05 ,2009
定例会は昼を少し回った頃に終了した。
享一は、トイレの手洗いで何度も顔を洗い、ハンカチで顔を拭った。
会議の終了後、河村から昼食の誘い受けた。午後一で別の打ち合わせがある旨を伝え、自分なりに丁重に断ったつもりが、例のごとく「その顔を見ながら打ち合わせをする相手が気の毒だ」とか「オサカンなのは結構だが、ほどほどにしておけよ」だの好き勝手な事を言われた。
そんなことを言われるのは、こちらにも弛みがあるからだと、頭を冷やし気分を入れ変えようとコンファレンスルームから直接やって来た。冷水に顔をさらそうと屈むと、だるさを纏った腰に負担がかかり、情けないのを通り越して無性に腹が立ってくる。
「ったく!いらぬお節介だって言うんだよっ」
「なにが、お節介だって?」
ひとり悪態を吐いていると、背後のブースから水の流れる音がして、同じチームの平沢が出てきた。
大学の2年先輩でもある平沢だが、好奇心が強くどこかすっとぼけた風貌をしている。見た感じはとろそうだが、何事にもちゃっかり抜け目が無く、意外と面倒見もよい。平沢は享一の入社前からなにかと気を掛けていてくれ、社内で唯一、享一の高所恐怖症を知る人物でもある。
「お前、今日はエルミタージュの定例だったろう。毎週月曜の朝になると、設計の女子たちが色めき立つんだよなあ。河村圭太みたいなおっさんより、もっと若くてピチピチの俺が目の前にいるってのに、どうして目に入んねぇかねえ?」
河村は、二枚目タレント顔負けのその容姿から、建築業界以外からも注目を浴びメディアで取り上げられる事も多い。月曜の午前に定例で大森建設を訪れる河村に社内の関心が集まるのも無理は無い。朝、時間がなかったのか平沢は、携帯シェーバーで顎にうっすらと延びた髭をそり始めた。
「平沢さん、もしかして設計内に気になる女性(ひと)でも、いるんですか?」
「設計の女子かぁ・・・・ありえないねぇ」
付き合いで尋ねると、惚けたような返事が返ってくる。
設計に籍を置く女性陣は一昔前とは違い皆、実力で入社試験を突破してきた強者ばかりだ。何のかんの言ってまだ、男社会の色が濃く残る建築業界で男性社員と肩を並べようというからには同等かそれ以上の実力を持ったものも少なくない。鏡を通してみる平沢の目が一瞬遠くなり現実に戻ってくると、一重の平沢の目がジトッと言う感じで横目で享一を見た。
「社内の女よか、時見の方がよっぽど色っぽいもんよ。お前さ昨夜(きのう)、彼女とイイコトしたろう?」
「は?」
顔に疑問符が大きく張り付いたのを読み取ったのか、ご丁寧に平沢が解説を始めた。
「まずはだね、その腰・・・だるそうだね、使いすぎは体に毒だぞ。で、次に・・・目だ、色気がありすぎる。会社をなんだと思っているのかねえ?時見クンは?で、トドメだ・・・ま、なんといってもこれが決定打だな。項にキスマークがついてるぜ」
にやりと笑って指摘してきた平沢の言葉に、弾かれたように項を手で覆った。
それを見た平沢は呆れたように溜息をつき、首を振る。
「時見、“反対”だって。なんだ、そっちも吸われたのか?時見の彼女って激しいのな。
もしかして、昨夜は寝かしてもらえなかった・・・とか?」
悪意のない、満面にやけ顔で平沢が訊いてくる。
これが女性相手なら自慢話のひとつにでもなりそうなものだが、相手は男で、しかも『昨夜は悶絶させられました』とは、口が裂けても言えない。
こんなモノを、わざと見えるところに残すという周の諸行は、たぶん河村に対する牽制のつもりだろう。間違いなく確信犯であろう男の、してやったりと笑う顔と、気がついていた筈なのに教えてくれなかった河村のにやけた顔が浮かんできて、怒りがふつふつと湧いてきた。
「お前、午後一で建具屋と打ち合わせじゃなかったけか?その顔を見ながら打ち合わせをする業者が気の毒だねえ。いいねえ、若いっていいねえ、モテる男は、憎いねえ」
「いい加減にしてください。何が、“若い”ですか?先輩は2歳しか変わらないでしょう?」
皮肉か羨望か、ニヤニヤうすら惚けた声で、奇しくも河村と同じ言葉を吐いた平沢を直接、睨み付けた。
「おっと、睨むなよな、照れちゃうじゃないか。部屋に戻ろうぜ。ルミちゃんがいたら、なんかお知恵を拝借できるかもしれない」
ルミちゃんというのは、西元留美子という、平沢より更に5つ年上の32歳の女性で誉れ高き才女だ。その才女を平沢は恐れ多くもルミちゃんと呼び、事あるごとにちょっかいを掛けていた。
「西元さんにですか?」
「怖がんなって。あれでなかなか気のイイとこ、あんだから。
ほれ、早く行かないとルミちゃんが飯に出ちまう」
「別に怖い訳では・・・」 自分の恥をひけらかすにはかなりの抵抗があるが、このまま放置するわけにも行かず、意気揚々と歩き出した平沢に大人しく従った。
「時見君、見事ね」
西元留美子の席にいくと、ルミちゃんはどんぐり眼を遠慮なく項に向けてきた。
「はい、コレ貸してあげる。黙っといてあげるから、今度ランチ奢りなさいよね」
「すみません。お借りします」
手の中の小瓶にはコンシーラーとアルファベットで書かれている。
西元の机の上は仕事の出来る人間らしく、整理されており、例外的に机の隅に写真立てがひとつだけ飾られていた。
その中には永邨 周の写真が入っている。シップス&パートナーズの代表としてNKホールディングスの買収に乗り出した周は、その手腕と年齢、飛びぬけた風貌から一時、メディアに取り上げられることも多かった。自称、永邨 周フリークの西元は、経済誌に載った写真を切り抜いて、自分のデスクの上に飾っているのだ。
隠微に盗み見したフレームの中の周は、意気揚々と気を吐き、高らかにNKホールディングスの獲得を宣言している。それが、『自分自身の自由』を勝ち獲るための宣戦布告であったと知る享一には、小さなフレームの中の周が、眩し過ぎるくらいに輝いて見えた。表向きは買収に失敗したことになっているが、実際は奇跡を起こし、鮮やかな手口で自由を勝ち得た周に、享一はそっと感嘆と賞賛を贈った。
「ルミちゃんメシまだだろ?俺たちと一緒に行かねえか?」
「あら、残念。アタシもう食べちゃったの。今から、下のコーヒーショップに行って加納 太一の新刊読むんだ。悪いわね」
“加納 太一”の名に、享一は静かに息を殺した。今や押しも押されぬ有名作家となった加納 太一は自分たち家族を捨てた父、時見 太一のペンネームだ。
「へえ、ルミちゃん加 納太一なんか読むのか。」
「なんか、とは何よ?平沢君も時見君も一度読んでみたら良さがわかるわよ。そうね、私が読み終わったら貸してあげるわ。今回のタンジェリン・ライズ、読んだら”ニブちん”の平沢君でも感動するわよ。それにね、表紙がまた凄くいいのよ、ほら」
差し出された表紙に、享一の目が大きくなった。
「ねえ、似てると思わない?」
「はあ?誰に?俺の知っている男で色っぺえって思えるのは、ここにいる時見ぐらいだけど?」
「バカね。会社にキスマークつけてくるような、おバカさんの話じゃないわよ。
アマネさまに決まってるじゃない!」
西元の大きな瞳が、夢見る少女のようにトロンと写真立てに向けられる。
その様子に、平沢が憮然と顔をしかめる。
「でもね、ずいぶん若いし、瞳が碧なのよね。表紙のモデルはハーフか外国人だと思うわ」
朱色の火焔と黒を背景に、半裸の少年がしどけない姿で横たわるその表紙のレイアウトはカバーを広げると全身を見ることができた。芸術と淫蕩の挾間を危ういバランスで行き来する少年の、瑞々しい翠の瞳が潤み、苦しげで切なげな表情は、数時間前目にした今や、自分しか知ることのない筈の愛する男の秘めたる貌そのものだ。享一は、愕然と表紙から目が離せないでいた。
似ているのではない。この絵のモデルは、永邨 周そのものだ。
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享一は、トイレの手洗いで何度も顔を洗い、ハンカチで顔を拭った。
会議の終了後、河村から昼食の誘い受けた。午後一で別の打ち合わせがある旨を伝え、自分なりに丁重に断ったつもりが、例のごとく「その顔を見ながら打ち合わせをする相手が気の毒だ」とか「オサカンなのは結構だが、ほどほどにしておけよ」だの好き勝手な事を言われた。
そんなことを言われるのは、こちらにも弛みがあるからだと、頭を冷やし気分を入れ変えようとコンファレンスルームから直接やって来た。冷水に顔をさらそうと屈むと、だるさを纏った腰に負担がかかり、情けないのを通り越して無性に腹が立ってくる。
「ったく!いらぬお節介だって言うんだよっ」
「なにが、お節介だって?」
ひとり悪態を吐いていると、背後のブースから水の流れる音がして、同じチームの平沢が出てきた。
大学の2年先輩でもある平沢だが、好奇心が強くどこかすっとぼけた風貌をしている。見た感じはとろそうだが、何事にもちゃっかり抜け目が無く、意外と面倒見もよい。平沢は享一の入社前からなにかと気を掛けていてくれ、社内で唯一、享一の高所恐怖症を知る人物でもある。
「お前、今日はエルミタージュの定例だったろう。毎週月曜の朝になると、設計の女子たちが色めき立つんだよなあ。河村圭太みたいなおっさんより、もっと若くてピチピチの俺が目の前にいるってのに、どうして目に入んねぇかねえ?」
河村は、二枚目タレント顔負けのその容姿から、建築業界以外からも注目を浴びメディアで取り上げられる事も多い。月曜の午前に定例で大森建設を訪れる河村に社内の関心が集まるのも無理は無い。朝、時間がなかったのか平沢は、携帯シェーバーで顎にうっすらと延びた髭をそり始めた。
「平沢さん、もしかして設計内に気になる女性(ひと)でも、いるんですか?」
「設計の女子かぁ・・・・ありえないねぇ」
付き合いで尋ねると、惚けたような返事が返ってくる。
設計に籍を置く女性陣は一昔前とは違い皆、実力で入社試験を突破してきた強者ばかりだ。何のかんの言ってまだ、男社会の色が濃く残る建築業界で男性社員と肩を並べようというからには同等かそれ以上の実力を持ったものも少なくない。鏡を通してみる平沢の目が一瞬遠くなり現実に戻ってくると、一重の平沢の目がジトッと言う感じで横目で享一を見た。
「社内の女よか、時見の方がよっぽど色っぽいもんよ。お前さ昨夜(きのう)、彼女とイイコトしたろう?」
「は?」
顔に疑問符が大きく張り付いたのを読み取ったのか、ご丁寧に平沢が解説を始めた。
「まずはだね、その腰・・・だるそうだね、使いすぎは体に毒だぞ。で、次に・・・目だ、色気がありすぎる。会社をなんだと思っているのかねえ?時見クンは?で、トドメだ・・・ま、なんといってもこれが決定打だな。項にキスマークがついてるぜ」
にやりと笑って指摘してきた平沢の言葉に、弾かれたように項を手で覆った。
それを見た平沢は呆れたように溜息をつき、首を振る。
「時見、“反対”だって。なんだ、そっちも吸われたのか?時見の彼女って激しいのな。
もしかして、昨夜は寝かしてもらえなかった・・・とか?」
悪意のない、満面にやけ顔で平沢が訊いてくる。
これが女性相手なら自慢話のひとつにでもなりそうなものだが、相手は男で、しかも『昨夜は悶絶させられました』とは、口が裂けても言えない。
こんなモノを、わざと見えるところに残すという周の諸行は、たぶん河村に対する牽制のつもりだろう。間違いなく確信犯であろう男の、してやったりと笑う顔と、気がついていた筈なのに教えてくれなかった河村のにやけた顔が浮かんできて、怒りがふつふつと湧いてきた。
「お前、午後一で建具屋と打ち合わせじゃなかったけか?その顔を見ながら打ち合わせをする業者が気の毒だねえ。いいねえ、若いっていいねえ、モテる男は、憎いねえ」
「いい加減にしてください。何が、“若い”ですか?先輩は2歳しか変わらないでしょう?」
皮肉か羨望か、ニヤニヤうすら惚けた声で、奇しくも河村と同じ言葉を吐いた平沢を直接、睨み付けた。
「おっと、睨むなよな、照れちゃうじゃないか。部屋に戻ろうぜ。ルミちゃんがいたら、なんかお知恵を拝借できるかもしれない」
ルミちゃんというのは、西元留美子という、平沢より更に5つ年上の32歳の女性で誉れ高き才女だ。その才女を平沢は恐れ多くもルミちゃんと呼び、事あるごとにちょっかいを掛けていた。
「西元さんにですか?」
「怖がんなって。あれでなかなか気のイイとこ、あんだから。
ほれ、早く行かないとルミちゃんが飯に出ちまう」
「別に怖い訳では・・・」 自分の恥をひけらかすにはかなりの抵抗があるが、このまま放置するわけにも行かず、意気揚々と歩き出した平沢に大人しく従った。
「時見君、見事ね」
西元留美子の席にいくと、ルミちゃんはどんぐり眼を遠慮なく項に向けてきた。
「はい、コレ貸してあげる。黙っといてあげるから、今度ランチ奢りなさいよね」
「すみません。お借りします」
手の中の小瓶にはコンシーラーとアルファベットで書かれている。
西元の机の上は仕事の出来る人間らしく、整理されており、例外的に机の隅に写真立てがひとつだけ飾られていた。
その中には永邨 周の写真が入っている。シップス&パートナーズの代表としてNKホールディングスの買収に乗り出した周は、その手腕と年齢、飛びぬけた風貌から一時、メディアに取り上げられることも多かった。自称、永邨 周フリークの西元は、経済誌に載った写真を切り抜いて、自分のデスクの上に飾っているのだ。
隠微に盗み見したフレームの中の周は、意気揚々と気を吐き、高らかにNKホールディングスの獲得を宣言している。それが、『自分自身の自由』を勝ち獲るための宣戦布告であったと知る享一には、小さなフレームの中の周が、眩し過ぎるくらいに輝いて見えた。表向きは買収に失敗したことになっているが、実際は奇跡を起こし、鮮やかな手口で自由を勝ち得た周に、享一はそっと感嘆と賞賛を贈った。
「ルミちゃんメシまだだろ?俺たちと一緒に行かねえか?」
「あら、残念。アタシもう食べちゃったの。今から、下のコーヒーショップに行って加納 太一の新刊読むんだ。悪いわね」
“加納 太一”の名に、享一は静かに息を殺した。今や押しも押されぬ有名作家となった加納 太一は自分たち家族を捨てた父、時見 太一のペンネームだ。
「へえ、ルミちゃん加 納太一なんか読むのか。」
「なんか、とは何よ?平沢君も時見君も一度読んでみたら良さがわかるわよ。そうね、私が読み終わったら貸してあげるわ。今回のタンジェリン・ライズ、読んだら”ニブちん”の平沢君でも感動するわよ。それにね、表紙がまた凄くいいのよ、ほら」
差し出された表紙に、享一の目が大きくなった。
「ねえ、似てると思わない?」
「はあ?誰に?俺の知っている男で色っぺえって思えるのは、ここにいる時見ぐらいだけど?」
「バカね。会社にキスマークつけてくるような、おバカさんの話じゃないわよ。
アマネさまに決まってるじゃない!」
西元の大きな瞳が、夢見る少女のようにトロンと写真立てに向けられる。
その様子に、平沢が憮然と顔をしかめる。
「でもね、ずいぶん若いし、瞳が碧なのよね。表紙のモデルはハーフか外国人だと思うわ」
朱色の火焔と黒を背景に、半裸の少年がしどけない姿で横たわるその表紙のレイアウトはカバーを広げると全身を見ることができた。芸術と淫蕩の挾間を危ういバランスで行き来する少年の、瑞々しい翠の瞳が潤み、苦しげで切なげな表情は、数時間前目にした今や、自分しか知ることのない筈の愛する男の秘めたる貌そのものだ。享一は、愕然と表紙から目が離せないでいた。
似ているのではない。この絵のモデルは、永邨 周そのものだ。
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