したよ。アパートにも帰ってなかったし、あれから、君の行きそうなところを随分探し回ったんだ。すごく心配した」
両手で頬を挟まれて、額に口付けをされる。
ふと、小さなホテルの灯りが思い浮かび、自分の中の何かがやわらかく満たされるのを感じる。
「アパートって、オレの?知ってんの?」
「履歴書に載ってることは一通りインプットしてある。達彦のことは面接の時から目をつけてたからね。あと、食べ物の好みも、音楽も映画も、僕と同じ困った性癖も。今朝、バイトに大事なトコ摑まれたこともね。」
「あの電車に、乗ってた?」
「君に会えるかと思って。そしたら、君が僕を探してた・・・・」
唇が何度も落ちて、体中で小さな火花が散り始めた。
「でもあの電車に乗るのはもう、ゴメンだな。毎朝、君に会えると思ったから我慢出来たんだ」
「電鉄会社の社員のクセに」
「僕はもともと車通勤なんだ。達彦がいなければ、乗車率230%なんて電車になんか乗らなかったよ。でも会社には感謝だ、君の情報をたくさん教えてくれた」
個人情報保護もへったくれも無いわけだ。
呆れ顔で見上げると、心の中を覗き込むようにアンバーの視線が注がれる。
「でもね、そんなものは僕が君を知ってるうちには入らない。名前も住所も、携帯番号も肩書きもただの付加された事実に過ぎないから。もっともっと、深くお互いを知り合おう・・・・後腐れの無い関係なんて二度と言わせない」
ああ・・・・そういうことか。
壁に張付けられた躯が落ちていった。三沢をもっと知りたいと、オレの全てが訴えている。
後腐れどころか、この日から三沢とオレは上司と部下の関係になった。
社会的立場など関係ないようなことを言っておきながら、三沢はオレ達部下に厳しい上司ぶりを発揮する。今も、提出した企画案の練り直しを命ぜらればかりた。
席に戻り、ボツった書類をめくるとメモが挟まっている。
頭を抱え目だけで三沢を睨むと、涼やかな風のような、それでいて艶やかな微笑が返ってきた。
『PM 9:00 エルミタージュで それまでに”企画書”を仕上げてください
アイシテイマス』
おわり
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