翠滴 3 熱 1 (30)
周のマンションにたどり着く頃には夜もすっかり更けていた。
エレベーターに乗り、静脈認証リーダーに指を差し込んで最上階を押す。
降りたフロアーには、木製の重厚なドアが一つあるだけで庭に面したエレベーターホールは外気で冷え切っている。ドアまでほんの4mほどの距離だが、外国からの客人をもてなす仕様で設えられた庭には、苔生す竹林があり蹲が配され、土に混じってやって来たのか秋の虫の声ががらんとしたホールに響いた。
マンションが引き渡された当初は、防犯上の硬化ガラスが嵌められていたらしいが、鬱陶しいからと周が取り外させたと聞いている。
心の中に寂しさの紛れ込みそうな趣の秋の虫の音を聞きながら、扉横の静脈認証リーダーに再度、指を差し込み玄関ドアを開ける。
ペントハウスの中は一転してモダンなつくりで、享一が中に入るとセンサーが作動して足元灯が白い大理石の玄関ホールに柔らかい光を床に落とした。先の庭の延長が中の廊下と共に奥まで伸び、庭と隔てたガラスに映りこんだ光が幻想的な空間を作り出している。
一週間ぶりに訪れる周の住居は静まり返り人の気配もなく、なんとなくよそよそしい気がした。
周は出かけているのだろうか?もしかしたら、階下のオフィスでまだ仕事をしているのかもしれない。心のどこかで、周の留守にほっと息をつく自分がいる。
どんな顔をして周に会えばよいのかわからなかった。
一週間前、周のしたことが許せないと激怒しマンションを飛び出して携帯にも出なかったくせに、実際は周のいない時間に根を上げている自分を見せるのは、悔しいような恥ずかしいような気がした。
周という稀代の男に心底惚れてしまっている・・・・そう思う感情の隅に小さな隙間が空いていた。
―――――和輝。
この薄暗い廊下に立っていると、瀬尾と過ごした数時間の記憶から色彩が抜けて現実味を欠いていく。その中で、和輝に関する事実だけが高速道路のオレンジ色の光にくるまれて浮き上がってくる。
法的には和輝は瀬尾の息子だ。いや、現実でもだ。和輝の世話を焼く瀬尾の姿は良い父親以外の何者でもない。いくら血が繋がっているからといって、その事実を自分の都合のよいようにくつがえすことは出来はしない。離婚したといっても、和輝の親は瀬尾と由利だ。
でも、この世界に自分の血を分けた子供がいる。
名乗ることはなくとも、和輝と自分は親子だ。
よしんば、和輝に名乗ることが出来たとしても、その先は・・・・?どうなる?
享一は廊下で立ち止まり胸の指輪をの上からなぞった。
周は自分を唯ひとりの番の相手だという。自分にとって周は『情熱』そのものだ。
周はその抗うことの出来ないほどの魅惑でもって自分を捕らえ白熱する情熱を自分から引き出し、時見享一という人間の本質を剥きだしにする。周と向き合う時、いつも享一は自分の中に隠れていた弱さや欲、融通の聞かない自分と出会い驚き、そんな自分もまた許され愛されることに安堵する。
それは、滅多に人に見せることのない享一の隠された激しさや頑固さを、周の全てを見透かす翠の瞳で享一を包み込み、抱きとめてくれるからに他ならない。
もう、周のいない人生は、考えられない。
・・バシャ・・・・・・・
暗闇に微かな水音がする。ガーデンテラスから聞こえる大量の水をかく音に我が耳を疑った。
秋も深くなった外気は確実に冬の訪れを予測させ、今日とて夜も更けると厚めのジャケットのみでも物足りないぐらいだ。
まさか・・・という思いに、自然と足がテラスへ抜けることの出来るリビングへと向う。
広いリビングも他と同様、灯りはついておらず全面ガラスの吐き出しのスライドドアが大きく開け放たれ室内が外気と同じ温度まで下がっていた。暗いガーデンテラス中に青く発光するプールが浮かび上がり、酔狂を起こした男が水に中でターンを切るたびに水飛沫が上がった。
プールに近付くと足に引っ掛かるものがあって見下ろすと周の服が無造作に脱ぎ捨ててある。
幅こそそれほどではないが、個人邸で維持するには結構な大きさのプールで、服を脱ぎ捨てそのまま飛び込んだと思われる全裸の周は、何度も飛沫を上げターンしては底に潜り、幻想的なセルリアンと人恋しさの募る秋の夜を美しい肢体が往復する。
どちらも素肌から体温を奪い切ってしまうほどに冷たい筈だ。
享一がプールサイドに立ってから、4〜5往復もした頃、周は泳ぐのをやめて水の中から享一を真っ直ぐに見上げた。水の青と連鎖する翠の瞳は、見ているこちらも凍らせてしまいそうなほど澄み切っている。泳ぎに夢中で自分には気がついていないと思っていた周に、言いたいことを押し殺すような、その癖、雄弁に気持ちを語る鮮やかに発色する翠の瞳をむけられ、動けなくなる。
「風邪ひくぞ」
ようやく、一言声を掛けた享一に、青い光の中から身体を引き上げた周が、滴る水も拭わず全裸のまま無言で近付き享一を抱きすくめた。薄いニットを通して周の肌の冷たさが染み込んでくる。指先にあたる肌はしっとりと冷たく掌で覆うと微かに熱が蘇る。
落ちてきた唇はすっかり色褪せ冷め切っているにも拘らず、享一から白光しそうなほどの熱を引き出し、またその引き出された自分の熱を周の唇に移そうと互いに何度も角度を変え夢中で貪った。
骨が砕けそうなほど、強く抱きしめられ、息が止まる。
周にこうして抱かれる時、あまりの幸福感に「いっそこのまま・・・」といったような、周のこの腕以外の全てを排除したくなるような、際どい思考にいつも囚われそうになる。
「・・・・おかえり」
「うん、ただいま」
心地のよい低音に耳元でささやかれ、瞳を閉じて応える。
この短いやり取りの中に集積される互いの諸々の想いや混沌、諸事に心を馳せると、これもまた一つの家族という塊に似ているのではないかという気がした。
享一は自分の叩いた周の頬に手を添えた。
不意に瀬尾の頬についた指の後を思い出す。
享一の、愛する人に裏切られたと思う気持ちが周の頬を傷つけた。
由利は、どんな感情から瀬尾を叩いたのだろうか?目許を滲ませ渾身の力で憎悪を表した由利の表情には、憎しみばかりではなく愛情が渾然と混ざり合っているような気がした。由利は本当は、瀬尾と離婚したくはなかったのかもしれないという気がする。
家庭の崩壊は享一の気持ちを沈ませる。和輝の事を知った今は、感情は更に複雑だ。
享一の指が愛しげに頬を撫でる。
何を感じ取ったか、様々な感情の渦巻く深い深緑の瞳と無言で見詰め合う。
「痛かったろう?・・・・叩いて、ごめん」
頬に自分から唇を押し付ける。
「ひどいことを言って、ごめん」
薄く少し大きめの口元に、そして冷たく冷え切った、胸に。
「携帯に出なくて・・・・ごめんな」
周の手を取り、子供のごとき率直な視線を寄越す翠の瞳と目を合わせながら、手のひらに接吻けた。
「いや、俺が悪かった。思わぬところで俺の器量の狭さが露呈してしまったな」
「ふふ・・・今更だな、周が実はやきもち焼きだってことを俺は充分わかっているつもりだし」
揶揄いを含ませ笑いながら言ってやると、すっと表情を消した周が次の瞬間、凄みのある顔で口角を上げにっと笑った。翠に僅かに赤みが差し背中をゾクゾクと熱いものが這いたじろいだ。
「なんだ、わかってるんじゃないか」
「は・・・?」
周が上目遣いで享一を捕まえ、口元には笑いが張り付いたままになっている。
「え・・・?ちょっと、周?」
「寒い。享一、湯を浴びよう」
どうやら、地雷を踏んだらしいと気付いた時には、手を引かれバスルームに連行されていた。
途中、振り返り流された翠の瞳には、眩暈のしそうなほどの色香と、視線だけでスッパリと切られてしまいそうなギラリと光る刃のような輝きがあり、享一は大変な男に惚れたものだと心底震え上がり、そして再び感嘆した。
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